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2021.02.14
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​​​​​​​​​​​​​いつお父様の前に私は立つのか​

一九五七年九月八日(日)前本部教会


   <御言>
皆さんと共に考える御言の題目は「いつお父様の前に私は立つのか」です。こんな題目で、しばらくの間お話します。

 お父様の前に立つべき真の信仰者の態度

 地上に生きている人間が、どんなに素晴らしく、どんなに優れているとしても、それ自体は堕落の血統を持って生まれた存在です。言い換えれば、原罪を持っているのです。

 それで人間は今まで犯罪の歴史を経てきて、この世界において、あるいは宇宙において悪と対決して、知っていることも同じ知らないことも同じ、こんな闘いの路程を経てきているのです。そして我々が所望の一日を望み見て行こうとするとき、そこには無数の条件がその行路を阻んでいるということを、皆さんは生活において、あるいは人生路程において体験するのです。

 それでは、このような環境においてどうしたら解けるかが、今までの歴史過程を経てきた良心的で、善なる人々が渇望してきた標的であり、標準であることを、皆さんは良く知っているのです。

 ところで、我々が「今日の私」よりも「明日の私」がより善になろうとするなら、絶対的に実存している神を、我々の生活圏内に引き入れなければならないのです。即ち、その神をある論理的な神、観念的な神としてのみ認識するのではなく、生活において実証的な神として認識しなければならないのです。これは我々信仰者において、重大な問題です。人間は堕落しているので、どうせ堕落の運命を脱する道が残っているのです。このような人間が行くべき道において、今まで数多くの先知者たち、道人たちが持てる誠心と忍耐と至誠を尽くしましたが、この道は未だに行き尽くさぬまま、宇宙的な運命の道として残っているのです。

 また人間がしでかした罪によって生じた垣も一つ二つではなく、行っても行っても終わることなく立ちふさがっているので、我々はこれを突き崩して越えて行く立場に立っているのです。

 こんな立場に立っている人間が信仰の対象、即ち絶対的な神、絶対的な実存体である神を欣慕してはいるのですが、彼らはそれに対するいろんな不明の事実があることを感じているのです。ですから皆さんは漠然と、観念的にのみ神の実存を認識していたのでは駄目なのです。しかし論理的な面だけで神の存在を認識していては、無理があるのです。なぜなら、論理圏内でのみ留まっている神ではないからです。論理的に神を認識する信仰が、我々の人生を導いて永遠なる生命の実体として完成させてくれるかというとき、そこには問題点が多いのです。

 それではこのような環境に生きている今日の我々は、どうしたら真の主様とアボジのまえに出て行くことができるのか。我々がアボジのまえに行こうとすることは、人間の所望であると同時に、神の摂理の目標でもあるということを、知らねばなりません。

 それでは、このような環境にある我々が神を捜し求め、信仰の道を求めて行くとき、我々が行く道を何が妨げているのか? まず我知らずに生じる疑心が、前途を妨げているのです。また、罪悪の試みが妨げ、予期せず不意に死亡の力が 行く手を塞ぐのです。我々はこんな疑心の峠を越えなければならず、罪悪の峠を越えなければならず、死亡の峠を越えなければならないのです。

 そして各自に永遠なる理想と関係を結んで、その結ばれた関係が自分の生活を支配し、自分の人生の目的を支配してくれることを願う欲望を、人間は抱いてきたのです。また、こんな永遠の関係を結ぶことのできるその基準を、人間は我知らずに待ちわびてきたのです。人間はこのような過程を、必ず経て行かねばならないのです。

 また皆さんは生活圏内において、神の実存を体恤することを願い、神の実体と出会うことを欣慕しています。しかしその神の実体を、信仰の対象に立ててゆこうとするとき、さまざまな疑心が起こるのです。であってもこの疑心の条件を越えてゆかなければならず、これを通過しなければなりません。そして皆さんは、信仰の大きな陰の下にいるということを、感じなければなりません。

