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奇   知   外   記

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2021.09.25
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「先生による真のお母様の証し」

 一九七七年五月三日 御聖婚記念日

※ お母様の『19770503 -「 苦難と栄光の座 真のお母様自身の証し」』の後にお父様がお母様について語られたものでした。


 「あなたも天の花嫁候補です」

 あなたたちも知っているように、一九六〇年の聖婚以前は、約十五年以上も先生は独身で、ひたすら使命を果たすことのみを考えていた。しかし原理を知っている者は誰でも、原理的に明らかな事として、先生がいつかは結婚されるという事を知っていた。そして誰も彼も皆が、「あなたも天の花嫁の候補者になれる」という啓示をそれぞれに受けたのである。「あなたも……」、「あなたも……」と。

 そこで、いわばものすごい競争が起こったのである。我々の教会の内部に、見えざる霊的闘いが引き起こされたのである。そして驚いた事には、教会の古い姉妹で、七十代、六十代になる老女達までも、神は同様な啓示をもって慰められたので、彼女らまでが「神が私に『天の花嫁になる』と言われました」というのである。さらに十代の女の子もまた、「『あなたが主の花嫁になるだろう』と言われた」というのである。このように七十歳の老女も十歳の少女も、教会員たる女性はすべて老いも若きも皆、あなたが天の花嫁候補者です」という啓示を受けたのである。

 どうして神はそういうふうにしなければならなかったのであろうか。何故なら、神の時間を計る尺度は時間を超えているという事なのである。神には時間というものはなくて、永遠、無限無窮という時のみがあるのである。つまり神にとって、百年は一万年に等しく、一万年は百年に等しいというように、神御自身の心中において、時間というものは非常に融通性のあるものなのである。だからすべての女性という女性に「いつの日か主の花嫁に選ばれる」という予告を与えることは、神にとってはごく自然なことなのである。

 そういうわけで神様は、そのように教え、啓示されたのである。何故なら女性は誰でも主の花嫁の使命の一部分を果たしているといえるからである。だからある人が使命のある部分を果たしていると認められるならば、神は「あなたが主の花嫁の候補者です」と言うことが出来るというのである。

 しかし原理的にいえば、最終的にはいろいろな部分的役割を総合させる一人の実体なる方がその位置に来られるのである。それが言うまでもなく、オモニム(真のお母様)なのである。

 先生は今日、オモニム(真のお母様)の知らない、背後で見られた混乱と競争の顛末について語りたいと思う。

 原理を知っているなら理解できると思うが、神がその独り息子をメシヤとしてお送りになった時、その方は正しく全人類の花婿として来られるのである。ことに人類のうちのすべての女性に対して、花婿としての位置にあるのである。だから神は、先生に歴史上のいかなる男性よりも、もっと多くの女性に愛され慕われる者になってほしいというのである。そこで神は先生に、その多くの女性に愛されることにおいて、最高の記録を作ることを許された。そういうわけで、歴史上にもろもろの王や皇帝がいたけれども、誰にも見られなかったような現象が起こってきたのである。先生はかくも多くの女性の注目を集める歴史的記録を作った。歴史上にかつて、そんなにおびただしい女性達から、かくも献身的、自己犠牲的な愛を受けた人はいなかった。それも天の摂理の一部分であったのである。これらのことが聖婚式が行なわれた当時の背景である。当時忠清におられた比較的無名のお母様が、先生によって『天の花嫁』として選び出されたのだから、それは多くの人々にとってなんと衝撃的な、いわば天地のひっくり返るようなショックであったことは想像がつくだろう。教会に関する限り、まさに大地震で、天地がひっくり返るような出来事だったのである。


 愛の戦争

 何しろ「天の花嫁は必ず自分の家庭から出る」と信じ込んでいる家庭がたくさんあった。祖母、娘、孫娘、三代の女性が皆、「自分達のうちの一人が、来たるべき天の花嫁になる」と神がお告げになったと信じていたのである。一家庭ならともかく、実に驚く程多くの家庭がそう確信していたというのだから、それは本当におかしなことでもあった。

