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2023.08.13
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真の愛自体を解放しよう

1999年2月21日(陰暦1月6日)
韓国・中央修練院
「真のご父母様ご聖誕日」の記念礼拝で語られた内容。


真の愛の解放

 (題目を板書される)一度読んでみてください。(「真の愛自体を解放しよう」)。これはどういうことですか?

 真の愛の目的は、私たち人間世界が完成させなければなりません。個人完成、家庭完成をなし、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで解放するのです。人類が完成した後に、真の愛をだれが解放してあげるのですか? これは、大きな問題なのです。

 苦労した真の愛は、どこに行くのでしょうか? 真の愛は神様の所にあるのですか、私たち人間の世の中にあるのですか? 天上世界にあるのですか、地上世界にあるのですか? 真の愛自体を解放することのできる日がありそうですか、なさそうですか?

 今までは、文化史や聖書史を対象として、「復帰摂理というものは六千年である」と言っていました。それは、文化史的な見地からはそのように言うことができるのですが、堕落の根源から今までの歴史を掘り返してみるならば、何千万年もかかっています。長い歴史があったのです。

 アダム・エバを創造された神様が理想とされていた、その理想とは何ですか? 愛の理想を完成させて愛の実体を成し、喜びを感じることのできる世界に到達しなければ、真の愛自体を解放することはできません。

 この宇宙が生まれた動機は、能力のあられる神様に基づいているのではありません。その動機は愛なのです。その愛自体を解放するということは、どういうことなのでしょうか?

 創世以前の世界から創世以後に至るまで、全体が一つとなり、神様と人間のすべてを皆抱いて、「私の愛だ」と言うことのできる位置まで行かなければ、「愛自体を完成させた」という言葉は出てきません。何のことか理解できますか?

 皆さんが家庭において、父母に侍って孝子の道理を果たし、夫婦がお互いに愛し合い、兄弟が愛し合って、子女が父母を愛する平和な愛を中心として完成したというとき、そのような家庭があったとしても、家庭だけがすべての目的ではありません。

 家庭を連結した氏族があり、民族、国家、世界、天宙があるのです。天宙として、創世前の理想圏まで連結されます。その全体をすべて解放することのできる世界が、いつあったでしょうか?

 今年の標語は何ですか? (「真の祝福天宙化と……」)。真の祝福です。祝福に「真の」を付け加えました。初めて「真の」という言葉を使うのです。真の祝福? (「天宙化とサタンの血統根絶」)。サタンの血統根絶です。サタンの血統を根絶した後には、どのようになるのでしょうか? 

 神様ご自身が、愛の心の世界で解放されたと思われるでしょうか、それとも根絶を成したとしても、まだ「もっとこうだったら良いだろう」という基準が残っているでしょうか?

 先生が願うこのみ旨をすべて成したならば、先生が皆さんを、神様が全体世界の完成を通して感じられた心情で褒めたたえることができるでしょうか?

 神様や真の父母の願いは、それですべて終わるのか、ということです。宇宙全体のどこにおいても、地獄でまでも縦横無尽に動きながら、愛自体が「ああ、いい」と言うことのできる上下関係、左右関係になっているでしょうか? それが問題です。

 み旨が成し遂げられ、地上と天上に天国が成し遂げられたと言っても、それは完全天国ではありません。天国に向かって進んでいるのです。地上もまた同様です。そこには、必ず堕落の痕跡が残っています。

 神様は、地獄を忘れることができません。自分の子女がサタンの相対となって地獄において苦労し、呻吟してきた事実を、神様は忘れることができるでしょうか?

 このような観点から、神様を完全に解放し、愛自体も解放した立場において孝子が存在することができるか、ということが重要な問題なのです。

 神様もその位置に入ってこられて、「私も一度、孝子になりたい」と言われ、真の父母も「一度、孝子になりたい」と言われながら、神様と真の父母が一つになり、愛の前に孝子になることのできる道があれば、どれほどいいでしょうか?

 愛の中で主体と対象が完全に一つとなり、自由天地、上下どこに行っても歓迎を受け、喜ぶことのできる、解放的な称賛の環境になる、と言うことのできる位置をいつ迎えるのでしょうか? 果たして歴史理想完成終末時代、地上天上天国が開門したというとき、そのような位置をいつ迎えるのでしょうか?

 愛が完成した位置において、神様自体が父親として立たれ、神様の愛と宇宙の根本的愛を中心として息子自体が孝子の道理となり、父親と息子が一つとなって、その愛の前により次元を高めることのできる孝子の道を、どのようにして植えつけることができるでしょうか?

 それを植えつけることができれば、堕落は永遠にありません。解放が展開されます。それは原理圏を凌駕するものなのです。根本世界です。

  孝子、忠臣、聖人、聖子にいつなるのか

 このようなことを考えるとき、今後皆さんは、家庭理想、天上天国が成し遂げられればそれで終わりだと思ってはなりません。

 きょうの題目は何ですか? 「真の愛自体を解放しよう」です。
 神様と真の父母とすべての人類、被造世界全体に堕落のなかった本然の創造理想がすべて成されたとしても、神様ご自身を見るとき、愛自体を解放したと称賛することができるでしょうか? 先生自身を見るときに、愛自体を解放したと称賛することができるでしょうか?

 そこには、まだ解決しなければならない内的な根であるサタンの血統に汚された痕跡が残っているのです。数千万年の歴史を経てきたのであれば、その何十倍、何百倍以上の消耗をすれば、堕落した世界の過去のことを忘れることができるでしょうか? それを忘れるために、「あなたと私が一つとなり、息子、娘が一つとなって、愛自体の苦労を慰労することのできる孝子になってほしい」ということが、神様の最高の願いではないだろうかと、皆さんは予想しなければなりません。

 そのような観点から見るとき、皆さんは家庭において孝子になりましたか? 私たち統一教会は、孝子の定義を知っています。忠臣の定義、聖人の定義、聖子の定義を知っているのです。聖子の道理まで行ってこそ、相続を受けられます。

 相続するということは、サタン世界のカインに勝利し、個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代の統一された基準における、孝子、忠臣、聖人、聖子の愛の軸を中心として一つとなった解放の位置まで行かなければならない、ということを意味するのです。

 それゆえに、神様と真の父母がごらんになる位置においての、真なる解放を成すことのできる孝子というものが、どのようなものであるのかという問題を考えてみなければなりません。

 このような観点から見るときにどうですか? 先生は、その位置で合格したと思いますか、今も合格まで行くべき未練を残している立場にいるのですか? どうですか? (「合格されました」)

 先生に未練はないのですか? 孝子になってすべて終わったというのですか? 忠臣になったら、忠臣ですべて終わったというのですか? 

 皆さんも、先生のように孝子になり、忠臣、聖人、聖子になって、世界の人々がすべて解放されたとすれば、その上に立った真の父母、あるいは神様がそれをごらんになるときに未練はないでしょうか? 要求がないでしょうか?

 「おお! 神様が創造された本然の基準、堕落がなかった本然の基準以上の位置だ。おお! 私の勝利の創造の結実を備え、愛自体の結果をすべてここに成し遂げた」と言えるような、合格して褒めたたえることのできる自分自体になれるのだろうかということです。

 いつ、そのような自分になれると思いますか? 十年後ですか? 考えてみてください。この地上での一生の間にできるのですか? そうでなければ、そのように生きた生涯を持って霊界に行き、何千年何万年を生きた後にそのようにできる自分自身になるのですか? これは深刻な問題です。

 今、皆さんが生きているこの世界で、神様が願われる解放された真の位置、愛を解放することのできる主体の前に対象の位置に立った孝子、忠臣、聖人、聖子となって、神様の前に相続を受けるのですか、未練を残した位置で相続を受けるのですか? どちらですか? このようなことを考えなければなりません。

 今まで皆さんは、「親の前に孝行し、国の前に忠臣になり、世界の前に聖人になり、天宙の前に聖子の道理となる」ということを言うのですが、その言葉と自分が何親等になっていますか? 父親と息子は何親等ですか? (「一親等です」)。そして三親等の親族がいますね。三親等ですか、四親等ですか?

