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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
復帰のためのイエス様の生涯観
1957年1月6日(日) 前本部教会 祈祷 お父様! 過ぎし一年間をお父様が保護して下さったことを感謝申しあげます。今日は新年の初めの週間を迎えて喜ばしい心でお父様の前に敬拝を捧げるこの一時間でございます。今我々の過去の不備と不足とさを振返って一年間この一時間からはお父様が願われる聖別した体と心になって温柔謙遜に敬拝を捧げますから、愛のお父様お受け下さいませ。 我々の心にお父様の前に応えられないある主義と主張があるのでございます。これをみんな除いて下さいまして我々の体に悪の侵犯を受け汚されるのでございますが、聖霊の火柱でこれを燃して下さいますならば、隣れみの恵みで許して下さいまして、与えられた本性に和する体になってお父様の喜びの愛を受けることができる息子娘になるように聖別させて下さることをお父様懇切に望みつつ願うものです。 お父様のこの一日から聖なる恵みが連結して悪なるサタンたちを屈伏させることができる能力の歴史が私たちを通して現れるように望みながら与えて下さいますように。私たちの心と体が感動して天上天下のすべての被造万物を和動させて天上にお父様を喜ばせるようにしてあげられるように引導して下さいまして、私たちのこの体がお父様が望まれる真なる会合になるように導いて下さいますように懇切に望み願うものでございます。 今、私たちのあるまごころをみな捧げてお父様の中に隠されていた愛を実現させてあげなければならない時になったのでございますから、お父様の六千年摂理の経綸を現さなければならない時になったのですから、お父様よここに集るあなたの息子娘たち自らが聖別なる立場に立って望まれられてお父様の聖別なる能力を受けお父様が捧げられた杖を持って紅海を渡ったモーセの心情を感じることができる子女たちになるように許して下さいますように、お父様懇切に望み願うものでございます。 お父様この一年、三千万民族にお父様の祝福を与え賜ってこの民族のために集る数多い教国の上にお父様の栄光と愛がとどまって、あなたの隠れている息子娘にお父様の約束なさる御心を現されて、早く早く三千里鳥が勝利の園になれるように許して下さいますように。そうして眠っているこの民族が歓喜の栄光をお父様に捧げて、復帰の御心をこの天地の上に振動させることができるように引導して下さいますことを、お父様懇切に望みて願うものでございます。隠れている聖徒たちのまことの心を我々が身につけるように許して下さって、数多くの教団を動かして三千万民族を目覚めさせて、またこの民族を動員して二十四億人類を目覚めさせ本然の園を早く早くなせるように許して下さることを、愛するお父様懇切に望まれて願うのです。お父様、今日この時に立てられた新しい約束と新しい法度とに我々の心と体を聖別して陶酔されて、お父様のその喜び、心の恵みを私たちに現してくださいませ。約束と話がここに存立するように望みつつ与えて下さいましてこの時間この後からはお父様の前に勝利の祭物として捧げることができるように、お父様の保護のさしのべる手が長く長く一緒にして与えて下さいませ。 お父様が喜ばれる御心だけのために我々の心と体と全てのものをみんな捧げることができる忠孝の息子娘になるように許して下さることをお父様懇切に望んで願うものです。この日も地方に散らばって御言を掴んで一人で祭壇をまかされている群集がいるのですから、彼らをサタンから聖別して下さいますように、暗闇の勢力の前にお父様の実証的な能力を立てられて伝えられる、お父様の栄光を現される誇れる子女たちになれるように許して下さるように、愛なるお父様懇切に望みつつ願うものでございます。 また集る所所ごとにお父様の息子娘たちがお父様の権能の力を受けられるように許して下さいまして、サタンの審判を受けないように保護して下さいますように。お父様この時間三位神が運行されて喜びと栄光の復活の歴史に現れるように許して下さって、初めの時間から終りの時までお父様の聖霊が私たちの心と体に充満するようにして下さるのを懇切に頼みながら、全ての言葉を主の名前で申しあげるものでございます。