|
カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「勝利的統一戦線」
一九七〇年一月一日 今、我々は一九七〇年度を迎えました。それで今年の標語としては勝利的統一戦線というこのような標語を立てゝ今年一年を我々は走って行かなければなりません。第二次七年路程における三年路程の三年標語を全面的進撃という標語として立てて行かなければならないということを昨年にもお話ししました。勝利というのを確実なものとするためには全面的進撃という過程を経なくては勝利を確立することは出来ません。 その内容においては前年度と関連を持っておりますが、今年は我々がアジアや世界を中心としていちじるしい責任をなさなければならない時代に入ってきた為に勝利的統一戦線という、このような題目を立てざるを得なかったのであります。 勝利するということはたやすいことではありませんけれども天が今まで復帰摂理を遂行してきたその一つの目的は何であるのかとすれば、勝利することの出来るその日を基準として今まで摂理されたのであります。アダムの家庭からモーセ時代を経て、洗礼ヨハネとイエス時代を経て今までその数千年歴史として歴史が続いてきたその一つの目的は何であるかと言えば勝利という一点、これを成就する為に今まで戦ってきたことを知るのであります。それではその勝利のすべての要因と勝利のすべての願いはそれがいかなる土地、あるいはどのようなところでこれがなされたかという問題を考えてみる時、それは言うまでもなく、今日韓国の地、このところでこればならないということをここに集まった皆さんはよく知っていらっしゃると思います。そして勝利する為には必ず戦いの過程を経なければなりません。 それではその戦いは如何なる戦いであるかというのが問題であります。今日迄戦いが展開してきたのは一国の主権のための戦いではなかったのであります。あるいは我々社会においてのある経済的目的のための戦いでもありませんでした。又、如何なる団体の目的のための戦いでもありませんでした。この戦いこそ天において、或いは地において、或いは全人類が加わっている戦いであります。これは国家と民族を閲越した戦いなのであります。この戦いは必ず勝利を持たらさなければなりません。それではその勝利されうるその一つの基準は何でありましょうか。 勿論そのところとその国は韓国になりうるし、これがなりうるけれどもその勝利するところのできる一つの位置その位置は何であるかというと個人からはじまるのであるし、その個人は誰であるかといえば今日我々自体、一人の男性と一人の女性からこの勝利を確立きなければならないのであります。その為に今まで歴史過程をかえりみると今までの歴史は一人の男を中心として勝利の基準をめざして如何に戦っていくかという戦いであったのであります。そして二千年前、イエス様も戦いの責任を持っていやっした方であります。この戦いをイスラエル民族対その時の時代の世界に対して戦いを展開しようとしたのであります。 いいかえれば、世界人類を代表したイエス、イスラエル民族を代表したイエス、そのイエスは数多き歴史時代を代表したイエスであって今まで歴史を推進してきた天を代表したイエス、その一人の男、一人の人の前に人類が直結されるようになっていたのであります。 この一人の人が勝利をするためには天を基盤として、歴史を背後において現時点から天が追求してきたのであります。そして歴史が願ってきたその個人を通じてなさなければならないすべてのことが完結することにおいてのみ個人的勝利ということを約束出来たにもかゝわらず、その個人的勝利を確立することが出来なかったことによって十字架につけられたのを知るのであります。 その個人が勝利するためにはイエス一人だけではありません。そこにおいてはイエスを中心とした国がなければならないし、イエスを中心とした宗教がなければなりませんし。イエスを中心とした一つの兄姉がなければなりません。このようなすべてのことが解決されてはじめて一人の個人がこの勝利的戦いを決定することができるのを我々は原理を通じて知っているのであります。それではイエスの勝利の要因となることのできる一つの兄弟、一つの家庭、一つの教団、一つの民族、一つの国家、この国家がはじめてイエスという一個人と共に、共同的な運命体になって勝利したという因縁を連結するということによってその個人が勝利するようになるのを我々は知っております。このような基盤において個人の勝利を確立するとき、この個人を中心としての一人の男性を中心として一人の女性をはじめてたてることが出来る。こゝにおいてはじめて歴史上に女性的な勝利の一個人が女性として勝利することのできる決定権がなされるにも拘らずイエスが個人として勝利の基盤を確立して一人の相対理念をなすことができなかったことによって、こゝに十字架のうらみを残していったことを我々は知っております。万一、イエスが個人的勝利の基盤をきずいてきたとするならば、今まで準備されたその国をそのまゝひきつぐことはできないのであります。今の宗教をそのまゝひきつぐことはできないのであります。或いはその氏族であればその氏族がそのままそれをひきつぐことはできないのであります。家庭であれば家庭、兄姉であれば兄姉とそのまゝ受入れることはできないのであります。これを整えるためには必ず一人の男性と一人の女性を中心として摂理して、一人の女性を中心として一つになったというその基準をなさなければ家庭も再びひきつぐことはできないのであり、その氏族もひきつぐことはできないのであります。その国家が民族を引きつぐことができないためにより一層世界を引き継ぐことができなかったということはいうまでもありません。そのために外的な環境を整えることができずして死んでしまったイエスは、内的な基準を決定してこれを確立して外的基準を相続して受けはければならない立場であっにもかゝわらず、外的な基準の前においては外的な基準の前に追われて内的な基準までも失なわれたイエスは、今までこれを再び復帰する為に二千年の歴史をうらみの歴史としてつづってきたという事実を我々は知らなければなりません。 このような事実は今日世界舞台を中心として数多くの国家群があって数多くの民族が住んでいる華麗な文化国が多くあったとしてもその文化国を全半越えて今日のこのような歴史的な全体にかわることのできる一つの解決基盤が韓国ではじまるという事実を韓国の国民として三千万群集はあなたと私という区別なく全部両手を上げて歓迎すべき問題であるにもかかわらず、そうでない歴史的な事実を残したのはこの民族の恥であります。この民族の精神的な指導を任せられた宗教界、その中においてもキリスト教、世界的な子女を連結することのできるキリスト教がこのような時においてここでもう一つの協助の対象となって一つの環境を遂行することにおいての必要な宗教とならなければならないにもかゝわらずここに反共を立てて出てきたという事実はキリスト教においての第二の恥であります。これを換言するとユダヤ教が四千年歴史の結果として成して来たがその結果がイエスを排斥したのと同様に、キリスト教の二千年歴史の基台の上に??成されてきた功労の基台がかえって天の側をふさいでしまったという悲通な事実であります。 このような運命の道において今日の統一教会は闘争をしてきたのであります。その闘争してきたことは個人的な勝利の基盤をきずかなければなりません。その次には宗教的な基盤を整えなければなりません。