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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「子女たちの行く道」(子女の日)
1985年11月12日 ワールド・ミッション・センターにて 世界で生きている人たちは、同じ人ですか、異なる人ですか? 答えてみなさい。なぜ答えませんか。(同じです。異なります。と様々な答え) 異なる人ですか? これは簡単な問いですが、答えるのは難しいです。 世界にいるすずめは、同じでしょうか、異なりますか? それでは、そのすずめの泣き声が、国によって、位置によって、環境によって違いますか、それとも同じでしょうか? (同じです)。牛……雄牛など、世界的に見ると色は違いますが、泣き声は同じでしょうか、異なるでしょうか? (同じです)。この人はここで、何をする人ですか? (朴先生を指して言われる) では、考える時や話をする時に通訳を立てて話すことを、本来、人は好みますか? 通訳を使わずに話すことを、本来、人は願うでしょうか? (通訳を立てないほうです)。では、先生がこの人を好きだからここに立てたのでしょうか、仕方なく立てたのでしょうか? (仕方がないからです)。ですから問題が多いのです。世界中の人々が、同じ言葉が使えれば、世界の戦争も、随分なくなったでしょうし、今、この社会の、複雑な面が、どれほど簡単担っていたでしょうか、ということを考えてみなさい。そうであるかどうかを。 人類の先祖が恐らく東西南北、四方にいたでしょうか? (ノー)。では一人でしょうか、二人でしょうか、三人でしょうか? (一組からです)。ではなぜ一組ですか? 見てみなさい。“一番良い”というのは絶対的です。“これしかない”というのは二人になり得ないのです。一人しかいないのです。人間がそうであるならば、もし宇宙を創造された神がいるとしたら、その絶対的な神が願う最も良いものは二つでしょうか、一つでしょうか? 同じです。それで、絶対的なお方がおられて、その方が一番に良いというものは一つしかあり得ないという結論になります。その絶対的な方が所有したいものがあるとしたら、それは何でしょうか。その方に必要なものは何でしょうか? 神様が一番に得たい、これしかない、私が願っていたものだと言えるものは、二つあり得ません。一つです。それが何ですか? それが何なの? (一人がトゥルー・ラブと答える)そうです。トゥルー・ラブなのです。トゥルー・ラブです。いつもの小さい人が答えましたか? トゥルー・ラブというのは、一人ではもつことができません。一人でいくら、ラブ、ラブ、ラブ、ラブと億万年言っても、一人ではラブをもつことはできません。では、神様が真なる愛を探そうとしたら、神様が考えられるその相対者は、どのようなものでしょうか。アメリカで一番有名な山は何という山ですか? (マッキンリー山です)。その山ですか。(ノー)。きれいな鳥、空を飛び回る、空気もきれいな。(ノー)。では? (トゥルー・マン、トゥルー・ウーマンです)。トゥルー・マンというのは、トルーマン、アメリカの大統領ですか? (笑い) ではトゥルー・マンというのは、どのような人がトゥルー・マンですか? トゥルー・ウーマンという人が、鼻の上に目がもう一つあったらどうでしょうか?(ノー)。肩が前後にあって、手が四つあるとしたらどれほど便利でしょうか。(先生笑われる)では、トゥルー・マンはだれに似ていますか? トゥルー・マンがだれに似ているかといえば、神が喜ばれるものであるので、神の喜ばれるようなものに似ているはずです。結論をそのように出します。神様が喜ばれるように似ているでしょう。 では、人に似ているはずですが、どの人に似ているでしょうか? マンといえば人間をいうので、男も女も入りますが、男に似ているでしょうか、女に似ているでしょうか? (様々な答え) それは人間の男にも似ているし、女にも似ているのです。ではこの二つの相対、男と女は同じですか、違いますか? (違います)。ではこの違う形の人たちが、方向をこのようにして(背と背を合わされる)、一人は東の端に、一人は西の端に行くようになっていますか?それとも端に立って、真ん中に向かって、お互いが進んで、会うようになっていますか?(二人が一つになるようになっています)。では、いつですか? それが一歳の時、子供たちが好き合って、男の子と女の子が一つになったといって、それができますか? いつ心と体が一つになって一体となることができますか、これが問題です。 男性と女性が神様に似ています。彼らはなぜお互いに愛そうとするのですか? なぜ一体になろうとするのですか? なぜ、男性と女性が一つになろうとするのですか? なぜ一つにならなければなりませんか? それが問題です。男性と女性が一つになろうとするのは、男性も神様の半分に似ているし、女性も神様の半分に似ているからです。神様の形状を完全に見いだすことができ、神様に会うことのできる場というのは、男性、女性が離れている所においては、絶対に見いだすことができません。男性と女性が一つとなるような場において愛を中心として一つになった姿を発見することができるのです。