 父親と息子の一親等という関係、そのような縦的な列をなしても恥ずかしくないですか? そこに垂直に立つと思いますか? 心と体が完全に一つになり、その水平の上に垂直点に向かうところにおいてのみ垂直になるのです。

​ 父親と息子は一親等です。上中下がなされてこそ垂直になるのですが、一親等、二親等になり、この二点をもってどこに行くのですか? 父親の考えと息子の考えの方向が違えば、ジグザグに行くことになるのです。​

 二人がぴたっと一つとなり、滴のようになって水平線に落ちることのできる立場、その垂直の位置に立つのですか、どうですか? 父親と息子が永遠に行っても、少しも傾きのない永遠に垂直になると言うことのできる位置はどこなのか考えてみましたか? 可能性はありますか、ないですか?

  心と体の統一

 皆さんの心と体は闘いますか、闘いませんか? (「闘います」)。闘うものがどうして統一の基点になりますか? 体が心を引っ張っていきます。体を引っ張っていこうとする心は、どれほどつらいでしょうか? 少しでも間違えば、心は「するな」と言うのですが、体はしてしまうのです。

 体の思いどおりになってしまえば、垂直に行くべきものが、ゆがむでしょうか、真っすぐに降りていくでしょうか? ぺちゃんこになってしまうのです。息も吐いてばかりいれば死にます。息が絶えるのです。吐き出した分だけ入ってきてこそ、引っ繰り返って水平線が傾くということがなくなります。

 それゆえに、絶対的に心と体は統一されなければなりません。その心と体を絶対的に統一させる主体とは、何でしょうか? それは真の愛です。真の愛は変わってはならないのです。絶対、唯一、不変、永遠でなければなりません。

 人間自体は絶対的ではありません。唯一的な存在でもありません。行ったり来たりします。不変でも、永遠でもありません。

 それでは、神様はどのようなおかたですか? 絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の前に、完全に一つにならなければなりません。父親と息子が完全にくっついて、動くときは四方に遊びまわるのですが、定着するときには間違いなく神様の位置を受け継ぎ、垂直と永遠に連結させることのできる自分となっていなければならないのです。そのようになっていますか?

 神様は永遠なのです。何億万年、垂直でなければなりません。地球の年齢が四十五億年であるとか、あらゆることが言われています。それは抽象的な数です。何千億でもかまいませんが、地球は太陽を一年に一度ずつ回っています。

 十分の一秒のずれがあったら、どのようになっていたでしょうか? 一年に十分の一秒ずつずれてくれば、今では数億年過ぎたので、数億秒のずれになっているはずです。そのようであったら、どうなっていたでしょうか? (「破壊されていました」)。破壊します。

 大きくなるか、小さくなるか、結局は破壊するのです。何億年の間、一秒も、億万分の一もずれなかったという事実です。驚くべきことです。

 自然は、法というものを中心として、そのようなことがなされてきました。その法をつくった動機が神様にあられるならば、神様を存続させることのできる動機が真の愛なので、真の愛は何十億万年、何千億万年たっても一秒もずれないのです。

 このような論理を提示するとき、その愛の前に相対的な立場、父親の前に一体となる子女になることができますか? 今日、この地球星、堕落した人類歴史の中に生きている人間に、神様は会われることができると思いますか、思いませんか? (「会われると思います」)。

 それでは神様はすでに解放されたのですか? 深刻な問題です。ですから、人間がこの地上においてその基準まで到達することは、億千万年かけても大変だということを考えれば、もしこの地を離れて霊界に行ったとしたら、霊界で億千万々年継続してやったとして、その立場に合わせることができる可能性があるでしょうか? それが問題なのです。

 それでは、心と体を一つにすることのできる仮想的な秘訣があるとするならば、どのような論理を提示しなければならないでしょうか? 体が体だけのことを考え、心が心のことだけを考える関係においては、永遠に一つになれません。

 体が体だけを考えず、心が心だけを考えずに、お互いがお互いを考えることが先行しなければ、一つになることのできる基準を私自体において永遠に発見できないのです。これは理論的です。

 発見できないということが分かりましたが、発見できると言うことができるようにするには、どうすればいいのでしょうか? 発見できない道の百八十度反対の方向において、可能なのです。

 それでは、反対となる可能性があるものは何ですか? 自分自身の体が喜ぶことのできるものは何ですか? 体は体のことを考えているのですが、体が考えるべきことは心なのです。心のために、心を中心として平安になることのできる道を開拓していくのです。

 また、心も同じです。心自体の平安な道よりも、体の平安な道を開拓してあげるのです。そのためには、どのようにするのですか? お互いが絶対的にために生きることができるようになれば、遠かったものがだんだんと近くなり、最後には一つになれる可能性があるという論理になるのです。

  この世の問題は「自分第一」の考え方

 今日の世界で何が問題かというと、自分を最も貴く思うことです。人間の世の中に「未完成病原菌」がいます。その病原菌は何かというと、いつも「自分のために生きろ」という病原菌で、それがくっついてしまったのです。

 そのうえ、自分が優れているという者たちは、「私は知識があるので、知識の王だ。権力があるから王だ」と頂上に上がっていこうとします。

 それとは反対に、「権力を持っていちばん下に降りていこう」、「知識があればどん底に降りていこう。学のない人よりも、もっと無知な人のように行動しながらも教えてあげよう」、このような反対の道を開拓していく方法しかない、というのが文総裁の提案です。

 皆さんは、自分をいちばん重要視するでしょう? どうですか? 男性は男性を重要視しますか、女性をもっと重要視しますか? 男性は男性をいちばん重要視するのです。女性は付属品だと思っています。

 女性も自分をいちばん重要視するので、男性を付属品だと思っているのです。そのような夫婦は、自分たち夫婦がいちばん重要であると考えるので、息子、娘を付属品だと思います。

 これが問題なのです。分かりますか? 問題は何かというと、「自分第一」の考えであり、「自分第一」の幸福です。「自分第一」の解放圏を願うところからは、何も成し遂げられません。

 それでは、善なる人とはどのような人ですか? ある人を生まれてから死ぬときまで、永遠に助けてあげようとする人は、どのような人ですか?

 階級を超越し、東西南北を超越し、人種とすべてのことを克服し、歴史過程も、定められた伝統も、すべてのことを超えて、永遠に人を助けながら生きていったならば、その人は善なる人ですか、悪なる人ですか? (「善なる人です」)。その人は、自分のために生きられないのではないですか? 自分自身はぽっかりと空いているのに、それがなぜ善なる人なのですか?

 永遠に他の人のために生きて空になるのは、低気圧になるのと同じことです。自分自体を他の所にすべて投入すれば、周辺には高気圧が生じます。完全にすべてを投入して、ストップして息が止まるときには、その高気圧が一挙に押し寄せてきます。

 そして、十年間、千年間積んでおいたものが一瞬のうちに上がってきて、自分を一気に千万年の頂上に上げてくれるのです。そのようになることが理論的ならば、人々はそのように生きることができるでしょうか、できないでしょうか?

