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2021.05.18
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​​「理想の基準」

1969年4月27日 聖日説教
松濤本部にて


 今日は理想の基準のいうことで少し話をしましょう。現世に住んでいる数多くの人々は皆理想の郷を願っていることはもちろんでありますが、現世の人々ばかりでなく過去の数多くの先祖達、或は義人哲人達もやはり理想の基準ということを考えてきました。過去がそうであり、現在がそうであるというと、これは未来にも又残る問題であると思う時、誰かが苦悶して解決しなければならはい重大な問題なのであります。これが解決されることによって世界の平和、或は統一の世界が果される六のであって、我々統一青年の目的も、この日本の一角に数少ないその者達が、日本のためにひいては世界のために理想郷の基準を立たせるため以外の何の何ものでもなく、この理想郷、理想の基準を願って立っているのである。

 この地上に住んいる今迄の人類が願っあ基準でなくして、神御自身が願っている理想の世界を果たすことなのであって、この理想の基準たるものは、世界の基準でもなく、ある国家の基準でもなく、あるいは又ある社会の団体の基準でもないのであります。世界でもなければある国家でもない、ある社会でもなければ家庭でもない、ある社会でもなければ家庭でもない。家庭は又個人なくして成り立たない。その基準たるものをつきつめて考えてみると個人につき当る何ものでもない、従って神自体の理想の基準は我々人間の個人に求めなければならない立場になる。先づ願うものは個人の基準において理想の基準をいかに立たせるかということが問題なのであります。

 神の摂理はいかなる道をたどってきたかというと、ある国家を求める前にある氏族を願わなければならはい。ある氏族を願う前にある家庭を願わなければならはい。ある家庭を願う前にある個人を願わなければならない。神の救いの目的、復帰の目的この一点にあったということを知らなければならない。過去の歴史においてそほ基準が果たし得なかったことはいうまでもない。理想の基準を考え、それを願った者は数多くあったけれども、それが世界の果てにあるのではなくして、自分の中にあるということを考えた者は多くない。神は理想の基準を一個の人間にあるいは家庭に求めなければならはいのか、絶対なる神であったならば、絶対なる神は二つの目的を立たせるこおはできない。相対の立場に立つ事ができるが、絶対なる神は絶対なる一つの目的のためにすべてつくった結論になる。

 では、我々自体がその一つに目的基準に一から十まで一体となってその目的に向っている自分になっているか。これはそうではない。この我自身は朝に夕に変る者である。人の心は千変万化である。絶対なる神によって造られた人間が、万物の中心として、巧宙の和動の中心体として立つべきその人間が何故このような一つの目的のもとに立つことが出来ないのか、これが大きな問題なのであります。これを考えてみると我々自身には、我という者が一人しか居ないのではないかということを否定することはできない。我々は良心というものがあると同時に、これに反対する何ものかがある。これが問題なのであって、数多くの聖人達も、良心を中心として、これに反対しうる自分をいかに屈服させるかという問題を基点として皆たたかってきた。その勝利の基準を作った者は一人も居なかった。その基準が地上に現われない以上我々人間の理想郷は立つことができない。ここに集-ている若者達、自分の心をふりかえり、自分たる存在は今一体どこに立っているのか、歴史の願う基点に立っておるのか、過去の基準を通過して、現在の基準に立て、そして現在の基準を連結させる未来の最後の目的まで、いかにして連結し得るか、それが何よりも重大な問題である。もし神あるならば、これが絶対必要要件なる神ならば、この理想の基準、基点を我々人間に果たさせなければならない立場に立ってい居る。こう思う時に復帰の摂理というのは一体その目的は何にあるのか、宇宙にあるのではない、世界を目的とする前に、個人個人に向かってその目的は願われるということを忘れてはいけない。