氏族、それ以上に個人、このようにしてその環境で勝利の決定をなして相対理念を経てこれを再び相続し、受けることのできるこのことをすべきであったにもかゝわらずそうすることができる環境的な多くのことを与えることができなかったことによって我々の全体が異端と同じような立場に立たされて個人的な収集、個人的な解体において勝利的な基盤を収集すると同時に環境を収集してくるのにこのような戦いをせざるを得なかったのが今まで六十年代の戦いであったということを知らなければなりません。 それは何を目標としてきたか。ユダヤ教がなすことのできなかった宗教基盤を我々はきずくあげなければなりません。キリスト教あるいは全体の国民、民族が、或いはこの国家が反対するこのような立場においても今日統一教会の宗教基盤をきずきあげなければなりません。その宗教基盤がユダヤ国家の思想的な基盤を中心としたのと同じように統一教思が韓国で思想的な基盤を中心として影響のおよぼすことのできるその基準まで引き上げなければなりません。この戦いを再び再現させなくては再び民族と共に、又教会と共に、又家庭と共に、又宗教を因縁ずけてこゝに確固たる基盤を築きあげることをイエスがしなければならなかったのでありますが、イエスがしなければならなかったと同じような立場を今まで蕩減してきたのが六十年代まで、今この二十分前、六十年代をすごす我々のこの瞬間までの戦いありました。それでは宗教を立てるのにおいて、宗教は今、既成世代のそのような宗教圏内にたてるのではなく、それは新しい舞節にたてるのであります。そのために歴史的すべての国は我々と敵であり、歴史的な宗教、歴史的な氏族、歴史的な家庭、歴史的な個人は我々の敵にならざるを得なかったのであります。 このような立場で、今日まで追われながら我々は新しい宗教を中心として国家、民族の前に影響を及ぼすことのできる基準にまでいかに引き上げることができるか、この戦いが六十年までの戦いでありました。これが我々においては六十年代の戦いであったけれども、天においては歴史以来の戦いであり、イエスから今日に至るまで二千年闘いであり、イエス以後に出てきた数多くのキリスト教と信奉していた殉教烈士達は今までこのようなうらみをはらんである時はまちにまって期待してきた戦いの場であることを我々は知らなければなりません。このような厳粛なる課題において我々はこの七十年代を迎えるということは、今我々においてこの民族におよぼすことのできる統一教会という教団を整えるようになったのであります。この教団の中において我々としての団結された一つの氏族があります。一つの家庭があって、一つの兄姉があるという、これがちがうというのであります。これがイエス様時代とちがうということであります。このためにイエスが宗教を中心としてユダヤ教を統合し、宗教を中心としてイスラエル国に向って進軍することのできるこのような時の時代内へと越えていくことができる時が曰く七十年代ということを皆様は知らなければなりません。これが七十年代であります。今日共にこの場を共にして七十年代を新しく迎えるこの朝から我々が成さなければならないことが何であるかというとユダヤ教を代身とした我々統一教を中心としてイスラエル民族を統合しなければならない使命的な分担を遂行しなければならないはじめのスタートだというのがこの瞬間であります。 それではこの立場で見る時、個人的な勝利の基準はすでにすぎさって家庭的な勝利の基準も決定され、氏族的な勝利の基盤を決定させ、新しい舞台に向って進出することはイエスがこの地上にきて天のみ旨をそのまま受けることができるユダヤ教とイスラエル国に対していた時代圏内にはいるのでこの時代圏を天は準備してきたことを歴史を通じてなしてきたと同時に外的世界がここに波調が統合することができるようにその思潮を押しに押して我々を門の前まで引いてきた結果が今日この情勢であることを知らなければなりません。ここで波紋だけでも投げたならば新しい歴史がアジア的、世界的に波打つことができる時が今、七十年代だということを皆さんは知らなければなりません。そして今まで我々が恨みの蕩世代であり、くやしく代償をおさめなければならない時代に住んできたけれど七十年代からは新らしい歴史時代に入るのを皆様は知らなければなりません。今我我がこの国、この民族の為に戦うこの時は栄光の結実としておさめる時であるのであります。過去においては、十ぺん植えて一度おさめることが難しかったし、百ぺん植えて一ぺんおさめることが難しかったのであります。 今までそれ以上に天は六千年の間苦労の功栄をたてゝきたけれども今日、我々の時代においてはそのような時代は過ぎ去ったのであります。今は情と熱を合わせてこの七十年対相を中心として、三千万民族と三千里半島に私の血と汗を流せば、それはそのまま我々におさまることができる平面的時代のすべての条件が集ってくるということを知らなければなりません。 このような観点から見る時、今般祝福家庭を全体的に立たせたのは、今まで祝福家庭が天の前に責任をなさなかったことの事実を蕩減できる天の一つの愛であり、七十年代を統一家庭として、統一教団として新らしいイスラエルに向う責任を遂行す旗をその誰よりも思いもよらずにもって出て、この朝において心を一つとしての国家のために我々は責任をもぴて四十日伝道に出て天の前に真をつくすことができるのであります。我々は統一教会人として今迄蕩減しなければならない使命を十二分に果すことの出来なかったことを許してもらう良いチャンスとなることができるのであり、新らしい時代を迎えるのにおいての恥しい多くのことを、これをカバーできる一つの絶対的な要因となるために今度家庭の夫人達を全面開拓に追い出す原因もこゝにあったのを知らなければなりません。 さあ、それでは今、勝利的統一戦線だと言ったけれどもその統一戦線はどこからひろめるべきでありましょうか。今、話したのと同じように一人の個人であれば個人、一人の男性であれば一人の男性から、一人の女性であれば一人の女性からそれは私の心と体を中心として統一戦線を構成しなければなりません。私が出世して、私がよくなるためのものではありません。私の願いの家庭がよくなるためのものであり、家庭を復帰するための私自体においての心と体を統一させるのであります。こゝに苦難があったとしても愛する家庭を救うために完全なる男性、完全なる一人の人とならなければ救うことが出来ず勝利的決定基準をなすこともできないのが歴史が今迄つゞってきた願いであったのでこの願いに立脚して一人の男性、一人の女性にならなければなりません。自分の家庭であれば自分の家庭に影響をおよぼすことのできる、言いかえれば私の心と体を統一させよう。私の心と体に三十八度線が横たわっているのでこれを打開してしまって統一させなければなりません。統一の運勢をここからはじめなければなりません。我々統一教会家庭夫人達においては自分の心と体が一体となるのが勿論であり、その一体になるという事は私のみ旨であります。天のみ旨であると同時に世界のみ旨であり、そのために巨大なる天地に志をもってそのみ旨に順応する三個体の統一性を確立するために私の心と体を中心にして統一化運動をしなくてはなりません。いいかえれば心と体がたたかっていて、心は心のまゝに体は体のまゝに動いてはなりません。心がゆくところに体もついてゆくことの出来る勝利的統一戦線をひきなさい。そうすることによってその個人達はそのような家庭、その家庭を中心として父母は完全に子女と一つになることのできる家庭的統一戦線、家庭を中心としてその次には氏族的、金さんであれば金さん氏族、氏族的統一戦線をひかなければなりません。こうすることなくしては家庭的勝利的基盤において安息することの出来る個人の基盤がないのであります。そのために家庭的勝利を整えた上においてのみ、個人的勝利の安息所が生れることによって、個人的勝利の統一戦線を整えたその人は、家庭的勝利の権威をもって戦うことが出来るのであります。