6586007 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇   知   外   記

奇  知  外  記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Recent Posts

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Comments

Calendar

Category

Archives

2021.05.20
XML
「真なる相対者」

1970年1月25日
韓国にて


 あらゆる存在が存在しうる基台を造るには、そこに第一の必要物としては相対者が、相対物がなければならない。いわゆる主体があってそれから相対物があって、それが一つとなるところに永遠なる基台ができる。これが原理の教えである。こういう観点から見た場合に絶対なる神がいる。その神の前に絶対なる相対者、それがいなければならない。神は心情の神であり、人格の神であり、それから理想の神である。そうなるというと心情的においても人格的においても理想的においてもこれがその主体に対して完全に一致せる、その相対し得るものがなければならない。それが決定してこそ永遠の理想、永遠の幸福というものが打ち立てられるのであるから神はその目的を成すためにいわゆる操縦をしなければならない立場におるという結論を問われる。それが人間の、我々子女によって成せるべきその使命であり、その基準に到達しなければならない絶対的責任であったにもかかわらず、人間の先祖いわゆるアダムとエバはその基準に到達せずして堕落によってその基盤を失われてしまった。これを再び神は救いの道を通して元返ししなければならない。これが今までの摂理の使命である。その摂理の使命がこの基準を復帰することによって、神の望み、堕落世界に今まで望んできた希望、いわゆる摂理の目的が完成するということは言うまでもないというんだね。そうすると本当に神が願うその国、あるいは民族、あるいは家庭、あるいは個人、絶対なる神に対しての相対者となり得るその一人の人がまずもって問題である。その一人の者が解決しなければ家庭は望まれない。そういう絶対の相対基準に立ち得るその一人の者によって家庭が望まれる。その一人が絶対のその相対基準に立たない以上は神にはその望むべき家庭を望むことができない。それが今までの、今までの宗教を通しての神の摂理の要求である。いわゆるイエス様もその基準において四千年の歴史を蕩減して、四千年間に神が求めてきた絶対なるその相対者として如何にしてそれを勝利の基盤を打ち立ててその基準に立つかというのが、これがイエス様の生涯の使命である。その使命を成すためにそれを、いわゆるその環境をおさめて、その環境の中心者として立って、あるいは家族を代表して、あるいは民族を代表して、国家を代表して、それを一つの垣根としてその中に立って、そうして神の絶対なる相対者の基準を決定しなければならないというのがそれがイエス様の使命であり、その使命を保護し、それを守るべきその基台を造ったのがイスラエル民族の使命である。それを果たし得なかったんだから、絶対その使命を成し得なければならないイエス様の使命がそれが成し得られない立場に立った場合には、絶対なる神の前にこれは立つことができない。再びそれを元返ししなければ立つことができないという。それは言うまでもない。

 それで、それをいわゆる再び元返すには、やはりそこには民族、あるいは基盤になるべくその基台が使命を果たし得なかったから、それを民族が蕩減するか、その基盤となるその氏族が蕩減するかしなければならない。それを蕩減させようとしても神の方に立つ側のその氏族とか民族になっていないから蕩減させる基盤が完全になくなってしまった。ま、そういう立場に追われている神の立場から見た場合には、誰をその蕩減の立場に立たせるか、求めてきたその選民、あるいはユダヤ教、すべてが神に、神の相対基準に遠ざかっているから仕方なしにイエス様をその民族を代表して、あるいはその氏族を代表して、条件のその立場に立たせざるを得ない。その条件の立場に立たせるんだからこれは捧げものという。成せるものの立場に立たせざるを得ない。そういうような成すべき本来のイエス様の使命をさておいて、今まで成そうとしてそういう基盤を造ってきた民族、あるいは氏族の使命の身代りとして立った場合そこにはサタンと神、その中間の立場に立っていざどこへ行くかということを決定しなければならない。そのものが十字架の道であった。この十字架の道において自分は如何なる悲惨なる立場に立っても神の相対なる立場を固守して、それによって生きそれによって死ぬという、いわゆる捧げものとなった場合には捧げるものの立場として、それを中心として生まれたものになり、それを中心として死ぬものになる。そういうような運命に立っても神の蕩減の基準において絶対なるその相対者を神の前に求めておるのを知っているイエス様は、そのものに如何になるかということが、それがイエスとして願わなければならない立場だった。その願いの立場がゲッセマネの園におきましての最後の晩の祈りであったというんだね。

