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2020.12.28
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​​​​​​文鮮明先生御言選集 19560516 -

神様の誇りとなったイエス・キリスト(1)

1956年5月16日
韓国・前本部教会 


神様の誇りとなるべきであったアダム・エバ

 天地万物を造られた神様は、アダム・エバを天地万物に対して、神様が誇ることのできる実体として造られました。またアダム・エバを天使世界に対しても、神様が誇ることのできる実体として造られたのです。アダム・エバが万物の前に立てば、万物はアダム・エバに敬拝をしなければなりませんでした。

 このように造られた被造世界が、人間の堕落によって潰されてしまったのです。すなわち、人間の堕落によって人間の前に誇りとなるべき万物の価値が、そのまま現れることができなかったのです。無形世界の価値の中心として現れることができた人間が、その資格を喪失するようになり、神様の誇りとして、神様の代わりに万物の前に現れ、和動の中心として栄光を受けるべき人間の位置が、根本的に潰れるようになってしまいました。

 人間始祖の堕落以後、六千年が経過した今日まで、神様が求めてこられた標準は何だったのでしょうか。神様の心に代わり、形状に代わり、神様の性稟に代わって、天倫の行事に代わる全体の代表者、神様が誇る一人の代表者を求めてこられたのです。

 また、今までこの一つの願いのために、イエス・キリストも苦労してこられました。それでは、アダム・エバの堕落以後、四千年目にこの地に来られたイエス・キリストはどのようなおかただったのでしょうか。イエス・キリストは神様の内的心情を代身し、外的形状を代身したおかたでした。それで、神様はご自身の創造の理念として立てた“誇りの基準”を、イエス・キリストを通して現そうとされたのです。これが、イエス・キリストが遂行しなければならなかった本来の使命でした。

 ですから、イエス・キリストはその一代で、彼の生活を通じてある部分だけでも、神様の心情と形状に代わる子女として現れなければならない、重要な責任者の立場に立っていたということを知らなければなりません。

 このようにイエス様は、神様が誇る実体として現れなければなりませんでした。まず、万物の前に誇ることができなければならなかったし、その次にはサタンの前に、そして、聖徒たちの前に誇ることができなければなりませんでした。そして、神様がアダムとエバを中心として喜び、栄光を享受しようとされたことを復帰する一日を、迎えなければならなかったのです。これが中心存在であるイエス様を立てて、役事し摂理された神様のみ旨でした。

 神様はイスラエル民族をして、イスラエルの国を建設しようとされ、その中に自らイエス・キリストを送られたのです。それで、イスラエル民族が一つになってイエス・キリストをほめたたえ、神様が誇ろうとされたその基準で、感謝の心情を持ってイエス・キリストに対していたならば、このような歴史的悲しみが六千年まで延長されることはなかったでしょう。


神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス

 神様の誇りとして現れたイエス・キリストの目に映ったものと、イスラエル民族が誇っていたものとは全く違っていました。すなわち、神様の復帰摂理のみ旨に対してきたイスラエル民族が、自ら神様の選民であることを誇っていたのと、神様の復帰摂理のみ旨を奉じながら闘われたイエス・キリストが、神様のみ旨のために誇られたのとは違ったのです。それでイスラエル民族は、神様の代わりに誇ることができたイエス様のみ言の前に、自分たちがその時まで立ててきた民族的な誇りを、放棄する立場に身を置かなければなりませんでした。

 自分たちの誇りを放棄して、神様のみ旨を代身して誇るための新しい誇りを持って現れたイエス・キリストの前に、柔和謙遜にひれ伏していたならば、十字架の困難な関門がイエス・キリストの前に残されることはなかったし、キリスト教の歴史に十字架の道というものはなかったでしょう。

 そして、「イエス様のみ言に耳を傾けることによって救われた」ということはあっても、「十字架を信じることによって救われた」という、このような話はなかったことでしょう。

 今日、私たちがイエス・キリストの死を祝福して、十字架に贖罪の権限があると信じていますが、それがすべてではありません。イエス・キリストが生前に語られたみ言に贖罪の権限があったということを、今日キリスト教の人々は忘れています。私たちが知らなければならないことは、もちろん、キリストの十字架を信じることによって霊的な贖罪を受けることは可能ですが、イエス様が生前に語られたみ言を信じて、み言のとおりに実践していたならば、霊肉合わせての贖罪が成されていたことでしょう。