 考えてもみなさい。そういう時に、突如として思いがけなくもオモニム(真のお母様)が選ばれたのだから、それらの家庭の人々にとっては、どんなに大きな衝撃だったことだろうか。

 また先生は多くの霊能者のおばあさん達を、祭司や神と人の間の預言者のようなもの、すなわち神の啓示を受ける器として用いていたが、彼女らは多くの摂理的使命を果たしていたから、非常なプライドと権威を持っていた。そして「自分達が天の花嫁を決めることになるだろう」と思っていたのが、突然そのおばあさん達には一言の相談もなくして、まさに突然オモニム(真のお母様)が選ばれたのである。彼女らの動揺は想像がつくだろう。その様な事情環境のもとで、一九六〇年の子羊の婚宴は挙行されたが、それに先立って、教会の中には様々なゴシップが往きかっていた。「あそこの家の娘がきっと天の花嫁として選ばれるに違いない」等々、多くの人々が様々に異なった噂をふれまわっていた。教会内は信じられないほどの期待で湧き返っていたのである。

 この様な情況のもとにオモニム(真のお母様)は選ばれたのである。それまで多くの若い女性達が、この世的観点から見れば、あらゆる面において、自分こそふさわしく見え、自分こそ選ばれるべきだという確信に満ちていました。「私はこんなに美しいし、大学を卒業して学位も持っているし、あらゆる社会的な教育を受けている。良家の出身で家庭環境もこんなにいいのだから、主は私の家に来なければならない」、「私のようなタイプの女性こそ天の花嫁になるべきである」と。

 そしてその年、先生は四十歳という最も重要な摂理的な年齢だったから、彼女らは、「そうだ、先生は四十歳なのだから、花嫁は三十五歳の人が理想的だ」と勝手に考えて決めつけたり、「いや、三十六歳かも、あるいは三十四歳、三十二歳、三十歳ということもありうる」という調子でその年配の女性達があげられ、その女性達は、「自分達こそ最も選ばれる可能性の大きい者達だから、きっと私達の中の一人が選ばれるに違いない」と言い合っては競争に勝とうとしていた。

 彼女らが「花嫁はその年齢層、三十歳から四十歳の人の中から選ばれるべきだ」と考えたのには、もう一つの理由があった。「天の花嫁の資格として、その方は非常な指導者としての使命を果たすことになるから、どうして十代、二十代の若い女性がその位置について、オモニム(真のお母様)として必要な指導力を発揮することが出来るだろうか、出来るはずがない」というのである。

 そういう観点からみて、「教会における母の役割を果たすためには、誰か成熟した年齢の三十代位の者でなければならないはずだ」と、きわめて論理的な結論が出されたのである。かくしてその見えざる競争がいかに激しく展開されていたか想像がつくだろう。一つの層の人々の間だけでなく、様々な基準で様々な角度から競われたのである。

 実体的な銃弾が飛んだわけではないが、いたる所で心情の銃弾が飛びかって、それはまさに見えないけれども、凄まじい戦争の様なものであった。心情の戦争、愛の戦争である。みなが、その愛とその目標を勝ち得ようとしたのだから。


 先生の作戦

 こうして多くの人々の期待が高まっていた頃、突如として、これらの人々は皆、失望のどん底に落とし込まれた。考えてもみなさい、人々はまさにどん底に落ちたような気持ちであった。そして一種の危険性もあった。彼らはそれほどまでに大きな希望と高い期待を持っていたので、その希望と期待が裏切られた時の反発も強かったからである。失望と迷夢から目覚めた時の反発反応は、非常に強いことが当然考えられたからである。

 先生がこの時の事情について公的に明かすのは今日が初めてである。この信じ難いほどの緊張した背後の情況をよく知っている先生は、オモニム(真のお母様)のお母さんにも、「家にこもって教会の玄関からは来ないようにしなさい。自分の娘であっても会いに来てはいけない。どうしても来なければならない時は、こっそりと裏口から入りなさい」というような指示を与えたほどである。