そして一つの家庭は一つの核心となり一体となって、これが主体性をもってその次には自分の氏族であれば氏族を中心として連結あせて統一戦線を引くのであります。それではこゝに数多く、我々の金さんだとか朴さんだとかいろいろな多種多様の名字が集まっているけれども、この名字は一つにならなければなりません。これが一つに連結されたとしたら民族を動かすことができるのであります。我々統一教会全部が一体となりうるときは、世界も一体にならなければなりません。いいかえれば我々心と体が一つになって目的のための縫え戦線を成すようになった時はアジアを……。アジアを中心として世界に発展してゆくのであります。この観点からみる時、統一教を中心として今や国家民族を中心とした統一戦線を引かなければなりません。これが現在我々が処している立場であることを確実に知らねばなりません。 そのために今統一を追求していく我々においてはこゝに必ず勝利することのできる武器がなければなりません。信念がないところにおいて力がでないのであります。信念があるためには理念がなければならないし、理念があるためには思想が成立しなければなりません。思想ということは何であるかというと世界観であれば世界観、人生観であれば人生観、このような世界観を中心として体系づけられた論理なのであります。論理体系的な思考、言いかえればそれは何として表示されるのかと言うと、結局真理と表示されるのであります。真理なくしては理想が真理なくしては理想が成立されるのではありません。理念がなくては力がでないのであります。それでは今まで歴史は何を探してきたか、統一することのできる統一名案を模さくすることのできる一つの真理、一つの思想体系、一つの理念であります。こゝにおいて国家民族を超越して、民主主義であれば民主主義という特定民主圏を中心とした民主主義でなく、これは超国家、超国民的な立場での民主主義であり、共産主義であれば共産主義の特定国家を中心としたそのような共産主義ではなく、超国家的な立場で、今まで主張してきているのであります。そのように未来においても我々が勝利的統一戦線を模さくするためにおいて我々統一思想を中心とした歴史観、あるいは歴史観が確立され、こゝにおいて時代観が確立され、未来観が確立されていかねばなりません。この理念こそ我々歴史がまちに侍っている理念とならなければならないし、今迄復帰摂理を追求してきた教多くの先知先烈達が探そうと苦労したのは勿論であります。 この歴史を動かしてきた天があるとすれば成就させるために、これを表わすために今までがまんして認耐し、戦ってきた願いの結実体になることができるこの真理の顕現がなければなりません。この真理を中心としたこの運動が今日、統一教会の統一運動であります。それでは今日統一教会が願っているその統一真理はどんな真理でありましょうか。共産主義が言う真理よりもあるいは民主世界が言う真理よりも天と人間それ自体において一つとしての公に要することのできる一つの真理理想として登場しなければなりません。そのようなものが統一教会でいう原理観とならなければならないということを知らなければなりません。そうするために今日我々は今まで思想統一を叫びながらまいりました。言いかえればその真理を中心として皆んながこういえば甲という人も同じであり、乙という人も同じであり、金さんが見る世界観も同じであり、朴さんが見ている世界観と目的観も同じでなければなりません。そして、行く目的が同じならば同じであるのでその目的を中心として、真にみ言を中心として如何にみ言が正しいとしてもこのみ言がそのまゝみ言として残っている限りにおいてそのみ言が指向する世界は成立されないのであります。み言を中心としてその勝利されたその世界観は変わらいのであります。それではそのみ言を中心として統一されなければなりません。統一するためには如何にしなければならないのか。行動がはじまるのであります。その為に今日迄我々は行動統一を強制してきたのであります。心情統一、行動統一、理念統一を強化しているのであります。 それではどのように戦ってきてどのように願ってきたのか、それは目的成就のためでありました。それでは真理が追求する目的成就が何であるか、今日行動を通して追求する目的成就は何であるか、み言は良いけれども行動は良くない。とすればその人は人格者にならないのであります。そのためにみ言と一致することのできるその人格と、その人が願うのが何であるか、その目的が何であるかとしてみるとき、この目的は天の創造目的と一致されなければなりません。創造主があれば創造主が人間を創造する時の本来の目的と我々が探し求めて来た目的と一致されなければなりません。その目的基準が何であるかというとこれが心情問題なのであります。 男子の前においては相対的存在が必要であります。家庭においては必ず家庭を中心として相対的心情的基準が必要なのであります。そのために一つの家庭があればその家庭を中心として、一つの氏族があれば氏族が成されるようになるし、この氏族を中心としてより大きい心情的目的を追求してくるのがこれが愛国始祖であります。国を愛することの基準があれば世界を愛することができます。そのために博愛主義だとか何とか言うことを言います。その目的はどこに帰結される五であるかと言えば心情問題に帰結されるのであります。そのために我々が理念統一、心情統一、行動統一ということを中心として今まで我々が呼びおこしてきたそれが何であるかということを、これを我々統一教会で歩んできたことを通して簡単に要約すると、理念統一はみ言を中心てしたことばであり、行動は何であるかと言えば心情を中心として、心情は何であるかと言えばみ言の実体で人格者として心情を中心としたものであり、中心とした言葉であります。そのみ言が何であるかと言うと人格が何であり、心情が何であるか、これがエデンにおいて別々になって全部別れてしまったのであります。み言はみ言のまゝに人格は人格のまゝに、心情は心情のまゝに別れてしまったのであります。これが堕落であります。アダム、エバが堕落することによゃて天のみ言はみ言のまゝに分裂してしまったのであります。天のみ言を通じて実体的一体がなされることのできる人格完成が可能であったアダムの人格も失ってしまったのであります。そしてその完成された人格を中心として成さなければならない心情も全部分立されたのであります。これが全部別れ離れに分散されてきたのであります。そのために今まで歴史は何を追求してきたのでありましょうか。天のみ言、真なる真のみ言を立てりために戦ってきたのであります。真の人間を中心として真の世界を中心とした愛を立てるために戦ってきたのであります。統一教として言えば、なるというそのようなことは過程を経るために今日堕落した人間においてはみ言審判過程を経てゆかなければならないし、心情審判過程を経て進んでいかなければなりません。なぜそうであるか、皆さんはみ言の制体ではなく、今日我々なみ言を中心として関係のない人達であり、そのみ言と一致された人格者でもないのであります。これが破綻してしまった堕落者であり、そのためにそこになされる愛もそれは別れ別れに離れてしまうのであります。完全なものではないのであります。全部過ぎ去ってしまうのでこれを再び収集しなければならないので蕩減条件が必要なのであります。そのためにみ言審判あるいは人格審判や心情審判という名称が出るようになったのであります。 さあそれでは根本問題にもどってみ言と人格と、心情をどのように通過させるが、これを如何に皆さん自体において結実させるか、み言はみ言のままであって、人は人のままであって、ここにおいて心情は心情のまゝであったとすれば、今迄問題は人がいなかったということではありません。人は多かったけれどもみ言がなかったというのであります。