 では、イエス・キリストは、この地に来られてまず何を誇るべきだったのでしょうか。アダム・エバは堕落することによって、神様のみ言を成就することができませんでした。み言を信じられませんでした。人間が神様のみ言を信じることができずに堕落して、四千年間摂理歴史が延長されたのです。イエス・キリストが、この延長された四千年歴史を断ち切るために、サタンの前に立てた一つの中心が何かといえば、信仰でした。すなわち、イエス様は「信仰の王」としてこの地に現れたのです。

 イエス様はどのようなかたでしょうか。またイエス様は、神様の誇りとして立つことのできる一つの価値の基準を、どこにおいて立てられたのでしょうか。四千年の歴史が流れる過程で、だれも信じることができず、神様のみ旨に相対することのできなかった万民の前に、イエス様は信仰の王として現れたのです。それで神様は、イエス・キリストの信仰を誇ることができたのです。

 多くの人々が「神様を信じる」と言いましたが、そのような信仰では、神様の天倫の心情に通じた上下の内的な関係を結ぶことはできません。また、多くの予言者・烈士たちが現れては逝(ゆ)きましたが、彼らが信じ、彼らが従っていったものを通じては、神様の中に込められている愛の原則を知ることはできないのです。

 さらにイエス・キリストは、多くの聖徒たちが歩んできたその歴史的な信仰の過程全体を引き継ぎ、たったお一人ですべてのサタンの歴史を断ち切ろうとされました。四千年の信仰を総結実する立場のイエス・キリストは、宇宙の中心形として、信仰の主人公として来られたのでした。

 この一つの基準のために、神様はイエス・キリストを信仰の王として立てられました。イエス・キリストは、神様のみ旨を代身したのであり、神様のみ言を代わりに伝えたのですが、宣布されたみ言は、旧約のみ言そのままではありませんでした。旧約の信仰によって信じたのではありません。預言者・烈士たちが語り、預言された、その限界の中で信じたのではありません。言い換えれば、イエス様は、イスラエル民族が信じてきた旧約聖書のみ言の圏内でメシヤ思想を持っていたのではなかったのです。

 イエス・キリストは、どのような信仰を持たれたのかといえば、旧約聖書にも歴史上にもかつてなかった信仰、その時まで現れることのなかった一つの新しい信仰、世界のどのような環境の、どこにも現れなかった信仰を持った代表でした。そのために、旧約歴史がイエス・キリストの前につながらなければならなかったのです。

 では、神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス・キリストを信じている私たちは、何を知らなければならないのでしょうか。私たちが、ある限界内でイエス・キリストを見たとするならば、イエス・キリストが降臨される前の四千年歴史と、イエス様の三十余年の生涯と、永遠なる未来にまで及ぶ彼の価値を知ることはできない、ということを知らなければなりません。

 また、私たちは、万民が神様のみ旨が分からずに反対する立場に立っているとしても、「私は、そのみ旨一つだけを掴(つか)んで行きます。だれも信じることのできないことを、私は信じます」と言える信仰の基準が立てられてこそ、イエス様が万民の救世主、信仰の王として立つことができたという事実を知らなければなりません。

 では、今日私たちが信じているイエス・キリストは、生きているうちに、み言をすべて語って逝かれたのでしょうか。もし、み言をすべて語ってから逝かれたのではないとしたら、私たちには、再び来られる主が語ってくださるみ言が必要なのです。イエス様は、アダム・エバの堕落以後四千年ぶりに、サタンの前にもすべての被造世界の前にも誇ることのできた信仰の王であり、神様が求められた信仰の王でした。しかし、ユダヤ民族が不信することによって、神様は彼を怨讐の手に渡すしかありませんでした。それでイエス・キリストが、全被造物の前に誇ることのできる基準を持ってこの地に再びこられて、皆さんに新しいみ言を語ってくださるようになっているのです。

