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2021.11.27
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​​​​​​​​​​​​「本然のみ旨の道」

1984年7月8日
ベルベディアにて


 きょうの題目は本然のみ旨の道です。“本然のみ旨の道”、人間誰しも本性をもっていることは、御存じのとおりです。その本性は自分自身を越えて、世界と連結され、宇宙と連結されていなければなりません。そして過去、現在、未来へと連結されます。その本性は、歴史性を超越し、宇宙を超越しなければなりません。皆さんの心も歴史を通して自分が一番になろうと欲しています。また、この宇宙より大きいことを願っています。これは過去、現在、未来に、人間が存在する限り、本性がそのように作用するためです。

 ではこの本性の根源はどこにあるのでしょうか? 本性の根源を考えるとき、今日の自然科学者たちは自然に生じたといいます。本性を中心として考えてみた場合、人間の価値とは何であり、また真なる人とはどのような人かといえば、それは真なる本性と一つになった人のことをいうのです。では、誤った人とはどのような人かといえば、真なる本性に違反する人のことです。

 ゆえに善悪に対する問題は、真なる本性を中心として本性の道を歩むときに、真なる善となり、それに違反するときに悪となるのです。このような観点から見るとき、本性はどこから来たのでしょう? 誰のものなのでしょう? どこから来て、誰のものなのか? これが問題なのです。「それは父母を通して来た」と皆さんは言うでしょう。しかし、具体的に考えてみるとき、父母を通し、祖父母を通して、もっとさかのぼって行けば、人間の最初の先祖にまで行きます。そしてまたこの本性は、永遠に自分の後孫にまで引き継がれていくのです。私たちはこの世においては百年ぐらいしか生き続けないでしょう。しかし本性は自分が死んで霊界に行ってからでも、この地上の子孫の中に受け継がれていくであろうと思います。

 自分が死んで霊界に行けば、この本性は地上に残されるでしょうか、それとも消滅してしまうでしょうか。それ(本性)はどこに行こうとも残るものです。決して消えてしまうものではありません。本性は自分が生まれる前からあったわけですし、また自分が生存しなくなってから以後も人間の本性は存在し続けるということになります。

 ではその本性はどこから来たのでしょうか? これは存在が先か意識(概念)が先かという哲学上の問題となります。これによって、世界観が異なってくるのです。今日の唯物論者は物質が意識を規定するといっていますが、物質がすべての莫大な意識観念世界を包括しているのかといえば、決してそうではありません。この莫大な意識は、物質に先立つと考えればそれは事実です。何の話か分かりますか?

 例えば種を例にしますと、種には二つの部分があり、その二つの部分は一つの皮をかぶっています。よく考えてみなさい。すべての種はこのようになっています。種の中に小さな胚珠があって、これが主体的な立場です。受精した最初の段階においては、父親と母親の愛の結合の中から生命というものが生まれるわけです。そしてそこにはプラスとマイナスが表されています。宇宙の自然の特質がすべて種の中に、木は木なりに入っています。松の木であれば、松の木のすべての本質的な要素が入っています。愛であれば愛のすべてが入っています。(黒板を使いながら説明)

 単細胞一つの中にも、精子とか卵子とか生命のすべてが入っています。それは物質で言えば極めて小さなものですが、その小さな中には、(黒板を使いながら)このような莫大なる自分という根源が入っているのです。

 ではなぜ、物質という一つの単細胞の中に、このような莫大なるものが内在することができるでしょうか。自分という生命体を包括することのできる、そのような余裕ある質量をもっているというのでしょうか。だからそこには必ず物質の中心に何らかの無形のものがあるというのです。自分自身が生まれることのできるある本質の要素が集約的に入っていて、物質としての一つの単細胞が両親の愛によって結ばれるのです。

 では私という存在は、自分が生まれる前から存在していたのでしょうか、既にそこに存在していたものが自分の中に現れてきたのでしょうか? 物質が先か、概念が先か、。これが問題なのです。単細胞としての私自体が生まれるのに、その単細胞内に私という本性の写真、はっきりはしないがすべての計画が入っていなければならないのです。それで、私という一つの本性の意識の核というものがあって、そこにすべてが含まれている力の源泉があるために、物質を相対としてプラスとマイナスを引き入れて大きくなっていく、これが私たち人間の成長であるとみるのです。食事をして物質的栄養を吸収し、大きくなっていくのです。コンピューターのすべての計画が組まれてこそ機能するように、私たち人間自体の写真が映されて入っているのです。

 そのような人間の本性自体がこの宇宙と歴史を超越しているとしたら、そのような私というものが生まれてくるためには、物質自体の観念ではあり得ません。これはあくまでも父母という特性の核が合わさって、物質的単位を吸収して、それ自体を形成していくとみなければなりません。それゆえ、意識が先であって、物質が先でないという結論が出るのです。