その時、神様が、右の目と左の目で見ると、フォーカスが合うのです。目も二つありますが、フォーカスが合って一つとして見えるのです。フォーカスが合わなければ見えないのです(しぐさで示される)。これは歴史上初めてのことであって、男性と女性のフォーカスがぴったり合うようになると、愛の目のフォーカスが開かれ、神様がここに来られて、真ん中に降りてこられるのです。神様が臨在されて、神が初めて、「これこそ最高のものだ」と言われるのです。 神様が抱かれる時、どのように抱かれるかといえば、男性はマイナス性相の側に抱かれなければならないし、女性はプラス性相の側に抱かれて、完全に一つになるのです。なぜ皆さんの心臓は左側にあるのでしょうか。医学博士、心臓学博士に問うてみる時、答える人がいないと思います。うん? 神が立っているとしたら、男性は左側に立ち、女性は右側に立つので、心臓と連結することは男性がやらなければならないので、それで左側にあると、原理的結論を下すことができます。 それで神が抱くなら、男性を左手で抱き、女性を右の手で抱きます。そうすることによって回っていくのです。プラス、マイナスがあって運動が始まるのです。それでこの宇宙が回るのです。それで回る時はどこからかというと、男性側から先に回るのであるから、女性はこのように回るのが(しぐさで示される)、自然にこのように回るのが原則です。 では、愛はだれのものでしょうか。神様のものであり、男性のものであり、女性のもの性と女性はなぜ愛さなければならないのでしょうか。平面的結合を絶対視するためであり、縦的結合を絶対視するためだからです。男性と女性は一つであるのに、神様の愛が、どきらに先に来るのでしょうか、これが問題です。男性に先に来れば「エン、エン、エン」と女性が不平を言い、女性に先に来ると「エン、エン、エン」と男性が不平を言います。神は公平にしようとするので、二人がぴったり一つになった時、臨まれるのです。そうすることによって、平和の、本来の、愛の理想がスタートできるという、理論的根拠を立てることができるのです。人間は永遠なる愛を必要としています。永遠なる愛の根源が神であるから、永遠なる愛の根源である神をどこに置くべきかというと、男性、女性の愛の間に置こうということは理論的です。男性側でもなく女性側でもなく、真ん中に置くのです。これはいいですね。これが最も公平です。理想的な公平な場です。それで永遠なる愛を核にし、男性と女性の愛が結合することのできるのが、創造理想の本来の先祖であります。そう言えばピンとくるでしょう。(イエス)。 最近、アメリカの有閑マダムたち、愛を求めて今晩は別の男、あすは他の男、どれほどいいでしょうか、喜び楽しんで。これこそが天国であると、快楽主義的なこの群れは、いかなる群れでしょうか。それが人間ですか? (ノー)。このように、原則を中心とした愛の倫理体制が形成されていないので、統一教会が新しい神の愛を中心とした倫理体制を立てたという事実は、驚くべきことなのです。これを知らなければなりません。分かりますか。(イエス)。これが偽りであるにしても、仮設的定義であるとしても、これはだれもが受け入れなければならない結論である。本当でない仮設的論理であるとしても、これを事実のものとして立てて生きるとしたら、この世が滅びてゆくことを防ぐ一つの道を見いだすことができると思うのです。これが事実であるとすればどれほどいいことでしょうか。愛は、真の愛はだれのものですか? 絶対的な神の愛が絶対的な男性、絶対的な女性を探し出して、絶対的な男性が絶対的な一つの愛を追求する時に、絶対的な神の愛を所有したという結論は、極めて理論的です。神様の絶対的愛をどこで探し出せるかという問題と、人間が絶対的な愛を探し出せるかという問題は、正にこの核を中心として結論が設定されるのです。 きょうは子女の日だといってみんなが集まりましたが、あなたはどこで生まれましたか?遊び半分の愛によって生まれましたか、深刻で宇宙を動員した真の愛によって生まれましたか? アメリカの女性たちは毎日のように別の男と取り換えたり、父も母も自分勝手に遊び回るその血統を受け継いで生まれた自分自身であると思う時、どれほど悲痛で、どれほど悔しいことであるかを考えてみたことがありますか。深刻な問題です。深刻な根本問題です。 言葉の中で、どの言葉が最も貴い言葉なのでしょうか。ある経済学博士であれば、新しい経済理論を中心として世界的な学者として行こうとすれば、そのような論文の内容の言葉が最も貴いと言うでしょう。この言葉を学ぶことによって、自分が経済的に豊かな者となり、良い生活ができると言えば、その言葉は耳にすぐ入るでしょう。 ムーニーたちは、「あなたはどこの大学の何の学科に入るか」と聞かれたなら、どのように答えますか? 「あ! あ! 私は愛の大学、愛の学科に行きたい」と、言える科学があるとしたらどれほどいいでしょうか。(イエス)。世界中にそのような学校、そのような学科がありますか? では統一教会の群れは何をする群れですか。この群れはこの世において疲れ果てて、愛が懐かしくて、懐かしくて仕方がなかった人たちが、統一教会には愛の大学の看板が、愛の学科の看板が掛かっているというので入ってみたというのです。