 そこにおいていわゆる栄光の神様の相対者たるそのものが民族あるいは氏族の身代りとして、蕩減の正体として行かなければならない運命がイエス様の十字架の道であったということを思わなければならない。そうするとそれによって行かれたイエス様は栄光の一日、いわゆる絶対なる神の相対基準を如何にひととき、自分の願いのそのひとときを又求めつつ、それは数千年の歴史を開拓の使命を成してきておる。そうしてそれが民族的でない、世界的基盤を造ってその世界的基盤によって、それを基盤として昔のユダヤ民族の誤ったことをそれを補い、それからユダヤ教が間違ったあるいはそのヨセフの家庭におきまして果たし得なかったすべての蕩減の条件を再びそれは世界基盤におきましてそれを治めなければならない。再びそれを立ち帰るようなその基盤を造って、その基盤がその基盤となるその位置において初めて栄光の立場として立ち得べく、いろいろ神の相対者の位置に立つことができる。それを今まで求めてきた。それが再臨の二千年。そうなるというとそういう立場から見た場合には神の相対者たるその一人がいなければならない。それから家庭、それから氏族、それから民族、国家がいなければならないというのが神が今まで摂理して来たその根本の問題となってくる。一人を必要とするのは家庭のためである。家庭を必要とするのは氏族のためである。氏族を必要とするのは民族。民族を必要とするのは国家を編成しなければならない、その国家たるもの、その民族たるもの、その氏族たるもの、その家庭、その個人はそれが絶対なる神の前においての真なる相対者、相対物にならなければならない。相対者になって、相対なるその氏族、国家、国家なら国家にならなければならない。こういう立場から考えた場合にこの世界には真なる神の相対の立場に立ち得る国がいるか、あるいは民族がいるか、氏族がいるか、家庭がいるか、個人がいるかということを考える場合、それが今まで歴史過程になかったのだから今までない。これがない場合には神の摂理完成ということはこれは絶対ありえない。これを知っておられる神様としては世界をさておいて一人の人を再創造し、再び救い上げなければならないという歴史の苦労の道が今までの宗教であった。

 そうしてその目的を完成する一人を正して、その目的は家族を中心として氏族の方に、氏族を中心として民族、国家の方にこれを連結させていきたいのが神の摂理の方向である。そういうような歴史的使命の要求のその両点の立場に立ってその使命を果たさなければならないのがこれが統一教会のいわゆる責任たる使命である。こういう歴史上の要求の立場から見た場合に、本当に真なる、真なる天の摂理に対して、真の、真なるその女になり得るか。問題はそこにある。真の子女が迫害を受けずして保護圏を成し得なければエデンの園の基準にそれは到達することはできない。いわゆる天使長を中心としたアダム・エバはそれが神の保護圏にあり、あるいは天使長の保護圏にあって、その神の喜びの目的のためにそれを成長してゆく成長期間と同じように、この悪の世界におけるそういう環境をいかにするかという、元返しするほどのその時の、堕落前のその時の環境をこの地上に造っておかなければ完全復帰の基盤を神が願うこともできないし、それを成し得る相対者たる一人も成し得られない。そういう環境を造ろうというそれが今までの六千年の神の苦労の召しであった。そういうふうにしてキリスト教を中心として、世界へ、世界へ、こういうふうにして基盤をここには数多くの犠牲者を出して、そして発展の一路としてそれを開拓してきたのが今までのキリストの殉教史である。そういうふうにして成し得た世界的キリスト教の中に果たしてそういう基盤を成し得るその者達がいるか、その国がなっているか、昔の第一イスラエル民族の身代りとしての使命を受け継ぐような、現実の天が喜びうるような国家があるか。ない。アメリカでもない。今のそういうイスラエル民族にもない。どこにもない。皆神のみ旨に対しては皆反発し得るその立場に立っている。そういうようなこの世の中において、それは国をさておいて宗教を代表するキリスト教においてこそ、それだけをつなげれば第二の国家を新生する希望が探せるべきなのに、キリスト教はキリスト教がその基盤を果たし得なかった場合には、その使命に対しての願いまでそれをもつことができない。それでそういう立場から見た場合にキリスト教の使命がいかに大きいかということを、それを我々は知らなければならない。もしも宗教が成し得なかったならば民族編成はこれは不可能である。宗教がその神の摂理に相対基準とならなければ氏族もそれを打ち立てることは難しいであろう。氏族がなければ家庭も、家庭がなければ真なるその息子がおれば、息子に対してのその相対者としての信仰を求めるのはそう簡単ではない。その信仰の一人を求めるには神が一人の息子を求めきたった六千年のすべての条件を条件として、その最後である七年を条件として打ち立てて、再び闘いの道を通さなければその一人の相対者を求めることはできない。だからそういう立場に立ったのがイエス様である。イスラエルの一国が相対基準に立っておっても、それは世界的である。それは天宙的である。だから六千年の歴史の苦労によってイスラエル民族、ユダヤ教会を成し得た数多くのそういう内面的の蕩減の因縁はそのイエス様のゆく一人の相対者を求める道に、あるいは十二代で成し得たそのことを再びイエス様を中心として相対者に成し得なければ、そうして勝利の基準を再び立たしたという勝利の基準をそのイエス様の相対者として成し得なければイエス様と関係をもつことはできない。そういう運命に立っている。それと同じように統一教会も同じ運命を行かなければならない。