 皆さん一人一人を考えて見た場合、自分というものの根拠地はどこでありや、自分の人格の基を成すその基準はどこにありや、ある人は自分はこういう過去の経歴を持っているからその基盤が我の基準である。と言ってもそれは本心の願う基準ではない。永遠なる絶対なる基準ではない。我々の良心とは一体どこから来たものなのか。これは数千年の先祖の血統を受け継いで今現在の存在を成している進綿たる歴史過程の因縁のもとに生まれて来た。自分自体がそういう存在であるなら、我々の先祖もそういう存在にちがいない。我々人間の最初の先祖迄これは届く。何故この先祖自体が人間としての最高の目的基準に立つことができなかったか。このようになった結果を宗教用語で堕落したという。しかし、善なる世界に永遠に住みたいと願う人間の本心はいかなる歴史過程を通過しても変らない。神がこういう歴史を摂理して来られはのは、必ずその目的を果たされるある一点があるからこそであって、そのある一点がなかったなら人類すべてが願って来たあらゆる理想郷というものは空しいものとなってしまう。

 もし神あるならば我を造る時完全なる一つの人間として、良心の願うすべてに対して、心も体も絶対的一つとなって、そのめざす目的になぜ直行する道に立ってなかったのか。完全なる一個の人間として造-たなら遠い昔にこれは解決されていなければならはい。ある者は死をもってぶつかった者もある。あらゆる努力を成してこの問題解決のために当たったが今だに解決されていない。神あるならば、なぜこのようなみじめな立場に立っている人間を救うことが出来ないのか、いかなる方法手段を成しても解決すべき要件を見出しておかなければならない。歴史過程において神は成してこなかったというならば、我々そういう神を信ずる心要はない。それならば我々人間としての問題解決の鍵はどにあるのか。天宙復帰、それはあとの問題である。世界復帰あとの問題である。日本復帰あとの問題である。自分の氏族、家族あとの問題である。つまり自分の問題にとどまるのである。自分の本心と命をぶつけても一致しようと努力した歴史基準がそこに残っていなければならない。それが何か、宗教というとものである。宗教とは一体何か、人間の理想の基準、基盤をつくる方法あるいは手段を説いたものである。それは何か。神でもなく世界でもなく我等自身の問題である。「先生の言うことは違います、私は心と体がいつも一体となっている」という自信のある者は手をあげて。自分自身が決して一人ではない本心の願う自分と、もう一人もう一人これに反駁する自分が居る。この法則は鉄則に近い。日本一億であるならば二億の戦いをやっている。世界三十六億なら七十二億の戦いを成している。世界万民七十二億の戦場地となっているこの世の中をいかにしてなおすか。神あればこれを診断して手術しなければならない。この重大問題を解決してくれる宗教があったとすればこれは有難い。日本とこの有難さを変えることは出来る?世界とこの有難さを変えること出来るだろう?絶対出来ない、としたらその価値の基準は一体どの位のものなのか、日本がダイヤモンド列島だとするとそれ以上の基準だろうか、地球がダイヤモンドの魂だとしたら……。かしそれ以上の価値として今迄の歴史がたどって来た道であるとするならば、どれ程感謝せねばならないであろうか。

