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2023.07.05
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第11回「世界統一国開天日」記念礼拝の御言
1998年10月3日
ブラジル・サンパウロ


 心の「人」と体の「人」

 人間にとって最も重要なことは五官であるということを、皆さんは知っています。ここでいう人間とは、どのような存在でしょうか?。それは、五官を統一させようとする最高の者のことです。

 皆さんは、五官が統一されていますか?。(「いいえ」)。五官が統一されていない人が、五官を持っているということは恥ずかしいことですか、うれしいことですか?。(「統一されていなければ恥ずかしいことです」)。そのような人たちは、神様と一緒に暮らすことのできる場所にいることができるでしょうか、できないでしょうか?。(「一緒に暮らすことはできません」)

 そのようにして、地獄に行く人と天国に行く人がいるという観点があるということを、皆さんは知らなければなりません。

 一般の人間が知るところは、「五官がある」ということですが、その五官は、人の体を中心とした目に見える五官のことです。体を中心として現れた五官、見ることができる五官、体に備わった五官が、わたしたちの五官であるということを知るべきです。

 それでは、「人」と言ったとき、それは、いわゆる身体としての「人」だけが存在しているのでしょうか?。それとも、身体に対する心の「人」も存在しているのでしょうか?。「人」は、体の「人」だけが存在していると思う人は、手を挙げてみてください。一人もいないですね。それでは、「人」は体の「人」と心の「人」というように、二人いると思う人は手を挙げてみてください。(皆、手を挙げる)それは合っていますね。(笑い)

 通訳を通して言っても分かるのですね。(笑い)半分も分からないと思ったのですが、皆、手を挙げるのでありがたいです。通訳を本当に上手にしているようですね?。(笑い)

 体の「人」は、夜も見えるし昼も見え、一生の間見ることができますが、心の「人」を見ることができますか、できませんか?。(「できません」)。ですから、それがどれだけもどかしいことでしょうか?

 皆さん、心を見ることができますか?。もし、「心がない」と言ったら狂人扱いされます。皆、心を持っています。だれであろうと皆、それぞれ心の「人」を持っているのですが、永遠の昔から今に至るまで、その心の「人」を見た人がいないというのです。

 心の「人」がどれくらい美しいか、心の「人」を見たならば、心を奪われてしまうというのです。その男性の心の「人」、女性の心の「人」を、心の「人」同士で見たならば、これはぴたっとくっついて、神様も引き離すことができないというのです。そうなれば問題でしょう? 体の「人」を見たくない人もくっついて、男女問題が世界問題になり、世界が滅びるか栄えるかという問題が生じて、ありとあらゆる複雑な問題が生じるという事実を知らなければなりません。

 世界には、多事多端な千万の問題がありますが、その問題は二人の問題であり、二人といえば男性、女性の問題に連結されているのです。アーメン。(「アーメン」)間違いなく、そのようになっています。それは合っていますか、合っていませんか?。(「合っています」)

 二人の問題なのですが、どのような二人の問題なのかといえば、体の「人」と心の「人」の二人が、一つにならないことから問題が生じるということを知らなければなりません。

 それでは、一つにならないことを願う人がいますか?。男性は女性が必要で、女性は男性が必要ですか?。それは、どのくらい必要ですか?。絶対に必要です。神様のもともとの性質は絶対的であり、唯一的であり、永遠的であり、不変的なのです。それゆえに絶対的に必要であり、唯一的に必要であり、不変的に必要であり、永遠的に必要なのです。男性の前に最高の真理が女性であり、女性の前に最高の真理中の真理の本体が男性なのです。アーメン。(「アーメン」)

 それでは皆さん、男性が女性に対して絶対的であり、妻も夫にとって一人しかいない唯一・絶対的な妻、不変的な妻、永遠的な妻であり、自分の夫もそうであり、自分の息子・娘もそうであり、自分の兄弟もそうであるというように、自分の家がもし、そのような家であるとしたならば、その家は神様が所有したいと思われる家なのです。

 夫婦の間でいえば、それが何人になるのかというと、合わせて四人です。今日、世の中に生きている人たちは、夫婦のことを、お互いの目に見える体二つしかないと思って、夫婦は二人であると考えているというのです。

 皆さん、このような話を聞いたことがありますか?。初めて聞いたでしょう?。夫婦は、この四人が一つになり、四人が一つに集まって永遠に一つの存在になるというのが、理想的夫婦なのです。

 「神様は、人類と私のお父様」

 それでは、それはだれに似て、そうなのでしょうか?。お父さん、お母さんに似て、そうなったのです。そのお父さん、お母さんはだれに似たのですか?。そのまたお父さん、お母さん、そのまたお父さん、お母さん、そのまたお父さん、お母さんに似てそうなったのです。それでは、人類の先祖が一番の根になっているのならば、人類の先祖の根は何でしょうか?。それが神様であられるのならば、人類は神様に似たのでこうである、というのです。

 神様に似たのですか?。「神様に似た」と言う人は、手を挙げてください。(聴衆を見回されながら驚嘆の口笛を吹かれる)神様に似たのならば、それをどれくらい誇りたいでしょうか?。

 神様に似たというのですが、神様とは一体だれなのですか?。息子・娘をだれがつくったのかといえば、それはお父さん、お母さんがつくったのです。創造と同じです。
私を生んでくれたのは、お父さん、お母さんということです。それでは、神様はだれだというのですか?。

 神様は、わたしたち人類のお父様なのです。それを大きな声で一度言ってみましょう。「神様は人類のお父様です。私のお父様です」わたしよりも、もっと大きく言ってみてください。(「神様は人類のお父様です。私のお父様です」)