 それではこんなことを感じた後で、どのようにするのでしょうか? これを自分の心に抱いているだけでは、真の信仰の道を行くことはできません。こんな問題を解く道がないのです。皆さんが、神がおられるということを認定したなら、神様に自分が持っているすべての疑心を素直にさらけ出し、信仰の対象者として留まらなければなりません。また、自身のすべての罪悪からくる苦難、即ち自らが負う自犯罪から、血統的に受け継いだ遺伝的な罪まで、全部を率直に神様に告白しなければならないのです。

 またそれのみならず、前途を塞いでいるすべてのものと闘う運命におかれているにもかかわらず、永遠の所望の世界に向かって、一歩一歩前進しなければならないにもかかわらず、永遠の生命の理想を感じることができる約束の天国へと入らなければならないにもかかわらず、未だに死亡の圏内に留まっていることを、我々は克服しなければなりません。


 疑心の解明方法-勇気ある信仰

 今皆さんに天の父を求め願う心があるなら、皆さんは今まで持っていた疑心と、罪悪と死亡の内容を抜き出さなければなりません。皆さんが今まで留まっていたその場、罪悪と因縁を結んでいるその堕落の環境においては、神や善と関係を結ぶことはできません。皆さんが善となる環境はそんな環境ではなく、新しい環境でなければなりません。

 それでは、皆さんがそんな環境から抜け出すためには、どのようにしなければならないか。皆さん「私はこんな不足なる姿ですが、お父様、お受けください」という懇切な心情を持たねばなりません。こんな心情が、皆さんの心の内を占めるなら、皆さんは永遠なる生命の世界に入るようになるのです。

 そして皆さんが接している周囲の環境から抱いている疑心を取り出して「お父様、自分の心と体からこれを取り除いてください」とすることができ、罪悪に犯されているこのような自身を、お父様のみまえにおいてか、ある信仰の主体者の前にそのまま委ねる勇気を持たねばなりません。でなければこんな心情なりと、心の中心に立てて考えなけれんばなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んで行くことができません。神が人間に対して求めるとき、どんな条件を提示されたかといえば、信仰を提示されたのです。それで人間は信仰によって自身のすべてのものを捨て、疑心となっている環境を打破し、信じることのできる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境を造り、死亡の環境を打破して生命の環境を造成しなければなりません。

 このようなことを果たした後にこそ永遠なる神の愛を中心とする、神の無限大の栄光を神に代わって歌うことができ、神の権限を自らが現すことができるようになるのです。このような一時を願って、人間の心は動いてきたのです。この事実は誰も否定できません。今日我々は、我々が留まっているこの罪悪の環境を、無慈悲に精算してしまわねばなりません。また自身のすべてのものをお父様のまえに取り出して、今まで結んでいたお父様との関係においてあった疑心をすべて解明して、今まで持っていたすべての罪悪の要素を打破して、今まで属していた死亡の権勢から解脱することができる信仰の基準を持たねばなりません。

 それでは、どのよにしなければならないのか。皆さんが持っている疑心を解明することができる道を、捜さなければなりません。生命へと出て行く道を、捜さなければなりません。もしもこのような道が人間の世になかったなら、神は訪れることができません。自身の過ちを悟り、悔い改めることができる良心を刺激させる実存体が神であるなら、その神が所望とする最大の所望と生命と人倫の基準を、皆さんは必ず立てなければなりません。そのようになる一日、歴史的な終末時代が、いつかはどうせ来なければならないのです。それではこのような宇宙的な運命の道を前にして、皆さんはどの程度に考えてみましたか? 事実、今日の皆さんは宇宙とこの社会と世界、はなはだしくは皆さん自身に対しても、疑心を抱く環境におかれているのです。

 こんなすべての問題を解明してくれる中心存在が誰であるかといえば、神様です。また、人間の気にかかるすべてのことを知っているお方もやはり神というお方であり、これを解決してくれるお方も、やはり絶対的な存在である神様なのです。