 歴史はどういう背後の基盤によって文化が発展して来たか、結果からずーっとさぐって見た場合、宗教という素晴らしい精神の結合基準によって新しい文化が生まれた。その文化によって教多くの歴史は編纂されて来た。歴史自体がそれを証明している。文化の背後の基準は絶対なる神によって導かれており、宗教から発展しなければならないという結論に到達する。なぜこの宗教という背後関係を中心として、人類社会の基点、文化圏を成して来たかというと、それは神が人間の絶対なる理想郷の基準を解決するための準備を成して来たのであって、人類から始まったというならばそれはとんでもない文化の起源は人間より出発したのではなくしほ神から出発したのである。二十世紀の文明を誇る、現世の民主主義の思想の基準はどこにあるか。それはキリスト教の文化圏である。なぜキリスト教が二十世紀の世界的基盤を成しとげることが出きたか。それは人間創造より以来の因縁を持っている神と、人間堕落の基盤を通過して数千年の歴史過程においてもその因縁を成し得た背後関係をもっていなければ、世界的文化を総合させることはできない。そういう観点から見た場合にキリスト教の歴史は人間創造以前から始まっている。一番長い歴史の基盤をもっており、絶対なる神によって出発の文化歴史過程を通過しながら、数多くの苦労の道、悲惨な歴史過程を乗り越えてきているのである。ヘレニズムと、ヘブライズムの歴史的上下交叉の叉の路程によって現世まで至っていることは皆歴史を学んで知っているが、これは一つは良心の基準一つは体の象徴であって、人間自体は良心の基準も、体の基準も離れることは出来ない。これが交叉し合いながら歴史を編纂しつなげてきた。これが戦う立場ではなく、或る一体とならなければならない一点、期間があるから、歴史がこのような背後を残して来たということを知らなければならい。いずれ戦うのでははなくして、これを一体化させるある時がこなければならない。その一体化させる大もとの基準はどこから来るのか、世界の或る主権者の力によってか、軍事力によって成されるのか。そうではない。カイン的歴史発展を外的にしながら、内的において身心共に一致させる問題を成さなければならはい。それが宗教の果たす使命であることを我々は知らなければならない。統一教会それが果たせるか否か。それが可能でなければ皆風呂敷包んで帰れ!卒直な告白である。日本に先生が来た。又変な目つきをして先生を見る者が多いことを知っているが、日本自体に防害をかけるような先生ではない。日本ばかりじゃない、韓国人ばかりじゃない世界数十億の人が皆願うその基準を解決しなければならない重大な問題をかかえている先生であることを皆分らないのであ。成し得るや否や、世界的問題である。

 キリスト教の歴史は殉教の歴史である。良心の願いにおいて体の要求を木っ葉みじんに打ち砕いてそれを乗り越えた歴史の男がある。自分なりの力によってそうなりましたか?そうではない。自分を通して神共に絶対なる目的観に引きづられて乗り越えることができた。これはいかなる宗教にも見られない又できない悲惨なり世界的殉教史をいだいている。労した者には必ず報いを授けるのが天の法則である。キリスト教は歴史過程にこのような犠牲の価を払ったのだから、それに報いる世界の人々を救う主権者が来なければならない。そのような立場に立っているんだけれど、その解決の方法はいかにするか。これ先生皆に聞きたい言葉だ。可能でありますか?不可能だったら皆帰ろう。私も帰る。足も痛いし腰も痛い。しかし帰るわけにはいかない。理想の基準を目的として永遠に行かなければならない。世界に行こう。

 神様は日本と韓国の国境を作って下さいました?これは日本人と韓国人が作ったにまちがいない。ソ連と中共の国境誰がつくりましたか場神は世界をつくる時、国境という概念をもって作ったなら、そんな神を信ずることはいらない。世界数十ケ国を今度廻って来たんだけれど、一番気持悪いのはパスポートである。神様がこんなもの作ったの?これも人間がつくった。理想郷をたどる者があったら神様の側に立つか?人間の側に立つか?早く神の側に立って早く世界に国境徹廃運動をしよう。黒人であれ、白人であれ、日本人、韓国人であれ問題ではない。我々は分らないけれども、日本人が日本人を愛する前に、神は黒人を愛したかも知れない。白人えらそうなこと言うな、君より黒人を愛した神の歴史があったにちがいない。神は人類の親であり母であるならば、母たる者は十人の子供があった場合、生まれながらに不具の子供がああったとしたら、健全なる子供以上に不憫に思い愛するものである。御飯が食べたかったら勝手に食べて、着たかったら勝手に着ろ。こんな親がありますか?あなた達のお父さんお母さんそんなですか?(ちがいます)堕落した父母の基準でさせそうであるなら、未来の理想郷に立っている神様、人類の親たる神様がそんなはずはない。黒人をまず愛される歴史になっている。長男は黒人である。日本は現世において世界第三の指に数えられる文明国として、あなた達は誇っているかも知れない。しかし先生はそうは思わない、可愛そうな立場に立って居ると思います。中共がもし手をのばして台湾海狭を蓋いでしまったら、二週間以内で日本は飛んでしまう。源油はみんな中近東から選んでこなければならはい。日本からの貿易六五%はこの台湾海狭を中心として運ばれている。毛沢東もやろうと思えば一週間以内にやることができる。共産党のねらいはここにある。平面的基準において日本は美しいかも知れない。しかし、未来永遠にに通過しなければならない日本の歴史はどうなるか、先生は分ってい居る。

