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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
真の愛の主人に侍ろう 聖日礼拝の御言 1999年6月13日 韓国・本部教会 きょうは、何日ですか? (「六月十三日です」)。六月十三日は、何の日ですか? 去年のこの日は、何の日でしたか? 皆、忘れてしまったようですね。 この日は、歴史的な記念の日であり、さらには、聖人と殺人鬼が一緒に祝福を受けた日です。これは、天上世界と地上世界が分かれ、地獄と天国が分かれていたのを一つにし、標準化させた日です。 地獄にも神様がいらっしゃることができ、天国にも神様がいらっしゃることができ、地獄にも神様の息子、娘が、そして天国にも神様の息子、娘がいらっしゃることができるのです。それは、なぜでしょうか? 神様を中心とした地獄というものは、あり得ません。また、地獄にいる「神様を中心とした祝福家庭」というものがあった場合、それはすでに「地獄の人」というべきではなく、「天の人」であるというのです。その壁をすべて崩してしまった記念の日が、きょうなのです。 皆さんはすべて知っていますが、アダム家庭におけるカインとアベルの問題が問題になるのです。兄が弟をなぐり殺してしまいました。それは神様の悲しみです。それをごらんになる神様は、どれほどぼう然としてしまわれたでしょうか? 歴史の完成というものは、父母が完全に一つになり、それから子女が完全に一つになり、父母と子女が一つになり、それから兄弟が一つになってこそ、創造理想の基盤である家庭となるのです。 しかし、アダム家庭において殺戮戦が起こったという、恐ろしくも驚くべき出来事が起きました。その事実は、神様にとって衝撃的なことでした。それは、理想世界の創造を望まれていた神様の心の中にあって、夜といえば真夜中のような時間であり、悲痛といえば歴史上にない、信じられないほどの悲痛の立場であったのです。そのことを、私たちは今まで知りませんでした。 これは、神様にとっての悲痛な事実であると同時に、アダム、エバにとっても悲痛な出来事でした。なぜならば、アダム、エバが生んだ息子、娘がこのようになったということは、アダム、エバ自体においては、父母の立場に立ったその立場で、長男が弟を殴り殺すという現場を見詰めたということだからです。その立場は、どれほど胸の張り裂けるようなものであったかというのです。私たちは、このことを知らなければなりません。そのうえ、人間始祖が誤ってしまったことを復帰してあげるうえで、神様は介在されることができないのです。 皆さんの子供が罪を犯したならば、その子供に代わって、親がその犯罪の責任を執ることはできません。罪を犯したならば、犯罪のその蕩減は本人がしなければならないのです。人間世界の法もそのようになっています。 私たちの生涯の生活において、道理を立てていくためには、原則があります。それは、「自主的な法を個人から家庭に拡大させ、国家と世界まで守っていかなければならない」というものです。そのような法があるのです。 その法を立てられた神様は、その法を破ることはできません。また、その法の相対になるべきであり、神様の理想的家庭の父母になるべきアダムとエバも、その法を守らなければなりません。 ですから、「カインしか残っていない子供を、アダム、エバが愛することができるのか?」それが問題なのです。愛する心が向かう前に、そもそも弟を殺したカインをどうやって愛さなければならないというのでしょうか? これはもう苦痛です。 それゆえに、再び神様に侍り、理想的家庭に還元されるということを再び望んだとしても、神様の前に立つことのできない私たち人類祖先の姿でした。その姿自体が、悲痛だというのです。 神様の法度に従って家庭の法度を立てなければならない長子が、弟を殺して血を流したのです。そのような殺戮戦が起きたという事実は、歴史上の一つの国、一つの世界、この地上世界が滅んでいくことよりも、もっと恐ろしい結果であるということを、皆さんは知らなければなりません。 ですから「真の愛の主人」になることができるのか、というのです。きょうの題目は、「真の愛の主人に侍ろう」というものですが、「真の愛の主人」とはだれですか? それは神様がなるべきであり、アダム、エバがなるべきであり、アダム、エバを中心としては、その息子が父から「真の愛の主人」を受け継いで、そうならなければなりませんでした。 神様はおじいさんの立場ですが、祖父であられ、天地創造主であられる神様の愛を受け継いで、主人となるべき家庭的基盤を持つことができなかったという事実が、人類堕落の恨であったというのです。 考えてみてください。