 水もそうではありませんか? くみ取れば、圧力を通して押され、水平に戻るのです。

 それでは、「愛自体を解放しよう。神様自体を解放しよう」というのは、どのような意味ですか? これは可能なことですか? 愛も存在するものならば、授け受けします。存在というものは、必ず授け受けするのです。遠心力、求心力となって、運動しなければなりません。

 それゆえに、すべて呼吸するのです。細胞も呼吸します。皆さんも呼吸するでしょう? 呼吸している音を聞きますか? 脈打つのを感じますか? 毎回感じますか? (「感じられません」)

 忙しければ、一か月でも一年でも、それを感じずに暮らすのです。それでも脈は打っています。授け受けしなければなりません。地球も呼吸しています。運動するのです。
 皆さんは愛を持っていますか? 持っていませんか? (「持っています」)。生命を持っているでしょう? (「はい」)。それから血統を持っているでしょう? (「はい」)。それを感じますか? (「感じません」)。なぜ感じないのですか? (「一つになっているからです」)。一つになっているからです。

 一つになったところに相対が現れれば、すべてが発動します。男性の前に男性が現れて、すり寄ってみれば愛が発動しますか? キスをしたならば、愛が発動し、生命が躍動しますか? 血が熱くなりますか? (「熱くなりません」)。熱くなるでしょう、熱い! (「熱くなりません」)

 最近、ホモといわれる人たちがいるではないですか? レズビアンもいます。それは異常です。そのような人々がいるということが異常なのです。

 美人ならば、独りで愛を発動させることができますか? (「できません」)。生命も発動させることができず、血統も発動させることができません。

 男性の前に女性が現れれば、美人でなくても大丈夫です。醜女であっても、足の指をくすぐって愛せば、そこから波動が来て、目、耳、鼻、口、五官がすべて集中し、水平基準さえ超えれば一挙に愛が震動し、生命が震動し、血統が上がっていき、黒い雲がかかって雷の音がし、稲妻が光り始めるのです。

 男性と女性が目で合図をするというでしょう? 小さな目で見て方向性の基準が合えば、耳がそちらに行き、口がそちらに行き、鼻がそちらに行きます。そのようにして、五官が一方通行し、焦点を合わせるものが何ですか?

 男性が男性を見て、「りっぱだ! その目に一度触ってみたい」と言いますか? 「鼻に一度触ってみたい。唇に一度触ってみたい。耳に一度触ってみたい。アイゴー、首を抱いて一度キスしたい」と言いますか?

 それは男性同士ではできません。そのようにするのは、特別なお化けが取りついているからです。男性の中に女性のお化けが取りつけば、そのようになります。霊眼を開けば、それが分かります。ホモを見れば、男性に女性が取りついているのです。女性には男性が取りついています。

 そのような奇怪な世界の背景が、現実の自分にあるということを知らないのです。宇宙全体の力は、人間自体に対応的な関係を持って均衡を保っているのですが、これでは均衡が取れません。これが問題なのです。真の愛ならば、すべての均衡が取れます。

  私たちの行くべき道

 それでは、母親が死ぬのと、皆さんが死ぬのと、どちらがいいですか? (「……」)。母親が死ぬのがいいですか、自分が死ぬのがいいですか? (「自分が死ぬのがいいです」)

 夫が死ぬのがいいですか、妻が死ぬのがいいですか? (「両方とも良くありません」)。父母が死ぬのがいいですか、子女が死ぬのがいいですか? どうですか? (「……」)

 本当に愛していれば、夫は妻のために死ぬことができます。それが本当に愛している夫です。本当に愛していれば、父母が子女のために生命をささげることも一度だけではありません。数十回、数百回でもささげることのできる余裕しゃくしゃくの父母が、真の父母の中の真の父母なのです。

 兄弟のために生命をささげることのできる人は、「真」に属します。それでは、弟が十人いて、そのいちばん下の病気の弟が、他の兄弟を生かすために死んでしまったとしたらどのようになるでしょうか? 残りの兄弟は何と言いますか?

 自分の生命の主人はだれですか? 十人中、一人がそのようになれば、九人の生命の主人はだれですか? 救ってくれた人はだれですか? 病気の弟です。このことは正しいですか、正しくないですか? (「正しいです」)

 父母も同じことです。子女のために生命を捨てるのが本当の父母です。妻の生命を尊重して、妻のために自分の生命をいくらでもささげる道を行こうとする人が真の夫です。このような定義が残るのです。分かりますか? (「はい」)

 家庭を成すときに、最初の出発は父母です。父母がいなければ、家庭はできません。祝福を受けた家庭は手を挙げてください。すべて祝福を受けた家庭ですね。家庭にはだれがいますか? 父母がいて、それから何ですか? (「夫婦です」)。夫婦です。それから何ですか? (「子女です」)。兄弟、子女です。そのようになってこそ、家庭が形成されるのです。

 一つの家庭というときは、父母がいなければならず、父母になることのできる夫婦がいなければならず、夫婦になることのできる、兄弟過程を経ていくことのできる子女がいなければなりません。

 一人の男性と一人の女性が、子女時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代へと進んでいくのです。

 皆さんも父母の子女として生まれましたが、子女であれ、父母であれ、同じ道を行くのであり、父母にも子女時代があったのです。

 アダム・エバにも子女時代があり、大きくなって兄妹時代がありました。兄妹が結婚したのです。結婚時代があり、息子、娘を産んで父母時代がありました。この四大心情的結実が連結されています。

 このようなものを系統的に受け継いだのが自分の息子、娘なのですが、彼らにいちばん良いものを父母は残してあげようとします。

 何を残してあげようとするのかというと、自分が愛を受けた、いちばん良かった子女時代、いちばん良かった兄弟時代、いちばん良かった夫婦時代、いちばん良かった父母時代です。人間にとって、それ以上によいものはありません。

 そこに歩調を合わせられない人は、国に行っても合わせられません。国に、多くの子女、多くの兄弟、多くの夫婦、数多くの父母がいても、そこに心を合わせることができないのです。

 国家や世界、どこに行ってもその構成的要素を中心として連結されています。大小の国家形態で形成されているものに連結させるための基礎訓練場が、家庭なのです。

 家庭においては、幼児時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代があります。このような系列が世界にもあるのです。国には、たくさんの幼児がいますね? たくさんの兄弟がいますね? たくさんの夫婦、たくさんの父母がいるのです。

 それでは、この個人的に訓練を受けた理想的な家庭は、どのようになるのでしょうか? 数多くの民族、国家の中に、家庭はどれくらいありますか? 国家には数千万家庭があるのです。
 千万以上の家庭があったとすれば、千万以上の家庭に、「おい、国よ、数多くの家庭よ、私のために生きなさい」と言いながら、吸い込んでしまおうとする人が良い人ですか、それとも数多くの家庭にすべて与え、保護しようとする人が良い人ですか?

 自分の家庭のために生きる人は、忠臣の位置に行くことはできません。忠臣の家庭の伝統を受けられないのです。囲いの中で、家庭的な孝子になることはできますが、忠臣になることはできません。

 忠臣というものは、数多くの家庭を超えた国の基準において、歓迎を受け、賛成され、昼であれ夜であれ、歓迎されて迎え入れられる家庭でなければならないのです。
 自分のために生きる位置にいる家庭が、忠臣の家庭の位置に出ていくことができるでしょうか? 絶対にできません。それゆえに忠臣になろうとすれば、自分の家族全体を連合させて投入しながら、喜ばなければなりません。

 犠牲になりながら、母親が子女のためにいちばん貴重なものを与えるように、夫が妻のために生命まで投入してこそ「真」であるというように、その家庭のすべてを投入することを喜びとすることのできる道を行って、国家全体の家庭が「模範的な家庭である、主体家庭である」と歓迎することができるようになるときに忠臣になるのです。


 これは理論的です。そのことを知りませんでした。就職して会社に通うようになれば、会社のものをどろぼうしていく者たちが多いでしょう? そのようにしていたら、国は滅びます。

 それでは、愛国者になりますか、愛国家庭になりますか? (「愛国者になります」)。愛国家庭にはならないのですか? 愛国者一人と愛国家庭とどちらが貴いですか? (「愛国家庭が貴いです」)。愛国家庭が貴いのです。

 愛国家庭が十家庭あれば、その十家庭を中心として、「私のために生きなさい」と言わなければなりませんか、自分が犠牲になって投入しなければならないでしょうか? (「犠牲になって投入しなければなりません」)。皆さん、そのように生きますか?