アーメン。 <御言> 復帰のためのイエス様の生涯観という題目で皆さんに少しの間話しましょう。堕落した人類はまだ世界が立証したことができて地上に立証したことができたなら、天が立証したことができる永遠な生命の価値を探せずにいました。そんなわけで堕落した人間たちには個人の生の価値を探して個人を経て、世界的な生の価値を求めて世界を越えて天的な永遠な生の価値を探さなければならない復帰の使命が残っているのである。 それならば神様が今日まで摂理の御旨を立てられて全体の生の価値を探し来られたその目的はどこで終結するのか。それは皆さん一人自体や世界で終結するのではありません。天と地が一つになって神様が喜ぶことができると同時に世界が喜ぶことができて、世界が喜べて個人が喜べる生涯の価値を探さなければならないのである。その時こそ初めて天の救援摂理も終日なのです。サタンを中心とした世界的な人類も終日ならば個人的な道徳観念も終日になるのです。堕落した人類にはこの様な生涯路程を開拓して行かなければならない責任があるのを皆さんは知らなければなりません。 そして皆さんは皆さん自身を個体的である自分とだけ見るのはたやすいが、皆さん自体の中には創造の全体理念が入っているのを知らねばなりません。それだから皆さんはまず世界的な生の価値を現さなければなりません。そんなしかる後こそ皆さんの個人的な生の価値が成立されるのを知らなければなりません。このような生の価値を探すために生活して行くのがすなわち信仰生活であるというのを、皆さんも良く知っているべきものです。それだから皆さんは自分自体を分析して自身が要求する天性の生命を代身として永遠な生命を持たねばならなくて、歴史的な全ての理念を一つに帰一させて世界的な生を完結させなければなりません。また一つ皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠な生や世界的な生と関係を結べる。 生の足場を立てなければなりません。そうでなければ皆さんの今の生が世界的な生を経て永遠な生になれないのです。このような宇宙的な生を立てなければならない人間先祖、アダム、エバが堕落してそれを捨てたのでこれをもう一度復帰するために神様が六千年間苦労して来られたので神様のこんな苦労の歴史を復帰摂理歴史というのです。この様な宇宙的な生の価値を探して立てるために神様は四千年苦労の路程を経られた後にその天的な生命の価値を代身することができる一人の方を送られ、その方がすなわちイエス・キリストだったのであります。イエス・キリストは一つの体となり、その体は永遠と無限な世界的な生命を代身されて、永遠な個人の生命を代身なさいました。このような歴史的な背景を備えて来られるイエス様であったので、その方は現実にして永遠な所望を現さなくてはならなかったので、天地の上に永遠に実存できる生命の価値を証言しなければならなかったのでした。 それならばこの様な使命を負って来られたイエス・キリストが、どのような標準を中心として生活なされたのか、イエス様は自分個人の命のために生活はされなくて、世界の生命のために生活されながら行かれては、それを越えて永遠な生命のために一日一日を闘われました。これがイエス様の生活の標準だったのでした。言いかえればイエス様が願われたその願いと感じられたその感じ、生活されたその生活は自分個人だけのものではありませんでした。それらは個人的であると同時に世界を代表して、世界を代表すると同時に神様を代身されたのでした。 またイエス様が伝えられた福音の御言もイエス御自身だけのためのものではありません。世界のための御言であって、さらに進んでは神様を代身する永遠な生命の御言であったのです。これを感じられないキリスト教徒らとすれば、イエス・キリストの真なる福音の内容を悟れないので、イエス・キリストが来られた目的を成就してあげられないのであります。これを皆さんは知らねばならないのです。 イエス様が立てられた愛の基準 それならばイエス様はこんな宇宙的な生の価値を実現するために何を主張されたのか。