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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「真の子女になりましょう」
1969年4月20日 聖日説教 松濤本部にて 多くの国々を廻ってきて日本に着きました。その間、あなた達の熱心な祈りを感じ、よこして下さった数多くの手紙に接する時、実に神に感謝せざるを得ませんでした。こうして、また、あなた達とまみえることができたことを再び神に感謝しつつ、許される時間内に「真の子女となりましょう」という題目で一言話したいと思います。 「真の子女」ということを思う時、子供というだけを考えれば簡単な内容のようでありますけれど、歴史を通じて求めてきた内容を考えれば、これ以上複雑な、これ以上大きな問題をかかえているものはないということを我々は知っております。今、ここに集っている個人個人を考えても、いかにしても真なる子女としての基準に立たなければならない我々であることをはっきり知らなければなりません。堕落した人間の子女として生まれた以上、復帰略程を通過して真なる神の子女にたち帰ることを、我々は最高の願いとして求めなければならないのです。この使命、責任を果たさなければならないのが、堕落圏内にある我々であるのです。 「真の子女」という言葉を考えてみた時に、その背後には「真の父母」がなければなりません。真なる親を迎え、真なる親と共に善なる何事をもなさなければ真なる子女の関係を結ぶことはできない。我々は本当に真なる親を知って迎えているか、真なる親を持っているか、真なる親のみもとによって生きているか。そのためには、真なる親の基準が決定されているかということが問題である。これが決定されていない以上は真なる子女としての基準を探し出すことはできない。だから、真なる親がこの地上に現われなければならない。 もし、神があったならば、そして、人間に真なる子女となるべき目的を求めているならば、神は真なる親の立場に立たなければならない。我々は実体を持っている人間に対してそういうふうにするには、真なる親と子女との関係をいかに結ぶかということも問題になる。特に堕落した人間にとっては、神がいるかいないかということさえ分らない。神、実にいます。その神たるは、我々のすべてに代えても否定できない真なる父母の立場に立っている。こういう認識をいかに体験し得るかということが何よりも重大な問題である。 神が六千年の歴史を通して摂理してきたその基準は何であるか。それは真なる親の立場を人間に表わしてきた基準である。それが今まで摂理上において神がなさなければならなかった使命である。それがなされた場合、その真なる父母に対して、真なる子女ときて立ち得る関係を結ばなければならない。これが果たせずして、真なる家庭、真なる氏族、国家、世界は望まれない。だから、個人個人が神に対して孝行し、奉仕し、そのなすこと、主張することが、真の親に対しての関係をはっきりさせる立場に立たなければ、神とは関係ない。真なる父母と真なる神の願う基準の心情に一致し、それに徹しなければならないということは、何よりも重大な、まずもって世界をうためにの基準であり、その基準を体験していかなければならないということをなし得たとしても、再びその基準を通過しなければならない。もともと創造本然の世界においては、神が人間創造した当時においては、その立たせた基準は判然としていた。このような真の親と真の子女として、永遠に保障し得るような神の愛を中心として一体となったならば、こういうような我々の願われている第二の真の親と子女としての基準は必要でなかった。 我々は生まれながら、母親のふところに抱かれるその時より、真なる父母の基準において生まれてきたか。生まれていない。だから、我々は真なる親のふところに抱かれる子女の様相を、また、たち返して考えなければならない。神が我々の真の親だとするならば神のふところに抱かれている子供のように見ることができるような者になっているかどうかが問題である。だから聖書は教えている。〈幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない>。なぜ、そういうことを神は教えなければならないのかといえば、神はその本心において真なる子女を求めなければならないのである。神の内心においてそれを永遠に忘れることができない、愛さないではおられない。