 イエス様は信仰の代表者、信仰の王として、旧約聖書になかった新しいみ言を発表されました。そのみ言は、新約のみ言として、今日私たちに伝えられています。

 今、私たちが備えなければならないことがあります。今日この時代は新しい時代であり、これから栄光の時代が来るので、その栄光の時代に残ることのできる信仰を持つことができなければなりません。

 イエス・キリストの希望と信仰は、人間が四千年間、信じてきた次元の信仰ではありませんでした。彼の一代を経て遠き後世、すなわち永遠にまで及ぶ信仰、神様がイスラエル民族をして成せなかった、その当時に表されることのなかった愛と善を表すことのできる信仰でした。

 ですから、イエス・キリストは歴史上になかった信仰の王であり、神様が誇るかたでした。イエス様と同様に皆さんも、このような信仰を持たなければなりません。


 サタンを打ち負かす王・イエス

 二番目に、神様がイエス・キリストを誇ることができたのは、多くの人が数千年間、サタンと闘ってきましたが、イエス・キリストが初めて勝利の王として立つことができたためでした。それで神様が、イエス・キリストを誇られたのです。

 四千年間、多くの先祖たちがこの地上に生まれてサタンと闘いました。メシヤを送ろうとされる神様のみ旨のために、数多くの預言者たちが現れてサタンと闘いました。しかし、彼らはサタンを屈伏させることができませんでした。四千年間、サタンと闘いましたが、サタンを占領し、屈伏させることができなかったのです。ところが、イエス・キリストがこの地に来られることによって、初めてサタンを占領して屈伏させたのでした。

 イエス様は、何をもってサタンを屈伏させたのでしょうか。天の愛の原則をもって屈伏させたのです。皆さんはそれを知らなければなりません。今日、私たちキリスト教徒たちが知らなければならないことは、サタンを屈伏させるには愛の原則でなければならないという事実です。

 愛の原則は、どのような原則でしょうか。イエス・キリストは万民の前で亡くなられました。この地上に、数多くの人々が来ては逝きましたが、イエス・キリストは神様が最も愛された独り子であるというのです。そのため、イエス・キリストの三十余年の生涯の生活を見れば、どの一部分を取っても、親孝行の生活をしなかったという部分はありません。神様のみ前における一日の生活は、昼も夜もどの時間も切り離すことのできない、神様のみこころにふさわしい生活でした。神様が見られるとき、“この地上におまえ一人しかいない”と言われるくらいに親孝行の生活をされたのです。

 イエス様は、自分の一生のすべてが消え失せたとしても、ひたすら神様に尽くす心だけでした。自分の肉身は無視されるとしても、万民の救世主としての使命を果たそうという心しかなかったのです。ただひたすら、「お父様! 私一人が死んで、あなたが四千年間求めてこられた愛の代身存在、あなたの愛を受ける息子として、その愛の代価をお返しできる孝子となります」という心以外には、何もありませんでした。

 ですから、億千万の民が、「イエス・キリストは神様の息子でない」と言っても、神様はそれを認めることができなかったのです。天地の中心に結ばれた、神様の愛による父子関係の天倫の力は、だれも阻むことができません。イエス様は、どのような困難な中でも環境に屈しませんでした。ゴルゴタ山上の孤独な場でも、十字架を背負いました。イエス様は、そこに神様のみ旨があることを知っておられ、四千年間、待ち続けられた父の愛の心情をよく知っておられたのです。

 それゆえ、父のみ旨が変わらない以上、父の愛を受けることのできる息子としての誇りは永遠なのです。神様はイエス・キリストを独り子として、神様の変わらない愛の化身体として、全被造万物の前に誇られました。サタン世界の前に誇られたのです。

 歴史上、自分を生んでくれた父母に孝誠を尽くした人は多くいます。サタンの懐の中にいる孝子・孝女は多いというのです。しかし、神様がイエス・キリストを誇ることができる基準、イエス様のように神様の愛を受けることができる者になろうとすれば、歴史上のすべてのサタン圏内の孝子・孝女たちを合わせた以上の価値と実績がなければなりません。

 そうしてこそ、神様が、「これは私の愛する息子である」と言うことができ、天上天下において、天倫を代身した唯一の孝子となることができるのです。

 このような基準をもって、イエス様が多くの群衆を眺めるとき、あまりにも呆然としたのです。そのようなイエス様の心情であったために、自分の価値と彼らの価値との間には、天地の違いがあることを感じたのです。そのためにイエス様は、天の前に自ら堂々と彼らのために祈祷できたのです。