 千人近い人が集まったのに、わたしより声が小さいのですから、皆死んだ人たちです。死体のように麻痺した人たちです。気分が良いですか、悪いですか、どうですか?。「神様は私のお父様です」。(「神様は私のお父様です」)。そのことを、それぞれが忘れないでください。

 それでは、神様はだれに似たのかというのです。私が神様に似たのですか、神様が私に似たのですか?。人間の欲望のふろしきは、どれくらい大きいでしょうか?。「神様もわたしに似ていれば良い、わたしが神様に似ているのは嫌だ」。人間の欲望は、このように大きいのです。

 そのように考えてみたことがありますか?。「神様はわたしに似た。わたしに似た。間違いなくわたしに似た」。このように考えられる人がいたら、神様は喜ばれるでしょうか、頭をたたかれるでしょうか?。(笑い)愛する息子・娘が、「お父さんが私に似たのであって、私がお父さんに似るとでもいうのですか?」と言っても、気持ちが良くて抱き抱えて口づけするのです。

 時間が随分たったので、これぐらいにしてやめましょう。(「いいえ」)。やめましょう。もっとやろうというのですか?。(「もっとやってください」)。わたしは、きょう朝から一時間半遅れたので、それをどれほどすまなく思っていることでしょうか?

 皆さんは、「文総裁は時間をきちんと守るといううわさであったのに、きょうはなぜ、このように遅れたのか?。約束した時間を一時間半過ぎてから来るのか?」と思うかもしれませんが、皆さんを集めてこのように話をすることよりも、ブラジルや南米全体、あるいは世界が生きるか死ぬかという問題の会議があるのです。それを解決しようとして時間が遅れたのですが、それは、「皆さんであれば許しても余りあるであろう」と考えたので、このように遅れたのだという事実を提示いたします。アーメン。(「アーメン」)

 世の中に神様よりも優れた人がいた場合、神様が「人類はわたしに似た」と言われるとき、その言葉を喜んで歓迎する人はいません。神様が「わたしが人類に似た」と言われれば、「ふふふ」と笑うのです。そう言いたいでしょう?。そう言いたい人は、一度手を挙げてみてください。

 人の欲望は神様よりも、もっと高いではないですか。ダイヤモンドの包みを、お父さんの財布に入れるのが良いですか、自分の財布に入れるのが良いですか?。(「自分の財布に入れるのが良いです」)。皆さん、わたしに似ましたね。

 神様よりも、もっと大きい人はだれですか?。神様よりも十倍大きいかたがいらっしゃったならば、その十倍大きいかたを占領しますか、十分の一の神様を占領しますか?。皆さんの欲望は、どれくらい大きいでしょうか?。十分の一の神様を占領するという人は、手を挙げてみてください。十倍のかたを占領するという人、手を挙げてください。どちらですか?。(「十倍のかたです」)

 神様が優れていて、さらにその神様よりも十倍優れた神様がいても、「そのすべてはわたしに似た。気分が良い」と、このように考えなさいというのです。その話は何かというと、神様が自分よりも劣っているということになるのですが、ここで、神様がどのようなかたであられるのか分析してみましょう。

 心と体の闘い

 神様の心と体が闘うでしょうか?。神様も心と体があるでしょう?。神様の心と体は闘いません。そのように闘わない神様に向かって、「闘え」と言って闘うでしょうか、闘わないでしょうか?。神様は、サタンが「神様、闘え、闘え」と言うのを聞かれるでしょうか、聞かれないでしょうか?。

 もし、神様よりも十倍優れた最高の神様が現れて、「おい、おまえ、闘え、闘え」と言うからといって、闘うでしょうか?。劣っている人と優れた人が、いくら一緒に合同作戦をして「闘え」と言っても闘わないのが、神様なのです。分かりますか?。

 それでは、「神様はわたしに似た」と言うとき、神様の心と体が一つになるそのレベルが、私よりも劣っているということですか、優れているということですか?。

 それゆえに人が、心と体が絶対に一つになっている神様に対して、「神様もわたしに似た」と言うのならば、その人は、自分の心と体が神様よりも何百倍、何千倍一つになることができる位置を愛し、崇拝し、そのようになろうと努力する人でなければならないという結論が出てくるのです。

 問題は何かというと、神様が息子と一つになれないということが災いなのです。問題が何かというと、父親と息子が一つになっていないことが災いなのです。それは悪いことであり、破壊されるべきことであるということを、皆さんは知らなければなりません。

 個人主義的な世の中になったので、自己中心の考え方をする世の中は、神様に反する世の中になり、堕落した世の中となりました。ですから、今日、堕落した人間は、自分がいくら劣っていても自分に似ることを望み、自己中心に動いているという事実が問題なのです。父親と息子の関係において、息子たちのほうは、このようにめちゃくちゃになっているのです。五官を持ったすべてのものが自分の思いどおりにし、心も体も一つになっていないというのです。これが問題であるというのです。

 皆さん、心と体が一つになっていますか?。世の中の大問題は、心と体がいつ、一つになることができるのかという問題なのです。これが、皆さんの心においても問題であり、体においても問題なのです。息子・娘になる人たちの立場が、心と体が一つになることができずに闘っているという事実が、息子の問題であり、娘の問題であり、父親の問題であり、母親の問題になるというのです。

 先祖から始まった心と体の闘いこそが、世の中の災い中の災いであり、世界大戦よりも恐ろしい戦争なのです。それが、いまだに一度も休戦も停戦もしないままに引き続いてきたのであり、人類は今まで、心の世界が人類を地獄に引いていく戦争の場になってきたということを知らなかったのです。