しかし、抱いて離すことができない幼な子のような子女を、神が永遠の愛を語りながら抱きあったことがあるか。それはなかった。ある目的を願いつつ、日にちを通過しながら、望みを抱きながら、エデンの園のアダムとエバを支えてきた神にとって、真なる目的達成の喜びと共にその子女を愛することができなかった。これを思う時に、復帰路程を通過して真なる子女となり得たいという立場に立っている我々は、エデンの園におけるアダム・エバよりももっと大なる目的完成を抱いて、神の愛の前に立つことを保障し得る子女とならなければならない。アダムより、エバより、もっと大なる使命を果たさなければ真の子女になり得ない。堕落した人間にとって、いかにしてその目的完成を体験するかということが問題である。 イエス様の立場は創造直前のアダムの立場ではない。ある目的完成を体験するかということが問題である。 イエス様の立場によって自分の生活を統制し、自分の行くべき道を決めていくことを神に誓い、歴史に誓い、その時代に誓って立ったイエス様であった。だから、アダム・エバより以上の立場に立っていかなければならないことはもちろんである。そういうアダムより以上の目的完成に近よった子女としての心情を体験するには、神と共に過ごし、神と共にすべてをなさなければならない。神が今まで六千年間語ってきた内的心情基準において一致し得る自分を発見しなければならない。本来の神の創造の心情より始まって、創造し得たアダムとエバの長成期まで成長し得たその内的心情、そして堕落とそれ以後数千年の歴史過程を通過しながら神が受けてこられた悲しい復帰の心情を体験しなければならない。そして、体験し得たすべての心情圏を、自分一人神の前に立って、神を慰めなければならない。 神を今まで数千年間、苦しみの立場に立たせたのは、人間の堕落の結果であるから、喜びの立場でこれを復帰することはできない。悲しみの立場で、善と悪の歴史の中で生死の戦いを通しながら、天の目的を果たすために我々の先祖が払ってきた数多くの犠牲を、皆おぎなわなければならない。そういうようにして、つらい神の内心を慰めなければならない。だから、イエス様は一人であっても、その一人の歴史的復活体であるというんだね。アダムよりも、ノアよりもアブラハムよりヤコブよりモーセより、誰より以上の価値をもって神を慰め得る、神の目的をなし得た勝利の実体である。そういう実体をもって、神の内心に抱いている悲しみを清算しなければならない。 そうするには、また、神の目的観以上の目的観を抱かなければならない。神が十の目的を果たそうと思う時には、百以上の目的をなさなければならない。神が現世において願っている使命の限界が百とすれば、イエス様においては、千万というような責任の限界を果たし得るような、神様の希望の窓である息子としての実体となり得なければ、新しい内心の情熱を神の心情内に湧き起こすことはできない。それができなければ堕落圏内の心情にとどまる。それ以上価値あるものを、イエス様はいかにして立ち返すことができるか、これが何より、イエス様にとって難しい問題であったということを我々は知らなかった。イエス様の真なる親孝行は、アダムとエバが祝福された平和の園でなし得るような孝でなくして、その反対の立場において、神の内心を慰め、神を心情的に解放させ得たというような勝利的な基盤に立たなければならない。人間としてこれ以上誰も行かれないような苦しみの頂点に立っても、なお目的をなし得るような、神自体がその境地を同情せざるを得ないような立場でなければ、本心の心情圏に立つことはできない。それをイエス様であることを我々ははっきり知らなければならない。 復帰路程というのは、個人復帰、家庭復帰、氏族、国家、世界というふうに展開していく。それでイエス様は個人の復帰の目的を完成することは個人に終るのではなく、世界の目的完成という観念をいつも抱かなければならない。個人を復帰するその内的基準は何かというと、自分自体が立つよりも、世界を立たせるということである。創造の目的観念に徹し得たその宇宙観に立って、個人を復帰しようという立場は、アダムより以上の立場である。個人を復帰する基準が全体の目的のためになされのであるから、個人を復帰し得た時には、全体は自然と復帰の基準に立つことができる。 こういうように出発基準がアダム・エバとは違っていた。人類が行った堕落の道を絶対に、夢にも行かれないことを誓い得る信念に徹しなければならない。そういう信念において、目的に向かう神のみ旨に対しては何の疑うところもない。