 また、神様と愛によって結ばれた父子の関係から出てくる力によって、サタンまで滅ぼすことができたのです。なぜならば、サタン圏内の多くの人々がサタンに同調するのと、イエス・キリストが神様に仕えて愛する基準とは、比較にならないからです。イエス・キリストが、神様の愛をもって現れたので、怨讐の前にあって堅固な盾となったのです。それで、イエス様を中心として集うすべての所で、サタンを屈伏させることができたのです。

 イエス様は、四千年間先祖たちが勝利したものと負けたものすべてを合わせて、自分の基盤にすることができる一つの基準を勝ち取ったので、神様が誇ることができたのでした。

 今日、私たちが考えてみなければならないことは何でしょうか。今まで人類は、六千年間サタンと闘争してきましたが、なぜイエス・キリストが、四千年間多くの預言者たちが勝利した価値以上の勝利の実績を収めることができたのかということを、考えてみなければなりません。また、私たちの先祖が、どのようにサタンに対して勝利することができたのかということを、考えてみなければならず、皆さん自身が彼らの立場にも立って、考えてみなければなりません。

 天が今、この地上の聖徒たちに願うことは何でしょうか。イエス・キリストだけがサタンを屈伏させるのではなく、今日、終末のすべての聖徒たちがサタンを屈伏させて、イエス・キリストの愛を通じて神様の愛を感じることです。

 イエス・キリストは、三十余年の生涯で勝利の生活をしました。イエス様は、勝利できないことを言うのは避けたのです。イエス様が負けたり、サタンが接近してくるような言葉は避けたのです。他人から見れば、村の一人の青年であったのですが、いったん全体に責任を持てば、彼の言葉や行動や願いは、全体を勝利の基台の上に上げることのできる言葉と行動と願いでした。

 今日、皆さんは、イエス様がこのように苦労されて、整えられた勝利の基盤の上に立っています。皆さんは、イエス様からこのような恩恵を受けているのです。今は皆さんが、イエス・キリストがこの地上で勝利して成し遂げられた勝利の基盤の上に立って、どのようにすれば、より高く上がって行けるかということが問題です。皆さんは、天が皆さんのためにこの地上に降りてこられたことを知って、天に上がって行く時まで勝利の汗を流さなければなりません。

 私たちは、私たちの心に神様の愛を満たさなければなりません。イエス様と聖霊の愛を感じて、天の愛を体験しなければならないのです。

 イエス様は個人的に勝利されましたが、十字架で亡くなられたがゆえに、霊的にだけ勝利の基台を立てられました。それで、二千年の歴史を終結しなければならない私たちは、イエス様の霊的な基台の上に立って、イエス様の体に代わって勝利の基台を築かなければならないのです。

 霊的な救いを完成してくれる新約聖書の次元を超えて、天が実体的な救いを完成させてくれる新しいみ言をこの地に宣布するようになる時、サタンがこれに反対してきます。しかし私たちには、このことにまで責任を持って戦って勝つべき責任があるのです。

 イエス・キリストは、どのような条件によって、神様の愛を受けることができたのでしょうか。イエス様は、「責任を持つ王者」となったので、神様の愛を受けることができたのでした。イエス・キリストは、生まれた時からヨセフの家で大工の仕事をしましたが、責任を完遂するために努力したのです。

 ヨセフの家で大工の仕事を手伝いながら、父母が抱えている生計を助けてあげる生活をしましたが、イエス様にとっては、それだけが生活のすべてではありませんでした。また大志を抱くと同時に、小さいことにまでも責任を果たされたイエス様でした。このようなイエス様であられたことを皆さんは忘れてはいけません。


 イエス様は全体のみ旨に責任を持たれた王者

 イエス様の生活はすべて、自分の責任と使命を完遂する生活でした。彼は、永遠に残る責任を地上に完遂してのけたのです。イエス様の三十余年の生涯は、責任を果たしたという永遠不変の実績をこの地上に成したという生涯でした。それゆえ、イエス・キリストのみ言、キリストの信仰の福音が残っている以上、彼の生涯も残っていくことでしょう。