 わたしは、東側の国に行っても、心と体の闘いが停戦し、休戦していることを見ることはできず、西側の国に行っても見ることはできず、北側の国に行っても同様であり、南側の国、どこを巡っても同様でした。そのように、自らの内に戦場を持っている彼らが行く所に、平和の世界、誇ることのできる世界があり得るでしょうか?。それは、ないというのです。

 神様は、わたしたち人間となぜ一緒に暮らされることができないのでしょうか?。神様は、心と体が絶対的に一つになっておられて、永遠に変わられないのに、毎日のように、それも永遠に変わる心と体の戦場である人間と、どうして一緒におられることができるでしょうか?。それは、できないというのです。

 神様と人間が、だれに似なければならないのかというとき、神様は「おまえたちがわたしに似なさい」と言われるでしょうか、「わたしがおまえに似る」と言われるでしょうか?。それが問題です。

 今日の個人主義というものは、自己中心主義という観点を中心としたものなのです。神様を代身した心の命令は、「わたしに似なさい。わたしに似なさい」と、体に対してそう言うのですが、体は「おまえには似ない。反対にわたしの後についてこい」と言うのです。この闘いが続いているということを知らなければなりません。

 このように、自分の立場が正に、戦争の場に出征して、第一線で闘っている兵士であるということを分からずにいるのです。自分自身が戦場と化している、ということが分からずに生きている人間なのです。今日、皆さんがこの心と体の闘いの戦場であるということを知らなければなりません。

 心と体が一つになる道

 きょうは何の日ですか?。「世界統一国開天日」です。それで何をするのですか?。皆さんの心と体が一つになることができる道を個人的に開き、世界的に開き、平和の世界を出発することができる世界に行きましょう。天の門が開かれ、この強い体を無理にでも抑えて心を強くし、強制してでも引いていくようにさせましょう。

 皆さんは、いつ神様に似たことがありますか?。わたしたちの先祖が神様に似たことがありますか?。心と体が一つになって気持ちを整え、「私は心と体が一つになりました。お父様。一つになりましたか、なりませんでしたか?」と言って、神様から判子をもらったことがあるのかというのです。そのようにして、心にも判子をもらい、体にも判子をもらうべきものなのであり、本来はこのようにはなっていないというのです。

 そのように、目に見えないお父様の判子をもらわなければならず、さらに目に見えるお父様の判子をもらって、心と体が一つになったという自分を復帰してこそ、堕落していない人間の先祖の位置へ帰ることができるのです。

 神様が、喜ばれ、「自分に似た」と思われるような人に出会われることができることによって初めて、神様は孝子・孝婦に出会うことができ、孝子・孝女が暮らす、天が誇ることのできる自分の家、千年万年暮らすことができる自分の本宮の基台を手に入れられるのです。アーメン。

 見えない神様の印と、見える神様の印を一緒に押してぴたっと合って、内外が一つになることができる、そのような印をもらわなければなりません。そうすれば、心と体が闘う戦場は永遠に存在しないので、神様の友達になることができ、神様の直系の息子になることができ、天国に直行するというのです。

 それでは、統一教会では、真のご父母様とは何ですか?。「神様」であるとか、「真のご父母様」であるとか、それはどういうことですか?。神様は絶対必要ですか?。(「はい」)。なぜですか?。神様は、私の心のお父様なのです。見えない心の世界のお父様であられ、見える世界のお父様が……(テープ中断)

 どうやって一つにするのですか?。真の愛によって、真なる男性と女性の生命が結合し、その中において真なる私が生まれたのです。これは、どこのだれも分けることはできないのです。自動的に心と体が一つになり、息子・娘が生まれるのですが、堕落することによって、逆さまになったのです。

 逆さまにサタンが神様の位置に入っていき、体がサタンの体になり、天理に積極的に反対する立場に立ったので、心と体が闘うのです。体がプラスなのですが、サタンの愛を中心として、また別のプラスになったので反発するのです。それゆえにこの体を、心を中心として完全に屈服させなければなりません。そのような役事をするのが、宗教世界の任務であり、責任なのです。

 それで、「断食をしろ」、「温柔謙遜であれ」、「傲慢になったらへりくだれ」、「許せ」、「犠牲になれ」と、宗教は、このような道を行くようにというのです。それは、体に対して言う言葉なのです。

 この地において、体が心を引きずり回しているのを、心が永遠に体を引っ張っていくようにすることができる自分を、どのように発見するのかということが、人間にとって何が何でも解決しなければならない一番の宿題中の宿題であるということを知らなければなりません。これが、一番大きい問題なのです。

 皆さんの心は、皆さんが悪いことをしようとすれば、「おい、おまえ、やめろ」と言いますか、言いませんか?。それを肯定して「はい、そのとおりです」と従っていくことをせずに、「いや、これは何だ。わたしがやりたいようにしなければならない」などと言ってはいけません。

 体は、悪魔の活躍する舞踏場になっているので、サタンの本拠地と通じます。滅びる地獄の底に行きかねない、このような基台になっているのです。これをなくすためのものが宗教であり、どのようなことがあっても、これを整理しなければならないというのが、神様の救援摂理の目的であるということを知らなければなりません。

 なぜ、そのようになったのでしょうか?。堕落するときに、堕落的愛が、良心を中心として神様を愛する欽慕の愛、追慕の愛よりも大きかったからです。実際に、不倫の愛の関係を結ぶとき、良心基準がその長成期完成級からもっと上がっていき、一つにならなければならないはずでしたが、そこに到達することができずにサタン的愛が入ってきて、それが強かったので堕落したのです。