一年、十年、生涯をかけても疑うことができない。ここに、もし、疑うとか、ほかの理想を要求するとかいう隙間があるとするならば、そこから問題の起点になるに違いない。だから、み旨を知ってからは何の疑うこともない。疑おうとして、いくら研究してもそれを疑うことができない。そういうような立場に立たなければならないのがイエス様であった。我々もそれを体験しなければ真の親に対して真の子女の立場にたち返ることはできない。 こうういうふうに考えてみた時に、我々が今まで望んできた、真の子女となるべき基準と、イエス様が孝なる息子として立ち得た基準とを比較して、どの位、差があるかをはっきり知らなければならない。その差が大きければ大きい程、それに比例して苦労をしなければならない。蕩減条件を満たさなければならない。大概の今までの成約聖徒の観念は、自分個人の目的完成だけに立ちやすいということを往々にして見ることができます。そういう立場ではいけない、自分があって世界があるのではない。いつも世界、いつも神のみ旨、これが自分のすべてを支配する原点にならなければならない。損った道を取り戻すには、その力以上の力ある基準を立てなければならない。その力以上の内的決意と内的原動力を持たなければ復帰の目的は完遂しない。イエス様にとっては、延長されてきた四千年の歴史を取り返すには、それだけの決意をしなければならなかった。そういう基準と我々の今まで信仰してきた基準といかなる差があるかを生活圏内において比較しなければならない。 我々は何か神の前に果たしたという場合、これを認めてもらいたい。しかし、そのなしたことより、内的必情において神の認め得る決意が問題である。神の認め得る真の子女となるためには、神に抱かれて真なる子女だという名前を付けてもらわなければならない。自分から名前を付けてはいけない。いつ神が私に対して真なる子女という名前をつけてくれるか。自分の名前を呼ばれる時、あるいは呼ぶ時、神がつけて下さった名前として呼ばれ、呼ぶという実体になり得たということから考えなければならない。そして、自分の名前ばかりではなく、自分の存在の基準が、神の愛のふところに抱かれる真の子女として立っているかというそれが問題である。特に日本の食口達にとっては、今後の世界情勢から見て重大な立場に立っている。アジアの運命を、世界の運命を、日本の地を中心として決定することを思う時日本の地に生まれ、日本の地に育ち、そしてみ旨を知った以上は、世界いづれの地にも優って真の子女となる決意を固めなければならない。世界の情勢は今からはアジアの問題に立ち返り、日本はいつも浮き上がってくる。そういう神の摂理は、日本にいつも、ある願いを望まざるを得ない。その望みの第一の基準は、世界いづれのところより優る真の子女としての権威である。 それを果たし得るのは平安なる道ではなく、戦いの真只中に立って生死の境目をのりきっていかなければならない。日本のために、世界のために、一死ばかりではなく、千死、万死を踏み越してもなさなければならない使命を感じる自分を発見しなければならない。自分ながら、そういう自分であることを認め、周囲の者も認め、全国が認め、堕落世界が認める基準を通過しなくては、真の子女という名前を付けて下さいと神に申し出ることはできない。だからイエス様以上に難しい立場に立っている自分達であり、イエス様以上の道を行く決意が必要である。そういう決意を持った者が日本に現われたならば、その人は問題になる。神はその人を愛さざるを得ない、その人に、アダム・エバに与えた祝福以上の祝福を与えざるを得ない。それ以上の目的完成のために神御自身援助せざるを得ない。問題はそこから始まる。先生がいつも思っているのはそういう基準である。世の中がどう見ようが、周囲の人が何と言おうが問題ではない。神に永遠に抱かれ得る子女の基準をいかに保ち得るか、それが問題である。自分の体面とか環境とかが問題ではない。その目的基準まで行って見てから、自分としてもう一度考えるべきであって、そこへ行かずして別の考えを持つことはできない心境に立たなければならない。これは自分一生の問題だけではなくして、歴史関係を持っており、過去の歴史だけではなくして、現世の世界が関係を持っており、現世ばかりではなくして、未来が連結されている。 今までの生涯をかけてきた先生におきましては、平安とか安楽の思いを持つことができない。まだなすべきことがある。