これがムーニーなのです。ムーニーという言葉はいい言葉ですか、悪い言葉ですか? (いい言葉です)。皆さんは、愛の大学に入っていますか? (イエス)。愛の大学に入学することがやさしいと思うのは、とんでもないことです。とても難しいのでありますが、素晴らしい学科なのです。(イエス)。片足を切ったとしても、この学科を通過しなければなりません。片腕を切っても、この学科を通過しなければならないし、四肢を切って胴体だけの人になっても、真の愛の学科を卒業して喜ぶのです。(イエス)。今、愛の大学の総長様が出てきて、訓示する時間なのです。気持ちがいいですか、悪いですか? (いいです)。だからこの道は、絶対に妥協することができないのです。絶対的です。妥協することができません。 では、ドクター・ダーストがいくら優れているとしても先生は相談できません。アメリカの、いくら優れた人であっても妥協することができません。そのままです。原理の道を、一つ一つたどっていくしかありません。では妥協を願う者は手を挙げてみなさい。(先生の笑い) 先生は何度も何度もアメリカのリーダーたちが、「どうしてレバレンド・ムはアメリカ式が嫌いなのか、私たちは他の方法を望んでいるのに」と言うのを聞いています。どうしてそのように先生に対して不平不満を言うのですか。あなた方は今まで不平不満を言ってきました。それはいいことですか、悪いことですか? (悪いことです)。絶対的な愛を追求する私たちにおいては、異議がないのです。 真なる愛をもたない夫と妻が、「これは真なる愛ではないのだ、私たちの友達と相談しよう」と、夫の友に相談したりして(真の愛が)もてますか。二人だけで解決できますか、そこに第三者の介在を願いますか、願いませんか? アメリカの人たちは、「私たちは民主主義世界に住んでいるので、たくさん相談することはいいことだ」と言います。あなたたちは、そのような人たちですか。そのような状態ですか? (ノー)。絶対的です。絶対的ですよ。絶対的というのは、スタートも、過程も、結果も絶対的であるということを意味します。 レバレンド・ムーンが教えるのは、真の愛の、男性、女性の道なのです。真の家庭、国、世界が行く道は絶対的で、一つしかありません。二つではありません。それらを教本として、すべての人々が対することのできる所が、家庭なのです。家庭です。家庭の愛が完全であれば、国の愛の道、忠臣の愛の道、孝子の愛の道、忠男、忠女たちの愛の道、すべての聖人たちの愛の道へ行くし、どこにでも通ずる内容が含まれているのです。 絶対的な愛の木があります。その枝も絶対的であり、根も絶対的であり、新芽も絶対的です。ここにある栄養素は、間違いなくその根にまで通ずるのです。(黒板に書きながら説明)この根は、どこにも通じない所がないのです。あなたたちは一つの葉のように生まれているが、その愛がどのような愛の根から始まったか、神の絶対的な核を通じた愛の起源から生まれたか、そうでないかを考える時、これが大きな問題です。そうでないでしょうか。 ここから(図1を示されながら)西側に伸びたものは西洋人、白人で、東に伸びたものは黄色人種、南に伸びたのは黒人種であり、北に伸びたのはエスキモーなのです。 それらの人たちの頭とすべてのものが、どこに付いて生きているかといえば、家庭という所に頭を突っ込んで、心を突っ込んで、逆さに付いて生きているのです。エスキモー家庭においての夫婦が愛する方法、西側に行って白人たちの夫婦の愛し方、南のアフリカに行って夫婦が愛する方法、それぞれ異なるというのですか、同じなのですか、どちらですか? (同じです)。同じであることは結局のところ、すべての分母となるれ母体、共通分母が何でしょうか。(愛です)。愛ですが、男性と女性が愛を中心として共に生きていること、これが共通分母です。共通分母ですよ。同じなのです。それがうまくいっているかどうか、うまく生活をしているかどうかは千状万態です。うまくいっているという時には、その男性と女性の間に、他の男性、女性の関係が絶対的に関係ない時には、うまくいっているというし、男性と女性の関係が深くないほど、うまくいっていないといえるのです。これは絶対的に同じです。黒人であっても、白人であっても、黄色人種であっても、どのようなものでも、絶対的に同じなのです。 アメリカの娘たちはどうですか? (イエス)。どれほど難しいことですか、どれだけ不都合なのでしょう、絶対的に一人でいることは。毎夜「ハロー」と言って、「今晩君が欲しい」と言えば「OK」と言います。どれほど安易でしょう。どれほど都合がいいでしょうか。 では、統一教会の家庭生活がどれほど難しいか、一度、祝福を受ければ、絶対視するのです。どちらがいいですか。難しくとも、「私はレバレンド・ムーンが教えてくれる、統一教会が主張するその愛の道を行く」のですか、それとも適当に便利なアメリカ式の愛の道を行くか、どちらですか? (先生式です)。なぜ先生式ですか? なぜなら、神の愛を私が占領することができるからです。神を所有することができるからです。先生の方法が必要なのです。神を所有すれば、宇宙を自動的に所有することができるからです。