イエス様は愛を主張されました。ちょうど宇宙的な生の価値を天と地の上に完結されようとされて新しい福音を伝えられたのだが、その福音の中心がすなわち愛であったのでした。個人が自分自身の生命を永遠な価値の基準に結びつけられる。最も重要なものが何であるかとすればイエス様がお話なさったのが他人のために自分の命を捧げることができる愛であるのです。実体としてイエス様は自己自身のための愛ではなく、他人を自己以上に愛することとしての生の価値基準を立てられたのでした。 このように天的な全体の生命の価値を代表し現れたイエス様は、人間に自己個体の救援をするためには他人のために命を捨てられる愛を所有してなければならないと教えられたのでした。私のための愛よりも同僚のための愛、同僚のための愛よりも世界のための愛、世界のための愛よりも神様と霊界にいる千万の聖徒たちまでのための愛を備えて来られた方がイエス・キリストであるのを皆さんが確実に知らなければならないのです。イエス様は自己個体の生命の価値を探すための個体的な観念をもって、あるいは個体的な愛をもって生きている方ではありません。イエス様は友を愛される時もただその友関係にだけ愛されるのではありません。その裏面には世界を代身として愛するのは観念を整えて、また神様を代身して愛する心を備えて愛されたのである。 このようにイエス様の愛は一対一の関係での愛ではありませんでした。イエス様がある個人を愛したとしても、そこには神様の愛が内包されていて宇宙的な愛が内包されているならば、個人的な愛が内包されていたのです。これを体験する皆さんになってこそなれるのです。そのような皆さんになってこそイエス様の生命の価値を正しく知ることができるのです。それならばイエス様は自身の生命の標準を見る基準まで立てられるか、世界のために自分が存在する基準を立てられたのです。イエス様は自己を犠牲にされながら友を愛する時にもその内側には世界のために愛するという観念を抱かれていたのです。 イエス様が十字架上に世界的な救援の愛の基準を立てることができたのは、個人のために死ぬことができると同時に全体のためにも死ぬことができる犠牲と愛の心があったからなのです。このようにイエス・キリストが愛と生命と人格の主人公であったのを皆さんは知らなければなりません。それだけではありませんでした。イエス様はその時天に向かって「私の父よ万一できることでしたらこの盃を私から去らせて下さい。しかし私の願いではなくて父の願いの通りさせてくださいますように。」と祈られたのです。このように死の峠を越えて父の御旨をしてだけ生きるのを望まれたイエス様であったので、神様の愛を人間に紹介することができたのでした。このようにイエス様の路程には驚くべき愛が内包されているのを私達は知らねばなりません。そして宇宙的な生命を復帰するための使命を抱かれて来られたイエス・キリストが生命の価値を探すために主張されたのが何だったのでしたか。それもやっぱり愛です。そしてその愛は人間個々人のためのものではなくて、世界のために、同時に神様を崇めて永遠な世界、ちょうど霊界にいる霊人達までものための愛だったのである。 それならば今、全体復帰の生命を担当しなければならない私たちが一日一日の生活で神様の愛を代身するイエス様の生命の価値を実現するためには、どんなことにぶつかってもその日その時間に感じる感情としてだけに対してはだめである。宇宙的な全体の性禀を代身するイエス・キリストの人格を代身する覚悟と決心で全てのものに対してこそなれるのです。そのような一日一日の生活をしてこそ世界的な生を完結できることで、永遠な生命と関係を結べるのです。 言いかえれば、皆さんの一日一日の生活が、皆さん自体にだけ及ぶ瞬間的な生命の価値を備えているならば永遠と関係を結べないのです。そのようなわけで永遠無垢な神様の愛と関係を結ぶ生活をしなければならないのです。そんな時に永遠なる神様が皆さんと一緒にされるのです。そして皆さんはイエス・キリストが一生の間毎日毎日神様と関係を結びながら生きたので、イエス様は死んだけれどもイエス様を通して果たされようとされた神様の御旨は継続されて来たのである。 