み言と一体とならないうちには天のみ旨を成すことができなかったので人間が今日までみ言をさがして求めてきたのであります。それでは今日、統一教会はこのみ言があったとしてもみ言と一つとなることができなかったのでみ言と一つになることが歴史的願いでありました。一つとなって何をするのでありましょうか。天の愛と一つになるのであります。そうするために皆さんが個体において天が公認することのできるみ言をどのようになして、その実体がもつことのできる天の愛と如何に一致させるのかとする問題が今日我々においては一番重要な問題であります。イエス様自身をおいてみる時にイエス様は如何なるお方であったか、天の内在的な心情にかわることのできる人格を引き受けたものであり、心情を引き受けるものゝ天の願いを成兆させうる内的事情、言いかえれば真理をみ言を引き受けるものでありました。イエスは天のみ言がなされたものであり、天のみ言の結実をおさめることができる人であり、天が今まで創造理想として持ってきて理想としてつくってきた人であり、つくられたその理想的な結制と収穫することのできる理想的な制体であり、天のそれ以上、天のその理想的な結実を収穫し得る実体と共に愛の因縁を完全に整えてでることのできる方がイエス様でありました。しかし、そうすることの男性の前にそうすることのできる女性がなかったというために、今までキリスト教は新郎新婦を中心として二千年歴史をつづってきたのであります。まちがいない事実であります。 それでは皆さん自身に一番適応するのは何でありましょうか。勝利的統一戦線を皆さんの個体の中において如何に展開させるのか。そこにみ言が必要であるというのであります。人格が必要であり、心情が心要であります。み言のみではなりません。問題はここに帰着しているのであります。私がより貴重であるか、私が貴重である以前にみ言が貴重であるかを反省することのできない人は統一戦線の役軍として立つことができません。それでは、今日統一教会が今まで戦って成してきたのは何でありましょうか。み言を中心としてもっと進んで戦えというのであります。その戦いはなぜ戦わなければならないのか。堕落は一線ではじまったのであり、堕落はいつの間にか家中で起ったのであります。境界線で起ったのでありますために境界線にいかなければなりません。失ったものを捜すためには失ったところに行かなければなりやせん。このようにして何をするのか、何をもっていくのかみ言をもっていくのであります。今これが相反してはならないのであります。これ、どこから別れたのか、み言、人格、心情、全部がどこから別れたのか、アダム、エバ、一人でやったのではなく二人でやったゝめに天国は一人でははいれないのであります。この観点から見る時、今日統一教会が提示したのは個処の救援、完成ということはあり得ないのであります。家庭救援、完成というのは今まで宗教歴史上になかった新らしい分野を開拓するのであります。そのために家庭という基準を徹底化させるためにここを徹底化させることのできる宗教の権限が可能であります。家庭という基準を徹底化させるためにその氏族と氏族が連結される民族を編成することのできる理想が可能だということであります。民族を中心として国家は形成されるのであり、これがちがってきたのべあります。それではいかにして皆さん自体内に統一させるのか、世界を統一させる五は問題ではありません。しかし皆さん自体内において別れて心と体が毎日戦っている五であります。天のみ言によって収集しなければならないのであります。天に愛されるそういう人でなければなりません。これであります。我々はこのようにはなっていないのであります。私は私を立てておいてそうだ、天がしなければならない、そのようにはなっていないのであります。これであります。私が言うことと、天がそうだ、認定せざるを得ない。このような実体を整えて生活圏内で私を中心としてどのようにこれを統一化させるのか、どのように統一戦線を構成するのかという問題が何よりも一番貴重なものであります。今年に入ってこれを皆さんが実感として感じなければなりません。そうすることのできる私たちになったか、ならならなかったか、でてやってみるのであります。私のある誠を全部つくして、み言集をやって実行してみるのであります。そうする時にはみ言を中心として天と共にいる二四を知らなければなりません。そのことによってそのみ言を通して天と連結されるのであります。み言なくしては天と連結することができないのであります。天のみ言を中心として天と人が連結されるのであります。 こうすることなくしては連結点を持つことができないのであります。そして実体がこれを持たなくては何をすることもできないのであります。 これであります。連結されるのにおいては、この目的は何であるか、これは天の愛であります。言いかえれば天の愛を中心として連結されると同時にそのみ言を行う人は地上の人間であります。これであります。それでは人を通して語られたみ言が天と共になされたみ言になるために、そのみ言によって新しい人間として生まれかわることによって又生まれかわることができるために、私自身が授け受けることは授け受ける基盤に立って完成基準を整えることができるのであります。原理見解がそうであります。授受しながら繁殖するのであります。そのために、そのみ言に天が共にいることによってその相対的なそのような存在が復活されるその立場に私がひとつとなることによって、こゝに確固たる自己自体を整えることができるのであり、この実体を整えることによってそこで天の心情面において体恤的な問題がはじまるのであります。その程度の深さと広さが大きくなるに従って天の心情の比重によって体恤が出てくるのであります。そのために、そのみ言を通すようになる時もみ言を中心として天の心情が躍動しているのであります。そのみ言は人は如何に堕落した人であってもみ言に接するようになると自分も知らないうちに天の心情が芽ばえてくる為でであります。天の信念が芽ばえてきて敵と敵対視することのできる力が発揮出来るのであります。それは主管することのできる基盤的な力が発動するためなのであります。それではみ言を一人料が知ってもっていたとしても絶対力ではないのであります。天をいかに誘発させることができるかという問題を置いてみる時、皆さんを今まで開拓伝道をさせてきたのであります。それはなぜそうしたのか、サタンが第二対象を中心として繁殖することによって堕落したために我々が天を中心として繁殖、行動をすることによって復帰されるのであります。そのために皆さんが降りて行って私を仰ぎみながらあがってくるのであります。私は統一戦線を整えて、み言を中心として人格を中心として、心情を中心として私自体内にみ旨を実体として完備することのできる自我を如何に発堀するかという問題が統一思想圏を中心として私個体において、家庭にむかって進出するか否かという問題が決定されるのであります。この基準を解決しないうちの迫害を受けてきたけれども屈服しなかった意志を中心として、天命によって生き、天命によってぶたれてきたのでであります。しかし、家庭をもった以後においてはその家庭はどのようにこゝに一つにさせるかという問題、こゝにすべての真を個人よりも倍加、忠誠つくせねば解決することはできないのであります。そのような基準を中心として影響力をおよぼすことのできる肢体をどのように決定するかという問題がより大きな問題であります。言いかえれば個人においてのみ言を中心として統一的家庭を中心としてこのような統一戦線を確保しなければなりません。その家庭がみ旨と共に一体化してそこにおいて天が立証することのできる基盤を作っておいて教会と共に、あるいは宗教と共に、あるいは国家と共に発展現象を展開して世界化運動をどのようにさせるかというのが今我々が行かなければならない戦いの路程においてひろげなければならない統一戦線であることを知らなければなりません。