真の愛を中心として、私たちは神をコントロールすることができます。これがどれほど幸福な道かを考えてごらんなさい。それで賢いレバレンド・ムーンも、一生をかけて、悪口を言われながらも、四十年間台風にぶつかりながら、このように進んできているのです。 では、お母様は、幸福な女性ですか、不幸な女性ですか? (幸福です)。では先生は? (幸福です)。なぜですか。神の愛を中心として、私たちが生きているから偉大であるというのです。トゥルー・ペアレンツというのが何であるかの、答えも出せます。このような神の愛を核として、アダムとエバが完全に一つとなったとき、神の愛を中心に、絶独一つになって出発できる最初の人間先祖となったのです。これがトゥルー・ペアレンツであったということは、確実な結論です。分かりますか? トゥルー・ペアレンツというものを知らなければ、トゥルー・チルドレンが出てくることができません。今やトゥルー・ペアレンツがはっきり分かりましたので、トゥルー・チャイルドがだれであるかが分かります。では、統一教会に集まったあなたたちはどのような子女ですか? あなたたちはだれですか。どのような子女ですか。「私は今、真の子女になりつつあります。真の子女になるために訪ねてきた者たちです」と答えなければなりません。では私たちは、堕落したので、他の父母から生まれたので、どのようにしたら真の父母の子午となれるでしょうか。いくら努力したとしても、いくら何かをやったとしても、ここで切って接ぎ木をしなければ、一つになれないという結論が出ます。接ぎ木しようとすれば、どうすればいいですか。枝を切ればいいですか、根を切ればいいでしょうか? (ルートです)。そうです。ルートを切らなければなりません。ルートがみんな野性のオリーブの木であるのに、真のオリーブの芽をどこから得てきますか? どこから探してくるのですか? それでトゥルー・ペアレンツが出てこなくては、真のオリーブの木がなくては、野生のオリーブの木には接ぎ木する道がないのです。メシヤというのは、真のオリーブの木、男性、女性理想を成し得るために来る人なのです。 神がいるとしたら、終わりの日にはどのようなことが起こるでしょうか。終わりの日が近づけば近づくほど、世界のすべてのものの根が、ぶつり、ぶつりと切られていくのです。その時が終末です。このような結論が出ます。神がいるとしたら、そのような歴史の終末に向かって(すべては)動いていると思うのです。切る時には、既に、その木を切ったあとに(接ぐ)真のオリーブの木の準備をしておいて、神様は切り始めるでしょう。世界的な基準で、世界を切り得る真のオリーブの木があるとしたら、世界を切って一斉に接ぎ木しようとするでしょう。このような結論か小水田事 では統一教会とは何か。真のオリーブの木です。統一教会が神の国をつくり、世界を動かすことのできる時には、また、私たちの言葉で言うならば、神の祖国創建という名をもって出てくる時には、民主世界も、共産世界も根が切れる時代、すべての教育、思想、全体の根が、揺れて倒れる時が来るという結論を出すことができます。それで民主世界も滅び、共産主義も滅び、アメリカの倫理もなくなり、キリスト教も滅び、“すべてが滅びる”という声が、“すべてが死ぬ”という声が、叫びが、天下に満ちたなら、“生きられる”という声が準備できているということを知らなければなりません。それで統一教会は、世界の滅びゆこうとするものを接ぎ木できるように相対的な準備をしなければならない、という結論が出ます。分かりましたか? (イエス)。 きょうは子女の日ですが、統一教会が祝賀する子女の日、子女たちが行く道はどのようなものですか。自分の枝から新芽をどんどん配ってあげて、四方、八方から切られて死にそうになっている所にいかに早く接ぎ木できるか、どれほどたくさんやるかという問題が、私たちに与えられた、世界史的な当面の課業なのです。枝の半分以上を切れば死にます。三分の一切れば生きるし、いくら真のオリーブの木でも、半分以上切ったなら死にます。葉が残ってこそ全部生きられるのです。ですから統一教会の群れよ、自分自身をアフリカに接ぎ木しなければならないし、南米に接ぎ木しなければならないし、北極に接ぎ木しなければならないし、世界どこに行っても接ぎ木しなければなりません。このようなことをしなければなりません。あなたたちは、“お! お! それは先生が後援してくれてこそできることだ”と思いますが、そうではありません。枝が自分の根を探し出して、接ぎ木することによって、自分も生きることができるのです。見てみなさい、世界至る所に、植えることのできる地、接ぎ木できる木はいくらでもあります。これが、統一教会において子女の日を記念(祝賀)する人たちの、行くべき道です。 それで、夫を愛する以上の愛をもって、新しい子を生むために、分かれてでも行くことができるのです。夫を愛する以上の愛をもって、南極に行き、アフリカの奥地に行って、自分の夫以上に愛する子女たちを育てるために、夫を離れ、妻を離れ、どこにでも行って、このことを幸福と希望として行けるそのような家庭が、統一家の家庭です。 真の父母であるとすれば、自分よりも子女をもっと愛し、世界へ伸びていくそのすべての後孫たちを、もっと愛するようにならなければなりません。