 いわゆる神が今まで求めてきた宗教はその天のみ旨に立ち得るその宗教がなかった。いわゆる全体がキリスト教を反対しだした。宗教がない。それから氏族がない。そういうような立場に立った場合のその神の相対者である真の子供として地上に生まれたとしても、その地上に生まれた子供は正常な道を行くことができない。その一人がその六千年の苦労の、神の苦労の道がたどって来たと同じように、条件のその基準を再び正して、その子供の前に立たせる相対者は再びもとかえししなければならないというような立場に立っている。そこには歴史的闘いが再び展開し、縦的その蕩減の六千年の歴史が横的基盤において再びもとかえして、これを真なるその子供の前に立ち得る真なるその娘を求めるその間においては、横的六千年の歴史の蕩減の条件を再び立ち返すところの路程を行かなければ、これをもとかえししなければならない。そういう道をたどって来なければ完全なる真の相対基盤を家庭において、相対者において決定することはできない。それを決定する二人の立場というものは世界を代表した中心である。国家を代表した中心である。それから民族、あらゆる民族を代表した中心である。あらゆる子女、あらゆる家庭を代表した中心になるのだからサタンは世界的すべてを総合してこの基準をこわしてしまう。あるいはこれを引き抜いてしまう。総動員してこれは打ってかからなければならない。そういうような迫害の道が再び展開されるに違いないという結論になる。そうなるというと、真なるその相対者になり得る一人の息子、それが決定しなければ相対物としてあがなうことができない。一人のその子供を求めなければ相対なるそのものを求めることはできない。まずもって一人の親孝行する一人の子供が問題である。そういう子供の立場を如何にして、そこにそれを基準を合わせるか、そこに到達しうるかという、それが又問題となってくる。国が準備し、宗教が準備し、その宗教の中心である家庭とか氏族、そこに皆含まれている。

 そういう基盤があって一体となって行けばそこには蕩減の道がない。その時代においての蕩減の道なしに相対基準を求めてゆくところにはその蕩減の条件が残らない。こういう基盤が反対の立場に立った場合には全部が問題になる。相対者の立場に立ち得る子供の立場においても又再び勝利者として立つようなその決定的条件を又見出して、その決定的国あってこそ、それから氏族あってこそ、家庭があってこそ、決定すべきその立場に立つにもかかわらずそれがない場合にはその子供として立つその基準も又蕩減の道を行かなければならない。いわゆる自己完成というものは再びしなければならない。この自己完成というのは堕落しない神の主管圏内において、サタンの要素が見られないその立場がエデンの園であった。サタンがイエス様に対して国とか、あるいは氏族とか、家庭を願うその前に条件を立たせるような基盤になっては天のみ旨を果たすことはできない。そういう相対圏が不信の立場に立った場合には全てが又条件の圏として現れて来た。だから国家、あるいはユダヤ教すべてがイエス様によって試練の相対の立場に立たざるを得ないというんだね。そういう運命の道を開拓しなければならない。それがいわゆる数多くの時代におきまして神のみ旨、その選ばれた人々の立場である。そういう立場から考えた場合に、あるいは天的使命を受けたとすれば、先生のこの原則にはずれることができない。だから目的は宇宙が目的であるけれど、それは第二の使命の基盤であって、第一の使命の基盤ではない。第一、まず自分が問題である。宇宙を主管する前に自分を如何に神と一体となって主管し得るやというそれが問題になってくる。そういうような期間を通してそれが霊界におきまして勝利の基盤を再びもとかえしてゆかなければならない。いわゆる数多くの先祖達、数多くの偉人達が霊界に行っておるけれども、それらが生涯において果たし得なかった勝利圏を地上によって決まりをつけてやらなければならない。そういうような世界的いわゆるその内的闘いを再び展開しなければ、その勝利の基盤をもって、その勝利の圏をもってこそ帰ってくる闘いにおいて再び勝利しなければ、完全絶対者の神の子女としてあるいは子供として立ち得ることはできない。だから内的勝利外的勝利の基盤を勝利して、そこにサタンを霊界におきましても地界におきましても成し得たその基盤を持ち出さなければ神の相対圏に、相対者の立つべきその圏に立つことはできないと言うんですね。それが今まで一九六〇年まで闘ったその先生の生涯の道である。だからたった一人その孤立なる立場から見た場合には、国があるようで国なし、民族があるようでも民族がなし、氏族があるようでも氏族親族あるいは家庭父母兄姉があるようでもそれはすべてがない、たった一人家庭を求めるには自分の中から求めなければならない。氏族を求めるには自分を通して求めなければならない。国を求めるには自分を通して求めなければならない。こういう立場は悲惨な立場である。世界を求めるには自分を通して求めなければならない。そういう立場に立ってこそ、真なる孤独とか真なる神のつらさとか、神のいわゆる今までいかに苦労なさったかということを、それを伺うことができる。その観念その基準まで我々は帰ってそれから勝利の権威をもって再び戻って来なければならない。それが復帰の路程をゆく我々の立場である。その過程を通過せずして真なる相対者の圏に立ち帰ることはできないというんですね。