 日本と先生を一対一とすればこれは敵である。帝政時代には数多くの拷問を受けた。しかし神は敵を討てとは命令しない。敵が裸になれば、敵が飢えたならば、そのために日本に先生は西川先生を送って来た。日本全土が反対するのも知っていたし、韓国自体が反対した、しかし、数十年後には韓国のためになるし、日本のためになる。両国民が手を合せて感謝する日があるにちがいないことを知っていたから、どうしても日本に来せた、法的においては許されない条件になっていたし、韓国においてはその時先生は牢屋に引込まれて弾圧の最絶頂に立っていた。一人の働き者が貴重なその時に、日本へよこすには涙ぐましい誰にも知れない苦悩が背後にあったことを忘れてはならない。死を覚悟して成したこの基準は日本歴史上においては取り消すことはできない。韓国の歴史上においても取り消すことはできない。今になって韓国は先生に対して感謝している。天照大神が日本を愛する前に神は日本を愛した。そういう事を考えた時、先生は日本の歴史上誰よりも日本を愛した。韓国人ではないかと言うかも知れない、平面的基準はそうかも知れないが、しかし内的基準においては、日本人以上に日本を愛したのである。神様が愛する日本であったならば、日本人以上の心情で日本を愛はねばならない。アメリカもそうである。アメリカ大きなことを言うな移民達のかたまりで今日の文化を築いたかも知れないが、君達より以上、神はアメリカを愛した。その愛した神の真の子供になっているか?神に愛される息子となってアメリカを愛した本当の息子ありや。先生は神のふところの真中に抱かれてアメリカを愛した。そして祈って来た。そう考えた時この地球は誰が愛するか、誰がもっと愛すべきか、世界の人々が愛した前にもっと神が愛した本当の神の子供になって世界を愛し、真心をこめて神に告げるならばいずれ神は世界を愛する現実の道を開いてくれるだろう。

 先生は宗教界において問題を起こす大物になったことを神に感謝する。つらい道である。見えるものとのたたかいではないのである。見えない戦争に勝たなければならはい。これはむづかしい、そうでしょ。統一教会が日本のマスコミにおいてたたかれても、一度も、弁明弁解したことがあるか、絶対なる神においても数十年間先生が迫害されてきたけれども、一度も弁明したことはない。なぜか。神様が弁明の歴史を教えたことがない。聖書で弁明の歴史を教えたことがあるか。真なるものは永遠であり、永遠なるものは神以外にない。神を否定し、迫害する者達は可哀そうな者である。可哀そうなその者に対して永遠の価値ある者の弁明、弁解は理に反する。真なる者は弁明、弁解必要ない、迫害されながら我々発展する。宇宙は廻っている。上に立っている者大きなこと言うな、頂点に立ったとしたら下に下る準備をしろ、廻る世界の原則である。弁明する余裕の力があったら行くべき道に一歩でもふみ出せ。

 絶対なる神様でありながらなぜこのような人間を造ったのだろうか、二つに割れた者である。二つに分れた者だよ。一体どこが割れたか。心と体が割れてしまった。そうだろう。始めからこのように割れた人間を造った神様だったら、絶対なる神ではない。不完全な神である。あなた達瀬戸物を焼く時、土で形を造り乾かして、火の中を通過させなければならはいことを知ょているだろう。初めからひびが入っていることが分ったら釜の中に入れるか? 途中でひびが入って割れててしまった。どうすりか、再び造り返さなければならない。だから救いとか救世主とか、復帰とか、これは悲しい言葉である。割れなかったら、このように祈りとか救い主とか宗教等は必要なかった。堕落の結果必要になったということを知らなきゃならない。天国とか地獄とかこれも悲しい人間の堕落によってできたものであって初めから神様が造られたものではない。宗教生活というものは本来の人間には必要でなかった。統一教会は何を願うか? 宗教統一、そうでははい宗教徹廃運動を願っておる。宗教統一、世界統一とガヤガヤ言っていたのに、宗教徹廃、宗教いらないといったら世間は驚ろくだろう。しかし神様の果たす摂理の目的をはっきり知ったら、我々成さなければならはい絶対的要件はどこにあるか。日本全土ではないよ、どこ? どこにあるの。自分である。自分から解決しなければならはい。自分のまわりにある様々な問題、それよりもっと重要な重大なもの、それは過去、現在、未来を通して我々に要求されているもの、それを忘れてはならない。その他の問題はすべて過ぎ去ってしまう、我は永遠なる価値の存在として宇宙間に認められたいとするならば、二次的なものにまどわされてはならい。