皆さん自身を、神様の位置を代身し、アダム、エバの家庭を代身した立場に置き換えてみたときに、どうでしょうか? 自分が生んだ息子、娘がそのような殺戮戦を起こしてしまったのです。 それは、だれのためにそのようになったのでしょうか? 弟のためにそのようになったのは事実ですが、弟のせいでそのようになったというわけでもないのです。アダム、エバのゆえにそのようになったのでもなく、神様のゆえにそのようになったのでもありません。 それは、サタンが天の家庭をすべて破綻させるために語った、「別の主人の言葉」に従ってそのようになったのです。その事実を、今まで歴史的時代を経てきながらも、堕落した後孫である人類は知らないでいたのです。 主人である神様を、真の主人を追放してしまい、真の主人の理想を成し遂げることのできるアダム理想を完成した家庭、愛の家庭までも追放してしまいました。そうして、神様とアダム、エバが一体となり、その孫、三代が一体となって、三対象目的を成さなければならないのですが、そうなるべきすべてのことを破綻させた元凶があったという事実を、今も知らずにいるのです。 その元凶はサタンです。それが偽りの父母となり、偽りの愛を中心とした偽りの生命、偽りの血統を中心として、神様と神様が願われる家庭とは根本的に反対の立場から人類歴史が出発したのです。それは、私たちがよく知っている事実です。 それでは、「人類」というとき、その人類はだれに属しているのでしょうか? 神様に属しているのではありません。その根は大きいことは大きいのですが、その根が腐ってしまったのです。 それは何の根でしょうか? 中心の根が腐ったのです。中心の根が腐ってしまったので、中心の根が死ねば、芽も死なざるを得ません。そのような立場でサタンは、天に最後まで反対していくのです。 実を植えたのですが、これが悪い実であり、悪い芽が出、悪い枝から悪い幹、悪い根、悪い芽が出て、そうして悪の中心の根、悪の中心の幹、悪の中心の芽を中心として、人類歴史が発展してきたというのです。 ですから、枝という枝は、本然の根を尋ね求めようとしても尋ね求めることができないのです。根が腐ってしまったからです。中心の根がなくなってしまったというのです。 中心の幹を求めることができず、中心の芽が何であるのか分からない混乱した歴史過程を経てくることによって、その渦中にいる私たち人類は、祖先から今まで、だれ一人として自信を持って、この地の主人としての資格を感じることができませんでした。そうして、自信ある主人を捜し求めるための、自信ある、愛する世界につなげることのできる道を捜さなければならないのですが、それをすべて失ってしまったのです。 それでは、このサタンは何者なのかというと、それは天使長なのです。しかし、その僕になるべき天使長が、人間の祖先の位置に登場したという、恐ろしくも驚くべきこの事実。これは、言葉の上だけのことではありません。事実なのです。 例えば、王宮を中心として見てみましょう。将来の王様が今、成長期にあるとします。そのようなとき、神様は、その将来の王様にとって王妃になることのできる、女王になることのできる女性を準備して育てていかれる、そのような神様なのです。そして、その王になることのできる人はだれなのかというと、それはアダムであり、王妃になることのできる人はだれなのかというと、エバであったというのです。 そのような「王宮実践」というべき、家庭的基盤を成就しようとされた神様のみ旨であったのですが、その過程において何が起きたのかというと、王女と僕が不倫な貞操関係を結んでしまったというのです。これが大きな問題です。 ですから、王家の相対になり、愛の囲いとなり、愛の赤ん坊を育てることのできる母のような立場に立つべきエバが淪落してしまったので、王との間のことは、すべて壊れてしまったのです。 しかし、そうであるからといって、女性は二人ではありません。たった一人なのです。男性も二人ではありません。たった一人ずつしかいないのに、その一人の男性と一人の女性は、神様のみ旨とは正反対の血統を受け継いでしまったのです。その事実が、億千万世の恨であったというのです。 神様が、今まで復帰してこられながら、地上天国を完成し、解放された愛の主権を取り戻されたとしても、過去の出来事を、その歴史過程に残したすべての傷、痛みの傷を消すことのできる道はないということを知らなければなりません。 今日、求道のその道を求めていく人間たちは、どこを尋ねていくのかというと、本然の主人、真の愛の主人を尋ねていくのです。そして堕落する前のアダム、エバこそが孝子となり、忠臣となり、さらには聖人、聖子の伝統を立てるべき家庭であったのです。 ところが、この家庭が破綻することによって、天の国の血族的基盤を喪失するとともに、未来の歴史の家庭的伝統、それから国家的伝統、世界的伝統、さらに天の国の伝統、主人としての神様の姿勢を備えることのできる愛の主管的天下、地上、天上天国を失ってしまったのです。 