 それゆえ皆さんは、皆さんと関係しているすべての宇宙的な疑心を背負い「神よ、私は今、宇宙に対するすべての疑心を持って来ましたので、あなたと私との間には天倫的な因縁があるなら、私を捨てたまわないあなたであるなら、このすべての疑心を受けて解明してください」として神様にお任せする、胆力もなければなりません。

 このように疑心となっている問題を、解決しようにも解決することができないそんな立場に立つとき、これを解決することが信仰の道理と知り、これを解決するために困難な闘いをして生きる人間があるなら、彼は独りで歩んでも終わりには、普通に歩んでいる信仰者以上の場に出て行くことができるのです。

 皆さんが善の道を塞ぎ、悪の道を開いているそんなサタンの仕業を押し退け、個人的に勝利の目標に向かって開拓して行こうとするときには、自身の疑心を全部、信仰の主体者の前に率直に告白しなければなりません。告白すること自体も高潔なことですが、本当に自分がぶつかっている宇宙的な疑心の限界に対して挑戦する誠実さをもって、天のまえに「アボジよ!神様!」と叫ぶときは、アボジも彼に対して与えてあげなければならないのです。神にはそんな人間に対して、与えなければならない責任があるのです。

 真実、天倫が蹂躪される法はなく、真は神が捨てられる理がないのです。それゆえ皆さんは、皆さんの心に疑心となるすべての事実を解決するために真実なる心で、忠実と忠節と誠精の心を持って神を抱き、訴えるそんな覚悟をしなけばなりません。

 この疑問が解明されなければ、我々は罪の道を打開する道理がないのです。どんなに大きな恩恵を受けたとしても、疑問が完全に解明されなければ、また残るのです。


 歴史的な疑心の障壁を克服されたイエス様の御言

 堕落の起源を振り返ってみるとき、アダムとエバが堕落するようになったのは疑心のためであったのです。それゆえ復帰の過程にある我々にある疑心があったなら、これを解明しなければならないのです。疑心が大きければ大きいほど、その心が大きく囚われるのです。それで疑心を解くために神に大胆に出て行く、勇気と覚悟を持つ人間にならなければなりません。

 長い歴史を経てきて、人間は人生観や宇宙観において多くの疑問点を解こうと努力してきました。しかし未だ、完全に解明されてはいません。今この疑問となっていることを解明するために、この問題に全面挑戦して、天のまえに忠実なる姿で、ある誠精をすべて捧げる人間がこの地上に現れたなら、神は彼を立ててくださり、また彼の疑問を解いてくだるのです。

 長い歴史を経過してきて、このような天倫の秘密を明らかにするために数多くの先知者たちが来ては行ったのです。しかし人類が心がけ、考えてきた全体的な内容が解明されていないのです。それでこのような宇宙的な疑問を解明してくださるために、イエス様は来たのであり、解決されていない人間の罪を解決するためにイエス様は来たのであり、死亡の問題を解決するためにイエス様は来たのです。

 人類のこのような疑問と、死亡と罪を解決してくれるお方は、ただイエス様だけなのです。そしてイエス様は四〇〇〇年の歴史過程に来たどこの誰よりも、神の為に忠実な生活をされたお方です。自身を超越して、宇宙的な疑心を解明するために努力され、自分一身の栄光を超越して宇宙の栄光の為に苦労され、自身のすべてのことを省みることなく、ひたすら神のみ旨を成すために、無限に犠牲となって行かれたのです。

 こんな一貫した心と生活によって、イエス・キリストは歴史を代表して天のまえに一番の先駆けとして立てられたのです。それでイエス・キリストは歴史的な疑心の障壁を克服して、自信をもって「わたしを信じよ」と叫んだのです。

 「わたしを信じよ」と言われたイエス様のこの一言は、いかにして信仰の基準になることができ、またいかにして「わたしを信じよ」という信仰の基準を、イエス様は立てるようになったのか? あまりに多くの疑問を解明するには、時間が必要であることを知るイエス様ですから、これを短縮して、ある時が来れば自然に分かる道を教えようと、イエス様はこのように語られたのです。