 イエス様は、自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面からも責任を持たれたのです。そして、神様が四千年間、役事してこられたみ旨に対しても、たった一人責任を持たれたのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を代わって背負える人は、この地上には一人もいなかったのです。イエス様は、独り孤独な身で責任を果たされたということを皆さんは知らなければなりません。

 イエス様は、自分一人ですべてのみ旨に責任を持つことに対して寂しかった反面、より大きな責任を感じたのです。ですから、イエス様の一日一日の生活は、全体的な責任を完遂するための基盤をつくる生活でした。
 そして、三十年準備時代と三年実践時代、三日間の完成時代まで、イエス様の目には、サタンを屈伏させることと、その基盤の上に神様のみ旨を成就することしか見えませんでした。この責任を痛切に感じて生きた生涯でした。イエス様は、一瞬もこの責任を忘れることはなかったのです。

 また、十字架を背負ってゴルゴタの山頂に向かって行く時にも、万民が誹謗し、サタンが嘲弄するそのような最後の瞬間にも、イエス様が担ったところの天倫の責任を、一人でやり遂げようとする心は変わりませんでした。

 イエス様が、責任完遂の理念を持って、十字架の峠を越えたために、復活の役事を起こすことができたのです。そして、地上に残っている弟子たちを再び収拾しなければならない責任があったために、イエス様は天国に行かれた後、再び降りて来られました。神様の力によって、復活の役事を起こすことができたのです。

 イエス様は、亡くなられた後も、散らばった弟子たちを心配されていました。墓中三日間も、この弟子たちを永遠に守るという心を持っておられたので、復活の後にガリラヤの海辺で弟子たちを捜し回られたのです。

 今日、私たちが人間的に考えてみれば、責任感がなかった彼らに対して、イエス様がどうしてそのようにできたのだろうかと考えやすいのです。難しい立場の時、背を向けた弟子たちでしたが、イエス様は復活後に、まずガリラヤを訪ねられて、自分の責任を完遂し始めました。このように死の峠を越える時、変わらない弟子たちとして立たせてくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私たちが見習わなければならない人格なのです。

 それだけではありません。その当時の弟子たちとそれ以後の数多くの聖徒たち、二千年が経過した今日の私たちにまでも責任を持たれたということを知らなければなりません。救いの歴史は全体の歴史でした。天のみ旨はすべてを救援することなので、イエス様は全人類にまで責任を持たれているのです。

 ではイエス様は、どのような責任を持っておられるのでしょうか。イエス様は、この世的なことに対する責任を持たれたのではなく、裕福に暮らすということに対して責任を持たれたのでもありません。私たちの生命に責任を持っておられるのです。皆さん、この世に難しいことは多くありますが、これ以上に難しいことはないのです。生死の問題に責任持ったために……。

 今日、信仰者たちは、まかり間違えば、生死が左右されるような岐路に立っています。はらはらさせる刃のような線上に立っている人たちを、全部右側に引っ張る責任をイエス様は持っておられるのです。このように、イエス・キリストは昔、三十余年の生涯を過ごした時もそうであり、死の道に向かわれた時もそうであり、いついかなる時も同じ心でした。人間が、このような責任と使命を感じることができなくても、イエス・キリストはこの責任と使命、この一つのみ旨を成すために、今も役事しておられるのです。


神様の誇りとなったイエス・キリスト(2)

 全体の責任を完遂すべき私たち

 では、今日私たちが信じているイエス様に侍ろうとすれば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。いつもイエス様に責任を負わせるような者となってはいけません。

 イエス様は、四千年の歴史に責任を持たれ、当時の人類に責任を持たれ、亡くなられた後、二千年間人類に責任を持ってこられたので、私たち自身も責任を持つ者とならなければいけないのです。私たちは今、イエス様に責任を負わせる生活をしてはなりません。

 そして、私たちは自ら、「アバ父よ、二千年間責任を持ってこられたイエス・キリストの困難が分かります」と言いながら、今日も私たちのために、世界のために責任を持っておられるイエス様に対して、無念に思わなければなりません。