 そうすることによって、惨めな捨てられた立場にいるお母さんになるから、誰もオモニム(真のお母様)の母親になったことを羨やまないからである。誰でも、「オモニム(真のお母様)の母親になることは、女王様の母親になるようなものだ」と思っていた。「ああ、彼女は栄光を受けるのだ」と。しかしこれらの期待の裏をかくために、彼女をして犠牲にするような立場に追いやって、自分の娘なのに、「会いに来てもいけない」と言ったのである。

 だからある意味でこれは、先生の戦法をよく表わしている。多くの娘を持った母親達が、「自分の娘がいつの日か主の花嫁になるかもしれない」と期待していたから、オモニム(真のお母様)の母親のいわば不運で悲観的な立場を見せることによって、誰も彼女を羨やまないように、母親をして犠牲になる役に追いやったのである。それは先生が彼女らをなだめ、屈伏させる作戦だったのである。

 候補者といわれていた十代の娘や、立派な娘をもつ母親達は、教会でも強い発言権、位置を持ち、非常に献身的、信仰的な人々であったが、これらの人々が一番問題だったのである。だから先生はそうすることによって、その人々を鎮まらせたのである。「そんなに思いわずらう必要はないのだ」となだめたのである。

 だから先生が洪ハルモニを、そのように不当な程、困難な立場におくことによって、人々はむしろ洪ハルモニに同情して、先生に不平を言いに来る人さえいた。そういう人々は、「どうして先生は御自分のお母様をそういうふうに扱われるのかしら。信じられないことです。本当にあなたに同情しますわ」と洪ハルモニを慰めた。そういう情勢になっていくことが、先生の切に願う所でもあったのである。

 結婚後の最初の一年間、先生はどのようにオモニム(真のお母様)を扱ったかというと、それは先生の奥様としてではなく、まるで召使いのように扱った。先生はオモニム(真のお母様)に、「私の部屋に特別な許可なしに勝手に来てはならない。階下に小さな部屋をもって先生が呼んだら来なさい」と言ったのである。先生とオモニム(真のお母様)は、本当は花婿、花嫁として新婚時代であるはずなのに、その新婚時代は、オモニム(真のお母様)にとって厳しい試練以外の何ものでもなかった。

 このようにいわば僕の立場から出発したのである。先生は、オモニム(真のお母様)がまさに最低の所から出発することを願っていた。何故なら、数多くの、主の花嫁の候補者達は、先生がどのようにオモニム(真のお母様)を扱うか鋭く観察していたが、先生がオモニム(真のお母様)をひどく扱っているのを見て、オモニム(真のお母様)の位置を羨やましがらなくなり、「選ばれなくてよかった」と思い始めた。それも先生の戦法だったのである。


 真のお母様の訓練

 しかしながらその期間の内的な意味は、オモニム(真のお母様)と洪ハルモニの信仰を試す期間でもあったのである。彼女たちはどんな情況のもとでも決して不平を言わず、先生に背かず、不屈の忍耐を持って、黙々としてすべての事情を甘受しなければならなかったのである。先生はそれを願い、彼女たちは願われた如くにした。

 ここでもまたカイン・アベルが問題であった。カインの立場を理解して、カインのために苦しまなければ、アベルになる道はないのである。オモニム(真のお母様)と、洪ハルモニとは、他のすべての食口に対して、アベルの立場にあるのだから、その失望せる人々を抱擁していかなければならないのである。先生は、すでに個人、家庭、氏族、国家、世界、天宙と予定されたすべての段階において勝利したので、サタンはまったく侵害する権限がないのである。しかしながら、オモニム(真のお母様)の方は、これから出発するのだから、最初の七年間は、オモニム(真のお母様)の訓練期間だったのである。七年間もの長い魚釣り競争のようなものであった。

 最初の三年間は、神の前に、またサタンを屈伏させるために個人的に「勝利した女性」となるための闘いの期間であり、次の四年間は、家庭的な段階における闘いの期間であり、先生の全家族は、信じられないような想像を絶する試練の期間を通過したのである。出発線から出発したオモニム(真のお母様)は、完全基準に向かってひたすらに七年間闘って来られたのである。この七年間というものは、実に様々な非難、中傷、噂、誤解が、先生一家をめぐって渦巻いていた。非難、中傷、迫害によって血を流す思いの期間であったが、それらのすべてが必要なことだったのである。問題は、オモニム(真のお母様)がこの様な試練に耐えて、非難されてもそれを克服し、乗り越えていけるかどうかということであった。当時のオモニム(真のお母様)の立場の難しさが想像できるであろう。そしてオモニム(真のお母様)はすべてに勝利したのである。