 イエス様は地上の人間の世の事のみならず、天の世界に対しても知っていたのです。それでイエス様は「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三:一二)と語られたのです。

 人間の言葉をもっては、疑問の峠を越えることができません。必ず天の言葉を通さなければ、すべての疑問が解明されないのです。

 それでは、天の言葉を聞く時はいつでしょうか? その時は、人類が捜し求める最後の時、キリスト教で言う最後の審判の日なのです。神はこの時を基準として、すべての復帰摂理をなして来られました。ところで、すべての疑心と死亡と罪の条件と、要素を取り除く新しい御言がこの地上に現れる時、この御言を受けることができる皆さん自身になっているか、ということが問題になるのです。

 皆さんがこんな御言を受けることを願うなら、皆さんはイエス様が天の為に忠誠を尽くしたように、イエス様の為に忠誠を尽くす人間にならなければならないのです。また、尊い供え物を受けようとする時、これを受けることができる器が必要であるように、これから全体的な疑問を解明する価値ある御言が現れる時、皆さんはこれを受けることができる自身になっていなければならないことを、知らねばなりません。


 神様と因縁を結ぶ道

 それでは何によって、この御言を受けるのでしょうか? これは正に皆さんの誠精と忠誠によってです。イエス様が四〇〇〇年の歴史を代表して、天に対して忠誠を尽くしたように、皆さんも六〇〇〇年の歴史を代身して、天とイエスのまえに忠誠を尽くさねばなりません。このような皆さんでなければ、全体的に解明される時代にとうてい出てゆくことができません。

 それではこの解明の御言とは,どんな御言でしょうか? それは皆さんが聞いてみない新しい御言として、現れたものです。また、この御言はどんな御言でしょうか? この御言は個人的な疑問を解明してくれると同時に、世界に関する疑問と、宇宙に関する疑問を解明してくれる御言として現れたものです。

 この御言はまた、どんな体系を持つ御言でしょうか? これは一言で表現することは難しいのですがざっと話せば、六〇〇〇年の間流れてきた疑問の歴史を解明することができる、具体的な内容を持つ御言なのです。

 実際にこれからの時代は、そんな具体的な内容を持つ御言が現れるのです。そしてこれから現れるその御言を、我々個人に適用させてみれば、この御言は我々の生活環境を支配する御言として現れるのであり、またこの御言を通して永遠の世界を目的としている絶対者の治理の権限と、我々の生活は密接な関係を結ぶようになっているのです。この御言はこんな具体的な内容を、持っていなければならないのです。それで我々が、神と一体化しているこの御言と一体化すれば、この一体となっている場には、いかなる疑心や死亡や罪悪も、侵犯できないのです。

 そしてこの御言は、我々の信仰を完成させてくれる絶対的な御言にならなければなりません。また、我々をして絶対的な善を指向させる御言でなければならず、永遠なる生命を感じさせる御言でなければなりません。

 今まで人間が追求してきた真理探究の歴史を探って見れば、初めは人間の探究の対象は宇宙でした。即ち「この宇宙はいかなるものか」という問題について、人間は苦心してきたのです。その次には、人間を中心にして探究してきました。即ち「人間とは何か」という問題について苦心したのです。このように人間は理性を中心に、今まで真理を探究してきたのですが、人間のこの理性は完全なものでしょうか? そうではないのです。理性それ自体のみによっては、完全になることはできません。そしてこの理性は人間をして、絶対的な価値を増進させることができず、永遠なる人間の生活理念になることができないのです。

 それで人間は絶対者、即ち宗教的に言えば神を、認定せざるを得なくなったのです。しかしこの神は、人間が犯した罪の要素に許しを乞うための、人倫的な神であったのです。論理を超越した神として、人間個々人と関係を結ぶ神ではなかったのです。どこまでも人間的な思考による神でした。しかしこのような神観は、完全な神観ではありません。