 (黒板に書かれる)これは東洋人の目ですね。西洋人の目は大きいのです。(笑い) 皆さんにとって、意識が先か物質が先か、これが問題です。目の先祖がいるとしましょう。 (黒板に書かれる) 目にも動物の目とか、いろいろな目があるでしょう。そして、目の先祖がいるはずです。では、この目が生まれてくるときに、“私はこのように生まれたい”という思いがあるでしょうか、ないでしょうか。目にそのような考えをもつことができるでしょうか、できないでしょうか。目は“私は回らなければならないし、目は白と黒と真黒というように三段階になっていなければならないし、まつげがなければならないし、ぬれてパチパチしていなければならない”などと、思うでしょうか、思わないでしょうか。そう思ったでしょうか、思わなかったでしょうか。○○さん答えてみなさい。(思わなかったです)。目自体に、物質自体に思いというのはあり得ません。

 ではなぜこのようになるのでしょうか? 「目はこのようでなければならない、という計画があったのでこうなった」と言えば、それは理論的です。目というのはこうなければならないという意識があって、それに従って物質的構成形態があると見なければなりません。目とは意識と物質を兼ねているものを言うのであって、意識と物資を別にして目と言うことはできません。ですから精神があるところに物質は従っていくのです。これを知らなければなりません。ここで精神というのは、意識という意味です。今日これを分けて考えるところに問題が起こるのです。唯心史観とか唯物史観とかになってくるのです。二つが合わさり一つとなって、人間の理想世界をつくらなければならないということを考えなかったのです。これを分けて論議する世界は、いくら理想的だとしても真なる理想世界ではありません。一つの世界となることはできません。

 目自体は考えもなく、何も知りませんでした。物質自体は何も知りません、しかし意識は知っていたのです。ではどのように知っていたのでしょうか? この目自体が回らなければならないということです。では誰が回るようにしたのでしょうか?

 次に目は、太陽の光を見るために生まれてきたので、太陽があるということを知っていたのです。目自体、物質自体は知ることができるでしょうか。物質世界は太陽があるかないか分かるのでしょうか。目は太陽があることを知っていましたか、知りませんでしたか。霊的な意識を兼ねた目は、既に知っていたのです。太陽があることを知っていたのです。では物質より先に知ったのですか、物質より後ですか? (先です)。物質がか先ではありません。すべての存在が動くのは、物質が先ではなく意識が先であることをはっきり、理論的に完全に解決しなければなりません。

 このように、共産主義の唯物論者たちはでたらめなのです。根本を完全に破壊しなければなりません。意識と物質を分けてはなりません。一つにならなければなりません。自分自身というのも、そのような二つが結合して調和をもって出来ています。目は太陽があることを知っていたでしょう。だからそのように考えるのです。それは意識が先に知ったのであって、物質が先に知ったのではありません。何か異議がありますか? (ありません)。

 次に目は、ほこりがあることを知っていました。物質である目自体が知ることができますか。意識がそれを知っていたのです。どれほど苦労したでしょう。この物質はどこから出てきたのですか? この皮膚のどこから出てきたのですか? なぜ真っ黒なのですか? 考えてみなさい。それはどこから来たのでしょうか。物質がそのように出てきたという、でたらめな話がどこにありますか。(目は意識によって)太陽があることを知ったし、この地上にある空間があって、空気が流動することによりほこりがあることを知ったのです。

 次は何かといえば、ここに水を注いでくれるものがあります。(黒板に書かれる)この涙腺が出来上がるまで、どれほど難しいことだったか考えてみなさい。これは既に輻射熱によって蒸発するということを知っていたので、蒸発したら大変だからと、いつも湿らすようにしてあるのです。目はなぜパチパチするかというと、水に湿すためです。じっと何もしないで動かなかったらどうでしょう。考えてみなさい。なぜパチパチするのか。(笑い)

 このようなことを共産主義者に聞いてみなさい。意識が先か、物質が先か? 皆さんはどう思いますか? (意識が先です)。この目一つも、すべての宇宙的な知識を背景として生まれてきたのです。それではどのようにして太陽を知り、いかに空気があるのかを知り、いかにして水が熱によって蒸発することを知ったのでしょうか。この宇宙的な莫大な知識を基盤として出発したという事実を否定することはできません。今日の科学者たちは、このようなことを知る術がないので、漠然と「宇宙は力によって生じたのである」と言っていますが、その力は盲目的な力ですか、(目的をもつ)具体的な力ですか?

 存在しているもののすべての構成は科学的に出来ています。公式で測定できるようになっています。具体的になっているのです。物理学は公理だとか公式が多いでしょう。公式を通して測定していくのです。では力はどこから来るのでしょうか? ここで力が先か作用が先かという問題が生じます。作用して力が生じ、力が作用をするようになっているとしたら、作用が先ですか、力が先ですか? どちらが先ですか? (力です)。

 私は、レバレンド・ムーンという力の母体となっていますが、すべての器官、四肢はどのように作用しているでしょうか。では、電気においては力が先でしょうか、作用が先でしょうか。電気の作用によって電気の力が生じてくるのでしょうか。電気の力によって作用が生じてくるのでしょうか。電気が生じる時はプラスとマイナスが結合しなければなりません。プラスとマイナスが結合するのに作用が必要でしょうか? もしこれがなかったらプラスとマイナスが結合できず、力が出てこないのです。では作用が先ですか、力が先ですか? 力がある以前に作用がなければならないのです。作用するところに力が生ずるのです。これは深刻な問題です。この問題は根本的問題です。