 だからそういう基準を、そういう立場に立っておるか、神はそれをその人を通して神の家庭を願っておるんだね。だからその人を通して神の氏族、その人を通して神の国、その人を通して神が世界を求めておるんだよ。この勝利こそはその世界の勝利の基盤になるし、この勝利こそはその国家、その民族、氏族あるいは家庭の、あるいは相対者の勝利にならざるを得ない。そういう立場において勝利を成し得たその息子として現れるのがこれが再臨の主になれるというんだよ。そういう境地に立たなければ再臨の主になれない。だからそこにいて、新しい世界観、新しい国家、新しい民族、新しい氏族とか新しい家庭、新しい歴史の一端が出発しうる。それの出発の基準というのは、その子供だったら子供に対して全部その相対者たるその人を持ち出さなければ、家族もなければ氏族もなければ国家も果たし得ない。世界ということは望みがないというんだね。勝利の基準を成し得たその立場から見た場合に相対者がその相対基準に立ち、いわゆる真理を悟った人がいればいいんだけれども、まだいない時には越えるという条件として再び闘いの道が残っておる。

 いわゆるアダムはエバを主管しなければならない。エバによって堕落したんだから、エバによってサタンは絶対的にまだ反抗し得る条件を打ち立てることができる。自分の勝利も問題だけれど、相対基準において勝利圏をいかに完成するかという再びの勝利が残っておる。その闘いの基準が第一次七年の路程である。それは立体的その内容を持っている人を救うには、その救われる人の立場より以上の立場に、より以上の辛い立場に立たなければ救われない。闘いの世界のすべてを救うには救いの最高の立場に立ったというその決意に立たなければ救うことはできない。だからそこにはサタン自身が、いわゆる今まで人類歴史において罪を犯してきた、万民を蹂躙してきたそのすべてのサタンの権威を払うべき基盤より以上の蕩減の道でも甘んじて行き、そうしてそこにサタンを屈服さして、その基盤の条件を充たさなければ、再び帰ることができない。それは一人の相対基準を通してそういう闘いをする。それが成し得た場合には、それから子供ができ、そういう子供を中心として又そういう闘いをしなければならない。そういう問題になる。そういう子供を中心として一つの家庭をなし得たとすれば、家庭を中心として又そういう闘いが残っている。だから祝福されたその家庭同士はそういう闘いをまだしなければならない。その家庭を中心として、あるいは氏族を復帰するにはそういう闘いを家庭が一体となって、そういう闘いをしなければならない。その氏族が一体となって、それから民族に対して又闘わなければならない。民族圏を中心として又国家という問題を中心として闘わなければならない。

 最後の標準として願うところは、イエス様の願ってきた第一イスラエルのその基準だよ。完全なる神の基準におきまして一体となる完全なるユダヤ教、神本来願ってきたそのユダヤとイエス様を中心としてそのヨセフの家庭を中心として、そうしてその氏族を中心としたるその宗教、ユダヤ教、ユダヤ教を中心としてのユダヤ国家、それが一つにならなければならない。それが一つになっていない場合には必ず蕩減の道を行かなければならない。蕩減するにはカインが蕩減するんじゃないよ。アベルが蕩減していってやらなければならない。ただそういう路程を開拓して行くにおいて、統一教会がそういう使命があれば、その基準を果たすまでにはこれは悲惨な犠牲の道を行かなければならない。そうして真なる神が願う一人の息子を中心として、真なる神が願う一つの夫婦としての家庭、家庭から兄姉が、四位基台が入る。いくら夫婦が一つになっても家庭を中心として子女が一つにならなければならない。だからこういう立場から見た場合に、これは再臨の主をこの地上において迎えながら三代の、三段階の十字架を背負わなければならない。個人完成、自分のための十字架。それから相対者のための十字架。それから子供のための十字架。この十字架を完全に蕩減しなければ四位基台完成は果たされないというんだね。それは自分の直系の血統に属するその子女を中心としてではない。そこにはカインアベルの家庭型四位基台が世界にある。それを神圏にもとかえしするには、それをももとかえしし得たその条件を世界的身代りとして立たして、いわゆる外的蕩減条件までかねて一体とならなければならないというこういうような問題が残っている。その条件を結びながら今までやってきたのが六〇年以後の統一教会の道であった。

 これを完全に成し得たという場合にはそれは世界が回るようになるというんだね。世界の外的環境を、如何にそれが複雑であっても、それが如何にその望まれないその環境であっても、その内的基準が決定されれば、これは急激にあるいは直ちに外的基盤が崩れてゆくという問題は結局ここにあるから、真なる相対者、真なる相対物、そういう基盤を如何に決定するかということが世界において勝利し得る問題のもとになる。だから我々も、我々のすべても、真の子たるそのいわゆる本点はどこにあるかというと、天によるんじゃないよ。神様のふところの中にあるんじゃないよ。この問題を解決する地上にそれがあるに違いない。だから天も地上を中心として援助する。霊界すべてがそこを中心としてすべての活動をする。いわゆる天宙史を見ればその勝利の一点のために総動員しておる。結局そういう結論になるんだね。そこにおいて真なる神の心情基準、真なる神の人格基準、真なる神の理想基準を如何に知らせるかという問題が、先生がそういう責任を持っているということを知らなければならない。それは必勝のその真理である。こういうようになるわけだ。

