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奇   知   外   記

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2024.11.04
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​​第四十回「真の万物の日」記念礼拝の御言(No.1/3)

二〇〇二年六月十一日(陰曆五月一日)、韓国・天宙清平修鍊苑 天城旺臨宮殿 大聖殿

 去る六月十一日(陰曆五月一日)、第四十回「真の万物の日」の記念式典が、韓国の天宙清平修錬苑で行われました。
 午前七時からは敬礼式が、午前九時からは記念礼拝が、共に天城旺臨宮殿の大聖殿で行われました。記念礼拝では、み言に先立ち、一九六三年七月二十六日(陰暦六月六日)に、真のご父母様が「万物の日」を制定された(日付は陰暦五月一日と決定され、一九九四年の「父母の日」以降、名称を「真の万物の日」と改められた)ときの真のお父様の祈祷と、その際に発表された「頌歌」、そしてみ言が、郭錠煥先生によって訓読されました。 
 このみ言は、み言の訓読の後、真のお父様が語られたもの を翻訳し、整理、編集したものです。 (文責・編集部)


 わたしたち統一教会には、長い歴史をかけて、天地全体をかけて宣言した「宣言文」が多いのです。 それは何かというと、天と地、すべての宇宙をかけて、"行くべき道はこうである。”という、その標本に 従って線を引いたものです。横的に引く道、縦的に引く道、九十度を中心として引き、球形世界を完成化し、その球形世界のコア(核)のような、エキスのような位置に、神様を臨在させるための原則の道理に合うように宣言したのです。

 サタンが、この縦的なものを、すべてばらばらにしてしまい、横的なものをばらばらにしてしまい、九十度の基準を中心とした三次元の面を、すべてばらばらにしてしまいました。そのように、偽りの父母が、ばらばらにしてしまうことによって、神様の代わりに、サタンが、この世界を支配していたのです。

 それを、そこに新たに真の父母が現れて、本然の縦的基準を成してきたということではなかったでしょうか?

 サタンがいくら反対しても、反対することができないこととは、何でしょうか?  また、それは、なぜでしょうか? 

 神様は、被造世界をそのように(本然の縦的基準に沿って)創造され、"被造世界とは、そのようなもので ある。”と見ておられます。そうであるにもかかわらず、サタンは、神様がそのように創造された、それ自体を破綻させようと、歴史過程において反対してきたのです。

 神様は、そのような事実についてご存じであり、サタン自身も知っています。ですから、そのような神様がいらっしゃるので、サタンに対して、「縦的基準というものは、原則は、これではないのか?」と言うときには、サタンは、「はい、そうです。」と答えざるをえないのです。一度、言ってみてください。(「はい、そ うです。」)



 そのような約束どおりに、事実どおりに宣言したもの(が、統一教会の宣言文)です。天と地、悪魔と世 の中の罪ある何者も、それを否定することはできません。何人も否定することができない、このような核を宣言したものが、わたしたち統一教会における多くの 宣言文であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 サタンに対して、「それでは、横的基準についても、 これこれこのようなものは、おまえが願ったものではなく、本来、創造理想的根本の原則において願われて いたものではないのか?」、「これは、天地が生じる前からあったのであり、天地が生じるとき、その核心となったものではないのか?」、「天地をすべて完成して、 その核心的な主人となることができるものは、“見えな い神様”ではなく、実体の"見える神様”である真の父母ではなかったのか?」と言うときには、サタンは、「違います。」と言うことはできません。「そのとおりです。」と言うのです。

 それで、(先ほど訓読したみ言では、)「(真の)父母の日」を宣言するための内容が具体的に明らかにされており、「(真の)子女の日」なら「(真の)子女の日」についても同様であり、「(真の)万物の日」がどのようなものであるかという事実についても、今、皆さんは聞きました。

 このようなみ言をじっと聞いてみると、他のあらゆるみ言も必要ですが、「(真の)万物の日」一つだけを取っても、その価値は、量り知れません。

 そのことで、すべてに精通しているごとく、「自分は主人になった。」と言い、「神様のものでないものがなく、真の父母のものでないものがなく、『宇宙全体が、わたしのものである。』と言うことができる、その位置に定着し、億千万世の時が流れ、すべてのものが変貌し、変わったとしても、変わりうる環境条件を収拾し、尊厳ある主体性を中心として、千代、万代、定着権威を持つことができる。」と言ったときには、天地は、何と答えるでしょうか?