 それでは、作用はどのようにするのでしょうか。作用がある以前に何があるのでしょうか。ここで言えることは主体と対象との関係、プラスとマイナスとの関係でなければ、作用もなく力もないということです。分かりますか? この宇宙をどのように見れば良いかといえば、力はただ漠然とあるのではなく、宇宙が作用することによって力が生じ、宇宙が作用するためには相対的概念がなければなりません。

 だから力より先に作用、作用より先に主体と対象の概念があるのです。今日、これを中心として物質と精神、プラスとマイナス、主体と対象の概念から作用が始まるのです。これを知らなければなりません。宇宙は精神と物質の相対的関係において授受作用し、万物が展開していくのです。何の話か分かりますか? 宇宙が生まれる時には、そのような概念から大きな精神と物質が和合した時、主体と対象の作用によって生まれたのです。創造というのはこれを具体化して展開したものです。意識と物質が相対的関係を成し、一つとなって宇宙の出発となったのです。出発がそうであるから結果的な人間もそうなのです。分かりますか?

 精密なコンピューターになるためには、意識が精密でなければならないし、最も精密でさらに最も大きくなければなりません。世界貿易センターがどれほど巨大か、あのようなものを一つつくっておけばすべてを知ることができます。天や地のすべてを測ることができるのです。人間の意識はどれほど大きいか考えてみなさい。

 小さな物質にそれほど莫大な意識が入っているということは神秘なのです。神秘的な主体、対象の関係をもっている頭脳です。先ほど種の例で説明したように、その小さな種の中に巨大な多くの情報が含まれているのです。人間についても同じことがいえます。父親の精子と母親の卵子とが一体化して新しい生命が生まれます。ではそれがどのようにして、何によって結ばれるのでしょうか? 力によって結ばれるのですか? 知識によって結ばれるのですか? 権力によってですか? 何によって結ばれ何によって作用するのですか? うん? 何によって? (愛によってです)。

 では最初に神様が精神的なものを占め、この世の物質が連結するために、神様は何をもってなしたでしょうか。どのような力をもって調和しようとしたでしょうか。これが問題です。力でもってですか。知識でもってですか。愛という概念をもってですか。神様は愛という概念をもって宇宙形成の軌道を置いたのです。礎石を置いたのです。分かりますか?

 有史以来、人間はなぜ宇宙を越えても愛を必要とするのでしょうか? 人間は、昼であれ夜であれ、いかなる所に行っても、若い時も老いた時も、死んだ後も常に愛の観念を離れることはできないような存在物なのですが、なぜそうなのでしょうか? それは根本がそうだから仕方がないのです。今でも愛のみが創造の能力を行使することができるのであって、愛がなければこれを行使することはできないのです。何の話か分かりますか? そのような愛の原動力を中心として全部が出来ているのです。

 では、神様は人間をなぜ創造したのでしょうか? 今日の宗教人たちも神様が人間をなぜ創造したのか、それについてはっきり知りません。神様はいたずら半分に創ったのでしょうか? そうではありません。自分の実体完成のため、愛の理想実現のために創ったのです。愛という意識を中心として、愛の相対を展開しておいたのです。その対象が男と女になったのです。電気にも、ここにプラスの電気があればマイナスの電気が接するようになり、マイナスの電気があればプラスの電気が接するようになるのです。

 ここに大きなプラスがあります。それはもちろん主体であり、マイナスの対象を求めます。ここに磁石があるとします。プラスはマイナスにすぐにくっつきます。プラスにはそれなりの特質、つまりマイナスの特質があります。もしプラスとマイナスが全く別物であるとするならば決してくっつくことはないのです。けれどもプラスの中にも何らかのマイナス的要素があるために、プラスとマイナスはいつでも容易にくっつくようになります。マイナスもその中にプラスの要素があるので、プラスと結合することができるのです。この二つの性質が相互作用します。そして、相互作用からプラスとマイナスが一体化します。巨大なプラスがあって巨大なマイナスがあり、それが一体化すれば更に大きなものに一体化しようとします。その巨大なものは更に同じような大きさのものと相互作用し、連鎖反応のように更に大きなものと一体化していこうとするようになるのです。進化は、このような過程を経てするのであって、ただ進化することはできません。作用をいかにするかが問題なのです。これが分からないのです。作用を知らないのです。ただ単に進化したというのではなく、必ず主体と対象との関係が連結しなければなりません。そうしなければ作用という基盤の上に力が生じないのです。すべての作用は愛という概念に従うようになるのです。何の話か分かりますか?

 この世界には元素があります。今は百十以上の元素があるでしょう。そしてそれ自体はどうなっているのかといえば、プラス、マイナスを中心として作用しているのです。その元素はある特定のものでなければ反応しません。プラスとマイナスにどんな力を加えても反応しません。特定の元素が来れば、直ちに反応します。研究室の化学者が一つの元素と他の元素とを合併しようとして、力や圧力をかけても一体化しません。その元素を宇宙の法則に従って、正しい主体と対象の関係に組み合わせたとき、その元素同士が一体化するのです。この話は何かといえば、いくら進化しようとしても、主体と対象の相対基準が合わなければ大きなものは出てこないというのが鉄則であるというのです。分かりますか?