私個人が一番貴重だということを皆様は知らなければなりません。私個人が一番貴重だという、これが天運の愛であり、天の愛が如何にあったとしても私自体が受けることのできないその愛に相対的な条件を整えなければ何の関係もないというのであります。天が如何に善だとしても私がその善なる方の前に相対的、人格的構成を整えなければ私と何の関係もないというのであります。これでであります。天のみ言は如何によいとしてもそのみ言と共に私が再創造の能力を連結させることが、連結することのできる相対的条件を整えなければ何の関係もないのであります。これを簡単に言いますとこのような個人を中心として家庭となるのであり、家庭は個人と一つとなって家庭となるのであります。この家庭なくしてはならないのであります。何一つかけてはならないのであります。いいかえれば主対と対象が授け受けることのできる、お互いが我々統一教食口であれば食口の間において、あるいは祝福を受けた家庭は家庭同志、ともどもが協助し合ってみ旨のために生きなければならないのであります。 こゝに授けて受ける授受作用というのは何であるかと言いますとこゝに天が今まできづいていらっした天が今まで降りていらっしたのであります。今日祝福を受けた家庭達が天を中心として、み旨を中心とした生活をしてきたかというのが問題であります。そうすることができなかったのであります。天が臨在してこれを中心として、この肢体を中心としてこれが相対となって授け受けるようによってはじめて天の愛が形成されるのであります。このような家庭ができ、その次には氏族を中心として主体となるのであり、これが氏族であります。この氏族を授けて受けるとこの氏族を中心に天が運行する、天の愛を中心として連結されるのであり人間の愛を中心として手段と方法が私の方便でもって一つになるのではなく、物理的そのような条件は何の関係もないのであります。天の愛を中心として氏族と氏族が一つとなる。これであります。親戚と親戚が一つにならなければなりません。ひとつの目的を中心として共に行かなければならない、その群達が確心的な路程を天を中心としてはじまるためにその道をつきぬけて入らなければなりません。こうすることのできる立場ではじめて氏族を中心とした愛が形成されるのであり、愛の氏族、愛の環境がはじまるのであります。これはこうすることによってはじめて、この次にはこの氏族を中心としてその次には何であるかと申しますと、ここから氏族がはじまるのであります。こゝに授けて受け、この中において天が臨在することによってこれが民族を中心とした愛の環境となるのであります。このような民族を中心としてプラスされて愛の、天の愛がこのような基盤の上で国家を中心とした愛の世界とすることができるのであります。天の目的が成就された世界となるのであります。全部が同じであります。個人においては心と体が授けて受けなければ天の世界が成されることができなく、そうするためにいつも個人を中心としてみてもこの基準は天の愛でありこれが世界まで行く時に結局はこれがなされる時、地上に天国がなされるのであります。いゝかえれば天の愛を中心としてそうなるのであります。 我々原理からみると二性性相がなぜ必要であるのか、二性性相があるのは必ず二性性相がなければ創造的調和はなすことができないのであり、創造に必要なのであります。これであります。二性性相があることによって授けて受けるために、授けて受けることによってはじめて天の骨と肉と、天の骨と同じであり、肉と同じとなるのであります。こゝに一つの形態がはじまるのであり、それが天の二性性相の自体であるために天を中心として具体的な相対世界が、これは生まれざるを得ないのであります。二性性相が必要なのは創造的美を増すためであります。そのような主体と対象があるとするはら必ず授け受けなければなりません。授けて受けるその目的は何であるかと申しますと天に侍るためのものであります。天の愛をうつすためのものであります。 そのために国家主権者であり、主権者を中心として国民を授けて受ければその国民とその国家主権は主権と主権者と国民が一つとなってその国の、その世界の流れている国運がこゝに臨在するのであり、これが世界理念を中心としてそのような国家となされる時、国民が一つとなったならば、天運あるいは世界運勢がこゝに臨在するようになるのであり、天のみ旨を中心として一つの肢体を中心として、一つの国家なら国家が一つとなれば天運がこゝに働くのであります。一の国民が興るか、あるいは滅びるかということは何を見て知ることができるかと申しますと、その国家、国民を中心として見る時、知ることができるのであります。その主権者とその国民が如何なる一体化がされているかという問題がこれからの発展の如何を計ることのできる尺度であります。国家主権者を愛するか、国家主権者は国民を愛するか、その愛が自己を越えて共同目的である国家という到底その前においての主権者はそこから吸収されて国民もそこにおいて吸収され、一つの合性体を形成するのにおいての天の愛の環境がはじまるのであります。これが原理見解であります。 個人的な完成もそのようにして、家庭的な完成もそのようにして、氏於的な完成も民族的な完成も世界的な完成も結局は天を中心とした統一戦線であります。勝利的統一戦線であります。勝利的統一精神が何であるか、この場であります。この場が統一されるのであります。個人においても心と体が一つになって天の愛が臨在されなければならないのであります。皆さんの心の中において、今、自ら今まで感じることのできなかった無限なる天の愛が臨在されるか、これが個人から家庭へそして一つの家庭が行くことのできる天の愛の氏族が行くことのできる、天の愛が臨在し、民族がゆくことのできる愛の臨在地、世界が行くことのできる天の愛の臨在地が統一戦線であります。結局は天の愛を持たなくては、天の愛なくしては発展することもできず、天の愛を持たずしては存在することもできないということであります。そのためにキリスト教の本質は生命そのものよりも生命の校質を愛においたのであります。これは我々統一教会の愛として今我々生活環境において、社会的なすべての環境と対比して我々が行かなければならない統一戦線であります。それでは私一人個人がこれを行くためにこゝにおいていろいろな冒険があれば冒険を打開して犠牲をしなければならない。ある程度の犠牲の代価を払ったとしても必ず、この道を行かなければならないのであります。本来人間は家庭以外の道ではなく家庭を基盤としての国、国を基盤としての国家、国家を基盤としての世界、世界へ行くことのできる天宙というものすごい、最後においては天と私と親子関係に入っていくのであります。世界的基盤を整えることのできる心情的因縁を持たずしては天の真の子女となることができないのであります。アメリカを愛する国民を持って天の子女となることができるか。これであります。そのため国家、民族を超越しない愛を中心とした国家、民族というのはその看板、そのワクをこえることができない。これらの主義、思想は世界を指導することはできないのであります。人間は個人を中心として、私を中心とした主義は国家を越えることができません。 多くの国あるいは先進国家というのは国家をわくてしていながらも、公的人民度が高く人々は国法という法を中心として順応することのできるその限界線を保護して育成してゆくというのであります。未開なる民族は国家間もなく、私、自分の子供だけであって天にかけ離れるのであります。このようにかけ離れ来たのが未開の民族であります。先進国家というのはその基準が高いのが先進国家であります。