 また、「それは、創造理想的な完成の結果であったのではありませんか?」と尋ねるとき、神様が心か ら考えられることは、どのようなことでしょうか?

 それは、「そのとおりである。」ということです。そして、思想的思考を通して、相対として現れた、極めて小さな被造物から大きな被造物に至るまで、海のものも陸地のものも、天上世界にあるすべてのものまでもが、「そうです。」と答えることでしょう。

 一度、言ってみてください。(「そうです。」)そうです! (「そうです。」)口だけで言いましたか?  それとも、心と体と考えを重ね合わせて、「そうです。」と言いましたか?

 「このような宇宙の一つの核として、その中心自体であることに間違いありません。そうです。」と、言うときには、そのような存在は、宇宙の中心となり、神様の愛を完成させることができ、神様よりも、もっと必要であるというのです。

 そのように、“愛の完成に必要な万物の実体的主人が、人間である。”ということを思うとき、その人間自身が、心と体と思想が一体となったその場において、自分自身の産毛までも、「そうです。」と言うのを感じながら答えましたか、答えませんでしたか? (「答えました。」) うそをついては、いけないでしょう?

 尋ねると、決まって「そうです。」と言うところを見ると、“先生について行きさえすれば、よい。”と考えて……。

​ 言葉について行ってはいけません。言葉は、実体を形成します。実体は、全体を動員することができる能力があるのです。それは、神様だけではありません。宇宙全体が実体的な主体となり、対象となるときは、宇宙全体が左右、上下、前後の歩調を合わせなければ、相対的理想の場から追放する宇宙力があるというのです。​

 そのような主人がいる、ということを知らなければなりません。見えない宇宙力が、そのような者たちを除去するようになっています。

 皆さんは、父母が死ぬと、なぜ悲しく、夫がいなければ、なぜ悲しく、愛していた者を失えば、なぜ悲しいのでしょうか? “主体・対象基準”の中心の核と、心と体が一つにならなければなりません。心と体が一つにならなくてはいけないのです。

 このように見るとき、心と体がとどまる位置、その位置は、考えまで一つになる”心身一体”の位置であ り、その位置において、自分が動じ、静ずることができるというのが、万有存在の実情であるというのです。

 そのことを考えるとき、その万有存在の実情の主体となり、主人となる人間自身に関係するすべてのものが、ここに同化し、一体となった場において、動じ、応じ、答え、喜ばなければならないというのが、天理の原則です。

 ですから、皆さんが、先ほどの問いかけに対して、そのような”心身一体”、“一心一念”を中心として答 えたのかと尋ねているのです。そのように答えましたか、答えることができませんでしたか?(「……。」) なぜ、静かなのですか?

 いくら大きな人でも、産毛一本であっても、つかんで引っ張れば、その痛みがないようにするためには、引かれる方に行かなければなりません。分かりますか?  我慢して、「切れるなら切れろ。抜いてどうするのか?  やってみなさい!」と言えば、そこには、鍼が打たれるようなものです。そうなれば、すでにそこに傷を残したということです。

 それでは、産毛や一身のすべての骨が統一され、一つになって、”心身統一〃、それから何ですか? ”信念統一”です。一心、一体、一念です。そのことを知らなければなりません。神様を中心として……。

 神様が、どのようになっていらっしゃるのかというと、一つのものを中心として、心と体が一つになっていらっしゃるのです。分かりますか?  心と体が一つになったところにおいては、考えも一つになっています。

 皆さんが、日常言うことは、「言行心事(言行と心に思うこと)を正しくしなければならない。」ということです。「言行心事」です。言葉と行動と「心事」ですが、「心事」とは、何ですか?