 宇宙は愛という概念、主体と対象が通ずることのできる概念を中心として連結されているのです。では愛を中心としてなぜ連結しなければならないのでしょうか。なぜ愛を中心として一つになろうとするのでしょうか? それは愛と一つとなって、主体と対象関係の因縁を経ずには、より大きなものと相関関係を結ぶことができないためであり、愛は大きなものに向かっていくようになっているからです。

 愛自体も作用して、プラス、マイナスが作用すれば消粍するようになっているのです。すべて入力よりも出力が小さいのです。なぜ愛を必要とするのでしょうか? それは愛のみが大きくなることができるからです。そのようになっているのです。二人が愛すれば小さくなるのではなく、二人が合わさって大きくなるのです。分かりますか?

 きょう、商売をして、一円でも損害があるとしたら私は絶対に出掛けないでしょう。商売は一円でも利益を得るために行くのです。毎日行けば行くほど一円ずつたまるので、毎日続けることのできる力が出るのです。分かりますか? 何の話か。愛のみが宇宙を動かし、愛のみが発展することのできる力として余裕に満ちて、超宇宙的作用として射つことができるのです。このように考えてみるとき、大宇宙の中に巨大なプラスがあります。このプラスがこのようになっています。(黒板を使用)ここに巨大な宇宙があり、そこに巨大なプラスがあるとすると、どんなに小さな存在であったとしても、我々はこの大きなプラスと一体化したいと願います。どんなに小さなものであったとしてもより大きなプラスにつながりたいと願います。それによって段々に大きなプラスとなっていきます。この巨大なプラスは非常に複雑なものであったとしても、我々はこの主体なるプラスの対象となりたいと願います。それによってその存在自身がより大きなものへと発展していくことができるからです。人間が自分の能力を越えて、更に大きな巨大な理想に達しようとするのは、その法則のゆえです。自分がどのように小さくても、宇宙は巨大なのです。それは宇宙のプラスなる主体が巨大であるからです。それゆえにその巨大な理想に達しようとして人間が努力するのです。そのように人間は創られているのです。

 このように考えると、この宇宙は神様とか被造世界とかいうのでなく、全部が一つのボールの中に入ったようなものです。そうでしょう。ではこのボールは何で織ってあるのかといえば、これが愛というものです。分かりますか。そのような人は永遠に生きます。宗教的観念を離れて、外的理論的体制であっても、完全に理解することができるのです。

 家庭が愛でもって一つになるときには、家庭は大きくなるのです。氏族が愛を中心として本然の愛と一つになるときには、国のために大きくなるのです。国の愛を中心として一つとなるときは、世界に向かって大きくなるのです。世界を中心として本然の愛をもつときにも宇宙に向かって大きくなるのであり、宇宙の愛を中心として一つとなるときには神様と一つになるのです。このような結論が出るのです。愛のみが可能なのです。

 きょうの題目は『本然のみ旨の道』ですが、本性の愛が個人に現れるときには、本性の家庭が歓迎し、本性の氏族が歓迎し、本性の民族、国家、世界、宇宙、神様が歓迎するのです。これを知らなければなりません。いくらアメリカがレバレンド・ムーンに反対するとしても、オリジナル・マンであればアメリカは歓迎するのです。分かりますか? 本性というのは共通のものです。連合的で統一的です。これからこのような概念を中心として、統一教会は愛の道を行くように強調するのです。個人を中心とした愛ばかりでなく、家庭のためになろうとし、氏族のためになろうとするのです。より大きなものに連結される愛の道を行こうとするのが今日の統一の道なのです。それが世界統一です。宇宙が統一されるそのような道を教えるのが統一教会の道、統一の道なのです。分かりましたか?

 この世界が、堕落していない本然の世界であれば、統一教会を全面的に反対しないで歓迎するはずですが、サタン世界に落ちてしまったので再創造しようとするのです。だから全部が反対します。再創造というのは、反対の力を凌駕して、それ自体を構成することのできる力の余裕を配置することができなければ、再創造はなされません。今まで否定される反対の力を除去するために蕩減の道が必要であると統一教会はいうのです。堕落したからです。皆さん何の話か分かりますか?

 再創造というのは、徳文氏が「修理しようとしたら、新しく作るよりももっと費用がかかる」と言った言葉と同じです。だから新しく作るよりもっとかかるので、それ以上必要とするものを蕩減という条件で払わなければなりません。蕩減という概念が分かりましたか? 蕩減がなぜ必要なのか分かりましたか。蕩減というのは再創造のために必要なものです。私たちは再創造のために蕩減が必要です。分かりますか? その概念を 皆さんも蕩減しようとしますか?(はい)。なぜ? それは再創造されて、本然の人となるためです。復帰です。本然の人になってこそ本然のみ旨の道を行くことができるのです。では皆さんは本然の人間ですか? 堕落した人間ですね。だから蕩減を通じて再創造するのです。祝福の子女たちもなぜ蕩減の道を行くのか分かりましたか?(はい)。皆さんがいくら祝福の子女だとしても、この世がそうでなく、この世を救うためには、イエス様であっても十字架にかかり、いくら神のひとり子として本然の息子として生まれたとしても、世界を救うためには蕩減の道を行かなければなりませんでした。この世がそうでないので、人も使命を反対するから、イエス様自身も行かざるを得なかったのです。責任があるのです。