真の聖徒の生活の中心 それならば今日私たちがこの様な関係を結ぶためにはどのようにしなければならないのか。ちょうどイエス様を信じて行くところにあって私たちの中心として立てなければならない観念がなんであるかとすれば、イエス様のように個人のために生まれたのだけではなく世界のために生まれて天のために生まれるという、こんな観念を経験せねばならない。ために生きる生活からだけ、すなわち他人のためには愛と奉仕の生活をしてこそ、神様と永遠な関係を結んでいけるというのを皆さんが確実に知らねばなりません。 今日私たちにイエス様を信じてその愛に感謝する心があったのならば、その感謝を自身だけの感謝としては感じてはだめなのです。その感謝を万民のための感謝として立てて行かねばならないのです。そのような者がいるならば彼は世界的な使命を負うでしょう。進んでは神様の全体的な使命まで責任を負うことができるのである。 私たちがこんな生活の中心を備えて生きたなら私たちは失望しないのです。ある困難が追ってある困苦にぶつかっても、充分にそれを踏んで越えることができるのです。そのようなわけで今まさに心をこめて読む聖書の御言からイエス様は「あなたが全てのものを心配するな」とおっしゃいました。すなわち、食べることのために心配するなと、着るもののために心配するなとおっしゃいました。この御言は全体を否定するのではなく、神様の御旨を代身する全体の価値を探し立てるためには、自己個人の生活を解決することより前に、世界的な問題を解決するために心配して行く、世界的な問題よりも宇宙的な問題のために心配する人になれということである。またそんな覚悟を備えて生きる人には、自己一人の苦痛が問題ではないのである。 それならば今神様の御旨を成就して捧げなければならない私たちはどんなふうに生きなければならないのか。一日一日の生活が自己自体の内外的な問題だけを解決する(生活)になってはいけないのです。自身の問題を越えて全体的な問題を関係を負って永遠な価値を実現させておく責任感を備えて生きなければなりません。そんな時皆さんは天的な福音の御旨を成就してあげることができるのです。また皆さんがそんな使命感を持って伝道の道を行けば神様が一緒にするのです。このように皆さんがそんな愛の心を備えて、ための生活をするならばそこには必ず愛の再創造歴史が起きるのです。これを皆さんは分明に知らなければなりません。 私たちは今まであまりに自己中心に信仰生活をしてきました。私のために苦労して、私のために愛してきました。今後の皆さん方はそうしてはなりません。今皆さんが天に向かって愛を要求しても、全人類のための愛を要求しなければならなくて、霊界にいる数多くの霊人たちまでも、ためになれる愛を要求しなければなりません。 人間の永遠な生命を求めるために長い時代を経る歴史が摂理路程です。世界的な生を探すため残っているのが人類歴史路程であり、一日の生を探すためのものが生活路程であるのです。そしてこれを人間の価値的な関係として望むとき、世界的な生命を探すためのものが人類ならば、個人的な生命を探すためのものが観念であるのである。このように世界をして個人に至るまでの全ての問題がでる一つの自体が関係を結んでいるのを皆さんは知らねばなりません。そして皆さんが永遠に父が保証することができる生命の価値を持つならば、愛を中心のイエス・キリストの生涯観を習わなければなりません。 それならばイエス・キリストの生涯観は何であったのか。その生涯観は愛を中心とするためには心と宇宙的な中心の心情をもって一日一日生活を支配して行くのでした。それがイエス・キリストが宇宙的な生を復帰するために立てる生涯観の中心内容であったのでした。それで皆さんは一日一日が生活からあるわずかな問題にぶつかっても、神様が与えて下さった全体的な生命の復帰運動に責任持った心でそれに対しなければなりません。またイエス・キリストが復帰のための愛の実践者として現れたのを感じなければなりません。 イエス様の使命を相続して御旨を完結しなければならない我々 そしてその愛を実体とするために皆さんは自分が他人のために与える生活をしなければなりません。