それではこれから先進国家以上の人達は何であるか。世界を自分の国よりももっと愛する民族、愛することのできる民族、その主義が出てこなければ世界も指導することはできません。 ソ連の共産主義もソ連というワクを越えていませんし、アメリカという民主主義もアメリカというそのワクを越えることができないのであります。如何に大声をあげて逃げたとしても、如何に大きな声をはりあげたとしても滅びるのであります。これから統一思想を持たなければならないということは何であるかと申しますと一つ民族以上に世界を愛することのできる主義とならなければなりません。 それは韓国の人が滅びないのはなぜでありましょうか。世界を訪ねていくと韓国々民はどこへ行くのでありましょうか。天の前に一番の主体に入っていくのであります。我々が開拓する目的がどこにあるのか、私のために開拓するのではないのであります。天の世界的愛を植えつけるためにやっているのであります。この国の、この民族に天が天の愛を植えて、三千万民族が天の愛を分配させてあげるさめに私がそのような大きな使命を受けたのであります。これが素晴らしいというのであります。その時なぐられるところにおいても私が一人でなぐられているのではなく世界のためになぐられているのであります。もっと打って、歴史に叫弾してきて、歴史を叫弾することのできる世界、愛の世界を防害してきたサタンよ打て! 私がお前よりも力が強いのにもかゝわらず叫弾をしないのだ。 自分の民族圏内にあたるために導いていくのであります。イエスがそのような意味において全部をすべてを成したというのであります。天のみ旨とイエスのみ旨がはずれてはならないのであります。イエス自身のみ旨はイスラエル民族と国のみを考慮してきたのであります。しかし、天は世界をながめていらっしゃるのであります。世界を愛する天の立場とイスラエル民族を愛することの立場はちがうというのであります。天のみ旨と私のみ旨とちがうのであります。皆さんはこれを知らなければなりません。自分の家庭の中においてのみ楽しんでみなさい。そうしているうちに滅びてしまうのであります。その次には基を堀って死ぬのであります。大韓民国を愛しこれと共に生きて、これらを愛し、愛して私は生きるという時に大韓民国の垣根の中に墓を起していくのであります。それが愛国者であります。イエスのような方はなぜ世界的な垣根の中に墓を残したのか。 これがキリスト教であります。 イスラエル民族を失ったその恨みがあったとしても世界人類を探さなければなりません。敵を許して私が探すことのできる未来、民族あるいはローマとならなければなりません。このような観点において敵を許すのは当然なのであります。 このような観点から六〇年代、我々統一教会は敵までも許してきました。私がこの統一教会の垣根の中に限界圏内でくさっていく人ではないのであります。 大韓民国と三千万民族を越えて世界に行かなければならないために、私が教会の前でプレゼントを全部あげて解放の歴史を終えればその次には何をしなければならないか、三千万民族を全部勢えた日には何をすべきでありましょうか。反対する人に全部与えなければなりません。時間の問題であります。いずれ私の敵を結んでくやしく思いながらも訪ねなければならないのが何でありましょうか。心を大きくもって与え、すべてを配給することのできる心を持って与えるのであります。 そうすることにおいて時間ときうのが問題であります。このために今日統一教会はそのようなゴームをしているのであります。このような戦線を広げなければなりません。それは統一教会ひとつを中心として統一教会ひちだけをもってしてはできません。やることができません。既成キリスト教にも影響を及ぼさなければなりません。このようにして三千万の民族・数多くの団体達に影響を及ぼさなければなりません。大韓民族を中心として進んで日本とアジアを中心として連結しなければなりません。今、そのゲームをしているのであります。 しかし日本を韓国は昔から敵であって共にことを成すことのできない世間的な考えがあるために歴史的な敵国であったとしてもそれは問題ではありません。主対と対象に対して統一戦線を広めよ!! これであります。日本と韓国の中において天の愛を立てよ、その天の愛は、民族の愛よりももっと強いのであります。 伝統的な愛よりも、歴史的なすべての愛よりも強いためにその愛に接するようになる時には民族も超越するのであります。この統一戦線をひろげなければならないのです。それはどこからはじまるのかと申しますと、はかり知れない事実が可能となる時代圏を前に、眺めるのにおいてこの七十年度を力強くはじめなければなりません。 それでは個人から勝利的統一戦線をひろげるのにおいて勝利的統一戦線が何であるかといいますと、天の愛を中心として心と体がひとつになったそこにおいて天を中心として復帰していくのであります。授けて受ければ必ず繁殖がはじまり、繁殖がはじまったならば天が臨在していらっしゃるために繁殖がはじまるのであります。天をおきざりにして繁殖ははじまらないのであります。 天地創造原則であるためであります。天からの動機となっているために天の愛の目的のために繁殖がはじまるのであり、何故繁殖がまずはじまるかと云えば天が臨在して授受作用するためであります。このような統一戦線勝利的統一戦線を個人から家庭に、氏族から民放に、国家から世界に、それでは我々現在統一教会の立場が如何なる立場であるか、民族を中心として国家の国家の方へ行こうこと位に高らってきたというのであります。我々統一教会は今民族と国家に及ぼすことのできる時代圏内に入ってきたのであります。このために我々の前においては世界的な情勢は我我のために万全の準備をして門の前まで来たというのであります。一つだけ突破口を開けば飛ぶようになるのであります。コーブコネデーの人口衛生、アポロ十一号もどうすることもできないのであります。火をつけておけば飛ぶようになっておるます。さあ、そうすることのできる時を迎えていかなければならないためにいかなる道においてもすぐ行ってかえって来なければならないのです。それでは私自身においても私の心と体がある認識よりももっとみ旨に対する認識が強いかと云うことが問題なのであります。心よりもみ旨に対する認識がより強く動いているか問題はそこにあるのでであります。強い磁石は引き出しておいてもそこにくっついてしまうのであります。 私の心の中にみ旨という強い力が天との愛に生き天をなつかしがり、天を思い、天五みのために生きるこのようなすべての心よりも強い認識が徹底して確固たる基盤が私の心の中にその何をもってしても又、肉体がなくなったとしても、心がなくならない限りにおいてそれは残すことができるか、これであります。 イエスがそのために死んでしまったのであります。それでは全部を成したというのは何でありましょうか。その心を中心として残すことのできる相対的要因を霊的に残したというのであります。今まで皆さんはこれがはっきりしなかったのであります。これをなすためにはどのようにしなければならないのか、すべて蕩減路程を経なければなりません。 これは一代、一路においては不可能なものであります。そのために蕩減路程を立てていくのに皆さんは全部条件物であります。さあ、このような皆さんが勝利的統一戦線を自己を中心にしてこのみ言を中心として経ていくのであります。そのためにはこの主体と対象関係を経てこれが個人から家庭、氏族、種族、民族から国家、善が歩む道は何であるかといえばその道はより大きいもののために小さいものを犠牲とするのであります。このようになるのであります。個人よりも家庭が大きいでしょう。個人がいかはければならないその道はどこにあるかといえば家庭であります。