 このことは、だれのためだったのでしょうか。取るに足りない私たちのためです。ですから、私たちはこのことを考えて、イエス様のみ前に頭を下げる人とならなければなりません。「主よ!」と叫びながらも、骨が溶けていくような心情、肉が溶けていくような心情を感じてみなければなりません。

 神様はやっと、四千年のみ旨に責任を持とうとするイエス・キリストを掴んで、「おまえ一人だけが、私が成すべき責任を背負っている」とおっしゃることができたのです。それで、すべてのことを信じ、すべてのことを任せることができました。すべての責任の包みを背負わせることのできる立場で、神様はイエス様に対することができたのです。

 それと同様に、神様のみ前に立てられたイエス様と同じく、私たちも全体の責任を果たそうとしなければなりません。責任を果たす、そのことが難しいとしても、「困難なそのことを私に背負わせてください」と言える心情で、神様とイエス様の前に、「願われるその心情を私を通して現してください」、「私を通して見せてください」と言えなければなりません。

 このような人々が、終わりの日に残ることのできる群れなのです。このような群れが出てこなければ、神様の独り子イエス・キリストが、二千年間人類のために責任を持ってこられたその目的を、どこで成し遂げるのでしょうか。神様の独り子として、命を懸けて責任を持って路程を歩まれたイエス様が、責任を持てる人を捜せないとすれば……。

 ですから私たちは、「イエス・キリストが十字架上で、歴史に対する責任と、現実に対する責任と、未来に対する責任を持とうと神様の前に宣誓された、その責任を私たちに持たせてください」と祈るべき時が来たのです。

 私たちは、きょうまで生きながら、天のみ前に責任を転嫁する時がたくさんありました。しかし今は、「四千年間、切なく思われた神様の心情を代身して、地上で王として、歴史的なすべての責任を果たしてこられたイエス・キリストを代身して、その責任を負って戦います。怨讐サタンと数千万の人間たちが歓迎しなかったとしても、私が代わって責任を持って戦います」と祈祷しようとする人々が出てこなければならないのです。このような人々が出てきてこそ、イエス様が安息の圏で休まれることができるのです。

 今日、終わりの日を迎えたこの時に聞こえてくるのは、「私の生命の叫びを聞く者はだれか? 神様の生命を引き継いだイエス・キリストの生命の訴えを聞き入れる者はだれか」という声です。天はこのような人を捜しておられるのです。

 今までイエス様は、万民のために神様の右側で祈ってこられました。ところが、イエス様が休まず、今まで祈っておられたのは、イエス様に何か過ちがあったからではないのです。またイエス様が、父のみ前に出られない立場に立っておられたからでもないのです。そのすべては、私たちのためです。それゆえ、二千年間苦労してこられたイエス様のために、皆さんは生命を断ってでも、生命の責任を完遂しようとしなければなりません。

 イエス様が十字架上で亡くなることによって、生命の責任がこの地上に残っているのです。この残された生命の責任を完遂すべき時が再臨時代です。この生命の責任を完遂できる人が現れることによって、再臨時代は始まるのです。イエス様は歴史的な生命の責任と、未来的な生命の責任を成し遂げる人であられるために、皆さんは、最後の戦いで彼とともに戦わなければならないのです。


 再臨時代の始まり

 神様は、愛するイエス様を立てられて、信仰のイエス様を通して、あるいは真理のイエス様を通して人間を愛することを願っておられます。皆さんを愛することを願っておられるのです。

 今日私たちは、信仰のイエス様を手本としなさいというとき、心だけでも、「はい、そうします」と言えなければなりません。勝利されたイエス様を手本にするようにというとき、「そうします」。責任を持っておられるイエス様を手本としなさいと言われたとき、「はい、そうします」と言えなければなりません。皆さんが、このような人となれなければ、今までいついかなる時にも休むことのできなかったイエス・キリストは、どうして休まれることができるでしょうか。

 ですから、神様が誇りとして立てられたこのような条件を、皆さんが代わって担当しなければなりません。そして、霊界に行かれたイエス様の誇りとなった条件を、この地上で成し遂げる皆さんとならなければなりません。神様が誇ることのできる皆さんとならなければならないのです。