老いた祖父が孫をとても愛することも、すべてそのような意味において一致するのです。それで、あなたたちから枝がどれくらい伸びたか、接ぎ木は三つ以上しなければ死にます。接ぎ木された枝が三つ以上なければ育つことができません。そして無数の枝として伸びていかなければなりません。分かりますか? 皆さんの家庭を中心として、世界の五色人種に、接ぎ木しなければならない責任が残っています。これが統一の子女たちを中心とした統一家の行く道なのです。 では、幹から流れる栄養素が、白人社会から白人社会にのみ行くとしたら大変なことになります。共通なのです。自分を引き寄せる枝がどんどん伸びたら、栄養素はそちらに行くようになります。それこそ公平です。神は枝が多い所へ栄養素を補給するので、愛の道はそちらに行くのです。けさもアジアの人たちと、日本人、韓国人、ヨーロッパ人、アメリカ人たちと行事を行いましたが、神様が御覧になる時、公平なる神はどこに行こうとするでしょうか。もっと伸びようとし、より伸びようとし、より枝を伸ばす所にエネルギーを与えていき、そちらへ方向が決定されていくでしょう。そこには異議がないのです。 では枝となって根をより伸ばそうとすれば、においのする所を探していかなければなりません。根が好むものは肥料です。これを知らなければなりません。反対です。枝と芽は良い所を求めていくが、根はきたない所を探していって、これらは共存するのです。これは事実です。 それで、この根を探してきて植えれば、枝が伸びてくるのです。そしてまた、枝を挿木(さしき)しても、根が生えてくるのです。不思議でしょう。それは何かというと、枝と根は極と極であるが、良い所に行く枝も、その枝の中にはあの伝と接することのできる要素をもっているし、悪い所に付いている根も、あの良い所に接することのできる枝の要素をもっているのです。 これから世界を支配できる民族はいかなる民族なのでしょうか。理想郷を追求することのできる、華麗で香りのする所を探すし、また、あのにおいがし、だれもが嫌がる所を訪ねていって、そこに自分の勢力圏を広めていける、このような民族は世界を支配するでしょう。今までの東西の文化の背景から見ると、西洋は枝に付いて花咲くそのような方向を取ってきました。東洋はにおいのする、だれにも知られずにうずもれて何千年間も根を差し込んだまま、死なずに生き残った根を保ちつつ、成長しているのと同じである、という例を挙げることができます。しかしこの二つの文化背景を考えてみるとき、どちらのほう希望的でしょうか。西洋人たちが中国とかアジア人のことを言うとき、何の表象になっているかといえば、きたないもの、旧態依然なものと言います。中国人は一番だと言っていますが、西洋人からすればこの中国人はそれほどきたなく、それほど旧態依然なものと映るのです。彼らは最高の枝の要素をいつも欽慕しているこの思想をもっているので、世界に残れる民族は、たとえ西洋人たちは通り過ぎていっても、世界に残れる東洋思想を基盤としたこのような国民たちが、世界の希望として伸びていくであろうという論理を探し出すことができます。 西洋人は何たというと華麗な枝のようです。これを差し込んでも根が出ないのです。根が出る要素をもっていないのです。東洋の人は、きたないが枝が出てくる要素を潜在しているので、生き残れるのです。見てみなさい。終末となって西洋人たちは滅びるようになったので東洋へ帰ろう、においのする所へ戻ろうとしています。ヒッピー、イッピーがどれほどにおいますか。今日西欧の人々は、日本に対して関心が高いのです。日本に対して関心が多いです。なぜでしょうか。なぜそうなのでしょうか。東洋に帰って一つになり、二つの性品を経て和合することのできる、授け受けることのできる、上ったり下ったりすることのできる要素をもてば、天地流動する大運勢圏に配置され得ます。全宇宙は滅びるしかないので、生き残れる本性の作用として東洋追求潮流が終末において西欧世界に訪れてきたことは、極めて幸いなことであると思わなければなりません。 先生が、日本人、東洋人の統一教会の群れに、「あなたたち、アメリカナイズされるな、アメリカがオリエンタルナイズされなければならない」と言うのです。(拍手)天地の運勢と生存の原則を中心として、流動するこの世界において残り得るためには、このような歴史観の背景を中心として、東洋、西洋の文化圏を見つめているのが、統一教会を指導しているレバレンド・ムーンなのです。レバレンド・ムーンがアメリカに来て、アメリカの社会において、教会の集会で、大衆が集まるとき椅子を一つも置かないで、「このように床の上に座るように訓練をさせたのが罪である、文化の逆賊である、ノーです」。文化の逆賊でなく天理の逆賊になることを恐れ、このようなことをしているのです。どこに従っていくのかといえば、天理についていくのです。(イエス)。先生は先を見通して、普遍的な道を、先に立って案内しているのです。では、どちらのほうが最後まで生き残れる? レバレンド・ムーンの教えと指導によって、最後まで生き残れるのです。 今日、先生は監獄から出てきて、初めてこのような話を公席(祝日)で話します。