 心と事が、一つにならなければなりません。そうしてこそ、それが公的なものとして保護し、証しし、 宣伝することができるのであって、そうでなければできません。

 ですから、心をだまし、体をだまし、考えを偽って生きる人は、それがいわゆる「堕落した世界」であり、「堕落した万物」であるということです。

 堕落していないものは何かというと、心と体と考えが一致して一体となり、ここを見ても一つであり、 あそこを見ても一つであり、また、下を見ても、上を見ても、前後左右、球形に見ても、核心の位置も「一つである。」と言うことができるもののことです。

 そのようになるとき、神様は、そのような立場に定着されるようになるのです。そのことを、皆さんは知らなければなりません。"一心”、“一体”、“一念”です。言ってみてください。(「一心、一体、一念。」) 

 心を持っていますか?  何ですか?  尋ねたら、答えなければならないでしょう? 心を持っています か? (「はい。」)心が二つですか、一つですか? (「一つです。」) 

 心は、二つでしょう?  なぜ、一つですか?  悪なる心と、善なる心があるではないですか?  それから、 体も一つですか、二つですか?  悪なる体、善なる体。二つですか、一つですか?  また、考えも、善なる考え、悪なる考え。二つですか、一つですか?

 わたしたち自体について考えてみるとき、心は、わたしたちの目に見えないので、分かりません。心に五官があるということが、分かりません。分かりませんか?  答えなければならないでしょう?  分かりますか、分かりませんか?

 卒業証書をもらって、学位をもらうことができるようになれば、それにふさわしく、過去に学んだものはすべて知らなければならないのですが、分からなければ、それに対する罰を受けなければなりませんか、受けてはなりませんか?

 ですから、今まで、心が一つでしたか、二つでしたか?  体が一つですか、二つですか?  考えが一つですか、二つですか?  全員、黙っているということは、”心が二つ、それでよい!  体が二つ、それでよい!  考えが二つ、それでよい!”と、思っているということです。

 そのような状態が、人と言えますか?  人だけが、心が一つなのです。人だけが、体も一つです。人だけが、考えも一つです。それを否定する人は、手を挙げ てください。

 きょう、「(真の)万物の日」の記念日に、「清平に来なさい。」というので、"何か福をくれる。”と思っていたのに、手を切ったとすれば、その息子、娘や親戚、その国の民が、それを聞いて、「あの清平に行きなさい。」 と言うでしょうか、「行くな。」と言うでしょうか?  答えてみてください。(「『行くな。』と言います。」)「行くな。」と言うのです。 

 それでは、行かなければ、天国は、どこから行くのですか?  清平を通さずに、天国に行くことができますか? (「できません。」)清平は、"清くて平らな所である。”ということです。分かりますか?  名前が良いのです。

 「文鮮明」という名前の「鮮明」とは、何ですか?  「鮮明な朝」と言うでしょう? 「鮮明」とは、太陽が、明るい光の方向性をサーチライトのように発散するときに、「鮮明な朝日」と言うのです。その名前は良いですか、悪いですか?  (「良いです。」)太陽には黒点があるのですが、黒点に覆われてはいけないでしょう?

 そこに何、鮮明ですか? 「文鮮明」でしょう? 「文」という字は、何ですか?  (「文章の「文」です。」)文章の「文」ではありません。祭壇の「文」です。祭壇の上に祭物を置いて支えているのが、「文」という字ではないですか?  分かりますか?  何の「文」ですか? (「祭壇の『文』です。」)祭壇の「文」です。

 神様は、堕落した世の中に祭壇が必要ですか、必要ではありませんか?  (「必要です。」)何の祭壇ですか?  何の祭壇が必要ですか?  簡単でしょう?  息子、娘の祭壇です。息子の祭壇、それから夫婦の祭壇、三番目は、子女の祭壇です。それ以上は、必要ありません。

 皆さんは、それ以上、必要ですか?  さらには神様まで。愛の前には、神様まで一つになって、父母の祭壇です。もう一つ、するのです。

 真の愛は、父母の祭壇、夫婦の祭壇、それから何ですか? (「子女の祭壇です。」)自分の祭壇は、ありませんか?  男性の祭壇、女性の祭壇です。自分の祭壇、夫婦の祭壇、子女の祭壇です。祭壇が必要です。祭壇とは何かというと、まっすぐなものの上に、載せておくのです。

 その祭壇の代表が何なのか、というのです。神様も代表であられ、自分も代表であり、家庭も代表であり、夫婦も代表であり、息子、娘も代表なのですが、その全体の代表、中心とは何ですか?  それが何ですか?  