 まず、信じることのできないこの世で、信じることを誇らなければなりません。そして、サタンとの闘いで勝利したことを誇らなければならないのです。責任を持てないこのような世の中で、責任を持つことを誇らなければなりません。

 このことによって、神様の誇りが霊界のイエス・キリストを通して地上の私たちに及び、地上の私たちを通して、万物にもその誇りが及ばなければなりません。そのようにしてこそ、神様の創造理念である、人間を万物の主人公として立て、万物の前に誇ろうとされたみ旨が成就するのです。そうして初めて、人間と万物が誇られる神様に、感謝の敬拝をささげることができるのです。このような全体的な責任が、私たちにはあるのです。

 今日、私たちはあまりにも取るに足りません。私たちが持っている信仰も取るに足りません。ですから、私たちはこれからサタンと闘わなければならないとき、「アバ父よ、この世界のすべての人間がサタンと闘って勝てるように力を与えてください。全人類が責任を全うできるようにしてください」と祈らなければなりません。そして、全体の敵に向かって一人で戦い勝利して、「お父様、お喜びください」と言うことができなければなりません。

 世界のすべての責任を負って行く姿を神様にお見せし、億千万人、あるいは無数の聖徒たちと被造世界の前に責任を負って行く中心、すなわち誇ることのできる人を通して、地に対する神様の怨恨を解放することができ、そのような人を通じて神様のみ旨を広げることができるというのです。これを皆さんははっきり知らなければなりません。祈祷しましょう。
 
 祈祷

 お父様! こちらを見ても私の責任であり、あちらを見ても私の責任であり、この世の悪しきものを見る時、涙が止まらなかったのがイエス・キリストの生涯であったことを知っております。

 今日、私たちは悪しきものを見ても感覚がなく、不義であり、足らなくて天倫のみ旨に対する苦痛なる心情を抱いて、責任を感じることができないでいます。

 怨讐を打ち破ろうとする心と、恨みに徹する切なさがなかった私、また戦いの実績を持てなかった私、全能の神様を信じることのできない私だったのです。天に対するイエス・キリストの忠誠を知らなかったのです。

 お父様、この夕べにわずかな者を前にして勧告しました。イエス・キリストを立てて誇ろうとされたあなたのみ旨が、使徒たちを通じて、歴史を経て今日の私たちに結ばれ、そのみ旨が私たちに結実されることを願っておられることを知りました。生命を頂いたという歓喜に加えて、幾千万の聖徒たちが歓迎することのできる中心的な責任が、今日の私たちに任されていることを知りました。

 今私たちを、天地と万物、イエス・キリストの怨恨を解くための供え物となるように許してくださり、誠心誠意を尽くす孝心ある子女たちとなるようにしてくださることを、お父様、切にお願い申し上げます。
 十字架の道を通じて新郎・新婦の理念を立ててくださいましたが、今私たちがキリストの愛をどの程度まで実践でき、キリストの愛を中心とした責任をどの程度まで果たし、キリストの愛を通じた信仰の価値をどの程度まで求めることができるかということが、問題であることを知っています。

 お父様がこの時間、勧告してくださいましたので、今日の我一身と私たちに、天の解怨のための責任が任せられており、天の怨恨を解いてさしあげるための闘いが、私たちによって終結されなければならない事情があるということを分かるようにしてください。このようなことを知りましたので、だれよりも実践しようという心、お父様に感謝できる心だけを持つようにしてください。

 十字架を背負っても感謝できるようにしてくださり、億千万のサタンと闘ったとしても、お父様のみ前に卑屈な者とならないようにしてください。

 十字架を背負い、困難な立場に立ったとしても、「お父様! 私がおりますので心配なさらないでください」と言うことのできる子女となれるように導いてください。困難な立場に置かれている子女たちを見て悲しまれるお父様を、慰めてさしあげられる子女となれるようにしてくださることを切にお願い申し上げます。

 み言が、この者たちの生命と道になれるよう役事してくださり、この者たちの生活の中心に訴え、生きていく上での中心と標準を探すことができるようにしてくださり、不変の信仰と生命の中心を持って、お父様のみ前に進みいくことができるように導いてください。そのようになることができるように、み言の創造の役事をしてくださることを切にお願いいたします。

 すべてのみ言を主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2020.12.28 00:17:20
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