皆さんはこれから新しい時代に入ってくるので、昔のような態度を急変させ、きょう話した内容をはっきり知らなければなりません。自分たちが行く方向性において混乱を起こさせないためにこのような訓示をしていることを、はっきり、この教会長からすべての末端の食口たちまで、理論的に、肝に銘じさせるために話しているのです。(拍手) 神の愛を中心として、真の父母を動機として生まれた人たちは、また、生まれることを願っている人たちは、接ぎ木して愛の津液(樹液)を連結させ、愛の種を蒔くこの使命が、今日の統一教会の使命なのです。また、皆さんが行くべき使命なのです。(イエス)。それですべてが成し得るのです。ここで、絶対的な愛を中心として絶対的な男女が会って、文化創建をするのです。絶対的な文化創建は言語と、文字を通して行く道ですから、絶対的な一つの言葉と一つの文字を設定しなければならないという結論は、自動的な結論なのです。それで韓国語を学ばなければならないし、韓国の文字を学ばなければならないのです。その文化の創造は言葉と文字によって成されるのです。なぜかといえば、トゥルー・ペアレンツがコリアの地で生まれたので、トゥルー・ペアレンツの言葉と愛を中心として、神がトゥルー・ペアレンツとの愛を、有史以来初めて接ぎ木したのであります。神が愛を中心として言葉を始められた、最初の出発が、真の父母を中心とした愛の基盤の上でした。それは韓国語で通ずるしかなかったのです。その最初の起源が絶対的であるので、韓国語を学びなさいという原因がここにあるのです。また、韓国の言葉の代身である、文字を学ばなければなりません。神様が愛の言葉を、最初に語られたのが韓国の地であり、レバレンド・ムーン、トゥルー・ペアレンツから真の神の愛が生まれたので、その言葉が言葉の起源となるのです。英語でもなく、中国語でもないのです。それで統一教会の人たちは、これが愛の母国の言葉であり、愛の祖国の言葉であるために、愛の祖国を、母国を訪ねていかなければならない私たちは、この言葉と、この文字を学ばなければならないということは当然の道理です。 それで皆さん、西欧の男たちと女たちが、韓国人の妻、夫になろうとしますが、どうしてですか。神様が最初の愛の言葉を語られた起源が韓国語であったために、その本郷の地に近づくためにも、そのような思いをもつようになるのです。愛ゆえにそういう思いもあるのです。分かりますか? (イエス)。根です。最も中心の茎の根までその愛の津液(樹液)は通ずるのです。本性はそのように動くのです。私たちの本心は、常にすべてを知っています。分かりましたか?(イエス)。 私たちは先生を探し出し、出会ったので、統一教会ではでたらめに、適当に生きてはいけません。絶対的な決意と、絶対的な行動と、絶対的な覚悟をもって行かなければなりません。この運動に加担した権威を誇りにしなければなりません。神様は、愛のアメリカの密室に向かって探していくのです。どのいかなる恐ろしいものよりも、いかに興奮するものより、もっと深刻な道が愛のアメリカを探していく道なのです。たとえ一〇〇〇年で一歩を踏み出したとしても、行こうと願う愛の道が残っていることを知らなければなりません。私たちはその道を尋ねつつあるのです。行っているのです。それを探し求めているのです。先生も行っているし、あなたたちもみんな従ってきているのです。では自分勝手に行きますか、厳粛に行きますか?深刻に行かなければなりません。声を出して騒がしく行くのですか、それとも静かに行きますか? (静かにです)。だれにも知られないように、一人で行かなければなりません。だれの後援もなく、一人で行かなければなりません。本当にこのようにして愛を探すのに、いくら孤独であっても、いくら悲しくとも、いくら恥辱的であっても、それは問題であります。問題ではありません。分かりますか? (イエス)。アメリカ人はあまりに言葉が多すぎます。東洋人は言葉が少ないのです。深いのです。ですからあなたたちは先生に出会って、この両面の世界を知って、内容を理解して、新しく西欧社会に革命の旗を掲げたということの誇りを忘れないで、大胆に走っていかなければなりません。 祝福(結婚)生活が夫婦の出発です。彼らが地上において果たせなかったことを、霊界に行ってでも、二人で発展させなければならないのです。それを知らなければなりません。何の話か分かりますか? (イエス)。それで二人は愛の化身となり、神化できる道を願うのであります。すなわち愛の神化を、愛の化身体を願うのです。造作された物の形体の化身体を願うのではありません。これこそが絶対的です。これのみが絶対的です。これ絶対的ですよ。男性でも女性でもこの絶対的というのは異なりません。一本となって、これのみが絶対的です。神様もそこにかかわってくるのです。そのような絶対的主体、絶対的相対が絶対的に作用すれば、三つの宇宙が、世界が、なぜ動かないでしょうか。宇宙がすべてそれによって動かされるのです。それで、絶対的要素はトゥルー・ラブです。だからこの愛のみが、宇宙を動かすことができるのです。論理的な方法です。分かりますか? (イエス、ファーザー)。 先生は他のことを願いません。