 先生はあなたちになぜ苦労させるのか。蕩減の路程を行かせるためです。先生自身も一生、蕩減のコースを積み重ねていくのです。嫌々行くのではなく、志願して行くのです。志願して行かなければなりません。これを知らなければなりません。嫌々行くのではありません。監獄にも願って行くのです。蕩減のためにはそうしなければならないのです。無理に行けば蕩減になりません。はっきり分かりますか。あなたたちも万物復帰をしましたね。これからが始まりです。これからは逆を向いて歩きなさいと言うかもしれません。この世が悪だからです。この世が逆になっているからです。(笑い) 悪なる人々と同じことをしてはいけないのです。私たちは反対に行かなければ善に行くことができないのです。これも理論的ですね。

 きょう、良い話を聞きましたね。春になると木々が花を咲かせます。花を咲かせて何をするかといえば、飛び交うチョウやハチを迎え入れます。それが愛です。そしてすべてが愛を謳うのです。木の葉はなぜ出てきますか。枝はなぜ大きくなりますか。私たちの間で愛をささやくためにです。木がただ大きくなりますか。愛さなくとも大きくなりますか。同じですよ。私たち人間同士も植物の世界もそのような作用をするのです。なぜ木は大きくなるのかというと、長い間生きて、更に長く生きる要素をもった実がなるためです。植物の世界においても愛の関係が成立するのです。それは私たちの教材となるためです。人間にとっては小学校の教材となります。花はすぐに咲くのではありません。三年、四年、七年、みんな異なります。草は一年草のものもありますが、その他のものはみんな長くかかります。これらの現実的な自然界を見るときに、先生のこの理論的な話の意味が分かるでしょう。

 力は主体、対象の愛の関係を中心として動く連結的な関係をもっているので、植物世界でもそのような作用をするのです。鉱物の世界も同様です。鉱物世界もこのように金脈が出来、銀脈が出来、銅脈が出来るのです。なぜ出来るかといえばそのような作用をするからです。すべてそのような作用を行っているのです。では動物世界はどうでしょう? 動物世界は雄、雌ですか、それとも両性の区別なく混ざっていますか。小さな昆虫を見てみると、雄、雌の区別があります。その器官に卵を産み繁殖するすべてがあって、卵をたくさん産むのです。かげろうのようなものは八年間待って空中で交尾して、一日で死んでしまいます。

 サーモン(鮭)は、一度愛して死んでしまうのです。人間だけが愛を続けることのできる特権的存在なのです。そして一人一人の人間は宇宙の愛を連結するための展示品なのです。博物館なのです。人間は王です。このように人間が宇宙的な本然の人となって、天と地が一つとなるそのような代表的な立場で愛するとき、この全宇宙は「ハッハッハッ」とみんな喜ぶのです。宇宙における神様の概念を知らなくても、これらを見ればすべてが相対的関係においてこうなっているので、(本然の人間の中に)宇宙が入ってくるのです。

 では、幸福な人とはどんな人なのでしょうか? 幸福とは何か。幸福とは何ですか? 今や幸福の定義を下す段階に来ています。幸福とは無限なる愛を与えることができ、いかなるところにおいても無限なる愛を受けることができる立場をいうのです。そして幸福な宇宙をつくることができるのです。分かりますか、幸福な人とはどんな人か分かりますか? それは宇宙を代表した父母をもった人であり、宇宙を代表した夫や妻をもった人であり、宇宙を代表した息子や娘をもった人です。統一教会でいう四位基台を成した人です。何と素晴らしいことでしょう。一言で四位基台ということは簡単なことのようですが、それはこのような根本問題を解いて出した結論なのです。では、皆さんは幸福な人ですか?(はい)。先生が皆さんをなぜ祝福したのかといえば、このような幸福な父母をつくり、みんなこのような幸福なカップルにし、これから皆さんを中心として幸福な息子、娘をもつためです。先生は反対を受けながら、世界に問題を起こしながらも、この基盤をつくるために、このような仕事をしてきたのです。先生は良いことをしたと思いますか? それとも悪いことをやったのですか?(良いことをなさいました)。

 自分だけのためであってはならないのです。お互いがためになろうとするところに価値があるのです。自分を保護し、自分のみがより大きくなろうとすれば価値はありません。そういうものを個人主義思想というのです。自分が全くなくなってしまえば、宇宙はより大きなものを保つようになります。(黒板を使って説明) 自分がなくなってみると、このように大きなものとなります。空気でいえば、低気圧があるときには高気圧が入ってきます。だから私たちが自らを犠牲にすれば、より高いものより大きなものが空白を満たしてくれるようになります。

 このような時にはプラスとマイナスが一つとなって、より大きなプラスとマイナスとなります。(祝福家庭の三人の子女の名前を呼ばれながら)犠牲にならなければなりません。先生の子女たちも同じです。犠牲がなければ大きくなる道がないのです。これが宇宙が立てた天理です。法度です。いくら偉くともこれを守らなければなりません。人の心の問題、愛の問題、相対の問題を勝手にはできません。先生が原理講義をすれば創造原理は何カ月やっても足りません。