 自分の家庭の中において、祖母は好きで、母親は好きで、だれだれは嫌いだというのではいけません。それは孝子ではありません。父母の代身、祖父母の代身、神様の代身として愛することのできる人が、その家庭の孝子になり、主人になるのです。

 神様も関心を持たれて、祖父母も関心を持ち、父母も関心を持ち、兄弟も関心を持ち、その家に住む僕たちも、ために生きる人に関心を持ちます。「私のために生きなさい」という人に関心を持たれるでしょうか? そのような人は、哀れな存在となって滅んでいくのです。

 驕慢な人は、地獄の隅に行って後ろ向きに座って、人に会うこともできずに壁を見ています。このようなことは、すべて霊界を知らなければ分からないのです。霊界を知れば、一瞬のうちに分かります。霊界を知りたいですか? 霊界のことをすべて教えてあげても、今、分かる人は一人もいません。

 統一教会の人々が行くべき道は、はっきりしています。個人は家庭のために投入し、犠牲になるのです。アーメンですか、ノーメンですか? (「アーメン」)。その家庭は、国家のために家庭自体を投入し、犠牲になるのです。(「アーメン! )

 息子、娘を祭物として、妻を祭物としてささげ、自分を祭物としてささげ、母親、祖父まで連れてきて祭物としてささげ、さらにそれ以上、ささげるのです。(「アーメン」)。自分の先祖まで連れてきて、「祭物になろう」と言うようにするのです。

 そのようにすれば、神様はどうされるでしょうか? 「やめなさい」と言われるでしょうか、「そうしなさい」と言われるでしょうか? (「しなさい」と言われます)。それは、いつまでですか?

 そのように投入し、犠牲になる人によって、そのような家庭、そのような氏族、そのような国、そのような世界、そのような天国をつくるときまでです。

 そうすれば、神様が「皆さんを助けてあげよう」と言われるのです。神様も、受けられれば与えられなければならないのではないですか? (息を大きく吸われて)このように吸ってばかりいると死ぬのです。天地の道理がそのようになっています。ですから、それくらい投入すれば、天地の大きな福をすべて自分にもたらしてくださるのです。そして自分は、どんどん膨らんでいきます。

 ゴム風船に空気が入ると、ゆっくりと上がっていくのと同じことです。それをずっと続けていけば、自分だけ上がっていくのです。最後は、神様より上にまで上がっていきます。理論的に考えて、神様以上に投入して忘れるならば、神様よりも低くなるでしょうか、高くなるでしょうか? (「高くなります」)。本当ですか? (「はい」)

  一九九九年は蘇生十数完結、長成十数完結、完成十数完結の年

 よりために生きる人が、中心存在になるというのが天理です。このことを知りませんでした。よりために生きる人が中心存在になるのです。

 今までレバレンド・ムーンに対して、世界全体が悪口を言いました。「こいつ、母親の愛を独占している」と言ったのです。サタンが「神様の愛を独占している」と言いながら、やたらに憎むのです。

 今まで世界は、文先生に反対しましたか、しませんでしたか? (「反対しました」)。皆さんも反対したでしょう? (「はい」)

 きょうの題目は何ですか? (「『真の愛自体を解放しよう』です」)。「真の愛がくれるものを、私は受け取らない。あなたがくれようとする十倍のものを私が上げよう」と言えば、どのようになるでしょうか? 十倍、百倍のことをするならば、真の愛は現れるでしょうか、現れないでしょうか? (「現れます」)

 そうすれば、逃げなければなりません。そしてどこに行くのですか? することがなくなれば、先生のいる頂上に上がってくるのです。頂上に上がって見て喜びます。「わあ! 本当に素晴らしい。このようなことができる日は初めてだ」と言うのです。本当の愛の天国が生まれたというのです。そうしてこそ、愛も解放されるのではないですか?

 世界の人々がために生きると言えば、愛はどのようになりますか? 上がっていくのです。それは可能なことですか、不可能なことですか? (「可能です」)。不可能なことです。(「可能です」)。そうですか? (「はい」)

 真の愛を国民として、自分が真の愛の大王になったとしたらどのようになるでしょうか? 神様は、「おい、こいつ! 不良のようなやつ! どろぼう! と言われるでしょうか、どのようにされるでしょうか? 神様のために生きて上がっていったのですか、ために生きずに上がっていったのですか? ために生きて上がっていったならば、大丈夫なのです。

 ために生きずに上がっていけば、「この不良! と言われるかもしれませんが、神様もかなわないくらいにために生きたならば、それを呪われるでしょうか、称賛されるでしょうか? (「称賛されます」)。神様も受け入れられなければならないのです。

 神様を動員して解放運動をすれば、どれほど素晴らしいでしょうか? 神様も喜ばれなければなりません。ですから、あのようなこと(板書された題目)は可能なことですか、不可能なことですか? (「可能です」)
 今からは、先生の八十歳の誕生日……。

 一、九、九、九、一度言ってみてください。一(「一」)。九九九(「九九九」)。(板書される)一が頂上になり、すべての九に一を分けてあげればいくつになりますか? (「三十です」)

 一は、ここも満たしてあげることができ、ここも満たしてあげることができるのです。ここに上げても、ここにくっつけてもすべて十になるのです。十、十、十です。蘇生、長成、完成です。行ったり来たりすれば、すべて六数が出てきます。

 それで一九九九年は、三千から三百、三十まで、すべて円を描く完成数の判を押すことができるのです。

 ですから今年は、すべてのものが蘇生十数完結、長成十数完結、完成十数完結の年です。どうですか? 気分が良いですか、悪いですか? (「良いです」)。(拍手)

 ですから長子権解放数、父母権解放数、王圏解放数です。今、私が何と言いましたか? (「長子権解放数、父母権解放数、王圏解放数です」)

 蘇生世界、長成世界、完成世界まで連結されます。その連結された価値は、千数と対等です。相対数なのです。

 それでは、三百数と千数を変えますか、千数一つを持ちますか? 三百数が出ていけば、千数はいくつになりますか? みすぼらしいものになるのです。

 それゆえに「一九九九年はすべての幸福の結実、内外共に結実する数なので、この年に私が間違いなく主人の資格を完結しよう。そして愛までも解放しよう」ということなのです。分かりますか? (「はい」)

  九十度をはずれた完成品はない

 絶対、ために生きる王にならなければなりません。神様の属性には絶対、唯一、不変、永遠があるのですが、その絶対に絶対、唯一に絶対、不変に絶対、永遠に絶対をつけて、さらには神様から出てきた愛までも解放することのできる道が始まるのです。可能性のある理論なのです。分かりますか? (「はい」)

 それでは神様は、毎日のように仕事をして暮らすのがお好きでしょうか、踊りを踊って暮らすのがお好きでしょうか? (「踊りを踊って暮らすことです」)。仕事は嫌いですか? 踊りを踊るのはどれほど大変なのか分からないのに、そうなのですか? (笑い)

 道端で、一人で踊るのは狂った人です。踊りは何ですか? (「二人で踊るのです」)。二人でするのです。踊って歌って喜ぶのです。一人で喜ぶことができますか? 一人で喜ぶのは狂った人であり、一人で歌うのも狂った人であり、一人で踊るのも狂った人なのです。

 踊りを踊るのにも相手が必要であり、歌を歌うのにも相手が必要であり、喜ぶのにも相手が必要なのです。それでは、踊りを踊るとき、男性同士で踊りたいですか、男性と女性で踊りたいですか? (「男性と女性です」)

 それは、だれがそのようにつくったのですか? だれがそのようにしなさいと言ったのですか? それは自分たちで変更することはできません。公式なのです。

 公式は、基となる単位を合わせてなしたものですが、公式を変えようとすれば、基となる単位が変わらなければなりません。その基となる単位が変われば、他のものになります。

 ですから、女性の前に男性というものは現れず、女性と男性のごちゃまぜのような人が現れるのです。男性でもなく、女性でもない、人でもない、そのようなものは現れてはなりません。男性の前には、絶対的に女性という動物が必要です。女性の前に男性という動物が絶対に必要なのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです」)

 踊りを踊ろうとすれば、絶対に相手が必要なのです。歌を歌うのにも絶対に相手が必要なのです。どのような相手ですか? おばあさんと孫がするのですか? それも男性と女性です。おばあさんと孫がするのですか、おばあさんとおじいさんがするのですか? (「おばあさんとおじいさんです」)