それ(トゥルー・ラブ)のみを見つめてアメリカを尾につけて、世界を尾につけて、生かしてあげる道、すなわちハイウェイを築いているのです。ラブ・ハイウェイを築いてみようとするのです。ラブ・ハイウェイを、ここから、小さな支流のような道をつくるのです。ちきなハイウェイに向かって、地上世界、天上世界への直行路をつくろうとするのです。それでこの路は、真の愛でなければできません。真の愛のハイウェイは、終着と出発が、地上と天上が同じ道幅で、築こうとするのです。地上天国達成したのちにその目的を成就することが可能なのです。ラブ・ハイウェイを標準として、すべての国々に、中間のハイウェイ、また中間のハイウェイ、枝のハイウェイ、枝のウェイ、その次は葉のウェイ。葉のハイウェイ、スモール葉のハイウェイ、(黒板で説明)このように上がっていくのです。だから言葉だけではなく、霊界と肉界とをつなぐことのできる基盤が、今度ダンベリーを通して、築き上げられたという結論が出ます。あなたたちはそのことを知らないでしょう。 それで、あなたたちはどこで乗らなければならないか。どこへ行けばいいか。皆さんはまず、糸状のハイウェイから始まって、しだいに大きな枝状ハイウェイに入り、最終的には神のハイウェイで合流し、神の心情圏へと全路程を進んでいくのです。 ドクター・ダーストといったら、アメリカのハイウェイ・ブランチの頭となっているが、ここに愛がなければ滅びます。次に、アメリカの州の責任者は中間のハイウェイなのに、これは愛を中心とした責任者であって、自分のビジネス、職権を中心とした責任ではいけないのです。このようにして、末端まで愛の道が通らなければなりません。愛の道が。 USAハイウェイのこのドクター・ダーストが、“アメリカの統一教会を自分の思うようにしたい”、これはとんでもないことです。メイン・ウェイに行ける方向に導いていかなければなりません。そうしなければ、これからアメリカのハイウェイの終わりまで来て、ここから天国に行けるハイウェイに入れないのです。入れないのです。 最高の根のハイウェイと、最高の天国の、神の王子の花(のようなもの)は、直線上に立たなければなりません。 (以下図で示されながら)①スタートすることのできる小さなものが、(図2で示される)ここでだんだん大きくなるのです。だんだん大きくなってくると、②いろいろと複雑な問題が多いのです。ここで合わさって入ってくるし、④そしてすべて消化し、ここでも合って入ってきて、消化し、ここでも合って、ここは③アメリカであり、これは③台湾だとしたら、台湾も消化しなければならないし、これが③日本であれば、日本も消化し、すべて消化しなければなりません。何で消化するか。愛のみでもって消化しなくては、この⑤ハイウェイ圏の中に入れません。目的が何かといえば、(図2で示される)ここでこれがこのようになって、これがすべて、ここに接続されなければなりません。全部がここに接続しなければなりません。アメリカというのはあり得ません。ここに(図2で示す)接ぎ木しなければなりません。ではアメリカがこれで(図2で示される)あるとしたら、これ⑥を主張する愛は、根が曲がってしまいます。直線ではありません。どこまでも神様は、⑦先生を中心としてスタートし、神の王子の所までいかなければなりません。 今先生はどうでしょうか。神の摂理が、アダム、エバ①まで上がっていくようになったが、ここで②堕落することによって(図3で示される)、③すべてがこのようにして世界に広まったのです。世界的に非常なる混乱が起きて、④全部が広まってしまったのです。数多くの、一二〇国家以上が全部、自分たちの根はどのようになったか知らずに、全部が国家をつくって、一二〇カ国家として世界に現れるのです。これ⑤を復帰摂理を通して、先生が来て、全部(図3で示される)ここからこれを逆につなげるのです。全部逆に、ここで(図3で示される)接ぎ木するのです。心情の根を、国とか、すべてをここ⑤に接ぎ木しなくては、ここ⑥でつないで(図3で示される)これを貫いていって、王宮にまで行けるハイウェイのメイン・ストリートでなければ、行く道がないのです。 ⑦個人時代から上って家庭へ発展するし、だんだんと世界時代を経て、茎⑧のほうへ上っていくのです。それでいくらアメリカであっても、世界であっても、このラインが、(図2で示される)ここから上っていくラインが、ここの⑨スタート点と一直線に立たなければ、サタン世界へと落ちてしまうのです。愛の道というのは、絶対的に一つであって、二つではありません。この道に合わせなければならないのです。世界が来て、ここで(図3で示される)⑩全部合わせるのです。 もし先生が神のみこころを知らずに、だれかの話を聞いたなら、地上天国、天上天国すべてがひっくり返ってしまうのです。動いたとしたら滅びてしまうのです。ここが連結された宇宙となった時には、サタンは自動的になくなってしまうのです。悪というのがあり得ないのです。それで、⑪ダンベリー監獄から出てきたのは、これを蕩減復帰して、これ⑤を連結させてここまできて、ここから⑩(図3で示される)天の玉座⑫へ行く直行の道からスタートできるのです。エデンの園で、本来の心、神の心情の道と、ここで連結することができて、玉座の道と連結できなければなりません。