 その中心は、何ですか?  宿題です。クイズです。 それを、何と言うのですか?  それが、何ですか?  (「真の愛です。」)何ですか? (「真の愛です。」)


 真の愛とは、どのようなものですか?  真の愛とは、どのようなものでしょうか?  真の愛とは、何ですか?  ”ため”に生きて忘れること、それもそうでしょう。 「それも、真の愛である。」と解説することができます。

 本当の真の愛とは、何ですか?  神様も、そこにはまれば、出てくることができません。分かりますか?  そうなのです。わたしも学びました。神様も、そこに落ちれば、出て来られることができません。そこから出てこようとすれば、天下が、すべて離れていきます。

 そのように、天下がついて回るので、神様も離れません。また、自分個人が落ちても、恥でも何でも知ったことではありません。出てくることができないのです。女性も……。女性は、そうではないでしょう?  変わることを好むのが、女性ではないですか?

 人間とは、何ですか? 「人心は朝夕に変わり、山の色合いは古今を通じて同じである。」というような言葉が、物の本には書かれてあります。変わることを好むのは、女性ですか、男性ですか?(「女性です。」)女性です。

 男性は、どうですか? 男性は、変わることを好む女性について回りながら、変わろうとしますか、つい て回りませんか?  この女性たちは、変わることを好む男性が、ついて回る。」と思っているのですが、それは、間違いです。なぜですか?

 男性も、はまれば出てくることができません。女性も、はまれば出てくることができません。息子、娘はどうですか?  (「出てくることができません。」)息子、娘も、出てくることができないのです。ここに落ちて、出てくることができる存在はありません。

 先生(真のお父様)は、どうでしょうか? (「出てくることはできません。」)わたしも、皆さんに似たの です。(「神様に似ていらっしゃいます。」)神様に似てもよく、皆さん……。また、男性、女性、息子、娘、すべて、そうではないですか?  神様が持っていらっしゃるものを、すべて持っているでしょう?

 神様には、眼がありますか、ありませんか?

 分かりますか?  真の愛とは、何ですか? 真の愛に、髪の毛一本でも引っ張られれば、引かれていくの です。それゆえに、神様も、(真の愛に) 落ちれば、出てくることができません。いくらやっても、出てくることができないのです。千年やっても、出てくることはできません。神様が、そうでいらっしゃるというのです。何に間違って落ちても……。

 愛に誤って落ちるようになれば、逆さまになったものを、思いどおりに、まっすぐにすることはできません。まっすぐにすれば、天下がすべて踊りを踊り、歌を歌いますが、四方の方向が異なるというときには、億千万世、その姿のまま捕まって、出てくることができないということです。理解できますか?

 このようにしてもよく、あのようにしてもよい、というのが、愛ではないでしょうか?  愛だけは、鉄則において、このようにしてもよく……。そのうえで、このようにしてもよく、あのようにしてもよい、というのが、真の愛というものです。

 愛は分からなくても、そのような本性があるので、すべての万物は、その愛を訪ねて出会うことを願うのです。出会うのも、逆さまに出会おうとしますか、正しく出会おうとしますか?

 歩くときに、このように(腰が平衡にならずに)曲がって歩く人が、よいですか?  このように歩く人がよいですか?  このように歩くのがよいですか? (笑い)あらゆる人がいるでしょう?  このように歩く人、このように歩く人、まっすぐに、さっさっさっさっと歩く人……。

 これが、すべて合わなければなりません。垂直に合わなければなりません。歩くときに腕を振るのは、四十五度の角度です。それは、なぜ、そうなのでしょうか?  人は、そのようにしてこそ、正しいのです。

 垂直がなければならず、上下がなければならず、左右がなければならず、前後が四十五度です。分かりますか?  それが、そのようにバランスを取って、球形になるのです。

 そうして、球形になってこそ、このように回っても、 このように回っても、このように回っても、永遠に変わらずに、それ自体がそのまま残り、だれもが永遠に保護してくれるのです。天運が、そうです。

 ですから、少しでも間違えば、苦痛が生じます。宇宙の力が追い出すのです。そのような公式法度によって、運動する中央の位置に立ち、そこで暮らそうというのが、存在物たちの存在様相です。これは、宗教観念の世界において言われていることにも合い、運動法則の科学世界においても合致する話です。分かりますか?