 そのサタンの根拠地がこの体なので、体に良心が引かれるということが行われているのです。これを本然に立ち戻って、火をつけて焦がしてしまわなければならないというのです。そうしなければ、私の心の世界と体の世界に、平和と統一の世界はあり得ないというのです。どのような犠牲を覚悟してでも、これを清算しなければ、平和や幸福などはないのです。

 堕落せずに、完全に神様に侍り、神様の愛でアダム・エバが結婚して一つの体になっていたならば、神様の息子・娘になっていたのです。神様の血筋が連結され、真の父母の血筋が連結されるので、永遠に心と体が一つになることができる、そのような人になるはずでした。

 ところが、堕落することによって、これが壊れてしまい、この壊れてしまったものを、いまだに修理できていないのです。このような廃品になってしまったということを知るべきです。

 それで聖書では、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」というような、逆説的な教訓の論理を教えてくれているのです。そのような、サタンの舞踏場になっている体が願うことを抹殺してしまうように、というのです。心の命令を絶対視して、心の命令に服従させるように、というのです。

 心を中心として、完全に体が一つになることができる位置に行ってこそ、人類歴史に混乱を引き起こしていた戦争を防ぐことができるのです。サタンと闘っていた舞踏場が平和の基地になることによって、わたしたちが平和の家を自分の心と体の中から始めることにより、家庭的平和、国家的平和、そしてすべての平和が成就するのです。

 心と体が闘っているのに外的な平和が成就しても、自分とは関係がないというのです。これをなしてから、そこに接ぎ木しなければ、すべてのことは不可能であるということを知らなければなりません。

 この二つの目が戦争をしますか?。(「いいえ」)。もし戦争して、一つが自分の思いどおりにしたならば、どれほど苦痛でしょうか?。この体全体が苦痛を受けるのです。同じことです。そのように、すべては相対的なのです。鼻の穴も、大きく穴を一つぽんと開けておいたらいいというのに、なぜ二つなのでしょうか?。

 男性、女性。主体、対象。オス、メス。すべてがペアになっているのです。風邪をひいて鼻がグジュグジュするとき、気分が良いですか、悪いですか?。気分が悪いでしょう?。目の視力も、例えば片方が一・二で、もう一方が〇・二になってみてください。その苦痛は、どれほど大きいでしょうか?。耳も、片方の耳がよく聞こえて片方の耳がよく聞こえなければ、どれほど苦痛を受けるでしょうか?。このように、耳を傾けて聞くべきことをこのように聞くので天地が引っ繰り返されるのです。

 五官は、絶対的に一つになるようになっているのですが、すべて似ているというのです。一つになっています。この口の位置が一ミリ、二ミリほど違っても、言葉はきちんと出ません。口も絶対的に一つにならなければなりません。鼻も絶対的に一つにならなければなりません。目も絶対的に一つにならなければなりません。耳も絶対的に一つにならなければなりません。手も絶対的に一つにならなければなりません。心と体も絶対的に一つにならなければなりません。すべて同じなのです。

 このように、主体と対象がなければ感じることができません。存在が形成されず、理想を感じることができないのです。天に垂直に通じることができる心は、まっすぐなのです。

 心はまっすぐで体は横的になり、正しくならなければなりません。九十度の角度になり、ぴたっと合わせておいたならば、そのまま平安に眠りにつけばよいのですが、この角度が少し違っても平安に眠ることはできません。この角度が違えば苦痛が起こり、良心に紛争が起こるのです。

 アダムが堕落していなかったならば、神様が垂直に入ってこられる門があったのです。水平に入ってきて垂直に出ていくことができるというのが、子女の行く道です。左側、右側、垂直に行くということは、妻と夫がこの世界を抱くことであり、その次に兄弟が、垂直を中心として行ったり来たりするということは兄弟愛として連結されるのです。真の愛の門を通さずしては、垂直と水平が九十度にならないというのです。

 垂直、水平、前後、これが九十度の角度にならなければなりません。角度がみな同じであるものが、堕落することによって角度がすべて違っているのです。テロ団、マフィアのような人は、この九十度がすべて逆さまになっています。それを正して平和な「私自身」になり、天地に対する親子関係、左右の夫婦関係、兄弟関係が一つになることができるためには、堕落した世界の、自己を中心として考える愛を中心としては一つにならないのです。他人のために、全体のために愛するという愛が展開してこそ、そのすべてを九十度に合わせることができるのです。どこにでもきちっと合わせることができるというのです。

 堕落することにより、偽りの父母の愛を中心として偽りの父母の生命、偽りの父母の血統を受け継いだためにすべてが間違ってしまったというのです。丸い球形にならなければならないのですが、ありとあらゆる形態の球形になってしまったのです。それを正さなければなりません。

 完全な球形を成そうと、本然の真なる目に見えない無形の真の父母、有形の真の父母を中心として、九十度の角度を合わせて心と体が統一された人をつくろうという所が統一教会であり、そして、神様が暮らすことができる家をつくろうというのが統一教会の祝福家庭なのです。悪いですか、良いですか?(「良いです」)

 永遠に投入して忘れる

 神様は絶対、唯一、不変、永遠であられるので、神様の息子も絶対、唯一、不変、永遠です。神様を中心とした息子・娘の結婚も絶対、唯一、不変、永遠、その次に兄弟も家庭も絶対、唯一、不変、永遠な家庭になるのです。

 そのような天国の基盤になる、神様が暮らすことのできる家を完成しようとしていたのですが、それを失ってしまったので、どのような苦労をしてでも再びそれをつくりだすために、救世主や再臨主が来られたのです。そうして、それを是正するための役事を代表して世界の統一教会、また世界平和統一家庭連合が生まれたのです。アーメン。(「アーメン」)