 とにかくいろいろなことが言いふらされ、「オモニム(真のお母様)は勝利しなかった。だから、先生は新しいオモニム(真のお母様)を選ぼうとしておられる」とか、まして「オモニム(真のお母様)は誕生日を偽って二人の誕生日が同日であるように見せかけたのだ」とか、まったくのサタンの業としか思えない、心ない噂を耳にする度に、オモニム(真のお母様)は胸が張り裂けるような思いであった。

 そういう情況の中で、オモニム(真のお母様)はひたすら沈黙を守り、耐え忍ばねばならなかったのである。こういう事情の中に年月は過ぎ去っていった。

 しかし何事が起ころうともオモニム(真のお母様)は、絶えず不屈の信仰で忍耐され、犠牲になりながら沈黙を守り通して、先生への信仰を持ち続けた。そして結局ついには、非難されてきた事情のすべては逆転し、皆オモニム(真のお母様)の前に頭をたれて、「この方は本当に天宙のオモニム(真のお母様)だ」と思うようになり、そのように敬い対するようになってきたのである。

 時には信じられないようなことが起こったこともある。ある女性が、ずうずうしくもオモニム(真のお母様)の部屋に侵入してきて、「あなたには主の花嫁になる資格なぞ全々ない。私がなるべきだ。あなたは私の夫になるはずの人を盗んだのだ」というのである。また七十歳にもなるあるおばあさんが、「『あなたが主の花嫁になり、先生と結婚して、十二人の子供を持つ』という啓示を受けた」というのである。七十歳なのである!

 そういう人々はオモニム(真のお母様)を憎悪する立場に立ったわけであるが、驚いたことには、彼らはオモニム(真のお母様)と一体化することを望まず、結局一人、また一人と去っていった。

 先生は原理をもっているから、この種の事情をいかに主管して、指導者としての使命を全うし、最終的勝利をもたらすかがよくわかっていたのである。もし原理を知らなかったら、先生は本当にどう処置すべきか困惑してしまったに違いない。結局は愛なのである。愛が中心であり、すべては愛の問題である。そして愛の問題がいかに極端な方向に行くものであるか、あなたたちも知っているだろう。

 だからこういう事情を主管することは、本当になんとデリケ―トで難しいことだろうか。悲しいことであるが、ある意味では外で行われる多くの殺人より遥かに凄まじい、激しい戦いだということができるだろう。

 先生は愛を征服し、復帰するために来た。そしてそれは神に対する心情の復帰でもある。だから先生は、愛のため、心情のための蕩減をしなければならなかったのである。愛に勝利し、すべての愛を天のために復帰しなければならなかったのである。それはそのために負うべき十字架を意味していた。それはまさに愛の十字架であり、愛の十字架こそは、最も大いなるものであった。

 無私こそが勝利の鍵

 そして、これらの事情については、決して二人の間で話し合われることはなく、「さあ、オモニム(真のお母様)、あなたはそれを理解し、勝ちぬき、不屈の忍耐で勝利しなければならない。私はそれをこういう計画を成就するために、こういう目的に基づいてそうしたのだから」というような説明はたった一言もしなかった。

 先生がオモニム(真のお母様)に説明し、慰さめたとしたら、例えオモニム(真のお母様)がそのために勝利したとしても、何の価値もないのである。オモニム(真のお母様)自ら意味を悟って、自分自身の理解に基づいて、忍耐し勝利しなければならないのである。

 先生は、今みなに明かしているこの程度にも、オモニム(真のお母様)に説明したことはないのである。そこに見られるのは、実に勝利的な信仰の表明以外の何ものでもない。倦むことのない献身と、先生への絶対的な信仰である。オモニム(真のお母様)も、洪ハルモニもそれに勝利してきた。