 この地上は戦闘が始まった。七十二億以上の数々の戦闘が始まった。神の行動作戦が世界的段階迄発展してきた。人類歴史はこの最後の戦いにきまりをつけるために行動作戦をやらなければならない。だから歴史は思想を完全に二つに分ける限界まできているのが現世である。理想郷を目ざしての世界的戦い、共産主義も一つの理想郷を打ち立てんとしている。しかし共産主義社会で理想郷はできない。それが分らない。世界が二つになって戦う。人類が破滅してしまう。共にマイナスになり、共に損害が増したことをはっきり教えてやらねばならはい。それを統一理念でやるうというのが統一主義である。しかし主義というのは先生気持が悪い。統一理想だ。最後に残るものは主義が残るんじゃないよ。理想が残る。だからこの理想の基準によって出発し、理想の基準によって成される家庭、氏族、国家、世界を中心とする理想世界が残るのである。今迄説明してきたが、その理想郷は最初は何であるか、神様? 救世主? 自分である。自分なんだよ。そしてメシヤ神様へと行く。だからメシヤ思想は必ず必要である。宗教でとなえるのは、だから救世主なのである。救世主にも種類が多いよ。黄色もあれば、赤もある青も黒もいろいろあるではないか、どれがほんものの救世主か? 鑑別の必要があるよ。お金が沢山あって素晴しい服を着て、高い壇の上に上って礼拝の時、「オホー皆さん」とそれは先生大嫌いだ。なぜ先生は壇に上って説教しないか気がついているだろう。それはなぜか高い所、低い所そこには距離がある、一体となれない、平面上においては一体になる。だから平和とうのは平の字ではないか、高和とは言わない。平面でなければ一つになれない。先現はそれを良く知っている。そうすると救世主は一つになるには地上に来なければならはい。天上ではない、高い所ではないよ。人間が天上に行かなきゃメシヤと会えない。それはまちがっている。数多くの宗教は霊界から始まっている。仏教は釈迦牟尼仏を信じて世界一の救道の主と彼等はたたえている。回教はマホメットを中心としている。どっちが一体救世主なる内容を持っているのだろうか。それについて話したいけれども、それを話すと三時間も四時間もかかてしまう。

 今回は理想の基準ということだから、理想郷というものは一体どういう所なのか考えてみよう。男あって女ない所が理想郷か。女ばかりで男のない世界これが理想郷でしょうか? 男も女もなければならはい。じゃ男、女あって何するの。毎日たたかうか? 朝から晩まで。それが理想郷? じゃ笑うのがいいの? 毎日毎日笑ってばかりいる。これでも困るんだね。じゃ何するんだ、喧嘩もしなければ、笑ってばかりも困る。愛という傑作の言葉がある。愛するためじゃないか。一体愛というものの基準がどこにあるのか、それを考えてみた場合、愛は一人では成り立たない。絶対、条件として相対基準がなければならはい。それ否定できないでしょ。愛という問題は主体と相対関係なくして絶対なり立たない。私自体愛の実体となるためには、私の心と体はどうだろうと考えてみると、愛の実体になるには、二つになっていて成り立つか一つになってこそ成り立つものか。理想郷を望むその時に、相対基準を否定することできないんだから、その実体として立ち得る存在、愛の確信の基準に立つには、我自体にその内容の要件が必要である。心と体、愛とうものはこれが一つとなったならば、大きな力となることを忘れてはいけない。世界という大きな大きなものを願う前に個人において、その主体なる心と相対なる体が神の愛によって一つになる自分より出発しなければならはい。

