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奇   知   外   記

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2021.07.26
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​​​​​​​​​​​​​「善なる世界の人」

1973年8月10日
松涛本部で


 神の喜ぶ世界

 我々統一教会は何の為にこういうふうに集って、あるいは教会をつくって、あるいは世界とかそういう環境と結ばれようとするか、というふうに聞かれは場合に、それは言うまでもなく善なる世界に行く、あるいは善なる世界の人になりたいからである。

 そうするというと一体善とは何か、反対に悪とは何か。それが我々日常生活において、成していかなければならない問題であり、あるいは各方面に、あらゆる分野にぶつからなければならない問題になっておる。
 善い悪いというのはそれは何によって決められるか。善かったという所合には、自自分において被害された立場ではない時、かえってプラスされる利益になったという場合には善だったと言うんだね。何か自分が侵害された場合には、それは悪かった、というとその自分達ということを考えてみた場合、みんな同じじゃない。
 ここに十何人かの人が一列に座っている。みんな顔も違えば、先生を見つめる姿も違うだろう。そうすると自分という基準を中心として、自分がやっていく基準いづこにありや、これが問題だね。日本人の中にも一億の人が住んでおる。一億の中でその基準が二つあるべきや、一つあるべきや。こう考えてみた場合に、その基準は絶対二つじゃなくて、絶対一つに限る。

 もしも神様がいたとするならば、神様が喜ぶ世界は一体どういう世界であるか。それは善なる世界に限られる。だから歴史を代表して、我々の讃えるべき人生路程の価値の路程は二つじゃない。一つになるべきだ。その一つが本当の善なるものである。その一つに添わないものは、本当の悪になるものである。まあ、こういうような結論を下して、もう間違いないと思います。

 善悪の基準

 善い悪いということは何によって決まるか。永遠に相対圏を維持して、長く保存されるかということによってそれは善い悪いことになる。それが私か、日本的か、世界的か、天宙的か。神様の理想的につなぐそういう理想か。そこまで通ずるならばそれは素晴しい、善い事だと言うんだね。

 そうなると、神様は何が必要だろうかということになるんだよ。神様が一番生命がけながら、善びながら生命賭けで願うものは何であろうという場合にはね――お金でございます? 世界を統一し得る独裁主義者であります? 大権力を持って振る舞って、自分の思う事をするのが神の願いです?(違います) 何です?(愛)

 愛は永遠なれ。歴史もそれを主管することができない。時間、空間もそれに対決することが出来ない。文学少女においても詩的感情というのはね、愛は永遠なる、永遠の愛よと言う。永遠の名前を付けるのに相応しいものは何かというと、それは愛と生命しかありません。だから、人間だにそういうふうな結論を出すと、絶対なる神様がいますというならば、神様は永遠の愛の本体になりたい、いましたいというのは当然の話である。だから、永遠の生命が湧き踊る。永遠にそれが一つになる。それ一つになった者達が一つの目標に向かって慕い焦れるような、愛の道によって、それは会いたい関係に結びたいのが神様の御希望ではなかろうか。それがそうだとするならば、人間が最も素晴らしいと思うところは、神と願う同じ点であり同じ立場にちがいない。

 愛は授けるもの

 では愛というものは一体、その性質はどういうふうになっているんだろう。愛というものは受けたいものなら、授けたいものなの。それが問題だよ。じゃ愛の世界にいきたい。生命が躍動するところには愛がつながる。躍動する世界に行きたい。その本お質はどういうものなるや、という場合には受けたいものか、授けたいものか。はっきりしないといけない。その根本問題を正しく定義しなければならないのです。

 もし神様が受けたい思いをもったら宇宙は生まれてきません。愛なる神様が万物を創造したというのは、どういう因縁内容でもって創り出したや。受けたいからやったんじゃない。授けたいからはじめた。

 本当に自分の内心に潜んでおる一人の愛のすべてをひとつ注いでみたい。生命をぶつからせてみたい。

 絶対なる神様自体が酔ってしまった。宇宙すべてを忘れてこの世界に永遠に留まりたいというような、そういうところは何じや。それは神様も愛の世界を求めなければ、そういうところは生まれてきません。愛の世界を求めるのは、神様一人では絶対に出来ない。だから相対者がなければならないから、人間を絶対的に創造しなければならないことになった。永遠の生命が躍動するところ、それに引かれて、永遠にその愛が花と咲いて香りを吹っ掛けるところ。それは理想を求める人間として最高の基準として、これを結論として求めるべきじゃないか。