これが連結されなければなりません。 監獄が立ちふさがっているなら、それを貫いて越えていかなければなりません。レバレンド・ムーンが起訴されたといって避けて逃げてしまっていては、その道が崩れてしまうのです。サタンという怨讐が、そこに立ちふさがっているのです。それでイエス様も、十字架を御自分の思いのままではなく、「みこころのままになさしめ給え」と言ったのです。先生も、「韓国人のみ心ではなく、韓国の民のみ心でもなく、統一教会のみ心でもなく、あなたのみ旨の道、愛のみ旨の道を行なってください」と言ったのは同じです。神の愛がダンベリーの向こう側に行って、流れが変わるなら、その道を貫いていかなければなりません。 サタンを離そうとすれば、サタンは高められ、傲慢になり、良いものを願い、自慢を願うのであるから、悲惨で、困難な死の場は、サタンが嫌がるので離れていくのです。サタンは、不平、不満、猜疑(さいぎ)、しっとを好みます。それで先生がダンベリーに入って注意したことは、そこはアメリカと世界に不平を言うサタンのやからたちが集まっているので、先生は別人にならなければならないという心をもって、私の怨讐がアメリカでありますが、アメリカに不平を言ったり、だれかに対しても絶対に不平を言うのではなく、平を言うなら統一教会の信者たちに対して責任を果たせないことになるので、統一教会の祝福家庭に不平を言い、それは(内部だから)大丈夫です。常に先生はここにおいて、この愛の道(図3で示される)、いくら難しくともこの愛の道、より高まることのできるこの愛の道を願っているのです。 過去において、私たちの信仰の先祖たちの道がそうであったように、イエス様も生命の道を、死を覚悟して行ったのです。同じように、レバレンド・ムーンも命を懸けて行っているのです。なぜなら、愛の道を探すことは命以上の道であるからです。命の出発が愛からです。出発が愛であるから、その愛を探すためには、愛を命以上のものとしなければ、真なる愛の道を探していくことができないのです。尹博士、分かりますか? 死を選ぶか、愛の道を選ぶか、死を捨てて愛の道を選ぶのです。絶対的です。分かりますか? そういう人は、有史以来、先生しかいないのです。先生一人しかいないのです。イエス様もそういうことを語らなかったし、行動もできませんでした。先生がこのような内容をもって実践し、歴史時代を四十年間で、あらゆる恥辱と受難を受けながら、死の峠を越えながらでもこの道を捨てなかったのは、真の愛という絶対的な宝を知っていたからです。このようにやってくると、今や世界的に有名になり、世界の栄光を得てきました。サタン世界は先生の成功を願わないので、今まで「滅びる、滅びる」と言われながらきました。しかし今まできてみると、我知らずこのような、成功したという結論を、世界的につけることのできる版図が起きたのです。これは何がそのようにさせたかといえば、絶対的な愛の保護の力がレバレンド・ムーンを引っ張り、押したので、世界を動かすことのできる圏が、目前に訪れるようになったのです。これは理論的な結論です。そのように生涯を生きてきたし、青春時代をそのように生き、その目的のもとで生まれたのです。そのように生きた代表的な人が、そのような代表的な夫婦が、真の愛の、歴史上に初めて現れた夫婦ではないかということを、私たちは知ることができるのです。それでそのような方を、私たちは、真の父母であると言うのです。初めてだから。(拍手) では、その方を真の父母として侍り、このような活動を通して世界を、消化しようとする世界は、永遠なる真の愛を中心とした、ユートピア以上の理想の世界でありましょう。それが一時でなく、永遠なのです。 皆さんが愛の小川から、愛の大河へ、愛の海、愛の太平洋を経て、あの平安な世界へ行くことが、私たちが一生涯の路程なのです。それが人生です。それで愛から生まれ、愛の中で育ち、愛の中で生きながら、愛の目的地を求めていくことが人生でありました。どれほど幸福なことでしょう。分かりましたか? 「真理を知ると、真理があなたを自由にする」という聖書の話もありますが、私たちは真理として愛の本然がどうであったかということを知ったので、どのように行けばいいかを今は知ったのです。 私たち人間は、絶対に自由を求めています。愛の基準にパスする日には、神の国においても、どこにおいても絶対自由です。どこに行っても、永遠に絶対自由です。永遠に絶対自由の立場に立ったその人は、永遠なる幸福、どこでも絶対歓迎であり、絶対応報です。 ではきょう、この子女の日に、「自分も間違いなく、先生が行く所に、間違いなくついていきます」、そのように約束する人、手を挙げて誓いましょう。立ってください。間違いなく行くという人は両手を挙げて。「絶対に不平を言わないし、絶対に躊躇しないで行きます」。(イエス、ファーザー、イエス、ファーザー、イエス、ファーザー)。(拍手) 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2021.12.20 19:18:56
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