 男が女を愛する、これはもともと歴史がそのようになっているがこれは結果の存在である。結果の大もとなる根源は神から来ている愛である。神は愛なり、神というものは愛の定規によって、宗教とか、教育とか思想を通して歴史に流れて来た。では神の愛を一体直接受けることができるであろうか。その仲介者の救世主がここに必要である。救世主の果たすべき使命はどこにあるのか。歴史的神の愛を人類に直ちに教えるその道を開いてやらなかったならばその者は人類愛の持主とはなれない。そうすると神様の愛の実体ならば、どういうような実体にならなければならはいか。神がプラスだったら、その方はマイナスに立ったお方じゃなければならはい。そうでしょ。ここにおいて人類歴史はじめての愛の因縁によって人間と神様を結びつけることができる。今日までの歴史過程において、そのような一点一角を成し得た宗教の責任者、開祖は一体誰であるや、いずこにありや、愛を中心とした内容を完全に教える宗教でなければ、万民を理想郷へたどり着く道として迎えることはできない。

 神様がもしあるとするならば一体何を願うのだろう。神様は金持がほしいのであろうか、世界を願うのだろうか。堕落した我々人間でさえも宇宙と自分の命を取替えることはできないという価値を認めているのに、神様において、そんな物的条件を願うような神様ではない。神は一体何を一番願うだろう。神様と私達の関係において、それはどんな愛の関係であろうか? 僕の立場だろうか、兄弟の立場、夫婦の立場、神様本当に愛するんだったら、その愛の相対基準の位置を一体如何なる基準に決めるのだろうか、それは親と子供の関係しかない。そうでなければ、神様は人間を絶対必要としないよ。神様は我々人間を最高の愛の基準として求めてきている。人間も最高の目的を完成した安着の基点は神の愛に帰結する。神の愛を完全に占領し得る子供の立場に立つのが理想郷の基準である。親あって、子供があった場合何が成り立つか、家庭である。親子が成り立つのである。切っても切ることができないのが親子である。親である神様の愛を中心として、娘、息子成長する。そして結婚します。そして神様の孫を生みます。神様の愛を中心として三代目の子供を生みます。神はそれを願うのである。神を中心とした真なる娘、息子として愛を占領し、その愛の圏内において結ばれた夫婦となって、理想郷の男女の基準としてそこから生まれた子供こそ、神願う基準なのである。人間堕落はその基準を失ってしまったことである。数多くの宗教あれど真なる宗教は何か、本来の人間としての位置をはっきり知らせてくれる宗教でなくてはならない。神の真なる子供であるということを教えていない宗教は偽りの宗教である。真なる娘、息子となって、真なる夫婦となり、子女を生むその道を教えていない宗教は理想郷に到達することはできない。こう考えて来た時に如何なる宗教が世界的にこうした内容を持っているのだろうか。キリスト教しかないのである。先生はだからクリスチャンの道をたどってきた。

 神の一人子イエス・キリストは神を親として、その愛の家庭を造り子女を持つことが何よりの神様の願いであった。イエス様としては神の完全なる子供としての目的を成し得る基準に立つことができなかったという結論に到達する。イエス様は何のために来たのか、理想世界の基準を立たせるために来たのか、大きなことを言ったとしても、愛の基準を地上にうえることができなかったとしたら、理想世界の家庭は現われない。神は何を理想の基準とするかというと、この家庭を基準としている。家庭がなかったならば氏族なく、氏族がなかったならば民族がない、民族なかったならば国家なく、国家がなかったならば世界は成り立たない。堕落という基準より歴史がはじまったんだから、神の愛を中心として出発したのではなく、サタンを中心として出発してしまったところに問題がある。生まれてみたら真の柿ではなく、しぶ柿であった。姿は柿の姿をもっているが内容が全くちがう。真なる甘柿に帰るにはどうすれば良いか。そこにイエス様が必要なのである。自分の今迄関係していたすべてを切って、イエス様の思想、イエス様の人格、イエス様の生活観、イエス様の宇宙観を完全にうえつける。そうすれば再び真なる柿の実が生まれる。新生復活の内容なのである。従って二十世紀の文化の基盤はキリスト教キリスト教を中心とする文化圏であるということになる。しかし現世における多くのクリスチャンといえどもこれがちっとも分っていない。統一教会は異端であるとか何とかいうが、先生自体も科学を勉強したものである。単なる空想とか理論に合わないことがあるならどうしてここまでの基盤を作ってこられるか。統一思想は世界どこへ行っても短期間のうちに??する。こうしてメシヤの価値の基準が、先づ第一にキリストでなければならない基準が分ってきた。神は今迄堕落した人間をかかえ、六千年の歴史を唯一人の息子、娘を求めて尋ねてこられた。神の創造目的の基準をすべて完成すべき真なる愛をかかえた人類の父母となるべき者を探してこられた摂理の歴史であった。それがキリスト教のいう再臨の主という問題になる。再臨の主とは何か。真の父母の昔準を失った神の前に、真の父母の位値を復帰し、人類を子として神の前につがせて下さるお方が再臨の主なのである。