 その道において死んだとするならば、その死は億万の万民の死に勝る死であるとね。その道において迫害された場合には、万民の正義の道に漂っていくものの迫害に勝るその道である。そこに汗し涙し、死のその極地に立って、これはすべての一身それはもう粉になって飛ばされても、それは素晴しい。そういうような人生観の中で、そういう生涯を残していく者があったとするならば、その人はなんという名前を付けたら良いだろう。聖人、義人、賢人、愛国者、孝行息子というように生きた者であるならば、それはそういう名前はいりません。

 神の子女になりたい

 何かと言うとそういうものは、神様の本当の子供である。そういう場合に立ったものを本当の神の子供という。神の子供と言えば神がお父様である。お父様と子供の関係が絶対的に権威ある位置は何か。愛、同胞愛の出発点に参加しておる。同じ生命力の出発点に参加し得る。これ以上素晴らしいものはないから、親子関係は天宙すべてのものをやっても絶対否認することが来ないし、代る道がありません。だから聖人、義人はみんな通りがかりの旅人である。それは道端に広がったこじきみたいなものである。

 しかし、我々の願いは神のうさざるを得ない、本当の愛のその子供になりたい、娘になりたい。親子関係は生命の??と、共に同じ立場において、同じ出発点をもっておる。兄弟はそうじゃありません。兄弟は生命の出発点が違う。妻も違う。世の中にこれ以上自分の生命と同じ出発点に三位一体となって因縁を結んで出発するものは親子関係以外にありません。その生命力は愛によって出発する。

 だから人間の最高の欲望は何か。人間は絶対的の最高のものの子供になりたい。それが出来なければ花嫁とか洞花婿になりたい。それが出来なければ養子になりたい。養子が出来なければああ僕になりたい。本当は実子、実子になりたいというのが間違いない事実である。

 神自体が神の子供になる神の生命力、内心に永遠に躍動するというふうに、あんた達の生命力を中心に大地に躍動する自分の人生、自分の自分たるものを発見しておるや。それは何か。善なる愛の理想圏に飛び出さなければならない。これは夜に昼にすべての自己圏を越えて伸びておる。そういう力の躍動を感じる実体になっておるか。

 だから威張るな。神様の世界にいこうとするものは最初から黙れ。威張るな。昔の自分を見ない。それから始まるんだよ。だから神は万能なる神である。無限の生命力の中心者である神が愛を授けんが為にどの位の愛の立場に立っているか、授けるものが本質だとするならば、完全に授けたい。神だに刺激されてどうにも愛に酔ってしまう程の、その基準を願うに違いない。だから愛は刺激だね。愛は酔うという話があるんだね。思春期になったら相対者に向けての思いにおいてもね水、酔う道を唯探していく。愛に酔うといったら永遠に酔って、永遠に覚めずして、その愛の世界で理想の家族、理想の生活を持ったとするならばどうなるだろう。神様がいたとするならばそうならざるを得ない。それがいなかったなら、それは文先生というのは空想家だ。理論からしてもそうならざるを得ないよ。その因縁によって人間がそうなっておるから、原因がそうなっておるから、結果として、そういう内容を抱いたものにならざるを得ないだろう。又、事実がそうなっておるから原理はそうならざるを得ない。それは理に一致する。

 じゃ子供として生まれたとするならば、その親を愛するなと命令しても、絶対に愛さざるを得ない。神様の子供だから、神様が踊り喜ぶような、君はわしに似ておるんだから自分の子供だと言うんだね。それまでいくには、子供を産んで自分が愛されるそういう事情圏を同じく表示して喜び得るような、その実体圏に立たないといけない。そうすると神に似たものになれないんだから、我々に子供を創造する力を授けて下さいましたよ。そうすれば愛の力はもらう力じゃなくて、授ける力を動機としている。

 だから神は万民に対して永遠に授けながら、完全に授けられる一日を待って望んで来られておる。そうすると神は善なる主体だから善なる主体の内容、あるいは作用、活動の方向というものは、授ける事に気が狂っておる。授けなければならない、完全に授けたい。完全にすべてに絶対なるものを授けたい。それが神のいわゆる親の心だよ。完全なるものを授けたい。永遠なるものをけたい。そう思うのが親の心だよ。あんた達の父母もそういう心を持っています。神様は、永遠にそういう心を持たざるを得ないということは否認出来ない事実じゃありませんか。