夜であろうが、辛い立場に立とうが、それをのり越えてなさなければならない使命の一点がいつも残っている苦しみの立場を避けて、通らなければならない苦労の道を通らないとすれば、それがサタンの起点になるかもしれない。生涯において、その一点をいかにサタンに許さないか、こういう切迫なる思いで復帰の路程を行かなければならない。一瞬一秒でも安心することができない生涯の道であるということをあなた達も知らなければならない。さらに、歴史過程における数多くの先祖達の忠誠の道をすべて連結させて、完成という名前を付けて神に捧げる使命がまたある。それをなし得なければ、歴史過程において犠牲になった人々を復活させることができない。しかし、先生自体がなした基準では、彼らを復活させることができない。彼らの基準に立ってなし得た勝利の基準を認めてから彼らを復活させることができる。だから、復帰の道は難しい。 先生は神の前に真の息子として立ち得ているかどうかというと、まだまだその道をさぐっている。世界に目的をなし得るまでは、堕落圏が残っている以上は、真の息子であると自分ながら言うことができない。神が自分に対してそう言っても、自分は神の前に真の息子であると主張することはできない。まだまだ果たさなければならない多くの使命、戦わなければならない多くの戦いが残っている。だから、いかなる迫害が襲ってきても、感謝で迎える心情の基準を今でも持っている。神が我々を解放し、世界を解放し、そして神共に解放なし得た環境的基準に立った時、神は真なる親であり、我々は真なる子女となり得る。その基準までにはまだまだ遠い。これをいかに短期間のうちに果たすかが先生としての使命である。こういう道を今まで開拓してきたし、これからも開拓していかなければならないのが先生の路程として残っている。これがいつ最後の基点をなし得るか。それは先生一人ではなされない。全体基準をいかにして連結するか、これが重大である。今まで六千年の歴史を通過してきた数多くの辛い復帰の路程より以上の辛さが、先生のなすべき平面基準に残っている。 先生は時々こういうことを感じます。我々の勝利の一角が表われた時、それに向かって全面的な喜びの声を発すりことはできない。本来の目的基準に立っている神にとって、これを天宙共に喜び得るか。そうはいかない。その基準には善なる結果を神に表わしたとしても、それだけで満足できない。世界を越えなければならない。世界ばかりじゃない。数多くの霊的世界がまだ残っている。これまで解放しなければ我々は責任が残っている。この思いを、誰もが、朝めしをする前に思わなければならない。もしも自分一代でこれを成し得なかった場合には、数千代の後孫を通じてなさなければならない使命がある。愛する自分の後孫にこれを相続させるわけにはいかない。それを思うと、我々一代でこれを打切ることができるか、できないか。それを誰よりも辛い内的痛みを感じながら、神に訴えなければならない立場に立っているのが我々である。 神が全世界を愛する心情以上に、神は日本を愛したという心情の基準に立たなければ日本復帰は不可能である。そして、神は、日本を愛する以上に我を愛するというような基準、即ち、世界より以上、日本より以上に神から愛される自分、というような基準を立てなければ、誰が日本復帰の基準になり得るか。その一人が居なければ日本復帰はできない。そういう親の心情の一点とつなぎ得る真の子女として、歴史を対応し、時代を対応し、未来を対応し、神の今までの辛い復帰路程の痛みの心情を慰めなければならない。その一人を、全世界にも代えられない息子、娘として愛し、そこからすべての問題の解決は始まる。我々は原理によって知っているように、完全なるものが現われれば完全なる相対基準が現われる。だから、神と一体となった完全なるプラスに立ち得る息子、娘があったならば、その相対基準としてすべての息子、娘は現われてくるのが原理の鉄則である。だから完全なるプラスに立ち得る者、それが問題である。 今まであなた達の内心において、み旨一点に尽きたことがあるか。この道に入ってきて一年、二年、三年、五年、あるいは十年近くなるその期間、夜も昼もこの一点に尽きて、内心的、情的基は日が増すに従って強固なる確信となっているか。そういう基準が立っておれば、年がたつに従ってくたびれることはない。十年たったら十年の内容を持っている決意を持っている。誰もそれも動かし得ない強固な基盤に立った者であることを万人が認めざるを得ない。そこで、自分がそういうような心的基準において日々を過ごし、年数を重ねてきたかということを思う時、今だに神の前に顔を上げることのできない一人一人である。 