その事実が、どれほど悲痛な事実であるのかということを知らないのです。それは、アダム、エバは分かりません。アダム、エバは、堕落したためにそれが分からないのです。今まで、「父母ならぬ父母」であるサタンが導くままに引っ張られてきたのです。ですから、エデンにおいて青少年が過ちを犯して罪の種をまいたので、家庭が破綻して逆さまになったのです。逆さまに引っ繰り返ったのです。引っ繰り返ったこの家庭的血統を受け継いだ人類は、行くべき道を見いだすことができません。行けば行くほど、落ちて下がっていくのです。 その後は、どのようになるのでしょうか? 愛の理想を中心として見た場合、その完全破綻時代が来るのです。世界は、聖人の道理を通して国まで復帰してきましたが、その国のみ旨を忠臣が受け継いで、総合的な収拾をすべきなのが、宗教圏を代表したキリスト教です。 キリスト教は、何を教えてくれたのかというと、(イエス様が)「神様の独り子」ということです。その神様の一人息子を失ってしまったことを復帰しなければなりません。そのような思想がキリスト教にあるというのです。この堕落の根源を解消させるための内容を分析してみるとき、長子権の愛の主体となる存在を、今まですべて失ってしまったのです。 それでは、創造歴史がアダムをつくり、エバをつくったのと同様に、今までの人類歴史は、何を尋ね求めてきたのでしょうか? それは、失ってしまった一人の完成したアダムを尋ね求めてきたということを知らなければなりません。それがメシヤなのです。 それでは、キリスト教がすべての宗教の中心になることができた、その理由は何かというと、イエス様が、自らを「独り子である」と言われたということです。それは、驚くべき言葉です。それは、「神様の息子の中で最初に生まれた息子」ということです。それは何かというと、堕落しなかったアダムが備えるべき位置のことだったのです。 「独り子」というのは何かというと、「神様の愛を受ける代表者である」ということです。それをアダムが完成することができませんでした。そのように、神様が天使長を中心として、僕にアダムを育てさせていたその過程でアダムが堕落したので、神様とアダムとは愛の関係を結んだことがないのです。 願われ、希望の中でアダムは生まれたのですが、愛の相対として、その家庭を代表した長孫として、神様の愛を受けることのできる歴史的な内容を備えることができなかったという事実です。 それを代身して、旧約時代、新約時代、成約時代まで迎えながら息子を尋ね求めてきたのです。そうして、家庭において失ってしまった愛の主人の立場を立てるのと同時に、それを氏族、民族、国家、世界的版図に拡大させていこうとするので、ここに選民というものが出てくるのです。 信じることができない世の中です。堕落していない本然の世界において、僕であるサタンがアダム家庭を占領してしまいました。本来、神様が主人となられるべき主人の立場を、愛を中心としてサタンが占領して主人となったのです。血統を連結したのです。血統です。そうして逆さまになってしまったのです。 それゆえに、女性は歴史上、数多くの愛の夫を……。自分が生まれた赤ん坊時代、それから兄弟時代、このようになります。それから夫婦時代、父母時代、その次は祖母時代、女王時代、これらをすべて失ってしまいました。ですからエバは、それらを復帰しなければならず、そのことは腹中時代、つまり母親のおなかに宿ったときから定められているのです。 エバが生まれるのは、だれのためでしょうか? アダムのためです。アダムの何ですか? アダムの愛のために生まれたのです。そして、愛というものが備わることによって、エバは愛の女王の位置に立つことができるのです。その女王の位置に立つためには、アダムが王にならなければなりません。その王圏というものは、アダムを中心とした王圏ではありません。それは、天地を代表することのできる神様の王圏のことです。 ですから、神様の愛まで連結させることのできるアダムにならなければなりません。そうして完成した愛を定着させ、神様の代わりに「あなたを祝福することができる」と言える夫婦の因縁までが地上に定着しなければ、人間は真の愛の主人の立場を永遠に迎えることはできないというのです。それで、神様はこれを準備されるために……。 落ちるときには、どのように落ちたのでしょうか? 逆さまに落ちたのです。天の国の王圏と天の国の王宮と天の国の忠臣、天の国の法と天の国の王宮法を守るのが「聖子」です。「聖子」は、天の国の王宮法も守らなければならず、天の国の国法も守らなければなりません。ところが、神様の王圏を中心とした皇族圏が撤廃されており、それから天の国の伝統を立てることのできる王家の長孫がいなくなり、すべてが逆さまになったのです。 