 まゆ毛が、一つはこのようになり、もう一つがこのようにゆがんでいれば、どうなりますか?  独身の若い男女が、時が来て、結婚する年になったので見合いをしに行くというときに、まゆ毛が、このようにゆがんでいれば、どうなりますか?

 女性がそうであるならば、男性が見るとき、"あの女性は、なぜ、あのようになっているのか?”と思うのです。また、目がこのようにずれていれば、どうですか? あの女性は、どうしてあのようになったの か?」と思い、鼻が曲がっていれば、"あの女性は、なぜ、あのようになったのか?”と思うのです。

 先生が歩くときに、さっと、(道を外れて)このように歩けば、どうしますか? (笑い)いけません。中の 方へ押し戻してあげなければなりません。このように行っても押し戻してあげ、このように押し戻してあげ、 そのようにして、この間の道をまっすぐに行きなさい、というのです。そうでしょう?  九十度、九十度、四十五度で作動するのです。

 足が、このように行けば、足も合わせてくれるということです。そのようなことを、初めて知ったのですか?  学校では教えてくれないのですか?

 さあ、「(真の)万物の日」なので、人間は、(神様の) 実相的存在であり、万物を代身することができる標本的な実相なのですが、これらを見るとき、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか? ここに、日本人、韓国人、五色のあらゆる人種が集まり、あらゆる種類の人たちがすべて集まったのですが、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか?(「良いです。」)

 韓国人だけに会うことを願ったのに、すべての人が来たら、問題が起きるのです。そうではないですか?  しかし、すべてが集まることを願ったので、かまいません。「韓国人が集まりなさい。」と言った場合に、日 本人が来てもよいのでしょうか?  それは、同一のものになっていないので、そのようなことが起きるのです。

 上でも下でも……。日本人が賢いのは、上と下を合わせることができるのです。右と左を合わせることができます。自分が左側なのか右側なのか、また、前後を知って、前後を合わせることができるのです。

 そのような人を「賢い人である。」と言い、「知恵深 い人である。」と言うのですが、そのような人は、滅びゆく世界においても、物請いまでをしても、滅びることはありません。

 日本は、第二次大戦の時に、物請いをする立場でも滅びなかったというのです。なぜでしょうか?  目先が利くからです。“目先が利く”ということが何かというと、多くの主人に侍る歴史を通して、訓練されているということです。そうではないですか?

 それは、なぜでしょうか?  女性だからです。女性は、そうでなければ、生きていくことができないではないですか?  ですから、世界的に好まれるのが、日本の女性です。わたしは、日本の女性を好みません。日本を本当に知っているからです。顔を見ただけで、すぐに分かります。

 日本の古代歴 史を見れば 、多くの国があり、この人、あの人と・・・・・・。 はべ

女性が嫁いでいく所と、夫が暮らす所とでは、主人 が違います。さっさっさっと目先を利かせて、三年も たたずに・・・・・・。嫌でも、よく目を合わせるでしょう? 日本は、そうですか、そうではないですか?

 先生の友人の中に日本人がいましたが、りっぱな友人の所に訪ねて行って、父親に似ているか母親に似ているかを見てみて、母親に似ていれば、わたしは好みませんでした。なぜでしょうか?

 母親は、島国を象徴するのですが、島国で生まれて、島国で育って、何になるのですか?  それでは、いつも陸地(大陸)を慕いながら、泣いて暮らさなければなりません。そうではないですか?  日本も、そうでしょう?  島国なので、「陸地(大陸)から船が来る。」と言えば、町内じゅうが騒いで、「何が来るか、見てみよう。」と言って、がやがや集まるのです。それが、島国です。それゆえに、アジアにおいて……。

 明治維新の前には、日本人に姓がありましたか?  それについて知っていますか?  知らないでしょう?  日本人は、明治維新の前、庶民には、姓がありませんでした。そのことを知っていますか?  日本の歴史教育において、「姓がなかった」ということを教えてくれないでしょう?  そのことを知らなければなりません。 名前がないので……。名前を自分勝手につけたのでしょう? 「竹下」という姓は、竹林に小さな家を建てて暮らすのを、名前が分からないので、「竹下」にしたのです。田中という姓も、田んぼの中にいるので、「田中」です。川辺という姓は、川辺にいるので、「川辺」です。松本は、松の下です。まったく、このような姓があるでしょうか?