処女とチョンガーが行かなければならないところは何でありましょうか。結婚であります。そうであります。そうじゃないですか。それでは何でありましょうか。家庭とか人々が男子、女子が行かなければならない目的地は何であるかといえば家庭であります。家庭は何を求めてゆくのでありましょうか。子女達であります。 子女達は何でありましょうか。兄弟がはじまるのであります。氏族の目的がなされるのであります。家庭と家庭の目的は何であるか。何故子女達を必要とするのであるか。統一戦線何故子女達を必要とするのか、個人の目的は何であるのか、子女達は何のためにあるのか、それは氏族編成をしようとするのであります。氏族編成をしてそれから何をしようとするのでありましょうか。自分の氏族が多くなればなんでもできるのであり、民族がはじまるのであります。民族は民族となって何をすべきでありましょうか。国をつくろうとするのであります。そして国家をなしたならば如何になるのでありましょうか。ありましょうか。国家は誰かを中心として中心を立てるのであります。 今日民主主義式でいえば大統領というのがあって国民の代表として立っているのであります。民主主義は人民の政権といわれていますね。それは我々の家庭の中の兄という立場であり、兄がかわって苦労しているのになぜ嫉妬し我々兄弟がはかせになるのに我々はいやだといって共に私をねらっていった敵であると何故いうのか。つまりその父も喜び、兄弟も喜ぶそのような社会がなされないのであります。そのために個人が目的とする家庭であり、家庭が目的とする子女であり、子女を中心として子女が目的とする家庭がはじまるのであり、家庭の四位基台を復帰してその四位基台復帰を中心としてもっている皆さんが一つになればどのようになれか、氏族となってその国家となっていくのであります。それは確実なものであります。そのようなモデルケースの家庭が一つつくれれば世界家庭となって一つ一つ組となって三〇億人類も出てくるし、天国は如何ところになされるのかといいますと天国は国がある以前に氏族がなければならないし氏族がある前において家庭がなくてはならないし、それがなくて国がなるわけがないのであります。 今日キリスト教はイエスを信じて天国へ行こうとしていますが、天国は父一人で行くのではなくイエスも妻ももたない男であったために一人で天国に入っていって楽園に行って待っているというんであります。楽園に二千年の間知らずしてそのために新婦を探し求めて、そして婦人が死ねばそのだんなはなぜ涙を流すかといえば第三の目的の子女を探して得ることができない。得ることができる地的をなす道がふさがれているために死ななければならない。代行するしか道がなかったのでありました。それをなさなければ倒れるのであります。みなさん、電気をみるとプラスがあるのにそのマイナスが生じなければそのプラスも消えてしまうと同じようにそれが人生の道であります。男子は女子と結合して家庭をなせば子供達を持たなければなりません。子供達がいてその子供達一人で生きるのではなく自分の「親戚」おじ、いとこ全部必要だというのであります。少くとも天の子女となるためには世界的な人間にならなくてはなりません。この天は今、私のものである。そのような人にならなくてはならないという話です。そうする為に環境を全部超越して垣根の人々を全部解放させて世界は私のものである。そうだ、世界はそうでなければならない。それがなされてなかったならばすべての文化圏が分かれ言語が分かれこのくだらない、きたない中にしみだらけの中に全部しみ入ってしまうというのであります。これを全部後かたずけしてしまって天が喜ぶことのできる言葉も一つ、言語も一つつくって全部生活も共に生活をして働くことも全部一諸にしなければならないというのであります。一つ五国の計画を中心としてこの白頭山をほりかえそうとするとすれば堀りかえすために全部がシャベルを持って出て行く、我々統一教の群れはそうなっているでしょうか。私はよくしようとすればよくすることのできる自信がありますよ。我々統一教会に反対していた父母の墓を堀りかえそうとする時、気持よく思わないでしょう。勝利的統一戦線がどこにあるかといえばこれであります。しかし、だからといって統一教会統一戦線をつくってこれから大韓民国大統領をしょうとするのではありません。誤解しないで下さい。何か間違った人達は何か間違って聞くと人々がいっていろいろな話を全部します。統一教会で統一戦線をひろげて現政権を破壊しようと現政権を破壊して何になりましょう。アジアを堀りかえして自分のものにしようとは思いますけれども現政権を堀りかえして自分のものにしようなどとそんな小さなことは思いません。そのために今私が勝共活動をして日本も今その中に入るようになったし、中国も今そのゲームをしているのであります。 勝利的統一戦線、その出発点がどこであるか、その個人の心と体をどのようにひきつけてひとつとするかそうするために私の体を殺すことがあったとしても体を踏みにじって成すみ旨が心よりも強いみ旨、統一戦線をもたなければならない。これが男の勇気ではないでしょうか。このような個人と個人が結合して祝福を受けりのであります。しかし皆さん、皆さん自身を見ると例えば金さんという一個人を取り上げてみても、体の思いと心の思いが二つあってつねに戦っているでしょう、それがこの世の男性であり又女性も二つの思いが闘い合っていてこういう二人が結合するといくつの思いになりますか。四つの思いになるでしょう。四つの思いが闘っている中に統一戦線おいて今自分の中の二人だけでも精一杯なのにその四人までも入ってくればこれはどうすることもできない。荷物になるので結婚はしない。そうなっているのですよ。アメリカの女性達は運勢が強いというのであります。そのために多くの寡婦達が行列を作るというんですよ。そういう人達と誰が一諸に住むんですか。我々統一教会の青年でさえそういうものはいやと思うでしょ。心合う人達が一つの部屋に座っているのとどちらの方がいいですか。それは勿論合う人達と一諸にいた方がいいでしょ。 それでは皆さん心があっていますか。心と体があってますか。それを、一つにするつもりですか。それが問題です。この問題ですよ。その戦いに歴史が今まで年月をそゝいできたし、聖人達がその戦いで人生が何であるか、神がいるかどうか、こういう問題で全部死んでいきましたよ。統一教会思想だけが入ればこの統一教会のみ旨を知るようになったならばこのようなややこしい考えを始めるようになるんです。統一教会でみ言を聞いた後には学校に通っていた少女達も全部カバンを持って帰らなければごはんを食べてもよく消化にならないというんですよ皆さんもそのようなことを感じたことがありましたか、なかったんですか、感じたことがなかったとすればそれはうそであります。なぜそういうふうになったか、今話したのと同じように心が何よりも、体が何よりもここがよくてこゝにいたがって、それがいいかえれば天が思考することのできるみ言と人格と心情が臨在していて天がいらっしゃるところだ、それが皆さんが天がどこであるかといえば手にもって歩くものでなく、思いの中に入れて歩くのでもなく、思いに待ってあながら心でくいちがっているということはできない因縁であります。こそであります。個体の統一戦線がそのようになされなければなりません。わかりましたか。 皆さん、今心がそういうんですよ。これが問題であります。この心の基準は本来ここから下ればそれ以上下がろうとしないけれどもこれがあがればあがる程もっとあがろうとしているのですよ。これはなぜでしょうか、あがれば天の前に近くなるからですよ。皆さんもお金をもうければもっともうけたくなるでしょう。それと同じなんですよ。愛も天の愛が最高であるために最高にあがろうとするのがそれが全部であります。