そうすると、もしこの甚準に達し得なかった場\965Fにはどうするか。永遠に復帰ができないかというと、その間隙を埋めて、結びつけるために、神はメシヤ思想を歴史過程に残してきた。メシヤとはいかなるものか。それは真の親である。真の親と万人とはいかなる関係になければならないかというと、今まで縦的関係において、神に対する子女関係を信仰でもって願われてきたけれども、その内的心情を同じように平面的関係においてメシヤと結ばなければならない。なぜなら、人間は平面基準において、堕落したのである。だから、歴史過程において数多くの先祖達が結ぼうと努力した心情基準以上の基準において、我々は真の親と平面的立場で関係を持たなければならない。イエス様は縦的心情基準においては神と結ぶことができたが、平面的基準においてそれを果たし得なかった。ここに十字架の道が現われてくる原因があった。だから、縦的より以上に、横的基準をたち返さなければ神の願う完全復帰は望まれない。それをなし得る立場を持つ我々は、いかなる先祖よりも尊い立場である。だから、霊的基準においてなし得た心情より強い横的な心情の結合を保っているという信念に徹しなければならない。毎日の生活基準がアブラハムの神につなられた内的心情以上の強い感覚で生活し得る自分でなければ、アブラハムの目的基準を復帰することはできない。神の心情世界は縦的関係ではない。横的関係をいかに結合させ、神の心情をいかに展開させるか。これを果たすためにはメシヤは神の身代りとして、霊的神にもう一面をプラスする真の親として、地上に来る。これが果たされなかったら復帰はできない。絶対にできない。 復帰歴史において、その時代のなされなかったものは、歴史を通過して後にプラスされる。だから先生が使命を果たそうとすれば、数多くの歴史過程における失敗を勝利しなければならない。それを思うと、先生の歩んできた路程は、内的に、外的に、いかに苦労したかわからない。そういう立場と、自分の立場とを比較してみた場合、あなた達はそれ以上の苦労の道でも楽しんで行かなければならない。先生は韓国という一国の圏内において、時代時代を通過しながらすべての歴史の内的心情を抱きながら、迫害されてきた。そうすれば、我々日本に居る食口達はどういう考えしなければならないか。日本という一国における迫害以上の迫害を世界から迎えるような決心を持たなければならない。そうしなければ、先生自身が日本を認める条件がない。世界に向って進まなければならないの平面的連結条件が立たない。この平面的連結条件を世界へ世界へとかけていかなければならない。だから真の子女は世界的決意を基準として立たなければならない。世界は自分のものである。真なる神の子として祝福された自分の園である。これを犯す悪者があったら許しておかない。その決意が必要である。その決意をあなた達が持たなければ、今後世界へって進み行く先生とは関係がない。それは先生の子供ではない。そうならざるを得ない。先生は生涯をかけて、神の行われる道の前に障害となる悩み苦しみがあったら、これを一身に背負って戦っていく。いかなる苦労の道も、いかなる迫害の道も、生死の境地に立っていく。誰一人助ける者なくしても、失望しない。たった一人神を慰め得るものは我しかいないという決意に徹して今まで戦ってきた。今もそうである。もし世界の人々がなさなくとも、我一人なす。もし、なし得なかったら問題を残していく。今度日本に立ち寄って何を残してくか。何か問題を残していかないとなやない。文という人の人問のためにそれは残して行くのではない。世界のために残して行くのである。たとえそのために日本が滅びても、神のみ旨にプスであるならば、滅び行く日本を結果的には救うことになる。韓国も同じである。神がなされなければならない世界の復帰路程のその一角を果たした以上それは地上に必ず現われてくる。それは摂理上の鉄則である。神の心情圏において、理想圏を切り抜けた基準に立った者は、たとえどんな者でも、それをそこなうことは出来ない。これを保護し従わなければならないのが絶対の鉄則である。そういう基準を残した以上は心配することはない。死しても問題ではない。たとえ死したとしても、それはむしろ結果は早く現われてくる。 こういうようなことを考えて来た時に、日本の食口達は今後の復帰路程においての内的心情基準がいかに重大であるかを知らなけゞばならない。