 神様の目は、大きいでしょうか、小さいでしょうか?  分からなければ、「分からない。」と言ってこそ、率直なのです。いちばん手っ取り早いのが、​「『"縦的な真の父母”が天であられ、"横的な真の父母”が文鮮明である』と言うならば、文先生に似たのでしょう。」​ というように……。

 "似ている”ということは、"目が似ている”ということと同じでしょう?  大きい、小さいということを 言っているのではありません。形を中心として、「似ている。」と言い、白目、黒目、目が行ったり来たり、上がったり下がったりするのは、すべて同じで似ているでしょう?

 形がぴたっと似ていてこそ、「似ている。」と言うのですか?  九十九まで似ていて、一つだけ違うからといって、「似ていない。」と言うことができますか?  目が小さいと……。小さくても、目は目でしょう?  

 わたしの母がわたしを生んだとき、三日たっても目が見えないので、引っ繰り返してみると、目が見つかって、「ああ、目玉がないわけではないのだなあ。」と言ったというのです。(笑い)それで、わたしの赤ん坊の時のあだ名は、「小さな目」です。「目が小さい。」と言われて、村じゅうで有名でした。

 "小さなものがよい。」と思っていたのに、小さな目 が……。(ジェスチャーをされる)(笑い)

 カメラの焦点を合わせると、遠い所を見ることができるように、天下のすべてのもの、神様の心の根が、どのようなものであるのかということを解いて、「神様。あなたの心は、こうではあられませんか?」と言えば、神様も、「自分でも分からない。」と言われるのです。

 皆さん。愛に関して知っていますか?「愛は、こうです。」ということを知っていますか?  愛は、丸いのか四角いのか、平たいのか長いのか?  言ったとおりに愛はなります。長ければ、どれほど長いでしょうか? 

 愛には、千里、万里、離れた息子、娘を思えば、一瞬のうちに、そこまで行って、その良し悪しを知り、鑑定することができる能力もあるのです。丸ければ、神様の心情の真ん中で、その部屋ですべての天下が動じて踊りも踊ることができるのです。

 それでは、神様も、祭壇を必要とされるのですが、 どのような祭壇でしょうか?  だれもが、すっかりはまり込むものを置いて、それを見て考え、関係を持った人は、完全にはまり込んでしまうことができて……。

 このようにはまり込めば、目をばちばちさせて、千年、万年、このようにしているというのです。そのようにすることができるものがあれば、うそであっても、一度、はまってみたいと思うでしょう?


<No.2/3に続く>




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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 あなたは、新聞記者ですか?  なぜ、そこに座っているのですか?  何かの鑑定班のようですね。(笑い)

 わたしは、言論人で、会ってみた人がいません。イ ギリスのBBCの編集局長が、韓国統一教会の青坡洞本部に訪ねて来て、インタビューをするというので、「イ ンタビューをして、何をするつもりなのか?  統一教会の手助けをしようというのか?  統一教会のために来たのか?  この人は、出世するために、BBC会社の商売のために来たのではないか?  なぜ、会おうというのか?」と言ったのです。 

 わたしは、言論人で会ってみた人はいません。数多くの言論人をつくって、"下人暮らし”をさせています。 UPI(通信)、世界で指折り数えられる人でも、いつだれを呼んでも、さっと飛んでくるようになっているのです。

 日本の有力なマスメディアの人たちが、米国の大統領の記者会見のためにワシントンに行ってみると、会見席のいちばん前に座っている、いちばん上席の新聞社は何かというと、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ワシントン・タイムズです。

 ところが、ワシントン・タイムズが、その真ん中に座っているのを見て、


Family 2002.19

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Last updated  2024.11.04 17:26:33
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