 真の愛は、自分の生命を投入して忘れ、投入して忘れ、永遠に投入して忘れるための愛の道であるので、家庭形態、国家形態、世界形態は自動的に統一圏が展開されるのです。アーメン。(「アーメン」)

 神様が、一番好まれるものは何ですか?。お金です。(「いいえ、違います」)。力。知識 全知全能であられる神様なので、それらはいつでもつくることができ、いつでも持つことができます。神様は、何でも造ることができるのです。ダイヤモンドの山もつくり、ダイヤモンドの星もつくることができる神様であられるので、それらは必要ありません。神様が必要とされるのは、愛です。

 神様は絶対的な神様であられるので、与えても永遠に与えられるのです。一度与えてやめてしまわれるのではなく、与えて忘れ、また与えようとされ、もっと良いものを与えようとされます。それが真の愛の道なのです。

 夫になったとするならば、他人のために生きるとしても限界線なく、ために生きて、ために生きては忘れ、ために生きて忘れて、永遠にために生きていく中で、世界がすべて入ってくるのです。ために生きて、ひっきりなしにために生きてあげるので、ために生きる懐に世界が入ってくるのです。

 サタン世界では、親は与えたら「与えた」と思って、受けることを考えますが、神様と真の父母は、与えて永遠に忘れ、永遠に投入しながら忘れて生きるかたであるので、真の愛の主人なのです。アーメン。(「アーメン」)

 神様も同じなのです、自分が愛する人は、自分よりもりっぱであることを願われるのです。このことを知らなければなりません。皆さんはだれに似ましたか?。神様に似たので、神様のように、自分が愛する相手は自分よりも優れていることを願うのですが、それは、人間の欲望が神様に似たためにそうなのです。「アーメン」と言わなければなりません。(「アーメン」)

 自分が愛する相手が、自分よりも何倍もりっぱであることを願いますか、千倍もりっぱであることを願いますか?。永遠に、無限に、そうでしょう?。自分が愛する相手には、そうであることを願うのです。

 それは何かというと、男性であれ女性であれ、自分が愛する相手は、夫人と夫は自分の何百万倍、何億万倍りっぱであることを願うというのです。神様よりも劣っていることを願いますか、優れていることを願いますか?。どちらですか?。(「自分より相手が無限に優れていることを願います」)。自分の夫が神様よりも醜いことを願いますか?。自分の妻が神様よりも劣っていることを願いますか?。それは、優れていることを願うのです。それは事実ですか、違いますか?。皆さんはそれを肯定しますか、しませんか?。(「肯定します」)

 それならば、神様ご自身がその前に投入しなければなりません。投入して忘れ、無限に投入して忘れ、忘れてこそ自分がもっと大きくなるのであって、自分が百くらい投入するのが嫌であるのならば、百以下のものとして存在するというのです。

 皆さんも、妻がそうであることを願い、夫がそうであることを願いますが、愛する夫婦は息子・娘を生んだならば、息子・娘がそうあることを願いますか、願いませんか?(「願います」)。お父さんとお母さんも、お兄さんとお姉さんも、兄弟も夫婦もそうですか、そうではないですか?。(「そうです」)

 ですから、問題は家庭の平和のためには神様のように投入して忘れながら、奉仕して犠牲になりながら永遠に犠牲になることによって、すべてが平和の根源になるというのです。より犠牲になり、より投入する人が中心存在になるのです。アーメン。

 この宇宙の中で、愛を中心として投入して忘れ、投入して忘れて、今まで投入しながら、忘れることにもっと努力しようとするかたがいたとするならば、そのかたは宇宙の中心存在にならざるを得ないのです。アーメン。これが天理なのです。

 天と地の永遠な歴史的真理というものを知らなければなりません。この国の大統領になるという人は、少なくとも労働者、農民の世界から高位層までのだれよりも、ために生きて忘れ、忘れて投入することを願う人でなければなりません。

 そのような人が、その国の中心である大統領になることと同じように、今日の若い人たちは今後、後代において世界的な指導者になろうとするならば、世界のために自分を投入して忘れることのできる思想的行動をすればいいのです。ブラジルが、世界国家の若者たちを代表してそれを行うようになれば、未来の世界は、ブラジルの青年たちを中心として統一天下の世界が相続され、そこから指導者が生まれてくるでしょう。アーメン。

 ここには、ブラジルの父母兄弟姉妹たちが集まっていますが、皆さんの家庭において、若者たちがその家庭の全体に投入して氏族を越え、国を越えて自分のすべてを投入して忘れ、忘れて、一生そのように生きれば、その家門から尊敬を受け、「私たちの家庭では、だれそれが中心である」と家庭で認められます。そして、社会で認められ、国家を越えて、南米全体のために生きれば南米の中心になり、世界全体のために投入して忘れることができるならば世界の中心になり、神様のように宇宙に向かって投入して忘れるならば神様の代身者になり、神様から相続を受けることができる者になるのです。アーメン。これは鉄則なのです。

 きょう、ここに集まった皆さんに、忘れずに記憶して帰るように願うことが一つあります。それが何かといえば、「より、ために生きる者は、神様までも屈服させることができる」ということです。アーメン。(「アーメン」)。それを信じますか?。そのようにすれば、偉大なブラジルはここから誕生する、ということを知らなければなりません。

 若い人たちがこのような思想を持って、南米の三十三か国のために投入して忘れて南米の中心になり、世界のために投入して忘れて世界の中心になり、その次に神様にまでも投入して忘れようと思うようになれば、神様の兄の立場に立って神様を抱いて、この世界の相続者になることができるという話が成立するというのです。