神の立場に立って現れば、もし真なる子女があった場合には、永遠に見たいし、立てたいし、住みたいし、永遠に善なる事をなしたいものである。神自体がそうならざるを得ない。永遠というものは時間を超越する。目の前から消えて行ってはいけない。いつでも目の前にあるものとならなければならない。だから神は霊人体というものをつくって時間、空間圏界をのり越える活動を可能にした。霊的体験におきまして、距離の問題、時間空間の問題を解決し得る、永遠に見える世界、天国はそういう世界である。その世界がなければ神は苦しみの神である。愛の基準におきまして永遠の喜びを持つことが出来ない。その基準を現実においてなさなければ、目的完成をなし得た生活基準を復帰することはできない。我々原理から見た場合それを成さなければならない。そういうことが果たして可能であるか、可能であると言うんだね。見たい所は見ることができる。いかなる苦しい辛い立場であっても共に住むことができる。これは今迄の歴史上思いもよらないことであったが、今地上の平画的世界においてなし得る段階に入っている。そういう基準が世界的に立って、これが地上天国である。そして神の愛の関係を結び、世界的天国をなし、神が万物を創造した目的を果さなければならない。そのために、あるいは苦労の道が開かれるかも知れない。しかしこれは神の子としての条件を結びつけるために神が我に授けた賜である。神と共にまみえることのできる、共に住み、共に喜びあうことができればこれ以上の栄光はない。それをなし得た者は最も神に愛される条件となる。大概の人は苦労の道はさけて通りたいと思う、平安な道、楽な道を願うが、これでは神願う世界的復帰の条件を満たすことは絶対できない。しかし、誰もが願わない苦労の道を一個人に立っておられる神と関係を結び、世界、宇宙のためになし得る苦労の道を我は完遂して行く、そういうところに貴重なる内的世界、外的世界まで結びつけて行くことができるのである。自分の願いのままではなく神のみ旨のままに成し得たという境地に立ち得た時、その一点に神は働くことができる。今までの悲惨な歴史はたまらない辛さである。責任ある現世の我々は、任せられた使命を果さねばならない。使命ある自分である在認めた以上行かなければならない。 先生は今から世界的問題を引き起す。世界が何と言っても復帰しなければならない。いかなる迫害があっても、先生の願う信念と願いは変らない鉄則としている。通って行く、つき進んで行く、すべての心情基準をつき進んでい行く。日本の人達は韓国人の文鮮明氏の統一主義は日本を荒してしまうから困る。というものがあるかも知れない。しかし先生はそんな者ではない。日本をあてにするのじゃない。日本を復帰していかに世界的になし得るか。しかし、日本の政府は先生が日本に入るのを好まない。先生は日本の一億国民に言いたい。過去日本を誰よりも日本を愛したのは日本人の誰でもない。神である。日本人が現われる前に日本列島を愛したものは神である。いかなる歴史過程に表われて来た勇士であったとしても、神が日本を愛する基準に立って日本を愛し、日本のために心配する者が居るか。居ない。居なかったならば我に続け、先生はそういう心情を持っておる。アメリカでもそうである。世界いづこへ行ってもそうである。どこの国へ行っても飛行場を降りると「この地へ参りました、この一角に踏み立つその一歩の中に、神の心情のつながりをなして下さい。この国よりも世界万民のために、忠誠なし得る、神願う一人の子女のために私は来たのです。その者のために祝福して下さい。」と祈るのである。 まあ今日こうした先生と相まみえることが出来て感謝するかも知れない。この感謝はどこに感謝するか、先生自体に感謝する必要はない。その感謝を日本に返す。もし神に対して感謝したら、神は喜ばない。神は願わない。日本に帰せ。日本にまで来るのに神は六千年間かかった。日本まで尋ねて来るには本当に遠かった。アメリカから日本まで飛んで来るのには十一時間以上で来ることができる。今のこの瞬間の時間は実に重大な問題を持っている。歴史的距離を短縮し、心情的歴史観を縮めて、全天体を展開し得る内容のすべてがここにおいて出発し得る瞬間かも知れない。その感謝はどこから始まるか、先生からじゃない、神から先生を通してあんた達につないだ。その感謝は先生にするんじゃない。日本に帰し、世界に帰すために神は我々を呼んだのである。先生も今までそのために日本に来た。先生はあなた達が感謝してくれなくてもいい、神自体が認めている、それでいい、自分の一身が死の境地から救われたという感謝の念があったら、その感謝の実体を日本のためにやれ、それが最高の感謝である。