 このような立場から一歩飛躍して、正しい信仰者たちは絶対的な神を認めていました。しかし彼らは絶対的な神を認定しても、信仰生活において、自身がその神と因縁を結んでいなかったのです。論理的な立場に留まっているなら、どのようにすれば飛躍的な神の実存を感じることができ、その神の実存が私と生活的に因縁を結ぶことができるか、という問題は解決できないのです。

 我々はこれを解決してくれる、理念を持たねばなりません。そしてこの理念は宇宙論を代身して、人間の理念の価値を代身し、人間の生命の価値を代身し、絶対者の理念、即ち神の理念にまで通じなければなりません。このような理念が、我々と関係を結んでいなければならないのです。これはどんな人間の表現をもってしてもできません。どんな人間の人格修養をもってしても、できないのです。

 神様に出会うことのできる信仰の基準

 それでは今日、我々が天倫の新理念圏に生まれた以上、我々は自分の人生において天宙的な理念を捜し求めなければなりません。神の理念に通じたイエス様であることを知らねばならず、最高の良心の基準と、最高の善の基準に立たれたイエス様は、神の全体的な性禀を代身されたお方であることを、我々は自動的に信じ、知ることができる境地にまで行かなければなりません。

 どうして我々自身は、イエス様と同じになれないでいるのか? それは我々が今、何かをしようとしてもその留まっている環境が、何かをやろうとする我々の心を、強力に抑圧している力が塞いでいるからです。人間はこの事実を忘れているのです。また、自分の良心が最高の善、即ち、絶対者の実存に向かっているとしても、このような心は順調に行動に移されないでいるのです。なぜそうなのか、堕落の応報によってこの世界が罪悪の世界になっているからです。

 我々の本心、本性の力を押さえている自分の心の力よりも、より強い闇の勢力が我々を押さえているのです。この闇の勢力を、キリスト教ではサタンだとしているのです。我々はこの闇の勢力をどう打破してゆくか、ということを考えてみなければなりません。

 闇の勢力と、我々の体にある悪の要件は我々をして疑心を抱かせ、罪悪の行動をさせ、我々を死亡の世界へと引きずって行くのです。我々はこれを防ぎ止めることができる環境を持たねばなりません。こんな環境を求め立てようとする宗教が、正にキリスト教なのです。

 それでイエス様は、ご自身が神を信じてゆかれたように我々に「わたしを信じよ」と語られたのです。この「わたし」とは、イエス様のみが成就された「わたし」なのですが、このような個人を成して、人間世界に拡張させる運動を誰がするのでしょうか。これは人間の力によって成ることではないのです。神がしなければなりません。しかしながらここには人間の信仰が必要なのです。言い換えれば、イエス様が神を信仰によって周囲の環境に広がっている闇の勢力を生活のなかで追い出したように、我々が神を信じてゆくとき、瞬間的にサタンが我々の日課、我々が動く所へ現れるのですが、結局天が現れてサタンを追い払ってくださるのです。この一つの基準を立てるために、イエス様は信仰の基準を立てられたのです。

 それでは我々が信仰の条件を立てるなら、どの基準まで信じなければならないのでしょうか。皆さんが想像して信じている程度に、適当に信じていたのでは駄目なのです。皆さんの考えが及ぶ程度まで、信じていたのでは駄目だというのです。この基準は今日この世において、信じている基準ではありません。

 大きく高い神の実存体の為に信じるなら、この大きく高い神の価値に比較できる信仰の基準を、皆さんは立てなければなりません。

 それでは現在、人間はどの程度まで信じていると言えるのでしょうか? この信仰の程度はイエス様が「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか?」(ヨハネ三:一二)と語られたように、とても低いのです。イエス様はこのように人間の信仰の程度に対して、落胆的な御言をされたのです。であれば今日、信仰している人々が絶対的な信仰の基準を立てているか、これが問題です。