 皆さんは共産主義者になりたいですか?(なりたくありません)。皆さんは唯心論者になりたいですか、それとも統一主義者になりたいですか?(統一主義者です)。私たちは統一主義者であることを誇りにしなければなりません。私たちはいかに生きるべきであるか分かりましたか? これが原則です。個人は家庭のために、家庭は氏族のために、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は天地のために、天地は神様のために生きるのです。(黒板を使用される)これを見て何を感じますか? 何かの周りがあれば、そこには必ず中心があります。これは間違いないことです。中心が必要です。堕落した世界とは何ですか? 個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の(中心が)すべて落ちてしまったのです。世界もヒットラーの世界、ムッソリーニの世界、スターリンの世界、共産主義世界、アメリカ式民主主義世界、これらはみんな自分が一番偉いと言って騒いでいます。中心がみな異なっているのです。

 この宇宙、天宙の中にこの世界は入るのです。このようにして一つに固めたら球形になるでしょうか。皆さんはどのように思いますか。皆さんは宇宙の中心と関係を結ぶべきでしょうか、どうでしょうか。皆さんの中心に宇宙の中心が入ることを願いますか、入らないことを願いますか。個人の中心の長さはこれくらいしかありません。ここに天宙が入ることができますか、このように小さな所に。それに対して天宙の中心は、こんなに大きいのです。皆さんたちの中にこの世界が入るべきですか、あなたがこの世界の中に入るべきですか。それは世界が私の中に入らなければならないでしょう。(笑い) そう思えば大変なことになります。それ自体が爆発します。ではどうすればいいでしょうか?(他の中心に属するようになります)。

 この大宇宙、神の愛の圏内に、大世界の愛、大国家の愛、民族、氏族、家庭、個人全部の愛が一つの中心に合わさるようになるとき、これは完全に球形になります。ではそのような九段階の大きなものをどのようにするのが理想かというと、それは一つの世界にすることです。一つから分かれてしまったのでこれを再び縫い合わせて、再創造しようとするのです。この大きな九つの宇宙を本然の形に再創造しようとしているのです。(黒板を使いながら説明)これを見える世界と見えない世界とに分けておけば、この見えない世界の円形がこのようになっているし、(黒板を使って説明)見える世界はこのようになっています。私たちはどこにいるのでしょうか? 私たちはどこまで行かなければならないかといえば、完成までです。人間の完成までです。それまで「もっとやりなさい」と言います。良心的にいくらやったとしても、「もっと、もっと」と言います。

 このように個人の中心は出発したのですが、「あなたはもっと上がりなさい。上がって、中心を高くしなさい。家庭の中心に上がりなさい」と言って、家庭の中心に相応しい大きさになるのです。しかしそこで満足しないで「もっと上がりなさい」と言って、どんどん大きくなるのです。このようにして、ここまで来て(黒板に示しながら)どうなるかといえばすべてが入るのです。これが入らなければなりません(黒板に次々と示す)。

 霊界では、神様は個人的に下りてきてこのようになり、家庭はこのようになり、中心はこのようになり、半形が始まるのです。(黒板の図で示す)そしてこのようになって二つが一つの円形を成すのです。相対的になっているのです。分かりますか?

 言い換えれば、意識と実体が、主体と相対がプラスされたので、これが完全に一つとなれば一つの球形が成されるのです。

 皆さんはなぜ世界的なのかといえば、ここまで上がっていかなければならない運命があり、そうすることによって、この全体の完成を成すために「上がりなさい。大きくなりなさい。世界的になりなさい」「私が最高だ。私が最高だ」と心が叫ぶからです。

 もしアダムとエバが堕落しなかったなら、プラスとマイナスが自然に合わさって、ここに宇宙が入り、アダムとエバの愛に、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界が一度に入っていくのです。そして神様はそこに下りてくるようになります。神様はこの理想世界の主人となるのです。

 しかしアダムとエバが堕落したので、今日、このように積み上げる蕩減の段階を経て、次々と上がっていくのです。今がなぜ終末かといえば、プラスの民主世界とマイナスの共産世界が一つとならなければならないのですが、一つにならないで闘っているからです。これを一つにするために、統一教会が世界的な基準でもって、アメリカを中心として、キリスト教と一つになる運動を今行っているのです。分かりますか?

 皆さんには世界も天地も関係がなかったのです。ただアメリカや、自分たちだけしかなかったのです。黒人もアジアも必要なかったのです。白人だけで大宇宙を求めて行こうとするから、一番遅くなるのです。

 本然のみ旨とは霊界と肉界が完全に一つとなることです。何を通してかというと、愛を通してです。み旨を通して理想を達成するためには、私たちは愛の道をもって蕩減の路程を行かなければなりません。再創造の過程を経なければなりません。愛を中心として、中心と一つとなる道を行くのが本然のみ旨の道なのです。愛でなければなりません。民主主義でもできないし、共産主義でもできません。今や世界的に統一教会が現れる時になったのです。学者たちも(統一教会を)研究して発表する段階に入ったし、国家的次元で公開され、発表される段階に入ったのです。共産世界と民主世界が対峙しているこの時代は統一教会のみが世界を一つにすることができ、理想を実現する内容をもっているのです。これが愛を中心とするみ旨です。