 そうすると先生につながっている貴方達、あるいは韓国にいる統一教会の食口とか、世界にひろがっている統一の食口は、自分の国のために働いてもその働く目的は自分の国のためでない。これは第二の基盤を完成するためである。その基盤とならなければ、如何にその国が復帰されていってもそれを再び闘わなければこれを結束させることはできない。はじめから闘う。はじめからそういう考えでもって日本で活動するのはこの第二の基盤となるべき使命を果たすため、その基盤において蕩減条件を、今の現世において我々が成し得て、再びくるその主体、あるいは真の相対者がゆく上において十字架の蕩減条件をみださないように準備するために我々は働く。そういうような立場に立って働かなければ、いくら完成なし得たとしても第二の十字架の道がまだ残るというんだ。だから先生が願うのは世界的に広がっている宣教師達に願うのは、このことを願っておる。自分の勝手気ままにこういうふうにしたら統一教会の食口になれる、こういうふうにすればこれは神のみ旨を果たし得る、天的基盤が造られる、自分の主張、自分の意見、自分の気分によって成し得たとしても全然神の方とは何の関係もない。いくら成し得た基準としてもこれを引き入れるには再び蕩減条件を正さなければならない。こういうことを我々は考えなければならない。ただ働くのも、日本として日本が結構な立場に立つのではない。どこまでも先生と子女の関係を持って、神が願うのは家庭を求めた場合には氏族、氏族から民族、民族から国家基準こういうように発展の道を開拓しなければ、蕩減条件を充たしてゆかなければならない。日本において、日本民族の蕩減の条件を、我々を身代りとして成し得るその使命を神は要求している。それを果たすために今働いている。それは日本の氏族とか日本の民族による国はそういう基準に行かなければならない。どうせ行かなければならないのだ。第二の十字架の道を防ぐために我々は働いている。だから働くんだこと自体は先生の身代りとなって働くというんです。ここには神の前に絶対なるその子供ができた場合、子供があるならば、その子供を中心として、第二の絶対圏として自分達がそれを立たせなければならない。そうしなければ蕩減の道は立たない。今はアメリカもそうだよ。ドイツもそうだよ。だから国家基準の基盤を造るまでには先生が直接命令して指導しなければならないという結論になる。直接関係を持って指導されて来たというその対応した指導者自身がそういうような考えを持ってないと言うと、その国家に果たし得たその人が神の方に因縁をそのままつぐことはできない。結局神の子供の分身として、娘の分身として、神の家庭の分身として、こういうような一体となった基準の条件を通さなければ世界的復帰の道はスムーズに行かない。日本民族と韓国民族と、もしもそういう基盤を通して国家を復帰したという基盤に立たなければ、この国と日本の国はまだ蕩減の条件を残して再び問題を提示してこれを解決した基準に立たさなければ勝利の蕩減点に立ち得る両国の位置は決定されないというんだ。