 今日までキリスト教は、聖書の中の神様のみを信じてきました。しかし神の中にも信仰があったのです。神様ご自身も無限なる創造の理念がある限り、この理念を実現させるための信念があるのです。神ご自身も信じておられる何かがあるのです。それゆえ我々は無限大の信仰を、追究してゆかなければなりません。我々がこのような信仰を所有すれば、聖書の中のすべての御言を信じることができるのです。

 また聖書の中のすべての御言を信じるならば、イエス様がこの地上に来て語られなかった御言までも、考えることができるのです。それでイエス様が語られなかった部分を、皆さんが捜し求めることによって宇宙的な疑心の峠を越え、宇宙的な死亡と苦難、そして宇宙的な罪悪歴史を経てきた先祖を、慰めることができるのです。

 皆さんが今、信仰の主体である主様を信じているのですが、イエス様を信じることのみに止まっていては駄目です。皆さんはイエス様を信仰によって、その信仰の条件を通して永遠の生命において、イエス様と関係と因縁を結ばねばなりません。そして皆さんはイエス様と信仰の関係を結ぶその基の上で、神の実存まで感じなければなりません。皆さんが真にイエス様を信じるならば、このようになることができるのです。

 無限なる信仰の路程を探究してゆく人々は、無限なる発展を成すことができるのです。今日一般キリスト教徒たちは、こんな事実を知らないでいるのです。このような無限の信仰の理念のとりこになって、天国が成ることを願う真の信仰者を、天は待っておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。


 真の信仰者は悪なる環境に影響を受けない

 今皆さんは自身が歩んでいる信仰路程において、生命の条件を通過しなければならず、天倫の秘密に通じなければならないので、そのような道を捜し立てるのだということを、知らねばなりません。

 これらを通ったその次には疑心の峠を越え、罪悪の峠を越え、死亡の峠を越え、悪を中心としたすべての欲望の峠を、みな越えなければなりません。

 それではこの峠をみな越えて、その次には何をするのでしょうか。その次には神様に、我々が侍らなければなりません。信仰の主体であり、善の主体であり、生命の主体であるこのお方を、我々の心に侍ることができなければなりません。これがイエス様が「わたしはわたしの父におり、あなたがかはわたしにおり、また、わたしがあなたがかにおることが、わかるであろう」(ヨハネ一四:二〇)と言われた御言と同じ一体の境地なのです。無限大の所望を抱く創造主神を信じ、その神を自身の心に侍って、泰然自若としているその姿が、どれほど素晴らしいでしょうか。神は我々がそんな姿になることを望んでおられる事実を、皆さんは知らねばなりません。

 霊界の事実を本に記録しようとすれば、何万巻の本でもみな記録することができないほど、沢山の内容があるのです。只今まで人間に見せて教えた霊界は一部分ですから、今までの霊界を紹介した本では、全体の霊界を解明することができないのです。

 聖書に記録されている御言が、人間が行くべき信仰路程の全体を盛りこんだ御言であるか、全体の価値を回復させる内容を持っているかというとき、私はそうではないと言いたいのです。こんなことを言えば、悪く言う人がいるかも知れないのですが・・・。それで信仰の条件として、イエス様を信じなさいと言うのであり、神は人間がイエス様を最大の価値を持つお方として信じるよう、いろんな役事をされたのです。

 そうして我々がイエス様を信じ、イエス様と関係を結んでゆけばゆくほど、直接的に神様が我々の生活を主管されるのであり、神の主管を受けて我々は神の対象の位置で、神の価値と連結されるのであり、神と心情的な関係を結ぶことができるのです。このように神の真理が我々の生活の中に現れ、神の真理と相対する要素を我々が持つのです。

 結局はすべての主義思想を統合し、すべての民族を統合させることができる生活環境を建設しなければなりません。こんな生活環境圏内に入れば、善の希望を持つことができ、善の生命を所有でき、善の絶対的な価値を現すことができるのです。人類がこんな立場に立てば、神はある特定の民族の神ではなく、万有の神として現れることができるのです。皆さんが生きている生前にこのようにならなければ、皆さんは神の直系の息子・娘になることはできないのです。