 歴史は外的基準から復帰されてきた。第一次、第二次大戦においても分るように、日本は敗戦というみじめな立場に立ったが、勝ったアメリカの援助によって現代の文化の基点、基準を造り出してきた。これはすべて天の摂理であり、天運によってこういう結果となってきたのである。共産圏はカインの立場で、民主圏はアベルの立場である。カインはいつも先に打って出た。打った者はいつも負けてきたのが今迄の歴史において見ることができる。第一次大戦も打った者が負けたし、第二次大戦も打って出た日本は負けたのである。第三次大戦といわれる原子力による戦争は果たして起こるのだろうか。ソヴィエトによって思想的に打たれている現世において、打たれる者が勝ってきた歴史を見た場合、共産主義は必ず滅亡しなければならない。一九一七年から一九五七年までで中共紛争は四十年目で、これは必ず分別されなければならはい天的法則になっている。これは人間がそうするのでも何でもない。神の公式鉄則なのである。世界平和は何から始まるか、理想の基準は何から始まるか、兄弟から始まるんじゃない、神を中心として真の父母から、真なる愛を中心とした血統の氏族が地上に生み増えて地上天国が始まるのである。

 こうして神の祝福圏が世界的に繁殖したなら世界復帰は朝飯前である。しかしここまでこの道を開拓してこられた天のお父様の心情をあなた達はここで深く考え、感謝しなくてはならないのである。死を乗り超えて苦労を忍びつつ、六千年という歴史の復帰のために私達を呼んで下さったその神とお会いする時、その抱き合う瞬間において、我れ声あればつきる程の、感謝の涙にむせびつつ、ひざまづかねばならない程の基準をもって感謝しなければならはい立場が統一青年の行くべき道なのである。その前には数多くの迫害が横たわり、我行く道をふさぐかも知れない。しかし我は行く、行かねばならない。そこには父母が先頭に立って反対するかも知れない。自分の尊敬する先生が反対するかも知れない、一番愛した子供、或は夫、妻という立場であるかも知れない。しかしそれを乗り越えて行ける者でなければ、理想の基準は復帰することはできない。否定される現世の社会、否定される自分の存在、完全なる否定基準、ゼロよりの出発なくしてもと返しすることはできない。これこそ真の宗教の教えであり、いいかげんなこの世との愛協、肯定の立場は神へのそむきである。