 孫は相対になりません。相対というものは、常にバランスを取らなければならないからです。バランスを合わせて水平をなしてこそ、相対になります。

 男性と女性は、いちばん初めは合いません。男性と女性が共に暮らしたとしても合わないのです。バランスを取らなければならないのです。

 この世の中は、関係の因縁を持った世界です。関係哲学実際化時代です。父母関係、夫婦関係、兄弟関係、師弟関係、外交関係、政治関係、音楽関係、すべて関係という言葉が入ります。水平になるためなのです。

 バランスを取って水平になることが継続してこそ、因縁が続きます。ですから、外交世界でだれが勝つのかというと、水平を合わせてあげる人が勝つのです。少し上げてあげる、そのようなことを十回すれば、良心があるのでついてきます。

 天地が動く運行法、自然の理知を通して、外交舞台の勝敗の真理も見つけだすことができるのです。

 右の目は右の目のためにあるのですか、左の目のためにあるのですか? 片方の視力が一・二で反対が○・三ならば、弱いほうを補充します。右の鼻の穴は、左の鼻の穴のためにあり、左の鼻の穴は、右の鼻の穴のためにあります。すべてが相対的なのです。バランスを取らなければなりません。

 バランスを取ることができずに、水平でなくなると、中心が生まれないのです。ですから、家を建てるときは水平になるようにするでしょう? 水平世界は、必ず零点になった所に垂直が降りてきて、縦的な垂直線と横的な水平線が九十度の角度を成すのです。

 九十度を四つ合わせれば、三百六十度です。どこに持っていって合わせても、すべて合います。十二角があれば、その十二角をどこに持っていって合わせても、すべて合います。おじいさんやおばあさんの角度もすべて合うのです。

 天の頂上から地の果てまで、九十度でなければすべて合わないのです。九十度を中心として、四十五度はオーケーです。いくら大きくても、九十度を外れた完成品はないのです。

 皆さんの心は垂直です。心が垂直になれば、体は水平にならなければなりません。垂直が通じるのは直短距離です。水平も、垂直と合わせる所は直短距離です。垂直は九十一度でも、八十九度でも成り立ちません。九十度しか垂直は成り立たないのです。垂直に水平となるのは、横的な直短距離であるので、それは九十度しかありません。

 皆さんの心は、垂直の父であられる天の父、神様を父としているのです。神様の愛の前に、完全に一つになることのできる水平の父は、堕落していない完成したアダムです。それで垂直の父であられる神様と、水平の父である完成したアダムが、九十度の角度で出会うのです。

 それは上、中、下となるのです。夫婦関係の夫婦も、ぴたっと、この中心を通って左、中、右となります。必ず九十度の角度を中心として通るのです。何のことか、分かりますか?

 上下、左右、前後というものは、球形を形成する絶対要因の単位なのですが、その単位が公式化されれば、完全に九十度の角度を経て、一つの点を通らなければなりません。何の点ですか? 中心点です。上下の中心点、左右の中心点、前後の中心点です。それが家庭形成です。親子関係の上下、夫婦関係、それから兄弟、子女関係です。そして、これをすべて取り囲むのです。

 親子関係の殻、夫婦関係の殻、兄弟関係の殻、殻は丈夫なのです。しかし、それを裂けば、そのまま裂けるのです。種のようなものは、二またになっているでしょう? 二またになっているのですが、そこを中心として胚芽の中を見れば、十字型になっています。

 東西南北、四方に合わせて生命を連結させる根があるのです。それが九十度なのです。それは父の思いどおりにできません。父も母がいなければ生きていけないのです。母も思いどおりにはできません。父がいなければ孤独です。かわいそうなのです。

  女性は愛を与えるために嫁に行く

 きょうの主題は何ですか? 愛を解放してあげよう!  愛は、皆さんについてまわるために、どれほど疲れたことでしょうか? 考えてみてください。アイゴー、臭いにおいの中でもさらに不快なにおい、行動の中でもどうしようもなく不快な行動、人生を生きていくのに、お化け屋敷に蜘蛛の巣が張って、出ていく穴がなくなるくらい、めちゃくちゃにしてしまったのです。完成を願う愛は、それについてまわりながら、どれほど疲れたか、考えてみましたか?

 父母の子女に対する愛、子女の父母に対する愛、夫、妻、兄弟、すべての愛が行き違っているのです。愛がどれほど嘆息したのか、考えてみてください。したでしょうか、しなかったでしょうか? (「しました」)

 愛を解放するには、一つの公式しかありません。愛自体が愛を解決する道は、永遠にないのです。愛自体も相対がなければ、愛の解決はなされません。ですから、愛よりも相対がもっと貴重です。

 全員、愛を持っていますね。生命を持っていますね。(「はい」)。それら自体では分かりません。それらを一挙に爆発させるものは何ですか? お金では生命も愛も爆発しません。何が爆発するのですか? 欲心の爆発です。知識でも、それはできません。権力でもできないのです。ただ愛だけが、愛と生命と血統を爆発させることができるのです。

 それでは、皆さんの愛を爆発させて、男性の生命、女性の生命をぐつぐつと沸きたつようにさせるものは何ですか? 生命ですか、愛ですか? 愛の火がついて、二つの生命が一つになって血統と合わさって渦を巻くのです。生命が、愛によって熱くなり始めると渦を巻き、その中に自分の生命の主人によって種が植えられるのです。

 男性の生命と女性の生命が出会い、遠心力と求心力が一つになるようになれば、運動すると言ったでしょう? 男性の生命体と女性の生命体が、愛によって運動し始めて回るようになれば、上がっていくでしょうか、下がっていくでしょうか?

 上がっていくところに芽が出れば息子になり、下がっていくところに芽が出れば娘になるのです。理論的に合う話です。私は、そうなのか、そうでないのか分かりません。(笑い)

 それでは皆さん、ために愛しますか、愛を受けますか? どちらがいいですか? (「ために愛することです」)。韓国の女性たちは、嫁に行くときに愛しに行くのですか、愛を受けに行くのですか? どちらですか? 二番目ですか、一番目ですか? (「二番目です」)。愛を受けようとすれば、追い出されるのです。本当です。

 愛そうとすれば、万事がオーケーです。しゅうとめは、嫁に自分の息子を奪われて、どれほど悔しいでしょうか? 考えてみてください。しゅうとめが未亡人であったならば、息子を夫の代わり、町内の男性の代わり、弟のようにして、どれほど親しく過ごしてきたことでしょうか?

 うれしいことやよいことがあったときには、息子が相手になってくれていたのに、小さな女性、滴のような女性が入ってきて、下の部屋に暮らしていた息子を奪い、上の部屋に入って行って夜通しこそこそするとき、しゅうとめの気分は良いでしょうか、悪いでしょうか? 「あの女に、雷が落ちればいい」と考えるでしょうか、考えないでしょうか? (「考えます」)

 未亡人のしゅうとめに、嫁は「お母さんは夫の右側に寝てください。嫁は左側に寝なければなりません」と言わなければなりません。愛が慕わしくて生きているのに、独りで暮らせば、どれほど心がめいって暗くなるでしょうか。

 一か月、四十日、三か月、百日をそのように暮らせば、しゅうとめの心はどうでしょうか? 夢見が悪くなるのです。しゅうとめを独りにしておいたら、自分の夫が来て、首を絞めて「この女は」と言い、先祖たちが来て、足でけ飛ばすのです。そうなりますか、そうなりませんか?