 こういうふうに考えた場合、位置に働くにしても三段階、前後、左右、上下関係、自分がおるというのも前後左右上下関係を決めてからおる位置を決定することになって、上下関係とか左右関係がなければ位置を決定することができない。だから日本が神のために働くというように決定するには三点の関係を求めなければならない。日本自体だけじゃない。そこにおいて韓国なら韓国、それから日本を中心として世界、あう世界を対応の国としてこれを連結させる使命観を持たなければ、今後神の全体的勝利の意義が人間を結びつけることはできない。そのように見た場合にこの世界にはそういう国家がない。そういう民族がいなかった。統一教会を中心として、統一教会はこれは間違いなくこういうような条件を皆結合させてゆくべき使命が統一教会の使命である。そうすると一人の息子の前に一人の女が、完全なる相対者は誰だというんだね。その基準を決定しなければその家庭は生まれて来ない。その家庭が決定された場合には、家庭を中心としては氏族編成だね。氏族編成をしなければならない。逆になっている。それは世界の人を生んでやるんじゃない。生まれているその人達を蕩減復帰して氏族編成をしなければならない。いわゆる外的世界を代表したその氏族編成をしなければならない。その氏族の中にその直系子孫があるわけだ。これを見るとこれも三段階だね。世界は蘇生であり、その中間にあるそれが長成であり、直系のその血統を受け継いだ子女が完成になる。そうすると完成させるには蘇生と長成基盤が一体とならなければならない。堕落は蘇生長成基盤以上、それが一つになってその以上を信仰することができなかったんだ。完成圏に進むことができなかった。だからこの二つの段階が一つにならなければ一つの段階を復帰することができない。だからそういうような天的内容があるから霊界に行っておる人達もこの地上の長成基準を通過し得るその期間の摂理期間におきましては霊人達が地上を協助するという問題が問題になる。だから霊界と地上が一体とならなければ完成なる世界、神のみ旨はそこにできない。そういうようになっている。それを考えてみた場合に、今韓国を中心として今統一教会はどういう条件を通って来たか。個人的条件はもちろん、家庭的条件はもちろん、氏族的条件はもちろん、民族的条件はもちろんだね、その民族的条件を乗り越えて国家的条件を立たせようとするその時代が七〇年代の韓国による統一教会の使命である。国家的条件を立たせるその国があらわれつつあるその基準において、相対なる国家を、如何なる国を立たせるかという問題になってくる。いざ神のための相対なる国家的基準が決定したという場合には、その時点から、今から準備してその基準に相応し得る国家基準を準備させなければその時になってこれ一人からそういうことをやれることはそれは再び蕩減の道をそのまま行かなければならないという結果になる。国を中心として、個人から又そういうことは摂理上これは延長になるに違いない。それで我々二次三次の基盤を造るために国家基盤と世界の基盤を今から日本は組んでゆかなければならない。それが我々の宣教の使命としてよく知らなければならない。だから韓国において先生が迫害された時に、日本に人をよこしたというんだね。平安な時によこしたら蕩減になる。切迫なるその環境において、普通の関係じゃない、世の中に否定されるその立場において、神の愛を中心として日本民族を愛した。こういうことをやったのは自分がその世界に余った金があるからじゃない。余る人があるからよこしたんじゃない。使えるものを使わずして、汚きところにいいものを出して行かしたその条件が天の条件になり、サタンの世界にも条件になるようなその基盤に立ってこれを果たさなければ蕩減にならない。だから我々の正常な立場において神の摂理を成し得て行くところがそもそも間違っている。緊迫なる最高の立場において、神も困る立場、サタンが最高に勝利したというような立場、そこにおいて闘ってそうして勝利なされたような、サタンの方を屈服させることによって全体的神の方の勝利を打ち立てることができるんだね。こういうような戦法をする。だから今統一教会の食口達も迫害を受けて、世界的なその迫害を滅ぼしている。十字架の道を開拓してゆくこの現世においてそのことを成すのは、これは今後の世界を蕩減させていかなる時よりも蕩減の条件の量として大きな用量の基準を立たせるその期間にならなければならない。だからこのように無理をして我々は宣教活動までかねてしなければならないということになってくる。
 国が国同士で相対基準になれば、それからは第三国も第四国も世界的基盤に出発する。韓国を中心として韓国の国家的蕩減基準をその乗り越えるという現段階におきまして、それに相対者の立場に立つ国はいかなる国やというんだね。その国となるにはその国においてその民族を中心とした祝福された家庭がなければ、国の名前を名目としてあらわすことはできない。だから先生は昨年世界を回りながら、そうして急がなければならない国家を中心としての世界基盤、世界民族を代表してのその結婚式を成してやったのも時が来るからそういう基盤を造らなければならない天的使命があるんであるからそういう世界的結婚をやった。そこで問題はとくに日本が問題だった。結婚するかしないか。合同結婚式をすれば皆マスコミも待っている。そういうような不利な立場にあってこれを果たし得なければならない。久保木会長は心を使った。不安な境地におそわれ、せめられた。環境がそういう環境である。しかし問題は環境じゃない。先生はそういう運びでもって五月一日、結婚式をやったわけなんだ。それが無事に終えたというのは日本においては祝福される条件となり得た。もし日本が果たし得なかったなら。そういうような家庭基準を中心とし得る国家圏を充たすことができたんだからアメリカにもできるしドイツにもできるし数多くの世界的相対国家系が並ぶというんだね。だから今運勢は、世界は六九年を越えれば七〇年代から、六九年は何かというと第二次七年路程におきまして二年を過ぎる時代である。この三年間におきましてイエス様が求めきたった勝利の基盤を成そうというその期間に当るんだね。だから七〇年のこの峠を越えるのはむずかしい。そこには数多くの蕩減の条件を、先生の家庭やあるいは環境からそれを果たしてそれをうずめて行かなきゃならない。こういうふうにしていよいよ一九七〇年を迎えたというのは、三年の圏内に入っているというんだね。その三年基準を迎えたその七〇年代においてイエス様が戻って来た国家基準がなくなったんじゃない。国家が希望の摂理圏に含まれる、その圏になってきた。だからそれにおいて新しい世界的運勢が連結されるのであるから今後において統一教会は発展するというんだね。飛躍的発展する。だから天を中心としてこれは公に、これを民族に、世界に宣伝しなければならない。正々堂々と宣伝しなければならない。そういうシステムが、時勢に、そういう期間に立ち得ることができるか、それで今度の大会もそういうみ旨のその願いによって始める。そこにはいろいろ心配なこともある。しかしこれは勝利の道が開かれるに違いない。こういうふうにしてアジア的大会を成したというんだね。これにつながって日本も先生が指導し得るように一体となれ。一体となれば日本の方も韓国の方をも、立ち得た条件はその国家の条件とただして勝利圏に共に立ち得ることができるというんだ。それが今現実の日本の立場である。それかと言って日本は別、韓国は別々である。直接先生の指導によって一つの方向に向って行かなければならない。それが今、現実の日本のその立場だよ。あんた達がゆかなければならない立場なんだよ。そこにおいて個人的相対者、家庭的相対者それから氏族、民族、国家的相対基準を韓国を中心として迫害の立場から今までずっと開拓した。その基準まで行った。だから韓国自体内は統一教会をどうつぶすべきか、これをなくそうとしてもなくすことができない。