 この天宙的勝利の後に、今先生はオモニム(真のお母様)として彼女にふさわしい栄光を与えることにした。洪ハルモニも生涯において、洪ハルモニにふさわしい正当な尊敬と栄光を受けるべきである。もしそれらを受けずして亡くなられるとすれば、子孫達にその結果が表われるのである。

 だから原理的観点からみる時、先生はオモニム(真のお母様)達に対して前とは違った対し方をしているのである。それが復帰の過程であり、それはかくも難しく、大変なことなのである。いかに大変なことか、あなたたちにはとうてい理解してもらえないことだろう。

 あなたたちにおいても心情がすべてを決定するが、先生御自身の摂理においても同じことなのである。先生の心情がひとたび正しく定められれば万事が速やかに出発し、うまく展開していく。

 同様にあなたたちの心情が、ひとたび神と真の父母との関係において正しく定められたら、万事があなたの周りで速やかに動き始めるのである。あなたの心が決まるまでは何も起こらないのである。オモニム(真のお母様)と洪ハルモニは、最も光栄なる責任ある立場に選ばれたが、彼女たちは統一教会の最低基準で入教し、最低の基準からその路程を出発した。このことから学びうる教訓は、栄えある神の王座という祝福は、決して最も高い、栄光ある、聖なる所から与えられるのではなく、人間の悲惨さの最低の所から勝ち取っていかなければならないのだということである。

 それでこそ初めてその祝福は、永遠なるものとなり、すべての人類を抱擁しうるものとなるのである。祝福は決して高い所から来るのではなく、最も低い所に下りてくるのである。そこには苦難がある。先生はいつか自分がいかに最低の、まさに地獄の土牢からその路程を出発したかということを、あえてはっきりと詳しく説明したいと思っている。そして同じ原理をオモニム(真のお母様)にも実践させるし、子供達にも実践させるつもりである。そしてあなたたちにとってもその原理は変わりはないのである。だからこそあなたたちを最低の所に追いやろうとするのである。

 先生に不平を言いたい者もいるかもしれないが、もしオモニム(真のお母様)がその苦難に対して不平を言って、使命を果たすことを断念するような方で、「先生、あなたがどなたであろうとかまいません、私は行きます」と言ったとしたら、あるいは去らないまでも、たえず不平ばかり言っているとしたら、オモニム(真のお母様)は皆のオモニム(真のお母様)ではあり得ないことになる。それとまったく同様に、先生があなたたちをある立場におき、役割を与えた時、もしそれに対してあなたたちが不平を言い始めるや、その位置や立場を失い始めるのである。自己中心になって不平を言い始める時、結局すべてを失い始めるのである。実に無私こそが鍵である。


 魚釣りの教え

 最近こういう噂があちこちにある。すでに知っているように、六月に神学校は第一期の卒業生を送り出すが、彼らはすでに各州へ任命されている。ところが各州にいる責任者達は、「神学生達が州に来れば、先生は彼らをアベルの位置におくに違いない。私はほんの二、三ヵ月教会を維持してきただけで、新しい人が来て教会と責任者の位置を取り上げるのなら、どうして私はこんなに一生懸命働く必要があるだろうか。事実我々の運動のリ―ダ―の人事異動が六月にある、と通告されているのだから」と。

 先生は、このことが州の責任者達の間に心理的パニック引き起こすことは明きらかだと思っていた。案の定それが各州の四月中の実績に明きらかに反映している。

 なんと愚かな者達か。自分がそういう立場におかれたら、「こういう時にこそ自分の信仰と確信と責任感とを証して、自分の価値を示す絶好のチャンスなのだから、今までの二倍も三倍も働く時なのだ」というように考えるべきである。

 報告を聞いて、先生は四月中に多くの教会員が教会を去ったことを知った。なぜ先生はあなたたちをベリ―タウンまで来させて魚釣り競争をさせたかというと、あなたたちが一ヵ月間に積み上げてきた心理的、心霊的なものの現われを一、二日間の釣りをすることによって直接見たかったのである。