 今日皆さんは、他でもなこにすでに出ているのです。他でもなこをすでに歩んでいるのです。そして皆さんは、信仰の標準を宇宙的な創造主義人格において、信仰しているのです。皆さんの信仰の標準を達成する日には、悪の要素が皆さんから消えるのです。そのようになれば皆さんは、この世のすべての事を消化することができるのです。

 真というものは悪と共にあっても、その悪に影響を受けて変わらないのです。それで環境がどんなに悪であっても、神の真の息子・娘であったならば、その環境に支配されないのです。このような真の信仰者にならなければ、天倫に対せないのみならず、神のまえに立つことができないのです。

 それではイエス様は、どうして自らを神の独り子だとされたのでしょう。イエス様がこのように、とても人間が信じ難い条件を提示されたことは、彼らがこれを信じれば瞬間的に飛躍できる恵沢を与えるためだったのです。それで人間が無限の信仰によってイエス様を信じ、本心から天に向かって呼べば、飛躍的に信仰が成長するのです。

 天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が、高ければ高いほど、霊界も皆さんを通してより大きな役事をするのであり、皆さんが無限の信仰心を持つなら、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像することもできないほどの超感覚的な世界の事実と、宇宙の事実を一時に感じることができるのです。ところが人間はこんな驚くべき事を、失ってしまったのです。

 行って行って、また行かなければならないのが、無限なる世界を指向している信仰者の姿勢であるなら、ある限界圏内に留まって信仰を叫んでいる群れを退けるために、終わりの日には、宇宙的な大闘争をしなければならないのです。


 神のまえに立つ真の息子・娘になるなら

 今までの歴史路程を振り返って見れば、新しい時代を迎えるために来た数多くの先知先烈たちは、ほとんどが迫害されたのです。彼らを追った人間は我々の先祖たちです。イエス様が来られたときも、ユダヤ教徒たちはイエス様を嫌い、反対したのです。彼らは追ったのです。自分たちが信じているものが一番だと思い、宇宙を代身し、天宙を代身した救援摂理を、自分たちで勝手に判断したのです。このように我々の先祖たちは、天倫の道に逆らい、天倫の歴史を壊す過ちを犯してきたのです。

 それでは、今日この終わりの日に、誰が百%の信仰を持っているのか。罪悪を追い出すための闘いに出る皆さんが、この立場に立たねばなりません。そしてこの信仰の本質に徹する責任感を持って、絶えず努力して実践してゆかなければなりません。皆さんがこのような立場に立たないなら、無限の愛の理念を持つ新郎の名によって来られるお方の前に、対象の資格をもって立てないのであり、また無限に生育し、繁殖せよといわれた神様と関係を結ぶことができないのです。

 このように見るとき、罪が何かといえば、信じないということです。神が送られた人物を信じないことが罪であり、このお方の御言を信じないことが罪になったのです。それゆえ皆さんは、宇宙的な神の理念を受けなければなりません。そして確固とした信仰を持ってゆかなければなりません。ところが皆さんがこんな信仰を持とうとするとき、皆さんの心の中には、これと相反する疑心が生じるのです。

 これは皆さんの心に、悪の勢力が働くからです。この悪の勢力は皆さんの心に恐れと恐怖を感じさせるのです。それゆえ皆さんは、この悪の勢力に呑まれる信仰をしては駄目です。このようなものを消化して越えてゆく、雅量を持たねばなりません。こんな立場に立たれたイエス様でしたから、このお方は十字架を背負う場も避けられなかったのです。こんなイエス様を、誰が非難できるでしょうか? 神を本心から信じる人間であるなら、イエス様をとうてい非難することはできないのです。

 イエス様のような立場で、我々は新しい信仰路程を捜し求めて歩んで行かなければなりません。我々が真実新しい信仰路程を歩んで行けば、ここに我々は実証的な事実、神と因縁をもつ事実、神と関係した事実を求めるのです。そのようになれば、ここに統一を念願とされた創造主の、理想を実現させる道を捜し求めることができるのです。