 統一教会何故反対父母の会等起こるようにするか。いいようにしたらいいのに、というかも知れない。しかしそれを知らないのではない。父母に孝行しなければならない。誰よりも孝行娘、息子にするために、ある峠を乗り越さねばならない。そこまで引っ張って行く使命を果たすまでは妥協してはいけない。頭を下げてはいけない。永遠の悔いを残す。しかしそのつらい道を乗り越して、真なる娘、息子としての基準を認められた時に、家族も共に永遠という基準において相抱き合うことができることを思う時に、大なる正を立たせるためには小さな条件を無視しても行かなきゃならはい。共に滅び神のさばきに終らないために、もと返しするまでのある期間、ある月日の副作用はどうしても仕方がないのである。だから完全なる否定から出発して完全なる肯定が復帰されてくることが分っただろう。世界三十億がすべて反対しても我は行くそれが統一の勇士である。こういう立場でもって君達は理想郷の基準に立った。しかし君達がいくら、神を愛し神様を信じるといっても、そうはいかない、神様自体が君達を信じるような男、女にならなければならない。神様が君達を愛さざるを得ないそういう人間にならなければならない。それでこそ初めて理想の基準に立ったということができる。君達同志は、自分の血統的兄弟よりも近い。民族、氏族、人類の差別を抱かない。その調和したる新しい世界が、理想世界なのである。統一の勇士によってそれは事発し、世界に広められる。君達はその基準に立たなければならはい。神に信じられるその基準を立たしめるのが統一青年の成すべき使命である。我々の行くべき道は忙しい。全国にその波を広げていく。新しい、神による天国実現のため頑張らねばならないのである。

  祈り

 歴史路程におきまして万民の救いの目的が何であったか分らない数多くの万民の前に、我々は神の願う基準の何たるかをはっきりと知ることができました。もっと深い内情におきまして、永遠なる神の実子として生まれることができますように、そして神にたたえられ、神にほめられ、神に信じられ、神に愛されざるを得ない実体となることができますよう我々は願い、努力しなければなりません。弱き力なき者におきましては強き力を与えて下さることを願い、真なる父母が今この地上にたずねてこられていることをはっきりと知って、一人残らず神のみ胸に抱かれて、真なる父母と呼ぶことができますように導いて下さいますことを切にお願い申上げます。我々願える世界は、我々に限っている世界ではありません。歴史を通しての願いであり、現世を通しての願いであり、未来通しての願いであることをはっきりと分りました。このような素晴らしい理想郷へ向かって、理想の基点目指して我々つき進むことが最上の喜びであることを体験し得るそこまで我々は行かねばなりません。数多くの迫害の道が横たわっておりました。たまりきれない悪魔の怒濤の道がありました。それを乗り越え神による最上の勝利の基盤を築くまで、忍び戦い抜かねばならない使命を深く感ずることができました。

 理想の基準、理想の基点やそれは今日世界のいかなる文化の基準でもないことを知りました。アメリカでもなければ、ヨーロッパのいかなる国でもなく、日本の現下の文化の基準でもないことを知りました。神が背負われるみじめな立場におきましてこの道が開かれるということをはっきり知りました。

 過去数十年の間神直接導いて下さった歴史が今残っておりますが、その心情基準におきまして、数多くのサタンにふれる立場から神よみがえる勝利の息子、娘が残っているということを知っております。その基準を記憶なさいまして、はげましてた神の心情基準におきまして我々一人一人を訪ねて下さいまして、みじめな境地に立った場合には、先生を導びかれた神直接のその御心情を彼等にも授けて下さいまして、その場をまぬがれることができますように、そして天の息子、娘となることができますように直接主管なさいまして勝利の見解まで指導して下さることをもう一度お願い申上げます。今日この聖日におきまして、血につながる世界の友々、世界の統一勇士はこの場を慕いつつ祈っているということを知っております。数多くの国家に対して、善なる神の心情圏を我々はうえなければなりません。勝利の見解としてそれを成しとげなければならはい。戦いの将軍として恥ずかしくない者となることができますように祝福して下さることを切にお願い申上げます。

 幾日も残っていないこの期間におきまして何を日本の地に残すか、神御自身が思い出しまして、この日本民族のために、我々統一勇士として絶対必要なるそのものを、残して下さることを切にお願い申上げます。そして神の願う建設のため、天宙復帰の勇士として、統一の勇士として、そのけがれなき素晴らしい勇士として、神をたたえ、神の望みを叶え、神の命令に従いえるものとなることができますように御導き下さることを切にお願申上げます。

 以後の時間をあなたのみ旨に任せますから、声に従いつつ、願いの目的の一点に集結することができますよう祝して下さることを切にお願いしつつ、すべての祈りを真の父母のみ名を通して感謝の祈り、あなたの御前にお捧げ致します。  (アーメン)



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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