そんな時に皆さんは全体的な生命と因縁結ぶようになって、永遠なる神様が立証してくださることができる生の価値を成すことができるようになるのです。イエス様は宇宙的な生を復帰してこそ使命をもって来られた方なので、個人的な責任と個人的な蘇生と個人的な苦難の路程を経由されたのです。そしてこんな責任を負うところにあっても、一生一代にだけ責任取ろうとされるのではなくて、全体的な復帰の使命が終わる日、時まで全人類の生命を責任持たれる覚悟を抱いて生きられたのです。いわばイエス様は二千年歴史が経過した今日まで宇宙的な生命の復帰の使命を責任もって来られたのです。ところでイエス様は自身だけでその使命を完結することができないから、聖霊を送って役事されながら、霊界にいる数多い霊人達まで動員してその使命を完結しようと現れているのを、皆さんは知らなければなりません。 このようにイエス、キリストがこんな宇宙的な生命の価値を復帰するために来られて行かれたが、そのことを完結されることができなかったので、まだそのことを成さなければならない使命が残っているのです。そのようなわけでイエス様は今日までもこの地上でその使命を果たすために苦労していらっしゃるのです。 ところでこの責任はイエス様自体だけでは完結させることができません。それならば誰を通してその使命を完結させなければなりませんか。神様は皆さんを通してその使命を完結されようと成されます。言いかえればイエス様が宇宙的な生の復帰の使命を果せなかったので、今私たちがその使命を責任もって現れなければなりません。そして皆さんが皆さん一代でその使命を終結させようとする責任を感じたならば、皆さんの一生を通してその使命をなすという堅い覚悟を持たねばなりません。 今、今日、皆さんたちは一日一日の生活でイエス・キリストが宇宙的な生命の価値を探して立てられるために、摂理歴史過程で苦労していらっしゃるのを体恤しなければなりません。そうでないならば今まで立てて現れた宇宙的な生命の復帰の使命者として苦労して来られたキリストの御心が皆さんを通して完結されないのを皆さんは知らねばなりません。今、皆さんは以前の皆さん自体を天の前に盟誓の条件物として立てるべきことを知らねばなりません。イエス様も世界のために天と地のために、あるいは大勢の民のために、ただもう一度盟誓の条件を立てるのにそれがなんであるかとすれば、十字架というのである。イエス様はこの十字架を通して、数多く先知光烈達が生命をかけて苦労して来たその基準を一時に越えられたのです。 それだから皆さんは宇宙的な生命の価値を実現するために将来にある一時、天の前や世界の前に、または個人の前に捧げる一つの盟誓の祭物になる観念を確実に持たねばなりません。皆さんがあるところに行こうが、あるところに処してあることをしようが、その日その時間に処する環境でいつでも盟誓の条件物として立つために努力しなければなりません。こんな生活がすなわち信仰生活であるのです。 今、皆さんには父の前に宇宙的な生命の価値を探して捧げなければならない使命が残っているから、皆さんたちは自身を盟誓の条件物として立てて、イエス様の生命と関係を結べることができる生活をしなければなりません。また皆さん自体を世界的な条件物として立てる覚悟を持たねばなりません。さらに今まで苦労してきた数多くの先知者たちを代身してイエス・キリストを代身して盟誓の祭物になる覚悟を持たねばならないのです。このように皆さん個体個体がそのような盟誓の条件を造成しなければならない皆さんは神様から二人になって四人になって世界まで行くことができるのです。そんな環境に至るようになる時、生命の価値を探すため世界的な苦難が終結するのを皆さんは知らねばなりません。言いかえるならば生命を探すための世界的な苦難を終結させることができる基盤に皆さんの個体から形成されて、教会、社会、国家、世界にまで拡大されなければ、神様がイエス・キリストを立て宇宙的な生命を復帰されようとする摂理の御旨は終結されないのです。これを皆さんは確実に悟らなければなりません。 ところで今日までこのような摂理の御旨に対して現れる皆さん自体を考えてみる時や、または今日キリスト教人たちを考えてみる時、宇宙的な生命の価値を代身する個人と家庭が出てきて、社会、国家、世界まで連結される基準が造成されなかったのです。