 神の心情に記憶されよう

 だから人生路程に何を求めていくべきや。やってやってやり尽して、それが日本に残すと共に、世界に残すと共に、歴史に残すと共に、神の心情に残していきたいというのが、我々人間本来の意味があるじゃないか。間違いなく正しい人生路程である。その路程を探によって善の世界は自然とつながるようになる。それ以外の道によっては善の世界と我々は関係因縁を残すことは出来ません。だから負債するな。世話になるものになるな。人の為になる。一生抱えながら死の峠を越えても、このことを残していかなければならないのが人生航路である。その為にイエス様もその目標にかなう為に生命を捧げていった。聖人達の苦労の道も万民にやるものを残したい。歴史を越えて万世にやるものを残してたいという望み一方きりの生涯を出ていった者が望人の隊列に属しておる。それから愛国者、その国に残していったものを愛国者とう。時代を越えてあまりあるものだったら、それは如何なる多くの日本人が生まれてもれ以上の心情基準、やるにおいても真の心情を成したその者以上のものが生まれない以上は、そのものは日本第一の愛国者だ。だらそれが家庭においても、親に如何ばかり負債しておるや。負債如何ばかりもらっておるや。だからなぜ親孝行しなければならないか。親に負債されたそれ以上のことを、その家庭で兄弟に親に残す。それは本当にうちの息子は親孝行息子だと言うんだね。負債される量より大きいものは悪に通ずる。裁かれる地獄に通ずる。それは滅びていく。鉄則をはっきりわまえなければなりません。

 そのことは、相対なるのが表われたところには必ずこの天法の秤で則られておるということを忘れてはなりません。見るもの、聞くもの、話すもの行動するもの、みな人の為にやるかというう場合には残る。自分のためにやるというものは消える。悪人は自分を主体として死ぬ。善人は相対を主体として死ぬ。だから男、女が生まれる時に、自分を主体として生まれた原則はありませんよ。それが生の本源なのにかかわらず、それに依らずして立ち返って反対するものは、生まれた本然の基準を逆戻ししようとする横着者だ。

 それで統一教会はこの原則に即応して何か残すものを探して回るものである。残すには手段、方法を通して残さない。真を通して生命力と愛の力を投入して残したいのが神本来、創造の本然の姿じゃないか。その本性の姿に立ち寄って残たい。そが一日の希望、最大の希望として涙、汗しながら戦っている。この者達行く末には暗やみが辿って来ても、それは暗やみでも行かれる太隆より明るい無限の光が先で迎えるにちがいないこというのが統一思想の観だよ。

 負債をしない先生

 先生もそうだよ。日本人にして負債しない、絶対負債しない。日本人が先生に対して負債される。先生は学生時代に、日本民族にずいぶんやられた。いじめられた。先祖何代を集めましても、それに追いかけて阻止し得るういう内容を持っておる男だ。それは百姓の家においてやられたしね。社会においても無視され、侮辱されたそういうことをやられて来たんだ。そういう問題で日本に足を踏めという思いをする事が出来ないような事が沢山あるよ。日本民族に対して先生は敵を愛する。神様が再創造のの見苦しい、みじめな立場に立って、これ以上のものを再び統一教会で涙ながらに愛して来た伝統を立てて来たんだから、その恩讐たる民族を愛した。先生は日本のために自分の一家の者を犠牲にしながら、日本開拓のために今までやってきたのをあた達知らないだろう。日本民族に文という男は負債しておません。絶対負債していません。日本民族は天の愛を中心として、生命を中心とて先生に負債されておる。

 だから、先生に会った人は、日本を救おう、世界に行こう。その世界はどこから出た、君達から出たの。無限の生命力と無限の愛の理想をあなた達が慕いたい、こういうような若者が集ってきたというのは時代にない大奇跡だよ。アジア人民に対して負債してはいけません。日本の将来に対して誰よりも心配しておるよ。君達がおるからこそ、先生迎えて涙流す。ああ会いない、行きたい、見たい共に生活したいという思いに対して、湧き上がる生命力と未来の理想に生きて、自分を捨ててやっておる、あなた達を日本の今の外的日本として先生は思いませんよ。