天が保証し得る娘として息子としてやれ、日本ばかりでなく世界に向かってやれ。 世界に拡がった聖地を決定した四十ケ国に対して責任を持たなきゃならない。それで今度その四十ケ国に宣教師を派遣する問題は解決して来た、いずれ行くであろう今年は何としてもいかなる辛いことがあってもなさなければならない。しかし日本はこれに抜けて加わっていない。あなた達はどうなの?(いやです)じゃ行け!世界のために行く者は世界に心要な者をやらなければならない。日本で一番えらい者をやらなければならない。英雄をやらなければならない。日本は皆若者だね。神は若い者を願うんだね表平均年令二十四、五才かな。さあここに居る二十四才一体何に使うんだ?何かの責任者にさせる?国家的使命を果たすような責任者、体験が足りない。一体何に使う?使い道がないじゃないの。しかし一つだけ使い道がある。それは兵隊だ、統一勇士というね。この名前は実に青年に対して福音である。青春時代というのは瞬間的に刺戟を求めるものである目的完成のための戦いである。戦いという場合には気合がかかるというんだね。「よしっ」先頭に旗をうち立ててつき進む。しかし三十代過ぎたらもう駄目だ。子供を持って何かこぶがいろいろ問題になってくる。だから若い者がいいよ。しかし年寄りの人も落胆しないで下さい。年寄りは青年に帰れ、これ又一大福音である。誰でもいやになる。しかし、「ああ、六十才ですか、お若いですね、沢山の経験を積んで、これからですよ、青年に立ち帰りましょう」といえば誰でも喜ぶ。実際年を取った人は青年に負けない条件を沢山持っている。何かというと若い者のように眠らない。多く食べない。生活体験これは若者がかなわない。それから子供を持っている。君達みたいに一人ぼっちじゃないから力強いよ。そして青年時代の内容を良く知っている。青年は年寄りの内容を知らない。だから青年より以上まさるものを持っているんだから、これが若返ったら青年より以上の実践を成し得るというんだね。だから年寄りもそう嘆かなくてもいい。若返りの福音である。年寄りも青年の中に入りましたから老いも若きも働いて全日本一億を救くおうじゃないか。 日本の若者達を皆訓練しよう。訓練して先生が与太者のかしらになるんじゃないよ。青の親孝行をする真の子女にならせる。目的はここにある。そのためには、数億万の敵がある。その真只中をつき進んで対決し勝たなきゃならない。そのためのあらゆる訓練を先生はやってきた。一週間も目をつぶらなくても夜通し証をしたこともある。そういう訓練が必要である。先生はしかし戦争に行って戦ったことがないのが残念だ。一騎討ち、のるかそるかのスリル男としてやはりやってみたい。だから先生そういう映画が好きだ。あんた達も見るだろう。女の子は、好きとか嫌いとかそんな映画を見るんだけれど、先生は好きじゃないんだよ。しかしこれは始めからそういうふうに男と女つくられたから仕方ない。とにかく統一勇士としての武装、外的武装をしなければならない。統一理論は内的武装をする。外的武装は実行においてあらわして行く。あなた達はまだ実感として来ないでしょう。勝共活動をした人は少し分るかもしれない。共産党は数が多い。原研は少い。戦争においては多数の者が少数に勝つのが原則である。そうすると、我々は負けてしまう結論になる。原研大きいこといっても共産党に負けてしまった?「ちがいます」数が足りない!何で勝つか?信念と実践によってなしてゆく。 君達ボンネ洞{どん}というところ知っているだろう。釜山の一角だけれども不便なんだ。石ころの多い所でね、そこに先生は避難民として洞窟みたいな住家を作ったんだよ。石をかかえて来る粘土を積み上げて、一人でみじめな生活を始めた。しかし言うことは必ずでかいことを言うんだね。天宙復帰だ、世界はわしの計画通りに結果はなる、復帰はこういうふうになす、とか何か夢のようなこと言ったよ。世界の歴史を一人で変える如くどなりつけた如く言く言うもんだから皆逃げて行く者が多かったんだね。そして、あーあの山奥には不思議な男がおる、背広を見れば上着は米軍の作業服の色さめた物であるし、ズボンは韓国の色あせたズボンであるし、靴は日本の靴をはいている。三国同盟むすんでいる。見ただけでもこれはみすぼらしいこと限りがない。今思えば一番その時代が忘れられない印象深いものだ。万民を最高に慕う深い深い心情基準をもって何時間も座って熱い祈りをした。すると人が向こうから世界の果てからたどってくるんだよ。