 地上において成すことが天においても成されるように、地上において解かなければ天においても解かれないというのです。ですからこの地上において完成しなければなりません。ここを愛で(黒板を示しながら)連結させなければなりません。自分を中心とするのでなく、相手を中心として他のために行く道が必要なのです。このようになれば神の国が成るのです。神の国と神の世界が一つとなるのです。横的にもこの愛がなければなりません。個人は家庭を、家庭は氏族を、氏族は民族を、民族は国家を、これらを横的に実践していかなければなりません。このようにすることにより自動的に上に行くようになります。

 横的に努力してこのように行けば、縦的な愛は原則的になるのです。完全なマイナスが生まれれば自動的に完全なプラスが生じるのです。分かりますか? 完全なプラスが愛を中心として生じれば、それに対するマイナスは自然に生まれるのです。一生を愛を中心として生きれば、マイナスを備えた相対として生きることができるのです。そこに神様が臨在されるのです。神の愛が完全にある時には、すべてがそこに着くようになります。だから愛を中心としての再創造がなされるのです。そこで、愛が縦的であるとしたら、為にすることは横的なのです。これを知らなければなりません。為に生きる所には必ず愛が伴うのです。愛を立てようとすれば、必ず為に生きることが必要です。為に生きる道を行けば必ず愛が伴うのです。プラスの中にはマイナスがあり、マイナスの中には必ずプラスがあります。そのことを知らなければなりません。皆さんが自分のために生きるとき、大きく広くなれますか? 他の人のために生きるときに大きく広くなることができるでしょう。分かりますか? 為に生きる生活と愛する生活とは、相対的関係があります。

 きょうの題目は本然のみ旨の道ですが、そのみ旨の道を行くためには、愛を中心とした為に生きる道を行かなければならないということです。これを観念的でなく、理論的な面において私たちは知ったのです。愛を中心として、為に生きる道、この原則に従って生きなければ私たちは神の願いに到達することができません。分かりますか、何の話か?(はい)。

 共産主義に従って行くことはできないし、この世について行くこともできません。この世は逆になっているのですから、私たちは蕩減を払っていかなければなりません。蕩減を払うということは、自分が昔、新しい家を建てようとした時よりもっと苦労しなければならないのです。一生を掛けても、永遠を掛けても、これを成さなければ、本来の世界に行くことができないのです。今日私たちは地上の世界において、この蕩減の路程を短縮させなければなりません。

 神様はそのために再臨主をこの地上に送られ、その公式を教えてくださいました。私たちは、この地上において短時間に蕩減することができるその公式を習うことによって、統一教会を信ずるようになるのであり、この道を行くようになるのです。分かりますか? そして私たちは死の前においても、それを克服し、サタン世界の死の反対があるとしても行くのです。避けてはなりません。再創造するためです。正面から挑戦していかなければなりません。アメリカでの法廷闘争に対しても、人々がいろいろと言っていますが、私は恐れません。あなたが勝つか私が勝つかという闘いは終わったのです。死の道においても私たちは泰然としています。分かりますか、何の話か。これは偉大なる思想です。

 このような思想をムーニーたちがもっているので、サタンが困っているのです。

 祝福の子女の二十一日修練会は明日、明後日で終わりですね。もう先生のみ言は分かりましたね。統一教会がどのようになっているのか分かったので、これからいかに生きるかも分かりましたね。愛することのできる父母、本性の愛で愛することのできる父母をもったことは、それは宇宙と代えることのできないことです。天と地も代えることができません。神の国と地上世界のいかなるものをもってでも代えることができません。また、本性の夫婦となって、本性の子女を愛することができるとしたら、これは何をもってでも代えることができません。これが中心です。核です。神と本性の夫婦と子女、これを何と代えることができますか? これを何と代えることができますか? 代えることはできません。

 このように代えることのできない父母をもち、夫婦をもち、子女をもって本来愛することのできる人が最高に人間として成功した人であり、最高に幸福な人なのです。その家庭は幸福なる家庭であります。世界はその家庭を中心として度数を合わせ、天と地がその家庭を中心として度数を合わせるのです。先ほどの中心と同じです。一つの中心となり、天と地の統一の理想世界が完結されるのです。はっきり分かりましたね。分かりましたか?(はい!)。

 もし皆さんを共産党が引っ張っていったらどうしますか。ムーニーの思想を捨てますか、どうしますか? 先生は今までそのような闘いをしてきているのです。日本の政権の時はそれと闘い、北韓に行ってからは、金日成の国家と闘ったのです。大韓民国とも闘ったのです。そして今は、アメリカの国と闘っているのです。今まではアメリカのキリスト教は統一教会を怨讐のように思ってきましたが、国が反対することによって今は一つとなってきたのです。そうでなければ二つとも滅びてしまいます。全部が先生を中心として一つになろうとしています。これは再創造の歴史の中でも驚くべきことなのです。宗教を中心としてイエス様がイスラエル国と一つとなることのできなかった蕩減復帰をするのです。

 再創造の蕩減復帰をするのです。このような時代に入ってきているのです。このようにしてキリスト教と一つとなれば、アメリカは自然に従っていかざるを得ません。私が監獄に入っていればいるほどもっと早く一つになれるのです。監獄が問題ではありません。受難の道が問題ではありません。死の道が問題ではありません。分かりますか?