 先生だにそうだ。どこに行っても統一教会文先生は負債はありません。食べる事においても、寝る事においても、働くことにおいても負債されません。先生寝る時にも君祈れ私は休むと、そういう先生じゃありません。どこに行っても疲れきったその立場においても、それを考えながら休まなければならない。そういう思いを乗り越える。一食の食卓の前に行って涙し、日本の開拓地において、世界の果てにおいて涙ぐみつつ、一食抜きながらみのために闘いつつ、涙の中に働いている食口をいつも思っている。負債される主体者になった場合にに、その団体はそれ以上発展しない。統一教会の文先生があはな達に対して、負債があるようなら統一教会は後退だ。わかりましたね。

 日本統一教会よ、日本ばかりにおいて力をかけるような統一教会は、世界を動かす統一教会になれない。それで日本において涙流したそれ以上の涙でもって異国の恩讐であった二十八年前の恩讐であったアメリカ人に対して涙を流してやれ。それは先生がそういう道を開拓してきたんだからそれでやる。それは正しい訓辞である。だから残していこう。見たいもの残しておこう。この民族に聞きたいそのものを残していこう。会いたいそのものを民族に残していこう。読みたいそのものを残していこう。そして持ちたいものを残していこう。

 それは日本を越えて世界へ行く。この集団は聖人集団になるばかりじゃなく、神の愛する子女の集団になるのは間違いありません。どうです。それを目標としておる。我々はそれを背向って立った。だから日本列島を越えて、世界の地図を見ながら、わしの死する最後のその地点何処ですか。神が願う最高の終着点につながるその終着点に近い所に行かして下さい。それ祈っておるの。それが日本の地だったら万民が日本に寄り掛ってくるちがいない。その中心に我々は近ずいて夜、昼刺激して死の峠がありましても、それを克服し得る自覚でもっていくように導いて下さい。そういう祈りを祈るべきだよ。我々には休憩がありません。の先祖、民族を代表して与えられておる日本民族、日本列島を抱いて神に捧ぐ。そして何か残して行く。

 うちの父母がそううふうに残したい。そういうふうに気違いみたいにやってたんだから、その子供だにその伝統を受け継いで、又残していく。その代数が三代、七代以上になっ所には日本がそういう民族、そういう氏族を通してこの国が治められるそういう指導者が生まれてくるよ。それがなかったら神がいない事になる。そういう歴史が如何に長く続いてきたかというような、世界的氏族圏の上に立ぱたとするならば、その氏族を通じて世界を動かす義人、聖人が生まれてくるにちがいない。それを我々は願っておる。我は陰になってそうして古い葉になって肥料になろう。それは成長して新しい葉になる。それは花が咲き、実を結んでそれを収穫したものが、それ地球上に巻き込んで余りある一日があったとするならば、それで神に帰るに堂々と恥しくない。そういうものになていきたい。それが我々の願いじゃありませんか。そういうように行く事によって個人がそうなれば、個人の理想、善なる世界がういうような伝統によって生きるならば、その家庭は善なる立場に残家庭になる。そういうような氏族、民族、国家と言うならば、その国家は善なる中心国家として残る国になるよ。こういうふうにして個人から庭、氏族、民族、国家、世界に通じるたった一つの道を我々はわかっておる。個人において残したい。家庭通して残したい。氏族を通して残したい。民族を通して残したい。それ国家を通して残したい。人類を通して永遠に残したい。そういう以外の道には理想はありません。それ以外の道には善なる道はありません。その事をはっきり知らなければなりません。

 心情の世界

 だから門を出る時は誰かの為に、帰る時は誰かにお世話になって来たとならばどうもすみませんと、お託びしなければならない。そういうつながりの生涯を残した、とするならば、その者間違いなく、その環境に残した基準に比例する霊界にいくことが出来る。それが世界を越て、神様の心情圏まで及びつくような生涯を残した所合には神様の王宮の、天国の王宮予の天国の王宮の秘密まで通ずる本当の子供になれるというんだね。それが目標である。