落ちていくときに、逆さまに落ちていきました。そうして一番最後に残ったのは、万物が残ったのです。万物をつくり、それから人間をつくり、人間をつくって完成し、天の国の王圏、地上の国の王圏、神様まで連結させることのできるものが、すべて逆さまに落ちていったのです。 そうであるからといって、神様が地獄に入っていかれることはできません。地獄に入っていったのは、ただ堕落した人類の祖先と万物全体であり、それが地獄の真ん中に落ちていったのです。ですから、神様の前に一番近いのは万物です。逆さまになったからです。それで、橋を架けて上がっていこうとすれば、人間は万物を崇拝しなければならないのです。 そうしてシャーマニズムによって、ありとあらゆる自然を崇拝したり、山を崇拝したりと、このようにしているのです。このように逆さまに落ちたので、すべてがサタンのものになりました。神様は、手を出す道がありません。愛のためにつくられたこの被造万物であり、愛のために生まれ、存続する万物なのですが、愛の根となるものが切れてしまったので、幹も芽も生じるすべがないのです。分かりますか? 残ったものは、死んだ骸骨のようなものが残ったのであり、神様の愛される人間たちは、すべて地獄にのみ込まれ、水の上に浮かんでいるのは、すべて万物であるというのです。 それで、橋を架けるのですが、それは何でしょうか? 万物を愛することです。そうして再び神様が、万物を愛することのできる位置に来られるのです。それゆえに、「十分の一条」という言葉が出てくるのです。 九数はサタン数です。賭博場に入れば、九数が一番良い数なのです。九数はサタンが好むようになっており、十数のうち最後に一つ残ったこの部分、万物の標題であるこの一つが、神様の愛で対されることのできる糸口として残ったというのです。 このことから、神様が万物の創造を始められたときの、その本性的な心である愛自体についても、同じことが言えるのです。つまり神様は、万物全体に対して「わたしがつくった」という概念を持たれることができないのです。それは、どれほど悲惨でしょうか? 天宙を創造された主人の中の主人であり、愛の王であられ、王圏を立てられようとする、そのような主人自体が、完全に逆さまに打ち込まれてしまったのです。そうして万物の十分の一という条件を見詰め、自分の所有の基準を中心として、血を流す役事を通して万物を犠牲にさせ、今まで血を流させてきたのです。しかし、それはそうなのです。すべての草木はもちろん、動物たち、すべてを祭物の犠牲としてささげるのです。 それでは、神様はどのような主人となられたのでしょうか? ご自身が創造された被造世界の前に、十分の一の主人の立場に立たれたというのです。神様がそのような立場に立たれたという、無念で痛憤なる事実を、皆さん、考えてみてください。 万物を所有したときに、「それは自分のものである」と言って、「世界版図の十分の一を所有した」と主張した場合、そのためには個人的な所有の十分の一、家庭的な十分の一、国家的な十分の一、世界的な十分の一、天宙的な十分の一の所有権へと拡大できる基盤を復帰しなければならないのです。そのようにして基盤を再びつくられなければならない神様は、どれほど悲痛な立場にいらっしゃるのかということを、皆さんは知らなければなりません。 今日のこの世の中で、国を失ってしまった悲惨な皇族がいたとします。行く道がなく、彷徨する彼らには、それでも民族の同情を受けることのできる基盤があるかもしれません。しかし、神様にはそのようなものもありません。万物までも同情することができないのです。すべてがサタン圏内に入っていったからです。それゆえに旧約時代は、万物を割いて祭物としたのです。 そうして、イスラエル選民圏が現れました。そのイスラエル選民という、神様が選ばれた民族というものが現れたので、旧約時代の祭物圏も成立したのですが、イスラエル民族がいなければ、祭物圏を中心としたイスラエル国の万物、イスラエル国の家族の万物を連結させることのできる版図がなくなるのです。 それゆえに、選民圏を捜し立てるために、二千年以降にヤコブ家庭を中心として、複雑な闘争過程の蕩減復帰路程を立てて還元するための基盤の下で、旧約時代は祭物を中心として息子、娘が行くことのできる橋を架けてきたのです。そのようにしながら、祭物的な所有を経て、個人的な祭物圏世界を代表した基盤の上で、家庭的な祭物圏、氏族的な祭物圏、民族的な祭物圏、国家的な祭物圏まで来たのです。 しかし、サタンが国家を中心としてすべてを占領したので、主人の位置を克服するためには、国家的な祭物圏まで行かなければなりません。そのためには、イスラエル選民圏において寵愛されたすべての貴い万物を、まず祭物として考えたというのです。 