 皆さんは大胆でなければなりません。父母のためにはいつでも犠牲になることができ、夫のため、妻のため、子女のために犠牲になることのできる人が偉大な人です。皆さんは神の愛をもった本然の家庭の一人として、行かなければなりません。はっきり分かりましたか。朝起きる時は、両親よりも早く起きなければならないでしょうか、遅く起きなければならないでしょうか? (早く起きなければなりません)。これでお母さんたちは、あなたたちに二十一日修練会をよく頑張ったと言うでしょう。そして女の子たち。あなたたちは自分のために生きるべきでしょうか、夫のために生きるべきでしょうか? 夫のために生きなければなりませんよ。また夫は妻に対して同様です。お互いが為に生きなければなりません。

 このみ言を知ったので、今後もし一人になってもこのような信念をもって生きれば統一教会は滅びません。この世は既に滅びるようになっています。思想的にそうなっているのです。皆さんは先生のすべてのみ旨を受け継いでそのまま残さなければならないのです。先生が父母であるとすれば、皆さんはみんなアダムとエバの立場にいるのです。あなたたち息子、娘は父母がもっている伝統をよく守らなければ大変なことになります。分かりますか、何の話か? (はい)。先生を通して神様が守ろうとすることを、歴史以来初めて皆さんが神の相続を受け継いで、横的出発をするのです。先生を中心としてあなたたちとあなたたちの子女の代の三代を越えれば、国家形成をするのです。

 先生はあちらに行ってもこちらに行っても迫害を受けているので、少し間違っても許される時があります。この世を救おうとすれば、一歩足を踏み入れなければなりません。だから許されるという融通性があるのですが、あなたたちにはそうではありません。何の話か分かりますか? あなたたち祝福を受けた家庭は許しを得ることができません。その場で首が飛んでしまうのですよ。分かりますか?(はい)。それであなたたちは両親たちより恐ろしい立場なのです。あなたたちには許しの道がありません。原則的な道を行くのです。父母の前で反対して、「私のために何をやってくれたのですか?」などと言えば天法に引っかかります。歴史的な遺物としての自体を感謝しなければなりません。分かりますか? 家庭は世界を縮小したのです。父は男を代表したのであり、母は女を代表して縮小したものです。その父母に反対したら、世界中どこへ行っても歓迎されることはありません。

 先生の話を(通訳者を通すのでなく)知りたければ韓国語を勉強しなさい。それが蕩減です。(通訳者に通訳しないようにと指示される) 分かりましたか? 他に道がないのです。言葉は簡単です。しかし、どれほど複雑な内容で、哲学的で、今まで数多くの学者たちが犠牲になっても探し出すことのできない道であったのです。先生は苦労をし、先生は試みに試みて結論づけたのです。先生が実験してみたのです。

 そこの娘、名前は何といいますか?(○○です)。それは道を示す名前です。どのような道かといえば、二とおりの道です。そしてこの娘は一番悪い道を行っています。父母が批判的であるからです。先生の話が何のことか分かったの?(はい)。他に行く道があると思うの。どのような男と祝福されてもよく従って行きますか? 答えてみなさい。(はい、従って行きます)。男たち、悪い思いをもったら絶対に良い相対を得られません。神は自分とよく似た相対を与えます。

愛というのは宇宙を歓迎する道なのです。自分を中心として宇宙が歓迎されますか? 答えてみなさい。愛の道というのは宇宙を歓迎する道です。自分を中心として宇宙が歓迎されるの? そういう思いをもってはいけません。為に生きる道において、一人の男性が一人の女性と出会うことは、姿、形が問題ではないのです。

 ○○、君は父親から祝福を受けるつもりか、先生から祝福を受けるつもりか?(先生です)。このような思想をもつ男子はどのようにすべきかといえば、寝ても覚めても努力しなければなりません。横になっても、立っていてもみ旨を考えなければなりません。(先生が通訳者の通訳をやめさせる)二世には通訳をしません。分かりますか? 韓国語が分からないといけません。

 皆さんは頭の中で、共産主義も良いのでないかなどという考えをもってはいけません。それらは全部先生が研究しました。民主世界も今後どうなっていくか先生はみんな知っています。なぜ宇宙がこのようになっているのかも、なぜ人間が一生涯愛の道を求めていくのかも知っています。文学をみれば愛は永遠なるものといいますが、なぜそうなのかは分かりません。ただ漠然とそういっているのです。では、愛とは一体何でしょうか。それは宇宙の発展要素として作用しているものです。すべてはそれを求めていくのです。あなたたちは今度の修練会が終われば祝福が受けられると思っているかもしれませんが、そういう考えをもってはいけません。分かりますか?

 アメリカの人の世話にも日本人の世話になるのもいけません。あなたたちの力でやるのです。努力するあなたたちを見ながら、先生は苦労した甲斐を感じるでしょう。そうしますか?(はい)。ではそうすると誓う人は手を挙げてみなさい。はい、手を下ろしなさい。先生はきょうはよく話しました。第二世の大きい子たち、いろいろとサタン世界を見たり味わったりした者の後継者たち、先生の話を聞いてそのとおりに生きますか? どうしますか? 誓う人は手を挙げてください。

 神の祝福が皆様と共にありますように。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.11.27 20:20:05
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