 魚釣りを通して、あなたたちがその中でどういう反応を示すかによって、あなたたちがどういう人間であるかを見ることができる。あの時も結局最後には先生だけが残った。先生がまず大貫に続けたいかどうか聞いてみると、彼は「先生、皆行ってしまいました。延期することは出来ないものでしょうか」と答えた。そして次にゲルハルト(註、先生のガ―ド)に「次はお前の番だ、水の中に入るのだ」と命ずると、彼は素直に従って入った。そして二回目には三時間以上も水中にいたのである。どんな天候であろうと先生はやり通されることを彼は知っていたからである。

 先生は、三時間もかかって網を解いていた。網を水中に入れるのに普通は三十分しかかからないのに、その網はメチャメチャにもつれていて、解くのに三時間もかかったのである。「誰がこんなにもつれたままにしていたのだろう」と、いらいらしたほどである。

 先生は昨日は二重の苦しみを味わった。トイレに行きたかったが、船に乗りっぱなしということになってしまったのである。何しろうまくいけば最低三十分で終わると思っていたのに、三時間以上もかかったのだから。かといって、トイレに行きたいから陸に上がろうとは言えない。そういうわけで内的にも肉体的にも実に苦しかった上、外的にもそんなにもつれた網をなおすのには、大変な作業をしなければならなかったのだから、本当に二重の苦しみだったのである。

 昨日先生がそのように苦労し奮闘したからこそ、我々は今日大勝利を収めてたくさんの魚を獲り、勝利感を味わうことが出来たのである。勝利によって、皆のややこしい複雑な心のもつれも、一辺に吹き飛ばされてしまった。

 今先生が、「もう一度やるか」と聞いたら、皆「はい、やります」と答えるに違いない。それこそが心情の復帰なのである。一日であなたたちの心はいったん最低の所に下りていって、新しい生命に復帰し、復活したのである。

 こういう会議は本当に異例であるとわかっていたが、今回はいつもと変わった方向からもとうと思ったのである。もし我々が、ベルベディアで座って先生の話を聞くといったいつも通りの会議をもっていたら、先生が叱りつけたいようなことがあまりにも多くて、一日中叱り通しになるかもしれないとわかっていたし、ことに聖婚記念日も迫っている今、そういうふうにはしたくなかったのである。そこで、「異なった方向から教育しよう」と決意して、ベリ―タウンに魚釣りに来させたのである。「もっと現実的な実地の教育を」と思いついたのが、魚釣りの競争だったのである。


​ 勝利した真のお母様​

 さて、あなたたちは今、オモニム(真のお母様)の初めての証しを聞いた。先生は今日初めて、オモニム(真のお母様)に証しするように言ったけれども、これはまったくめったにないことで、韓国でもかつてなされたことがない事である。あなたたちはオモニム(真のお母様)自身の証しと先生の解説を聞くという、稀有な貴重なる機会に与ったのである。この御言を正しく理解するなら、あなたたちを高める大きな霊的エネルギ―が得られることだろう。

 原理に外れた例外はとることができないし、原理を侵す者を許すことのできない先生である。今日の証しを聞いても、先生が原理的に生きる人間かどうかよくわかっただろう。原理的に生きているからこそ、先生は今日、確信をもって天地の前にこれらを公言したのである。先生は原理を生活することによって勝利したのだから。

 一九七六年以後、オモニム(真のお母様)は完成基準に達せられて、完全なる復活が与えられた。もちろん先生もである。しかしこの年に先生とオモニム(真のお母様)の完全なる復活がなされるまでは、先生もオモニム(真のお母様)も闘わなければならなかった。

 そのため、七十七年、今年の御聖誕記念日、二月二十三日には、蕩減のすべてが払われて、真の父母が完成基準に達し、完全なる復活が与えられたということで、新しい時代の始まりが宣言されたのである。天の新しい紀元が始まったのである。

 事実、二月二十三日は、先生とオモニム(真のお母様)にとって、非常に意義深い日で、統一教会において、過去のすべてが清算され、先生とオモニム(真のお母様)自身によってすべての基盤が決定されて、全面的な完全なる解放が宣言されうる基準にまで至ったのである。

 今までオモニム(真のお母様)は、たった十ドルでも自由に使うことは許されず、必ず先生に尋ねて先生から貰うことになっていたが、これからはもうそうではない。オモニム(真のお母様)は、家庭の母として、教会の母として、天宙の母として堂々たる真の母として、より大きな責任を持つことになる。