 この中で中心存在になりたい人、「中心存在に一度なりたい」と思う人は手を挙げてください。

 より、ために生きるのです。十人の食口が暮らす中で「自分が中心存在になる」と思うならば、十人の食口のために投入して忘れ、忘れて投入すれば、必ず中心存在になるのです。家庭の中心になり、父母から、そしてすべての兄弟からの相続者になるのです。アーメン。

 そして、おじいさんやおばあさんもこの人が好きで、お母さんとお父さんも好きで、夫も好きで、息子・娘も好きならば、親戚に連結させて投入し忘れるのです。そして、このようなことを続ければ親戚の中心となり、国に向かってこれを続ければ、国の愛国者中の愛国者になるのであり、世界に向かってこれを続ければ聖人中の聖人になり、天地に対してこのようにすれば聖子中の聖子になります。

 そうして、神様よりももっと続けることができ、もっと高く大きくすることができれば、神様よりも高くなることができる中心存在になるのです。永遠にアーメン。(「アーメン」)

 ブラジルに来たレバレンド・ムーンは、この地にお金を集めるために来たのではありません。詐欺をするために来たのではありません。自分の最も貴いものを、永遠に途絶えることのないわき水のように真の愛を与え、永遠に与えて与えて、神様以上に忘れるというみ業をしようと思い、看板を掲げて統一教会の教主として臨んだという事実を知らなければなりません。(拍手)

 政治家や権力者、官僚たちが詐欺をして飢えるようになった、かわいそうな世界の人々の兄になり、父親になり、母親になり、国の主権者と神様の代身のみ業をしようというのが、統一教会のレバレンド・ムーンなのです。

 ですから、ジャルジンに来た当初は皆、ごたごたと反対したのですが、今では皆、「良かった、良かった」と言っているのです。

 地下室よりももっと暗い、一番の地獄へ行っても、精誠を尽くして彼らの前に見本となり、国を生かすことができる泉を開こうという運動が、統一教会の運動なのです。それゆえに、その運動にブラジルの国が侍り、侍って中心になるように尊敬しなければならないのであり、それを忘却していけば、この国は滅ぶのです。

 レバレンド・ムーンが行く所には、どのようなことが展開されるのでしょうか?。個人主義思想を撃破し、自己を中心とする思想を撃破するのです。全体のために生きなさい、というのです。そのために息子・娘を教育して、自分の父親・母親と一家を生かそうというのです。

 しかし、そのことによってレバレンド・ムーンは、このような人々を「精神洗脳」して、死ぬまで永遠に天地、宇宙のために生きるような人をつくり上げるので、彼らはレバレンド・ムーンに対して、「自分の息子・娘をどろぼうして奴隷をつくる。破壊分子をつくる」と悪い宣伝をしたのです。ところが、そう思っていたのですが、最近になって、このように逆さまになっていたものが、反対に元どおりになってきているのです。

 レバレンド・ムーンの息子・娘や、レバレンド・ムーンを尊敬している祝福を受けた人たち、そのような人たちすべてを、たちの悪い人々であると思っていたのですが、その人たちは、どこに行っても一番良い、中心的な使命を担って見本になる使命を果たすので、どのような部落でも「アーメン、アーメン、アーメン」と言って歓迎されるということが、今、たくさん起こっているのです。

 結婚をもう一度するということは簡単なことでしょうか?。自分の息子・娘を伝道するという意味で、結婚しなければならないということは簡単なことですか?。

 しかし今、多くの人たちが、そのために互いに競い合って、自分の息子・娘たちに祝福を受けさせようとしているのです。このような環境が展開されたということは、天下統一の役事の日が遠くない、という証拠なので、そのことを知って、皆さんの個人から家庭、氏族を越えて国家全体が歓迎しなければなりません。

 そのようになれば、ブラジルは地上・天上天国の王権を受け継ぐことができる主体的な国になるのです。アーメン。アーメン。アーメン。踊りを踊って歌い、喜ぶのです。
 通訳が、なぜ韓国語の三倍も長く話しをするのですか?。韓国語は良いことは良いですね。この不便な言葉よりも韓国語を学びなさい。

 中心存在は責任を持たなければならない
 中心存在には、すべてがなるのではありません。条件がついているのです。永遠に中心存在になることができる資格、必要条件とは、どのようなものですか?。皆が中心存在になることを望みますが、資格になり得る内容が三つあるのです。ブラジルが世界の中心国家になるならば、世界に責任を持たなければなりません。

 すべての人が、このようになることを望むのですが、その内容で必要なことについては「嫌だ」と言って、うそをよくつくのが南米であり、ブラジルなのです。ノーメン、ノーメン。ブラジル人は良い人ですか、悪い人ですか?。(「良い人々です」)

 それならば、責任を持たなければなりません。塗炭の苦しみの中にいる世界のかわいそうな人々のために、ブラジルは国家予算の三十パーセント以上を投入しなければならないということを知らなければなりません。それで、自分の責任を果たすのですが、統一教会式では「七十パーセント以上を世界のために投入するように」と言っているのです。

 南米に来たら、レバレンド・ムーンに皆が手を差し出して「助けてくれ」と言うのです。ですから、借金をしながら助けてあげるのです。しかし、借金をどうやって支払いますか?。他人が八時間働くのならば三倍の二十四時間働いて、夜も寝ずに一所懸命に早くやって、一日を二倍、三倍以上努力しようというのです。そのような人は滅びる人ですか、栄える人ですか? (「栄える人です」)