 統一教会の存在というのは韓国に限っての存在ではない。これは世界的につながっている。打とうとすれば世界を打たなければならない。サタンがもし世界を打つという場合、自分の国をまず打ってから統一教会を打たなければ犠牲になるというんだね。だからサタンの世界は今から後退しなければならないことになってしまう。我々の信念と我々の理想をもって如何に勝ち取るか。サタンを勝ち取る能力を如何に全国的あるいは世界的に影響を及ぼすかという問題が問題である。それを及ぼしたなら今までのサタン世界は死んでゆく。今こそ我々は団結して冒険をしなければならないという時期になってきた。一挙に世界を神の相対世界に立ち帰すことの可能なる圏は今我々の目下に立ち寄っている。その立ち寄っている天の運勢をいかに勝利するかという、それが問題である。人が多くてそれを料理するかと思ったら大間違いである。三人以上が大切である。三人以上が一つになれば問題は解決する。神を中心として三人以上になること、そうすると三ケ国が一つになれば問題が解決する。一直線が引かれるよ。直線を引いて四位基台になる。直線を引かなければ四位基台にならないよ。神の創造の目的は何かというと、子供が目的だよ。この基準が一致してればこれを成すためにこういう四位基台の条件を中心として子供に向って行く。

 そういくとこれは何代か、神が一代、二代、三代、だからそういうような原理的立場に立っておる人間だから父母がいなければならない。子供がいなければならない。何故か。三代圏において天の心情圏を結ばなければ完全にこの地上において勝利した勝利者になり得ない。天の前に顔を持ち出すことができない。本当の幸福になり得ないというんだね。子供を持たないそのものが幸福になり得ない。それと同じように国を中心として、神を中心として三人が、三ケ国が一つになれば世界は回るというんだね。世界は回る。だからここにおいて韓国と日本、先生が求めているのはアメリカ。いかにしてアメリカを引き入れるか。目的は日本を通してアメリカといかに直線を引くか。問題はそこにある。

 それを充たしてゆくにはまずもって三国を完全勝利圏にいかにそれを押し入れるか、そういうような段階になっている。だから今から七二年まで我々は総力を使って韓国の復帰のために進んでゆかなければならない。あなた達もそれを考えて、国を中心として、神の相対国家の位置に立ち得るその栄光は国家としては日本が初めだよ。何の苦労なしで。韓国は苦労の基盤を造って行ったんだ。何の苦労なしで自分を立たして、求めて、立たして下さったそのお方に対していかなる感謝をしなければならないか。それは今から日本がやらなければならない礼儀である。だから結局は我々の働くのは本国のために働く。それからその基準に徹底化して、日本をすべて本国の力によって救いの手足となるために我々は働くんだというんだよ。これが成した場合にはそれは一つになる。それは一つになって、プラスマイナス一つになって新しいその立体的プラスになる。アメリカを中心とせよというんだね。それが成れば日本を中心として三段階基準が統一であるというんだね。そうだよ、日本から見た場合は三段階、だから先生から見たらアメリカであり、日本から見た場合には統一せるその四ケ国だよ。蘇生、長成、完成を成すその条件を成すには四つの線を引かなければならない。三つか、四つだね。だからここには七つの数がそなわっている。三数も入るし、四数も入るんだよ。だから先生から見た場合には四ケ国である。日本から見た場合には三ケ国そういう基準がなされれば世界は回る。だから先生の祈るのはこういう国家をいかに一つにならせるか。世界的作戦なら作戦を、この国家を如何に天のみ旨の圏内に引き込むかという作戦を、その試合なしに勝とうというのが今摂理上の先生の作戦である。ここにはあらゆるすべての世界に拡がっている数多くの国々を蕩減として、その目的に注目、こうして勝利感を獲得しようというのが今後の世界に向っての先生の作戦である。

 だから今すでにそういう基準がついて祝福されているから、家庭すべてが生きた祭物として、いわゆる夫婦はイエス様が知らずして、その勝利の圏に立った。三位一体化。イエス様を中心として聖霊を合わせて三位一体の生きた実体である。そういうような平面的基準を、自分を、自分の一家を通して成し得た。そういう権威をもったんだから、だから蘇生完成基準までも越えて完成世界でもって我々は活動しえるというその信念でもって押し立ててゆかねばならない。そういう栄光をあんた達は今度帰ったら、その栄光を神の方に帰せば、今まで歴史以後通し来たった苦労以上の苦労を果たしても自分達の忠誠の心を尽くさなければならない。それには一つである。そこには何の自分もない。一体となったとすれば、日本の発展も非常に早い。問題はそこにあるんだよ。だから久保木会長を中心として統一教会の幹部達が、いわゆる統一教会を率いるすべての幹部達が一体となって、先生とその本国とよく歩調を合わせて、韓国復帰のために外的援助、外的使命を果たさなければならない。そうすれば韓国の勝利は、あんた達にそのまま日本の勝利圏になるんだよ。そうだろ。(ハイ)アダム・エバが一つになってその国をたずねて来たよ。アダムだけやるんじゃないよ。完成というのは相対基準が決定されなければならない。だから国家もそうである。だから先生は今から十年前、十年後にそういう基盤を願うんだから誰もが知らないうちに、あんた達が夢にも思わなかったその時において、実践をたてておるというんだね。こういうのを用いて真なる相対者、国家の道を我々は歩んでゆかなければならない。それから勝利した場合には夫の勝利は奥さんの勝利だろ。