 霊界があるならば、そうなるようになっているのです。ですから、嫁に行って「愛そう」という女性は、その家の主人になりますが、「愛を受けよう」とする女性は、追い出されるようになっているのです。

 女性は、愛を受けなければなりません。愛を受けようとすれば、愛さなければならないのです。愛して受けるのが良いですか、愛さずに受けるのがいいですか? (「愛して受けるのがいいです」)。愛さずに受ければ、どろぼうになります。商売で資金をすべて使い果たすのと同じことです。

 これは理論的なのです。それゆえに統一教会員は、嫁に行くときに愛を受けに行きますか、愛しに行きますか? (「愛しに行きます」)

 愛を受けるために生まれたのですか、愛するために生まれたのですか? (「愛するためにです」)。私たちが他の人にご飯を与えるのが気分が良いですか、もらって食べるのが良いですか? 愛も与えるのがよいですか、もらうのがよいですか? (「与えるのがよいです」)

 一九六五年のことですが、私が約婚のときにお母様に指輪を上げられなかったので、世界一周をする前に小さな指輪を上げたのです。〇・五カラットのものしか上げませんでした。しかし、それで体面が保てるでしょうか?

 それでオランダに行ったときに、原石をいちばんうまく磨くダイヤモンド店に入っていって、いちばん色の良いものを買いました。それを買って指輪をはめてあげたら、お母様はどれほどうれしかったのか、その後、だれに上げたのかも覚えていません。(笑い)すべて上げてしまったというのです。

 そのような女性と一緒に暮らすのは良いことでしょうか、追い出すべきでしょうか? (拍手)お母様の愛が、ダイヤモンドより何十倍も大きいということを学びました。「おお! 私もそれを知らなかったのに……」と驚嘆したのです。

 服も日本に百二着、上げました。韓国、祖国領土でのお母様の宝物であり、国宝級のものですから、すべて記録しておきなさいと言っておいたのです。

 ところが、「日本の女性たちがかわいそうなので、服を一着上げてもよいですか?」と言うので、「上げるなら上げなさい」と答えたのですが、百二着すべて上げてしまいました。

 それは一着、何千万ウォンなのか、私は知らないのですが、十億、百億出しても買えない服なのです。歴史以来、お母様が着ていた服は、その一着しかないのです。行事のときに着ていた服です! それを上げてしまったら困るのです。持っていった人は、きちんと保管しておかなければなりません。(録音がしばらく途切れる)

 その服を着ていたお母様の骨があったなら、その骨と何千億とを取り替えますか? 何のことか分かりますか? お母様の骨がその服以上に貴重であり、お母様の墓場がもっと貴重であるということです。

 服は、いくらでも占領したとしても、千年万年、愛のお母様の墓場は占領する者がいないのです。ですから、その服を愛する以上に、日本の後孫たちはお母様を愛さなければならず、真のご父母様を愛さなければならず、祖国光復に対して忠孝の道理を伝統として残すべきです。そのような意味で、先生はよいと思うのです。アーメン。(「アーメン」)。(拍手)

  愛の主人

 愛の主人はだれでしたか? 今日の堕落した世の中は、愛の主人を知りません。母親の愛の主人は、夫の愛の主人、息子の愛の主人はだれだったのですか? (「神様です」)。神様は見えますか? 心があることを、分からないではないですか? 実体を見て、心もこのようになっていると考えるのです。

 愛の主人を知っている人は、手を挙げてください。もちろん、神様は神様なのですが、神様は根なのです。根だけで愛が成り立ちますか? 主体がいて、いくらその主体がりっぱであっても、主体だけでは、愛に出会うことは永遠にできますか、できませんか? (「できません」)。そうです、できません。

 それでは、愛の主人はだれですか? 知りたくないですか? (「知りたいです」)。神様を完成させることのできる愛の大王は息子、娘です。愛を知らなければなりません。相対がいなければ、愛を見いだす道がありません。夫婦がオシドリのように仲が良くても、息子、娘がいなければ、その夫婦は子女を愛する愛を捜し出す道がないのです。永遠に見付け出せません。

 子女という存在が、子女を愛することのできる母親の愛をつくってくれる主人なのです。それを知らなければなりません。母親の愛をもたらしてくれた主人は、母親ではなく、子女であるということです。

 韓国では、女性を「内の主人」といい、男性を「外の主人」といいます。「内の主人」の中で、「内の主人」に自分自身で自らなった人は一人もいません。夫を通して「内の主人」になったのです。

 「内の主人」をつくってくれたのは、絶対的に夫の恩賜であるということを知らなければなりません。それを知らないので、自分勝手に暮らしているのです。「外の主人」も、一人では絶対に「外の主人」になることはできません。妻を得ることによって、「外の主人」の位置を定めるようになるのです。

 このように「内の主人」、「外の主人」になることのできる愛の主人は、自分たちから始まったのではありません。相対から始まったものを捨ててしまうということは、永遠にあってはいけないことです。そのような愛の心を、「外の主人」以外に上げるのは道を外れたことです。主人を打ってしまうことです。主人をなくしてしまうことです。

 天理の前に、破壊的な存在、公認を受けることのできない存在として消えていかなければなりません。先生がいくらりっぱでも、一人で妻を愛することのできる位置に行くことはできません。子女を愛することのできる位置に行くことはできません。神様を愛することのできる位置にも行くことはできないのです。

 神様が私を愛されているので、神様を愛することができるのです。愛の主人は、私からではありません。相対からきた愛の位置を無視するのは、堕落の群れです。地獄に行かなければなりません。

  神様を解放してさしあげる息子となる

 きょう、先生は八十回を中心として三百六十度回り、青少年を中心としてエデンに帰ります。青少年の淪落と家庭破綻を復帰するためです。

 今までは、愛の主人を知らなかったので混乱が起きたのです。これを整理して帰ってこそ、地獄の世界で百八十度回って、天上世界に行くことのできる方向が設定されるのです。(「アーメン! )。永遠に、アーメンと言わなければなりません、永遠にです! (「アーメン」)

 アダム・エバは、一人の男性と一人の女性でした。その一人の男性と一人の女性の功績がどれほど大きいかということを知って、皆さんは賛美しなければなりません。その二人の男女が、神様に子女の愛をもたらした主人なのです。子女の愛です。昔は神様も、双子の赤ん坊のように性相と形状が育ちました。兄弟のように育ちました。

 神様の兄弟愛の愛の主人を、その位置に立たせたのはだれかというとアダム・エバなのです。アダム・エバが大きくなり、結婚するとき、神様も結婚されて愛の主人の位置を占められることができるのです。結婚できなかったので、問題になりました。それゆえに父母の位置に行かれることができなかったのです。

 それでアダム・エバが子女の愛、兄妹の愛、夫婦の愛、父母の愛を神様の前に成してさしあげるべき責任を果たせなかったので、神様は愛の主人の位置が一つもないのです。

 子女の愛、夫婦の愛、父母の愛の位置を体験できなかったかわいそうな神様です。なぜ、孤児はかわいそうなのですか? 父母がいたら、どれほどいいですか。子女の愛から兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛をすべて実体化することができるように見本を見せてあげ、教えてあげられる主人がいれば、相続して余りあるのです。ところが、そのような主人がいないので、かわいそうなのです。

 夫がいなければかわいそうだというのは、どういうことですか? 夫の愛を見いだすことができないからです。また「内の主人」になれません。それでかわいそうだというのです。分かりますか? 姉妹がいないで兄だけいるのではいけません。姉が必要であり、すべて必要です。そうしてこそ、東西南北、四方の愛の主人の位置を占めて天の前に立つことができるのです。

 「神様! 私という存在は、神様の赤ん坊時代、幼児の時代の愛を完成させることのできる主人です。この主人を愛によって、あなたの前に植えつけてさしあげます。私の代わりに主人の役割をしてください。私が私を愛することはできないので、代わりに私以上に愛してください。よりために生きる位置において大きいものが出てくるので、もっと大きい愛を受けるために、私がよりために生きます」と言うのです。

 そして、私によって神様の幼児を愛することのできる愛の主人になり、兄弟を愛することのできる愛の主人になり、それから夫婦として愛し合うことのできる愛の主人になり、父母を愛することのできる愛の主人になれば、天下万事がすべて東西南北に定着できます。

 しかし、神様は喜びが定着できる位置を定められることができなかったのです。ですから、堕落というのは、どれほど途方もないことでしょうか? アダム・エバは万年の一人息子、一人娘なのです。