 皆さんは、「人生は一度しかないのに、そのように生きて何がありますか?。死んだらそれで終わりでしょう?」と言いますか?。いいえ、統一教会は「死んだらそれで終わり」ではありません。このようなことが永遠の世界に連結されるのです。神様まで解放してさしあげようというのですから、神様以上にしなければならないという哲学を持っているのです。

 今、わたしは何分間、話をしましたか?。(「一時間を越えました」)。朝は、何時間話しましたか? (「三時間話されました」)。毎日のように話をして、八十歳の老人が立ちながら足も伸ばさず、体力も良いです。「じっと立って話せば良いのに、座りもせず、なぜあのように行ったり来たりするのか?」と思うかもしれません。力も強いですね。それは、死ぬ覚悟でこのようにするのです。

 健康においては、レバレンド・ムーンに似ましょう。アーメンですか、ノーメンですか?。(「アーメン」)。ありがとう。

 運動を学ばなければなりません。レバレンド・ムーンがする運動を学ばなければなりません。七分間あれば、他の人の三時間分を行う運動法があるのです。しかし、これを売ってしまえば良いのですが、これを教えてあげたら金もうけをするどろぼうのような人が多いので、教えてあげないのです。この運動を学びたいでしょう?。八十歳になれば、つえをついて、このように歩き回らなければならないはずなのですが……。(笑い)

 今も、さっさっさっと八十歳の老人が行くので、皆「あの若い人は、なぜ真っ直ぐに歩くのか」と言うのです。靴の底もすり減りません。ぴたっと同じなのです。これがぺちゃんこになったらいけないのです。それを見習わなければなりません。

 女性として生まれれば、レバレンド・ムーンのように歩く人を得たいし、レバレンド・ムーンのように、年を取っても若い人のように気迫が堂々とした男性を得たいし、レバレンド・ムーンのように世界から悪口を言われても女性たちが好む、そのような夫を持ちたいのです。皆さん、そうだというのです。

 女性として、レバレンド・ムーンのように若い人がいたら、プロポーズしますか、しませんか?。(「します」)。だめです。レバレンド・ムーンのような人は一人しかいません、二人いますか?。(笑い)

 とにかく女性たちは、レバレンド・ムーンが好きなので、わたしは大変なのです。どこかに行って、心おきなく暮らすということができません。どこかに行って隠れていても探してきて、「アイゴー、先生、夕食の時間になったので、夕食を買ってさしあげます」と言って大騒ぎなのです。

 昼食のときにどこかにいれば、「昼食を買ってさしあげます」と言い、朝食も食べずに隠れていれば、探してきて「朝食をなぜ食べないのですか?。準備するので出てきてください」と言うのです。それは幸福な男性ですか、不幸な男性ですか?。(「幸福な男性です」)

 女性が二人従い、三人従えば、それは世の中から見れば一番悪いことなのです。ブラジルへ来ればブラジルの女性がついていき、パラグアイに行けばパラグアイの女性、どこでもついてくるのです。「アイゴー、面倒で死にそうだ」と言ったら、「大変なことになった」と大騒ぎなのです。

 それで優秀な美男子を紹介してあげようとしたならば、その美男子には皆、お尻を向けて、先生のような年老いたおじいさんが良いというのですから、大変なことになりました。それは本当ですか?。それが事実なら手を挙げてください。この者たち。(笑い)

 自分の父親・母親をわたしよりももっと愛して、夫をわたしよりももっと愛するべきなのに、わたしをもっと愛するので、よこしまに見える問題になり、悪い男性として埋葬されるようになるのです。そのようにしたのが、この女性たちなのです。

 わたしは、ここから落ちるところだったのですが、しかし、若い気迫があるので落ちませんでした。男性たちは女性が好きなので、一番恨むのです。「レバレンド・ムーンよ死ね、死ね。殺そう、殺そう」と言うのです。(笑い)

 女性たちは、真なる兄に出会うことができず、真なる婚約者に出会うことができず、真なる夫に出会うことができず、真なる父親に出会うことができず、真なる祖父に出会うことができず、真なる王に出会うことができなかった女性たちなのです。それが恨だったので、この門を開いてあげ、教えてあげることができる責任者がレバレンド・ムーンであるために、女性という生き物の中でわたしを嫌いな者は、一番低い地獄に行くのです。

 わたしが一緒にいる限り、それを恨む者たちを生かすために、私自身を投入しなければならないのです。自分を恨む者たちを愛そうというのです。弟のように愛し、父親のように愛し、祖父のように愛し、王のように愛そうというのです。

 そういう心を持っているのですが、だれが先に堕落したのですか?。エバが堕落したので、いくらりっぱな兄、りっぱな夫、りっぱな父親、りっぱな祖父、りっぱな王になろうとしても、この女性たちが復帰されていないために、それができないのです。ですから、これを先に復帰しようとするのですが、それを待てずに反対派は、レバレンド・ムーンを世界的に埋葬しようと大騒ぎしたというのです。

 女性がたくさんついてきても、先生に必要なのは一人ですか、二人ですか、十人ですか、百人ですか?。女性が妹、姉になり、婚約者になり、理想的な母親になり、妻になり、女王になることができる、りっぱな神様の娘になるのです。神様の一人娘を造ってあげるのです。

 この世の男たちは、天使長です。アダムとは関係ありません。神様とは関係がありません。血筋が変わってしまったのを切ってしまい、十六歳以後に堕落して人類を輩出したサタンの体を切ってしまい、完成した真の父母の体に接ぎ木するのです。そうして、完成した真の父母は兄になり、接ぎ木されたものは第二のアダムになるのです。