 統一教会の先生は何も願わない。今になって先生何ものも欲しいものないよ。金が欲しい。家が、権力が欲しい。地位が欲しいとは思わない。永遠の生命が保障しえる愛の立場によって、人生路程を個個人から世界までより選りながら万民に残すものを残していきたいのが先生の生涯の目標である。その先生の行く道をそのまま築いていったとするならば、絶対滅びません。今、先生がアメリカへ行っても故郷に帰るよりもっと希望をもっていくよ。そこに行けばまた愛する指導者がある。兄弟が待っている。食口がいる。それはも世界各国の民族が目玉、色がちがう。顔も髪の毛のカラーもちがうんだけれども、涙の色は同じだね。それは微笑む、笑い顔は同じだね。先生が会った場合には涙を流す。東洋の真黒きそういう背も大きくない文先生という、世界で悪く評価されておるそういう男が今アメリカに帰ってでかい者達がまわりで誰もそれ涙流せと言わないよ。骨肉に通じるような痛みでもって先生の路程を祝福し、又会える慕いこがれるその姿を見た場合にこれ神の愛じゃなければできませんよ。人間先生の造作のそういう何でもって絶対出来ません。先生夢にもそう思いません。とても素直に頭を下げて服従の道以外の道はないと思っておるよ。

 恩讐を愛せ

 先生と日本人は恩讐だよ。日本人とアメリカ人は恩讐だよ。恩讐達が一つになって、一つになったらどれ位強いか。自分の兄弟よりも一つになって、兄弟もこういうふうに回るようになっておる。だから動きは世界において問題になる動きだ。遠さらず世界はこの波紋でまき込まれるにちがいありません。そういう希望があるから先生は行こう。

 日本に行ってみよう。アメリカに行ってみよう。アメリカでは今度も休まないよ。今後何年間は休む暇がない。その為に顔にしわよるかもしれない。そのしわ寄って悲しいしわではありません。アメリカの山川草木がそのしわに向けて頭を下げてくるよそういう思いで今日四時に向かおうと思うんだよ。その反面あんた達と別れて行くのも寂しいんだけどね。しかたがない。より高い価値のその天のみ旨によって、授かれるという道を得ることはそれを先に解決していくというのが正当の選別法だからしかたがありませんよ。

 そういうふうにして先生が今からアメリカを指導する。今のところ日本が先立っておるんだけれどもね。アメリカという国はね、どっちの国がそれ全国家的に影響を及ぼす働きの結果をきたすという競争が生まれてくる。そうしたら日本におる日本の食口よ。君達は米国に負けたいの勝ちたいの(勝ちたいです)勝ちたいんだったらアメリカの兄弟が汗し涙し、この暑い炎天下において働きかけるという立場に立ったら、あんた達もっと汗を流さなければならない。もっと腹が膨れなければいけない(笑い)素晴らしい着物を着なければいけない。(いいえ)良いハイヒールを履いてヨチヨチ歩きしなければいけない。(いいえ)偏平足の穴のあいた靴履きながらも見ず、見るに見苦しい姿であるにもかかわらず、戦う者は天宙に輝やかすそういう姿であればこそもっと神近よる。神が援助するようになるにちがいな。

 もっと苦労を

 だからそういうふうになるには、もっと苦労せよと言う命令を残していかなければならない辛い立場の先生の事情だという事を了解してもらいたいよ。死ぬまで生命がけで働け。この夏に何人か死んでもいい。アメリカが一人死んだ場合には我々は三、四人。その数が多ければ多いほ程、神が認めざるを得ない。その論法は正しい論法か間違った論法か。先生に負けないようにやって三年以内に日本を乗り越えよ。アメリカだよ。アメリカ。そうしたら向こうで十時間働けばあなた達は(二十四時間)、向こうで二十四時間働いた場合には(三十時間-笑い)それは霊的肉的って考えるんだね。向こうは霊的にしたか。肉的にしたか。霊肉共に百%、十四時間それ出来なかったならば皆死んでも生命力を如何に投じたか。

 それなんだよ。心情、生命力どっちが何パーセントするかに応じたか。それによって負けた。宇宙動かしえる生命力、宇宙をとかしてしまう愛の心情をもってやって、そして霊肉一致して二十四時間通してやったならば神様も負けてしまう。

 こういう基準に立った場合には勝利の問題はもうすでに日本が旗をちゃんと包んで待っておるんだね。優勝旗はね(笑い)

 そういう原理原則の基準を中心として勝敗の道をより選っていけば、という結論になるんだよ。わかりましたね。そういうふうにして満三ヶ月の後にね会える日があるんだね。(拍手)まあその期間まで一生懸命に善なる世界に入る人になるよう努力してもらいたい。わかりましたね。

 今日の話題と同じように善なる世界の人、その人を通して善なる世界へ、善なる地上天国へ、こういうふうにして神の善ぶ人になってもらいたいから、今日話しました。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.07.26 22:50:13
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