神様から全体がちょうど世界、人類全体にその圏内に入らなければならないのにそのようにできなかったのである。そのような基準がこの地上に成るようにならないならば、イエス・キリストの宇宙的な生涯の復帰の使命は終結されないのである。 終日の聖徒たちが行かなければならない生の目的 真なる個体であられるイエス・キリストを立てられたのだが、今日まで家庭、社会、国家、世界に拡大して行けないのを知らなければならない。そんなイエス・キリストの悲しみが宇宙的な悲しみとして残って、また神様の悲しみ、天宙的な悲しみとして残るようになったのです。そして今日まで人間たちはそんな悲しみを抱いて、永遠な天の勝利が成るようになるその日が来るのを期待しているのです。皆さんの一身を通して天と地の全体の摂理の価値を証明して天と地の全体の愛を現す覚悟を持たねばなりません。ところで皆さんが望む生命の価値観と、神様が全体の摂理を成すために願われる宇宙的な生命の価値観とは差異があるのです。それで皆さんは所望の天倫を標準とした生涯路程を経て、個人的な生活にあっても世界的な生活と宇宙的な生活をすることができる心の姿勢を揃えて行かねばなりません。そのような心の姿勢を取揃えて行くならば、その御心をみんな実践することができなかったのであるけれども、内的な面にては継続して全体と関係を結んで行くことができるのです。 そのようなわけで、イエス様にも天国は私の心の中にあるとおっしゃったのである。この御言はどんな意味なのか、宇宙的な生命の価値をもって、宇宙的な愛と真理の完成者として来られたイエス様は、神様が人間個々人に賦興なさった全ての価値を完結されようと、それが彼ら各自の根本になってこそ友達になるような御心でそのようにおっしゃったのでした。このように天国圏に属する個人たちが集って団結し、以て世界的な生命運動を成して霊界にいる数多く、善霊人たちまでが全体と関係を結ぶようにしてくれるべき時、初めてイエス・キリストがこの地上に来られて宇宙的な生命を復帰されようとしたというその御心が、そんな人々を通して終結されるのを皆さんが知らねばなりません。宇宙的な生命の復帰の使命をもって来られたイエス様に従ったその当時の人々が、そんなイエス様の使命をあえて考えてからもできない立場でイエス様に対する時、イエス様は彼らを叱りながら、神様の国と義よりも、食べて飲んで着ることをもっと望んでそれらを生命の標準としてみなしてはならないとおっしゃられたのです。一日の生活を神様を代身して生きて、イエス・キリストを代身して生きて、世界に代身して闘うことができる覚悟をもって生きる者がいたならば、その人は一人きりではありません。そのような人にはこの地上終わるまで神様が一緒でイエス様が一緒で善神が一緒にいるのです。ところでその当時の民たちがこんな関係を知らなくて自己だけのためには生活的な観念をもって生きていたのでイエス様が彼らを叱られたのです。 それならば終りの日に身をおく皆さんがイエス様を信じる目的は何ですか。それはどんな外的な世界の福を受けるためのものではありません。個人の安逸を求めるものや個人が安らかに生きるためのものではありません。私たちが生きるのはイエス様と神様のためのものです。ところでこんな目的が入れかわるような時は、全てのことが良くなるようなことと同じだが、日が過ぎて行くにつれて成って行くところがかえってその日です。反面に人間たちがイエス様のために神様のために世界のために生きて行くならば、神様が全てのものを責任もってくださったのを、イエス様はお話されたのでした。 ところで神様の御旨を成して捧げようとする責任を背負っている皆さんにあって問題は、皆さん自体が神様の御旨のためにある程度まで犠牲することができるとするのです。皆さんが個人のために犠牲になるならば個人的な主人公になることでしょう。世界のために犠牲になるならば世界的な主人公になるでしょう。天と地のために犠牲となって勝利的な生涯基準を立てられたならば天と地を主管することができる主人公になるのです。そしてイエス様は人間たちが自身の人格に似た生命的な価値を探して立てるように、今まで背後で役事されていらっしゃるのです。