 今日死を覚悟して、新しい信仰の道に従って行く皆さん、皆さんたちが絶対的な信仰によって神の所望に向かって行けば、こんな信仰路程を通して皆さんは、神的な価値を求めるのです。それで皆さんはこんな信仰を持って責任感を感じ、こんな信仰持って実践する真の使徒たちにならねばなりません。こんな皆さんにならなかったら、とうていアボジのまえに立つことはできません。絶対的なアボジのまえに、真の息子・娘として立てず、忠臣の姿として立つことができないのです。

 今我々は絶対的なアボジのまえに、真の息子・娘として立つために新しい信仰によってこのすべての疑心の世界、このすべての恐怖の世界を越えなければなりません。我々が天が要求する信仰の基準を知れば、これを立証することができる基準を立てて天のまえに出なければなりません。でなければとうてい、神の真の息子・娘にはなれないのです。

 こんな信仰を持ってゆくとき、皆さんは神と永遠の関係を結ぶことができ、永遠なる善と、永遠なる生命を享受することができ、苦しみから永遠に解放され、永遠なる天国圏内で生きるということを、肝に銘じなければなりません。


 祈 祷

 一時は神様だけに頼る信仰に、この世界を預けてみたのですが、これがみな崩れました。その後では人間の理性を通して、この地上を捜し求めなければならないと主張してみたのですが、今になってみればこれを通しても、み旨を成就できないことが事実として現れているのです。

 それで我々は天にも頼らねばならず、人間にも頼らねばならないことと、天と人間が合同して成すべき部分が残っていることを、感じないとしても感じざるを得ないのです。

 お父様、私たちを、私たちだけで放っておかないでください。人類が歴史的な路程を歩んできて、失敗した環境であることを知っています。信仰だけでも駄目であり、自分自身だけでも駄目であることを知っています。自分自身を超越することができ、自分の生命の基準を捜し求める宇宙的な理念と真理を、持つことができますように願っています。

 私たちもまた真理を持つと同時に、天が私たちに臨まれる基準を立てなければならないことを知りましたので、絶対的な信仰路程を通して、完全に知る立場でアボジをアボジと呼べる立場まで、行けますように導いてください。

 イエス様が私たちに語られるに、新郎と新婦の関係で私を捜し求めておられます。内的な面で事情に通じることが心情であり、内的な面で事情に通じるようにしてくれるものが御言ですから、御言に通じるようにしてくださり、この御言を通して真理と心情を知るようにしてくださり、心情的理念を通して神の心情を知ることができる場まで、お父様、私たちと因縁を結ぶことを許してくださるよう、切に望み願います。

 お父様、今日私たちが極めて小さな環境に留まることのないよう許してくださり、小さな事にかたよって、自身の全体的な価値を失う愚かな姿にならぬようにしてください。

 より大きなアボジの恩賜を欣慕して、より大きなアボジの天的な人格を望み見るよう許してくださり、この人格が未だこの地上にある姿として現れず、また天が私たちを通してこんな人格が現れることを望んでおられるなら、より大きな信仰の基準をもって、この理念に叶う誠心と忠誠をもって、アボジのまえに進み出られますようお許しくださり、この責任を完遂できるように導いてくださるよう、お父様、切に望み願います。

 お父様、この時に許される最後の恩賜をくださり、栄光のアボジの息子・娘として、祭物的な生活を通して、永遠なるアボジの全体の信仰理念を、今日の生活の理念として受けて実践していって、万民に対して誇ることができる勝利の姿になるよう導いてくださることを、お父様、切に望み願います。

 すべての御言がこの者たちの心の内に、生命の源泉として染みることができ、この御言がこの者たちの心の内に役事するよう助け、懇切にお許しくださることを、主の御名によってお祈り申しあげました。ア-メン。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.02.14 23:46:31
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