 結局韓国を自分のものにそのまま愛することのできる自分の勝利圏は、こういうような因縁の条件を立たせれば愛することができる。わかる、(ハイ)。そういうように思っているんだよ。それは原理的神なんだよ。ここまで来るには六千年の、今までの歴史を総動員して、この二つの国を相合わせるための犠牲、献げものであった。献物であった。神から見た場合には、愛するものはサタンに一番近かったものを奪って来て立たせる。神が今まで育てて来たそのまことを尽くして、愛するような立場に立たせようとして努力して育ててきた。そのものがもしも損なった場合には、かえってそれをサタンの方に引っ張られていったんだから、かえってサタンが一番愛するところのものをして自分の子供の身代りとする。日本と韓国はできた。歴史を考えた場合にこれは一つになり得ない。ただ既成教会で反対したんだからそういうことになる。そういうことでもって日本の食口達はすべてを献げてこの日本の復帰、日本のために働くのが、韓国の国家を救うためのその第二の基盤を造ることになる。その使命のためにある。今、三段階から見た場合に日本の第二の立場に立っている。それで先生は直接日本の今後の活動において非常に関心を持つのもそのためである。第二段階の日本がよくやらなければ第三、第四、勝利するのが問題になってくる。日本と韓国民族を超越した伝統を立たせよ。いわゆる世界各国の国境というものを乗り越えて、心情圏による神の摂理圏において、いかに一体になったかと言う。精神的に日本があれだけになったじゃないか。日本と韓国はもともとこういう結果にはみ旨がなければ絶対夢にも思われない。その基準は無限にそれを成し得る立場に立ったんじゃないか。その基準を、世界はそれを伝統と受け継いでそういう方向に進められている、と世界的宣伝をすることができる。そうだろ、(ハイ)。先生の家庭を中心として、先生が今まで家庭をこんなにして伝統の道をたどって来たんだから、その伝統によってその家庭は進められている。国家の伝統基準を正して世界は行使される。だから日本が一番栄光の立場に立たせられている。韓国のいわゆる伝統の標準として仰ぐその立場に立つ。これ以上神の祝福はないと言うんだね。わかる、(ハイ)。日本をさておいてアメリカがもしそうなった場合アメリカは一挙になってしまう。何故かというと、それはキリスト教の氏族に入っている。我々の原理を伝えればこれはもう進歩が早い。それを日本人は反対だろ。何故反対だ。キリスト教は存在しない。影も一つしかない。それは二千年前のローマの時代のクリスチャンより収容数が劣るというような、そういうような基準になっているんだよ。それが数千年の犠牲を払った栄光の基準の基盤にもならずして、その基準が神の栄光に直ちに立つことができたということはこれは歴史的栄光の立場である。だから歴史的蕩減を感謝してゆかなければならない基準なんだよ。

 国家的真なる相対者になりなさい。そういう使命をあんた達を中心として成し得るように努力してくれというんだね。わかる、(ハイ)。そのためにあんた達は韓国に来た。一体となって、我々は絶対なる神の前に絶対なる両国の基準を正して、今後は世界的運勢がこのアジアに、又徹底的に出てくるというんだね。だから先生は韓国を中心として摂理を進めてゆく方向に日本もついてゆかなきゃならない。天はそういう方向に打ち立てている。日本は自然と韓国の勝利圏によって帰化される。その環境に巻き込まれる。それを行かれないとか何とかそういうふうにその運勢を反対するその国家的主権者があるとすれば、それは打ち返してしまう。いくら反対しても勝利できない。ま、こういうのをはっきりわかって、あんた達が今度訪韓したその目的は今までの歴史的なその訪韓したのとは違う。だから新しい出発のために我々はここに集ってきたということをはっきり覚えてないといけないよ。(ハイ)。各県を代表して、各県が問題だよ。一つの県も反対したらいけない。それに我々は涙を流し得た蕩減の条件を立たせる。一人から三人まで残らなけりゃならない。だからこういうような全国的人事異動、地域を拡張する問題が問題になってくるんだよ。ここにおいてそういう使命を授けられた人達はイエス様の立場に立って、県を神のみ前にいかに立てるか、自分の県をみ旨の通り成し給えとイエス様の祈りと同じようなそういう心情を一致させたその基準に立って、久保木会長を中心として全国が一つになり、久保木会長は先生と一つにならなければならない。今から心配するのはその問題だよ。だから一つになればアジアは重大な問題になるよ。そして結束するに従って共産党はこれは崩れ去る。崩れてゆくよ。我々の基盤がまだなっていないから堂々として政府に打ちかかる。勝利の道は我々の救いの杖である。モーセの手につかませておる杖と同じくらいにみた場合、原理と勝共というような、荒野の路程におきまして火の柱とそれから雲の柱の二つ、これでもって、世界を料理するんだよ。こういう考えで真なる相対国家になるように、先生の相対としてその立ち得る人として努力してもらいたい。わかる、(ハイ)。では祈ろう。

一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.05.20 18:10:19
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X