そしてあがったら、全部が全部世界の大統領をやってみたいと思わない人がいるでありましょうか。さあこのような統一戦線基準を如何にすべきかこれを確実にしなさい。私がそれをできないときは私は偽りものであります。偽りのその心にはみ旨が占領されなければならないし、み旨が心を占領して、み旨が体を占領いてもっていく、これが四位基台でありますよ。目的から見れば四位基台であります。そうでありましょう。全部が四位基台哲学であるのが統一教会です。そしてそのために体と心を支配することのできる主体があってその主体は必ず授けて受けて目的のために再出発するのであります。これが今まで間違っていたのであります。その位置が離れていたのであります。これが堕落であります。 さあそのような基準を個人から家庭に、家庭から如何になったか、家庭がこれは家庭は夫であれがを中心にして夫として中心であり、夫が夫となる時には女性が中心とならなければなりません。女性がまさ気持が悪いことですけれどもしかたがないのですね。いつも主体になって収集していくのであります。このようにしてその家庭が一つになって氏族を中心として一つとなり、民族を中心として一つとなり、このようにして天の愛を中心にしたその基台が連結されることのできる、このような中心本部が世界的に天の心情までも、天の心のふろしきまでも、これは外的であったとしても、外的な基準が天までも至って天個人となるのであります。この個人が外的であったとしても、しかしこれを中心として見る時こゝで統一がはじまるのであります。同じように天も世界を願っていらっしゃるのであります。我々人間も世界を願っているように、その世界を一つとした中に天がいるし、このようになされたところにつながったところが世界であり、このような統一戦線を皆さんがなさなければなりません。これのみを我々統一教会がビシッと線を引いておけばもう全部伝道しなくてもいゝですよ。伝道をたくさんする必要がないんですよ。このようにして個人的な家庭、民族的な家庭、全体家庭的確信があるというこういうことであります。わかりましたか。この確信のみ間違いなく確立して世界まで進むようになれば世界は自動的に復帰されるのであります。 このように勝利的統一戦線をこれからながめながら皆さんはみなさん個から、家庭から、家庭を経てそして民族を経てこのような観点から皆さんに氏族的なメシヤとして、氏族的なメシヤになろうとすれば天の愛と一つにならなくてはメシヤになることができるでしょうか。このような観点から男・女となることによってそのような祝福の家庭が認定されているために聖霊とイエスが一つとなって、その歴史をすることによって信仰の子女ゑ生むのと同じように、実体としてそのような基準をたてることによって、平面的な立場で立って子女ゑ繁殖することのできる立場に立つことによって、通俗的なメシヤという言葉も出てくるのであります。わかりますか。従って個人を犠牲にしたとしても家庭を立てなければなりません。父母が犠牲とされても子女達は生きなければなりません。父母が死んだとしても子女達をいかせなければなりません。さあ例をあげてみると父母が子供達の犠牲になる人達が多いでしょうか。少ないでしょう。これが天法でさります。天法において父母は子供を救がなければなりません。救わなければ自分の行く道がふさがれてしまうのであります。又この家庭、子女達が何であるかといえば親戚が必要であります。親戚のために犠牲にならなければなりません。その人達は村のために善なる家庭であり、その人達はその村においての崇拝を受けている全部慰めを受ける家庭となるのであります。そうでありますか。 そうじゃないですか。それがなぜそうなるか。結局慰めを受けるように、慰めを受けてみると私のものになってしまうのであります。私が私のものを主管することができ、私側の群となるというのであります。わかりますか。なぜ私が今まで犠牲になったか、私側にいる私の側で私を中心として実を結んでおこうというのであります。このような立場にいれてもらうために犠牲となれというのであります。そしてその親戚の氏族のために犠牲になる家庭はその氏族を全部結実として棒げることができ、その氏族達はそのような家庭では全部来てつながろうとするのです。そうですか。そうじゃないですか。わかりますか。又氏族は民族を救い出すためには大韓民国といえば大韓民国を中心として、数多くの民族氏族達を救わなければなりません。大韓民国は民族を中心として犠牲となるから善となるのであります。このようになるのであります。民族は国家、一つの国のために犠牲となるのが善であります。そのため善は犠牲を成して得られるのであります。結論はこうなるのであります。いゝかえれば天の作戦は打たれて取ってくる作戦であります。サタンの作戦は打って奪っていこうとする作戦であります。そのために政治史をおいてみると、国家興亡史をみると、全部権力を握った人達がこうして血を流すようにしてから奪ったしそれは亡びなのであります。そのために数多くの国家が亡びたのであります。それでは宗教は自分が自己を犠牲とされてから奪ってきた、歴史時代を経れば数千年経てきたとしても宗教は亡ばずに世界へと版図を圏をひろめてきたのであります。それはどうすることもできないのであります。歴史的事実はどうすることもできないのであります。そのために善なる人々は如何人々であるかといえば、善なる人は人のために犠牲になろうという人であります。 悪い人達は自分を中心てして他人を利用しようとする悪党であります。それでは統一教はどうしようというのでありましょうか。といゝますと我々が大韓民国のために父母の心情をもって僕の体を用いるまで、大人になれば子供を必要とするように、そのような立場で奉仕していかなければ彼らを教えてあげることができず、彼らを目覚めさせ、そしてこの心情をそのまゝ受けつぐようにしようとするのでありますよ。教えさえすれば親の立場にあるのでついて来なくてもいいと言ってもついてくる、聞くなといっても聞かざるを得なくなるようになります。わかりますか。このような原則的な内容を今七〇年度においては再び皆さん個人が活動してこれを具体化させ、勝利的統一戦線をするようになれば、その気分を一元化させ、表現化することができるよう皆さん自身が責任を持たなければなりません。皆さん個人が環境からそのような生活をすべて、そして今までの自分自身をおいださなければなりません。わかりますか。このような面において世界的な思潮で全部を連結させうるゲームをしなければなりません。そのために今日からはアジア大会だとか世界大会だとかこのようなゲームをたくさんすることになるでしょう。世界がどのようになっても統一教がこれからの問題をたくさん提示るようになるでしょう。その時皆さんがそこに踊りを踊るために、皆さん自体がこのような基準に立って、天を門前に立てゝ、私が行く道に前後中心をもって道を開拓するのにおいての同伴者をつくって生活の舞台を天化させていくのに主力をそそぐことによって皆さんが行く道は絶対孤独であるはずがないのであります。必ず天と共になすことを如実に生活圏内で感ずることができ、皆さんは新しい路程において天が本当に共にあるのを、五代子孫達が喜びながらやることのできる基盤をこの地上に残していくことでしょう。こうしたことから勝利的統一戦線という標語をかゝげる原因があることを皆さんが心に留めておいてくれることを願っております。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.05.19 20:26:08
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事
|