 そういうオモニム(真のお母様)において、何が特別に他の人と違った点かというと、まずオモニム(真のお母様)は生まれつき特別鋭い霊的直観を持っていて、また人物や事物に対する洞察力、観察力が非常に正確で、直観力も非常に鋭く明晰だから、オモニム(真のお母様)の心に反映したことは、常に真実であるという点である。それから先生に対する絶対的な忠誠心を持っていて、何と言われても、何を願われても、何でもしようということを深く決意しているという点である。それがオモニム(真のお母様)の信念でもあり、そういう信仰と信念があったからこそ、その苦難の年月にも、目的達成のための深い、実に信じられないほどの忍耐力をもって勝利してきたのである。

 先生はオモニム(真のお母様)がある特別な性質を持っていることを深く感謝している。それはオモニム(真のお母様)が、いつも無私であり、自分の子供達ばかりでなく、あなたたち食口に対しても何でも与えようとするところである。持ち物の中で何か貴重に思う物があったら、彼女はいつも、誰かに与えたいと思い、何よりも与えることを楽しみとするという点である。

 多くの世の人々は、「文夫人には多くの喜びがあり、宝石、衣服等たくさん持っているに違いない」と思うだろうが、事実はまったくそうではない。何でも自分が素晴らしいと思う物は、誰かに与えて喜ばせたいと思うから、ある日急に天候が変わる時など、先生と外出しなければならないのに、衣装入れの中にあまり衣服がなくて、その天候にふさわしい適当な衣装が見当たらなかったこともあった。もちろんそうでなければ先生自身の伝統をひきついでいくことは出来ないが、オモニム(真のお母様)は先生以上にそうだといってもいい位である。 いつもオモニム(真のお母様)は、先生の心を非常に正確に読んで、先生の期待したより遥かに多くをなしてくれた。そういうオモニム(真のお母様)に、先生は次の三点で特に感謝している。そしてそういう美しい性質をオモニム(真のお母様)に植えつけられた神に感謝している。

 第一に、オモニム(真のお母様)は霊的に非常に繊細、敏感で、万事を霊的に明確に読むことができることである。第二に、先生に対する絶対的な忠誠と献身であり、どういう方向に先生が導いても、いつも喜んで従ってくれる。第三に、自分のすべての持ち物は、神と天宙のものであり、万物は天宙と享有されるべきものだから、どんな貴重なものでも、誰かに与えて誰かを喜ばせたいという無私な生活観を表明している点である。「これは私のもので、あれはあなたのものだ」という感覚は持っていないのである。

 また神は、この家庭に多くの子女を恵まれたが、この子供達は、どの一人を見ても極めて優秀で、あらゆる面で素晴らしい成績を記録している。健康で、とても天的な子供達でもある。先生はこれらのことのすべてに限りなく感謝している。


 無私の原理

 レバレンド・ム―ンはすでに言及したように、国家という限界内に限られている国家的という域を越えて、天宙的な段階へ行こうとしている。もしあなたたちが自分自身のことばかり考えるなら、この運動の中で長続きしないだろう。

 例えば、オモニム(真のお母様)がもし自己中心的な人で、彼女自身のことを考える人であったら、今日オモニム(真のお母様)の位置にいないはずである。だから我々の運動の中にもし自己中心的なリ―ダ―がいるとしたら、今荷物をまとめて出て行きなさい。たった今。そういう者にはここはどうせ長くはもたないからである。

 先生はリ―ダ―達をそういう観点から見ることにしている。そういう観点から価値を計るのである。どれだけ『無私』であるかという、そのキイ・ポイントとなる基本原理に基づいて、人事するのである。先生は原理を教え、原理を生活し、原理を実践している。そして今日あなたたちは、先生が統一教会の指導者としてどのようにこの道を歩んでいるかを知った。オモニム(真のお母様)は、この点において今や勝利的な女性であるが、誰が、この完成した勝利的な女性を創ったのだろうか。それは実に先生である。だから、先生もまたその点において勝利的な先生なのである。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.09.25 22:01:56
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