 七代の一人息子が死ねば、村中が、軍隊までもが慰労してくれるのに、天地を主管できる天の国、王宮の国の王子王女、息子、娘を一度に地獄に放り込んでしまったのです。

 血統が変わることによって、サタンの幼児の愛の主人となり、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛をサタンが編成してしまったのですから、どれほどあきれたことでしょうか? 皆さんは、それを考えなければなりません。

 父親、母親、兄弟、一族が滅亡したのです。愛を体恤することができる立場を失ってしまった、そのような神様の位置において、これを復帰するために血のにじむ苦難の道、逆説的な路程を開拓されて、今まで何千万年間過ごしてこられたのです。

 そのような神様の労苦がどれほど大きいか、考えてみてください。人類の解放とともに、神様が解放されるということを知らなければなりません。

 皆さんの家庭が解放されるということは、家庭を失ってしまわれた神様の悲しみを、私が慰労してさしあげるということです。一族を解放するということは、神様の一族を受け継がせようとされて果たせなかった悲しみを、一国を建国するということは、失ってしまった神様の国を取り戻し、解放してさしあげようということなのです。

 先生の生涯は、失ってしまった天宙を取り戻して、神様を解放してさしあげていることなのです。自分の願いはありません。自分の考えはありません。「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」です。死ねと言われれば、直行するのです。逃げようとはしません。
 そして神様を完成させるのです。神様ご自身が、サタンの自然監獄に閉じこめられているのと同じことなのです。囚われの身になられたのを、解放する息子になってこそ、解放されない恨を抱かれていたかわいそうな神様が、終わりの日に家庭と世界と天宙において解放されるのです。

 その神様を中心として家庭の愛、氏族の愛、民族の愛、国家の愛、天宙の大きな愛の法度を中心とした主権を立てた所において、万民平等の幸福の基地となり、地上と天上世界に一元化されるのです。(録音状態不良で一部整理できず)

 ……青少年を収拾する方法がありません。家庭を収拾するすべがありません。それは先生の特許権です。それは、大学者であれ、だれもできないのです。彼らは霊界を知りません。先生が必要ですか? (「はい」)。どれくらい必要ですか? 先生の名前だけを持って、いくらそのように話しても成し遂げられません。先生の前に接ぎ木されなければなりません。

 歴史の主流を通して、大海と連結されてこそ、地上天上の解放圏がなされるのです。大海は解放圏を備えています。支流はありません。黒潮を中心として太平洋を回りながら、五大洋がたゆまなく流れているのです。

 天地の道理が、原則を中心として主流の中心的な基準になってこそ、その主流の方向を通して統一的世界が展開されるのです。自分の思いどおりにはできません。

 孝子とは何ですか? 家庭に入って、父親、母親に愛を体恤させることのできる代表者です。私によって、兄の前に愛の主人になることができ、父親、母親の愛の主人になることができるのです。私によって、愛するようになるのです。そうしてこそ、孝子になります。

 孝子というものは、自分一人によって母親の代わりに愛することができ、兄の代わりに愛することができる全体の代表的な基準に立って、それを植えつけてあげる役割ができるのです。孝子は、自分の家庭のすべての相続を受けた基礎になり、中心存在になるのです。

 父母がどこに行くにしても、鍵やすべてのものを、その人に預けて行きます。それは、ために生きる人なのです。なぜ、ために生きなければならないのですか? 生まれたものの中で、自分のために生まれた存在はありません。

 「上」と言うときには、その「上」というもの自体だけを考えて言うのではありません。「下」を先に認定してから言う言葉なのです。

 「上」と言うときには、先に「下」というものを認定して言うのです。「右」というものが先に認定するものは、「左」です。左側を認定してから、右側というものを決定するのです。前後もそうであり、すべてそうなのです。女性というものは、先に男性を認定してから言うものです。正しいですか、正しくないですか? (「正しいです」)

 男性ということも、女性を先に認定して言う言葉なのです。息子、娘ということも同じことです。自分を中心として結論を下したものはありません。相対を中心として、相対を通して自分の存在圏を認定するようになっています。

 すべてそのようになっているのです。それを根拠とすれば、雄雌も同じです。プラス・マイナスも同じです。プラス・マイナスになっているのは何のためですか? 愛のためです。雄雌が一つにならなければなりません。何をもって一つになるのですか? 生殖器なのです。

  家庭で天国に入る

 今から祝福家庭は、自分の先祖を解放する時代が来ます。百二十代までです。今回教えてあげたことは、先生が八十歳を越えれば、天地が「合徳時代」になるということです。先生が八十歳になるまでに、すべてを終えなければなりません。一代で終わらせなければなりません。それを終えなければ、大変なことになります。霊界を完全に解放するのです。

 家庭が天国に入るようになっています。夫婦で天国に入るようになっているのであって、一人で入ることはできません。地獄の門と天国の門を、すべて開いておくのです。回りながら上がっていきます。自分の先祖たちが列をなして、番人となり、案内してくれるのです。

 昔は、サタンが自分の欲望の穴を掘って、千年、万年行くことができないようにしていました。そして、サタンが人間に使いをさせていたのです。それをすべて撤廃してしまいました。それはうそのようですが、そのようになるのです。見ていてください。それはなぜですか? 霊界の事実がどのようになっているのかをよく知っているからです。それをしなければ、後代になって引っかかります。

 子女がいなければ、その父母は永遠に、子女を愛することのできる愛が分かりません。男性を愛することのできる女性になれません。そうですか、そうではないですか? その張本人が絶対主人なのです。一つしかない、アダム・エバなのです。その二人だけです。父母を中心とした三人です。その原則基準に合わせて生きていかなければなりません。それがジャルジン第二宣言である絶対家庭なのです。

 初愛が貴いのです。初愛を中心として、父母も精誠を尽くすのです。神様を解放させるのは、息子、娘しかいません。その息子、娘を通して子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛を感じるのです。神様は、そのように育ってこられました。

 見えない神様の幼児時代を、実体の幼児を通して感じられます。幼児から兄弟時代を経て夫婦時代、父母時代です。父母時代に向かって創造を始められたのです。

 見えない過去の時代を、見える実体を通して再現し、昔の歴史的な自分という存在の、根源的な愛の主体と対象に出会い、それを愛することのできる主人の位置を復帰しなければなりません。それを切り離すことはできません。永遠に切り離すことはできないのです。

 男性として生まれて、父母がいなければ子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛まで行くことはできません。父母がすべて育ててくれます。そのように父母は貴いのです。

 愛の主人を絶望させてはなりません。父母自体が私を通して子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛まで見いだすのです。三代にならなければなりません。おじいさん、おばあさん、夫婦、三代が四位基台なのです。

 子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、夫婦の婚約段階の心情まで、先生を通して感じなければ復帰ができません。帰ることができないのです。エデンの園で暮らしていたように、育ててあげるのです。それで真なる姉妹をつくって、真なる妻をつくってあげなければなりません。それが先生の責任なのです。

 そして、先生がとても愛している姉妹たちを、天使長である男性に任せるのです。ですから三年間、女王として侍らなければなりません。そうでなければ、天上の法に引っかかります。先生も同じことです。すべて守り、すべてを解いて、公式をつくっておいたので、公式のとおりに行かなければなりません。

 愛の主人は「私」でした。男性、一度言ってみてください。愛の主人は「私」でした! (「愛の主人は「私」でした」)。愛の主人は「私」でした! (「愛の主人は「私」でした」)。男性と女性がいなければ、愛は成り立ちません。これが父母です。父母から下りてきて育っていかなければなりません。

 子女時代から兄弟時代、結婚時代、そして父母に上がっていくのです。その過程を経て、そのような位置に行くのです。これは一つの種と同じです。種の結実が子女なので、子女も父母に伝授されるのです。父母が子女を愛することによって、子女を愛する主人、兄弟を愛する主人、夫婦を愛する主人に父母がなることができるのです。すべてのものを父母が持っているので、それを父母から伝授されるのです。