一日かかった、二日かかった、三日、四日かかった。それ自分で感づくんだよ。目の前に数多くの者が来ている。神の心情を通して先生を中心として慕う者が集って来る。何かある、何ものかそこにあるから女ばかりでなく恋しくて恋しくてたまらない男も自分の恋人を慕う如くに集って来る。そういう心情基準を持たないと完全復帰は出来ない。これは誰が持って来るか。先生も来ない、神様も出来ない、絶対基準である。自分知らずのうちにこの内的心情が連結され、それが連綿と生活基準に脈動して我に刺戟してくれる。こうなると誰も断ち切ることは出来ない。滅びることはない。そうでしょ、神もどうすることも出来ない。先生もどうすることも出来ない。君達もどうすることも出来ない。そこから、平和の世界が始まる。 先生が先に道を開いて、先生がみんな取ってしまったんだから、我行く道はない。それ以上になりたかったにもう行く道がない。しゃくにさわると思ったらちがう。先生が願うのは先生より以上立派な人になれ。神に近寄るのを先生は願っておる。女も男も今戦場に立っておる。その戦場によって勝利圏界を通過しなければ子女になれない。歴史の最頂点に立ってやるべき時が今まであると思うんだね。日本のために、世界のために、神安息のその日のために、我々は生まれ、我々は生きる。今までの縦的歴史における先祖にまさる基準を、平面において、真の父母と真の子女の実体基準において成さなければならない。神と先生と自分と三身一体にならなければ四位基台は生まれない。ここにおいて本当に神を慰め得る、真に愛し得る子にならなければならないということを私達は知らなければならない。 祈り 今に至った復帰の路程において、みじめな神様を我々はありありと実感することができますように導いて下さいますことを切にお願い申上げます。今まで苦しい道をたどって来た弱き者達が集まっておりますが、誰もが願わざる道をたどって行かれるその人の後を、ついて行く運命の境地を離れることはできません。涙ぐましい立場に立つ時、共にその境地に立たして下さいませ、迫害の真只中に立つ時も、又その者と共に働かねばなりません。復帰路程の運命のみじめさをよく知っております。この地上の一角に神の永遠なる足場となるその一平面の土地のないことを知っております。このような悲しみが地上にあらわれたのも我々先祖のあやまちであることを知っております。この道を何十倍、何百倍、何千倍蕩減してこれを果たさねばならない使命を弱き心情圏に神は背負わせ、辛い苦労の道を行けと命令せざるを得ないあなたの苦しみはいかばかりでしょう。神のその心情を察し得ることができますよう、毎日共にあり、共になし、共に我々を励まして、侍べりゆくことができますよう、その境地を永遠に保つことができますよう祝福して下さいますように切にお願い申上げます。我々の願いは自分個人のための目的ではありません。神の名前と共に立ち、共にその目的をなし得る共同存在であるということを実感しなければなりません。いかなる迫害の真只中におきましても、神を忘れることなく、神を疑うことなく、神により生まれた以上は神によってなし、神によって生活することができますように、神によって考え、神によってすべてを解決することができますように、神によらざるものはべてないという立場を保って、神のために働き神のために行くことができますように直接お守り下さい。日本の一億国民を神の御前に復帰する数多くの苦難のいばらの道が横たわっていることは良く知っております。その知っている以上の決意が必要であります。今日の戦い明日の戦い、或いは一年、或いは生涯かけての戦いにおきまして、神に忠を残して行くにまちがいない者として育てて下さいますことを切にお願い申上げます。真の子女として立ち得る喜びの境地を万民と共にたたえる境地までなすことができますよう導いて下さい。勝利の圏界に立って神を直接たたえることができますよう守って下さいますことを切にお願い申上げます。今後のすべての時間あなたの主管圏にまかせますから、どうかみ旨のままに導きまして勝利の圏界まで、すべての喜びの基準としてたちかえることができますように祝福して下さることを切にお願い申上げます。真の父母のみ名を通してあなたの御前にお祈り申上げます。 (アーメン) 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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