 第一の完成したアダムは真の父母がなり、接ぎ木されたものは第二のアダムである弟になって、この聖別されたものを一つの所に集める公式路程が、模範的な祝福をしてあげる合同結婚式なのです。超人類、超歴史、超天宙的な幸福の旗を掲げていく、天の国に直行する一組の王子・王女となるのです。アーメン。

 神様は、愛する一人娘を新婦として迎えたいですか、天の家庭において真なる妻になることができる資格者を妻として迎えたいですか、天の家庭において母親になることができる資格者を迎えたいですか?。そのような祖母を迎えたいですか、そのような女王を迎えたいですか? どうですか?。

 人の欲望は、先生が言う家庭から氏族、民族、国家、女王まで代表することができる、真なる神様の娘を迎えたいのであり、それが男性の欲望なのです。アーメンですか?。

 ですから、男性は焦ってはいけません。そのりっぱな妻、そのようなりっぱな女王から祖母、母、妻、娘、長女まで、神様が一番愛することができる娘を育ててあげられる責任を持ったのがレバレンド・ムーンなので、三年間は女王から祖母、母、妻、上の娘、下の娘まで文先生に送って教育させ、理想の妻を迎えなければなりません。アーメン。三年間どのようにするかという問題なのです。しかし、このどろぼうたちは、それが嫌だというのです。男性はどろぼうです。分かりますか?。

 中心存在の三つの条件

 中心存在は、責任を持つということです。中心存在は、第一に責任を持たなければなりません。

 二番目は何かというと、保護しなければなりません。今日、このブラジルの大統領が責任者で中心存在になっていたならば、お金をもうけて国民に追い出されて逃亡するでしょうか?。しないのです。保護しなければなりません。国民の難しいことを保護しなければならないのが、中心存在としての責任なのです。

 レバレンド・ムーンは、あのアメリカにおいてどうでしたか?。起訴事件が起きたとき、ドイツに行ってから、韓国に立ち寄らずにすぐにアメリカに飛んで帰ってきたので、かえってアメリカの法務省が困ったというのです。「レバレンド・ムーンは絶対に帰ってこない」と思ったのに、すぐ帰ってきたというのです。このような闘いをするのです。責任を持つのです。そうして責任を持ったので、保護しなければなりません。保護しなければならないのです。

 三番目は何ですか?。育成しなければなりません。育ててあげなければなりません。自分よりもりっぱに育ててあげなければならないのです。世の中には、「自分が責任者になる」と言う人はたくさんいますが、その責任者としての三大条件である、「自分が責任を持ち」、「保護し」、「犠牲になりながら養育する」という考えをしないのは詐欺です。詐欺師です。悪魔の群れであるということを知らなければなりません。あなたたちも同じです。

 しかし、統一教会は違います。ですから、そのようなところが偉大なのです。いったん仕事に責任を持ったならば、その環境的与件で崇拝を受け、中心の位置を占めて中心者になるのです。

 責任を持つには、第一に環境に責任を持ち、保護し、育成できる責任を負うために、それは父の代身であり、神様の代身であり、兄の代身であり、先生の代身であり、王の代身であると永遠に理解できるのですから、天国を占領するのに問題がありますか、ありませんか?。問題がありません。

 皆さんが予備祝福を受けるときは、統一教会が忙しく夜昼訪ねていきましたが、今はもう部屋に訪ねていって寝ながら教育するのです。育成しようとするのですが、教育するときにきちんと聞きますか、聞きませんか?。神様が喜ぶ家庭、神様が訪ねてきて暮らすことができる家庭をつくるために、最後まで責任を持って育成するのです。それが嫌だという家庭は、地獄行きなのです。それを歓迎しますか、しませんか?。歓迎するなら拍手をしないのですか?。(拍手)ありがとう。

 そうすることによって、だれに似たのかといえば、神様に似たのです。内外に神様に似て、生活で神様に似て、行動で神様に似なければなりません。そうして父母として、秋の収穫を刈り入れの主人として受け取り、そして真の父母に似て真の家庭の代表的存在として永遠に残らなければなりません。アーメン。

 そのような人になりたいという人は、手を挙げて宣誓しなければなりません。アーメン。これは何ですか?。下ろしてください。死んだ犬のようです。もう一度大きな声で。寝ていた神様が、「これはどうしたことだ?」と言われるほどにりりしく挙げなさい。ワー(「ワー」)。そのように生きるのです。そうすれば家庭が祝福を受け、ブラジルが千勝万勝するのです。

 わたしもお腹がすいて、力がなくなりました。皆さんもそうでしょう?。時間が随分過ぎました。一時を過ぎました。昼食時間を守ってあげなければ、悪口を言われます。時を過ぎて仕事をさせると、どろぼう扱いされるのですが、きょうは記念日なので、しかたありません。良い話をしていたらこのような時間になったので、それを許して、食事をもっと美味しく食べることができる自分になったことを感謝して、グッバイしましょう。

 男性たちはわたしを好きですか?。(「はい」)。わたしがあなたの国に行って、一日ずつ食事をごちそうになると言ったならば、準備して待ちますか?。(「はい」)。隣りの家の食事をもらって接待しますか、市場の一番おいしい物を買ってきて、きちんと料理して接待しますか?。(「一番おいしい物を差し上げます」)。一年に何回しますか?。(「毎日のようにします」)

 それでは、近所にかわいそうな人がいたならば、わたしの代身として接待をたくさんしてください。一月に一回ずつしても、あなたの家庭には福が訪ねてくるということを伝達してあげるのです。感謝します。お客さんを接待する、そのような心を持ってしてください。(拍手)





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一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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Last updated  2023.07.05 00:00:13
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