  男性と女性の行くべき道

 それが千年万年の代を継ぐようになります。それを混ぜることはできません。兄弟と夫婦と換えることはできません。子女と兄弟を換えることはできないのです。兄弟時代は分かれなければなりません。分かれて、自分自らの道を行くのです。男性の行くべき道、女性の行くべき道を準備しなければなりません。

 学校も別々にしなければならないのです。堕落した世界において、男性と女性が一緒に勉強するのは良くありません。本当の愛に対する神秘的なものを、すべて失ってしまうのです。

 先生は、男女共学をなくします。そうしなければ、愛に対する神秘性が分かりません。それは、本で説明しても分からないのです。蜂蜜の味がどのようなものなのか、味わってみる前は分からないでしょう。口のきけない人でも、蜂蜜の味は分かるのです。いくら病気の身でも愛の味は分かるのです。その味は平等です。永遠に平等です。それに流されない人はいません。そこに引っかからずに入っていく人はいないのです。

 あなたも引っかかりましたか? どうですか? 「愛」といえば、だれもがそこについて行きたいのです。独りでは愛することはできないので、男性は死んでも女性について行き、女性は死んでも男性について行きます。父母を捨てて、町を捨ててでも結婚しなければならないのです。

 女性たちは種をもらいに行きます。自分の家門の種をもらってはなりません。それは良くありません。遠い所に嫁に行かなければならないのです。

 渡り鳥がそうです。渡り鳥は、南半球に虫が多いのに、それを捨てて寒帯地方で冬を過ごし、春に訪ねてくるのです。寒い所を克服して力がつくのです。そして、ここで繁殖した餌も丈夫なので、子供も丈夫なのです。それで渡り鳥が生まれたのです。

 それゆえに、遠くに嫁に行かなければならないのです。国際結婚すれば、美男美女が生まれます。本当です。極というものは、中間では極ではありません。北側の果て、南側の果て、東西も極です。極が生まれ、それゆえに回るのです。

 結婚するときに、男性と女性が同じような人であれば陥ってしまうのです。上がっていくことができません。気性の激しい女性は、穏やかな男性と結ばなければなりません。目を見ても、鼻を見ても、穏やかさがあふれ出ている男性と結婚しなければなりません。そのように相対的に迎えなければならないのです。

 愛の主人はだれですか? 愛というものは、自分一人で求めることはできず、相対を通して主人の位置を訪ねていくのですが、その主人とはだれですか? 自分が主人の位置にいても、その主人の位置をつくってくれたのは息子なのです。息子が母親の位置をつくってくれます。母親が息子の心の中に愛を見いだすことのできる母親の愛を植えてくれるのです。

 愛は自分から出てくるのものではありません。ですから、息子を無視することはできません。それが、愛の生命よりももっと貴いからです。息子のために、その愛を失ってしまってはならないのです。愛を守るためには、母親が生命までもささげなければならない、という論理が出てきます。

 このことを、今まではっきりと知りませんでした。これが分かれば、私がサタン世界で滅びる者なのか、天の世界で復興できる者なのかを知ることができます。興亡盛衰の起源がはっきりと区別されるのです。

 今からは、このことを知らなければなりません。愛は、自分によって復帰されるのではありません。息子がいることによって息子を愛し、夫がいることによって夫を愛して、妻として「内の主人」になることができ、母親になることができるのです。また、一人の夫がいるがゆえに、母親になることができ、妻になることができ、息子を持つことができるのです。

 そのような三代を経て、主人の位置を持つようになります。主人になった者を追い出すことができますか? 絶対にできますか、できませんか? (「できません」)。簡単なことです。

 夫も同じです。妻がいるがゆえに、父親になることができ、夫になることができ、息子を持つことができるのです。そのような伝統的な愛を持ち、お互いに夫婦になることによって、連帯的責任を共に完成することのできる家庭基盤を持ったという事実を、天下に誇ることができるということが代表的なことであることと知らなければなりません。(「アーメン」)

 愛は、自分によって始まるのではありません。そのような伝統を持ちながら、浮気することができますか? 愛が自分から生まれたという道理はありません。寡婦や男やもめがかわいそうだというのは、そのためです。結婚できなければかわいそうなのです。兄弟がいなければかわいそうなのです。なぜですか? 愛の定着基地がないからです。
 愛の相対圏を成すことができなければ、宇宙の中に消えてしまうのです。存在の基盤を歴史とともに残すことができるという、驚くべき位置を策定できたということは、結婚した妻によるものなのです。

 そこから母親の愛が始まり、夫婦の愛が始まり、子女の愛が始まります。父親が子女を愛することができ、女性を愛することができ、先祖を愛することができる伝統を受け継ぐのです。分かりますか、分かりませんか? (「分かります」)

  真の愛自体を解放しよう

 それゆえに、宇宙を愛しなさいというのです。宇宙のために生きなければなりません。ために生きるところから、愛が始まるのです。自分の生命圏を越えるところから、真の愛が始まります。(録音が頻繁に途切れ、一部整理できず)

 それで、イエス様は死なんとする者は生き、生きんとする者は、何と言われましたか? (「死ぬです」)。死なんとしましたか? 死ぬ境地に自分を追い込むのです。

 過去の旧約時代、新約時代、成約時代において、祭物は所有物なのですが、神様とサタンがこの宇宙の存在物を分けて持つようになったということは、悲惨な事実なのです。だれのせいですか? アダムとエバ、男性と女性のふたりのためです。このふたりの夫婦は、そのことを清算しなければならない共同的な責任が連結されているということを知らなければなりません。

 それでは、成約時代とは何ですか? 物質は旧約時代であり、息子は新約時代であり、自分たち夫婦が成約時代です。このすべての完成をしなければなりません。所有権はなく、あるだけの物すべてを神様の物として、総生畜献納しなければなりません。

 結婚する前に、所有物は神様の所有であり、アダム・エバの所有でした。真の愛を持って、真の愛を先立ててこそ、所有権が決定されるのであって、物を中心としては決定されません。息子、娘を中心として犠牲になり、真の愛の安着地を取り戻していく歴史時代なのです。

 そのような標準に一致できるよう、統一家の祝福を受けた群れは、世界のどのような国境を越えたとしても、一体化した理想的な観点から、この公式過程をすべて通過すべき勝利の家庭、勝利の天国形態に拡大していき、宇宙解放にまで至るのです。アーメン。(「アーメン! )(拍手)

 ですから家庭において、愛の主人の位置をすべて取り戻し、国の愛の主人の位置を成すのです。その愛の主人の位置は同じです。国家にもその公式を拡大しなければならず、世界にもその公式を拡大しなければならず、世界のメシヤの愛の理想圏も、家庭において成すのと同じ公式で拡大しただけなのです。

 あの世に行っても、神様に侍って暮らすということは、そのようにすることなのです。家庭において成したのと同じように、膨大な天国全体のために投入して忘れる愛を持って生きる人は、天国のどこに行っても解放され、愛までも自分の後ろに従ってくるようになるのです。それが愛の理想です。

 皆さんが家庭に行こうと、神様の宝座に行こうと、どこに行こうと、皆さんに侍ってついてくるのです。そのようにして、真の愛自体を解放することのできる位置が生じることによって、万宇宙解放、天上解放、地上解放、完成が成立するのです。アーメン。(「アーメン」)

 ですから、個人のために、家庭のために投入し、氏族のために投入し、民族のために投入して忘れる、そのように継続していけば、後に愛までも私のために生きて敬って暮らすことのできる時代に進むのです。

 愛の目的がそのようになっています。完成さえさせてあげればよいのです。完成させて敬い、そのように生きていこうというのです。そうすれば解放されます。分かりますか? (「はい」)

 そのようにできる日のために前進、前進を誓う、そのような先生の八十歳の誕生日、お母様の五十七歳の誕生日を祝賀する記念日にならなければなりません。アーメン7 (「アーメン! )





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。


奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵


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Last updated  2023.08.13 19:50:30
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