皆さんが皆さん個体を探して立てたこんな生命の復帰運動を成させるのは人類歴史的な面で見る時、また現実の世界的な面で見る時、あるいは未来の永遠な所望的な面で見る時、言うことのできない重要なことなのです。あわせて皆さんの責任も言うことのできない大きなことなのです。 皆さんが食べて生きる全ての生活の標準はキリストを代身して全体的な生を復帰するためのものにならなければならないと、また皆さんは神様が探されようとする全体生命の価値を、イエス・キリストが立てられた愛を中心として実践する責任感をもって行く者にならなければなりません。そのような皆さんになってこそ神様が宇宙的な生命を復帰しようとする御心が皆さんを通して完結されるのです。そんな人々が集って生きるところが天国です。そんな個人が多ければ多いほど、神様が一緒されてもっと喜ばれるのを皆さんは知らねばなりません。 祈祷 復帰の生命を宇宙的に因縁を結ぶために、天倫の法度を立てられて摂理して来られたお父様の苦労の歴史を私たちの心感じるようになるものです。父よ、あなたが世界的な生の価値を立てられるために、六千年間苦労して来られたことを切実に悟れる私たちになるように引導してくださいませ。個体から全体に至るまでキリストと関係を結ば宗教に神様が干渉することができないことが天法であるのを知りましたから、今、私たちがイエス・キリストが望まれる生命に生きられることができるように許して下さいまして、イエス・キリストの愛の価値を知るように許してくださ愛するお父様懇切に願いつつ望む者でございます。 イエス・キリストが過ごされた生涯の覚悟を私たちも持たねばならないことを知りましたから、私たち個体の生涯の価値を探すことのできる闘うところからサタンの保証を退けて勝利することができるように一緒にして与えて下さいますように。イエス・キリストが残された生涯の価値の復帰路程を私たちが代身して行くところにあってサタンの讒訴があったのを知りましたから、私たち個人の生涯から世界の生宇宙の生まで伸びて行く路程にあってサタンの讒訴受ける者にならないよう導いて下さいませ。堂堂してサタンの讒訴を一日の生活から防いで歴史的な面から防ぎ止める覚悟を持ってその生命と責任を完遂することができるように許して下さいまして、愛するお父様懇切に願いまして望む者です。 今、私たちが永遠なされる生命の価値を持つ世界的な生を成すためには、地の上で万物を主管されたイエス様の完全な人格を似なければならないのを知りますから、愛のお父様キリストのその人格に似ることができるように導いてくださいませ。また私たちはだれを論ぜず実体的にの路程を歩まなければならないに処していますから、お父様社会生活にあってやの前に立って行く人格的な面で、あるいは人間たちに与えなければならない愛の面にあってサタンの讒訴を受けないように、お父様導いて下さいませ。永遠なられるお父様の愛が成る切に所望したキリストの愛を実現されることができるように一緒にしてくださいませ。キリストが立てられた生命的な価値を私たちがもってその価値をこの地上に実現されるように主管してくださることを、お父様切に願いつつ望む者です。 この責任地は私たちがならなければ、個人から世界に渡って天と地まで連結されるのをこの時間感じられるように許してくださいますように、外的な全て条件を退けて全体的な生命の基準と生涯を探すために私たち自らで覚悟して全て条件を盟誓の祭物として見なし、闘って行くことのできる息子娘になるように導いて下さることを愛するお父様、切に願って望む者です。全てのことをお父様の御心の通り主管して下さいまして、この者たちをわせて下さることを切にお頼みしながら、主の御名でお祈りした者でございました。アーメン。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 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Last updated
2021.02.10 23:00:05
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