土地があって農作業をしたり、牛がいたりしたならば、そのすべての良いもの、息子、娘がいれば、良いものはすべて祭物的なものとしてささげなければなりません。そして祭物をささげるうえにおいては、最も良いものを犠牲にして血を流すようにし、そうしてだんだんとイスラエル民族は大きくなっていったのです。 そうすることによって、万物の中で主人的な資格を得、万物の主人としての立場を拡大させていき、旧約時代に祭物の血を流して天の側に立ったのが、イスラエル民族でした。そのような彼らが絶対信仰を持ち、神様を愛する心を持ち、神様の前に心が一致し得る立場で、祭物を神様におささげするのにふさわしいように、精誠を尽くして一つになることによって祭物がささげられてきたのです。 そのような祭物的条件を通して、所有権を主張しなければならないという、その神様の悲痛な事実。神様は、万物を通してアダム、エバをつくられました。それゆえに万物を犠牲にして息子、娘の道を開いてこられたのです。そうして個人から家庭を超えて、国家的基台、ローマ帝国を相手として、二千年歴史を切り開いて国家形態と家庭的形態をつくられたのです。 しかしそれは、純粋な「真のオリーブの木」ではありません。「偽りのオリーブの木」です。血統が違うのです。分かりますか?それで、万物と一体となることのできる基準が、国家基準からサタン世界としてのローマとなり、そのローマにあるすべての万物よりも神様が愛されることができ、神様の代身として息子の位置で愛することのできる万物をつくることが求められました。そこで、神様の前にその万物を接ぎ木しなければならなかったのが、イスラエル民族だったのです。 ですから、イスラエルが所有したすべての万物があり、息子、娘がいて、家庭があるならば、それはイスラエル民族の所有ではないのです。イスラエル民族の所有となるためには、まず神様の所有として認定され得る過程を経なければならないのですが、神様の所有圏の決定的判決は、イスラエル民族をもってしてはできません。それは国家なのです。 皆さん。原理主管圏内において、直接主管圏と間接主管圏の限界線は、蘇生圏、長成圏が国家基準なので、サタンは国家を中心とするのです。ですからそれは、神様が摂理上、復帰なさろうとして立てられた宗教、天の前に帰ろうとするすべての人々にとっての怨讐になるのです。芽さえ出れば、切ってしまうのです。 それゆえに、宗教と政治は怨讐となり、サタンは国家形態というものを置いて、政治というものを中心として多くの血を流してきたのです。それは、なぜでしょうか? 祭物は血を流すからです。祭物に適さなくなれば、その実体が祭物にならなければなりません。 それで、旧約時代に万物の犠牲を通して、神様の所有圏を守ることのできる主人の位置を占有するのです。主人の位置は、天使長よりも高くなければなりません。分かりますか? 祭物をささげることのできる祭司長は、天使長世界の愛以上の位置に立たなければ、天使長世界にいるものよりも高い位置に立たなければ、神様は手を触れることができないのです。 それが原則であり、すべてのものは、そのようになっているのです。それゆえに、祭物とは何かというと、所有を決定するための条件物なのです。そこに「絶対信仰」、「絶対愛」があるのです。神様が創造されたのと同じです。その時代も同様です。 祭物に対する人も、「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」です。なぜ、そうでなければならないのでしょうか? 神様ご自身が創造なさって出発されるとき、全知全能の神様が語られたならば、間違いなくそのとおりにそのまま成されるというのです。み言のとおりに実体が生まれるのです。 神様は、「絶対信仰」をもって創造されたのです。自分が「このようにする」と言えば、その言葉のとおりになるのです。霊界に行っても、そうなのです。「絶対愛」の心情を持って言えば、自分が願うとおりにすべて創造してみせることができるのです。それは、なぜでしょうか? 神様の伝統がそのようになっているからです。 「絶対信仰」を中心として三大原則です。「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」です。「絶対信仰」には、「絶対愛」がついてくるようになっています。今日の堕落した世界でも、新しく結婚した夫婦が出会って約束をするとすれば、「私を絶対に愛しますか? 絶対に信じますか? 心と体で私を信じてください」と言い、「絶対に信じますか? 私の体を信じ、私の心を信じますか? 心と体が一つになったことを信じますか?」と言うのです。結婚した人々が、出発当時にお互いに決意したいことは、そのような心なのです。それは、なぜでしょうか? 「絶対信仰」の中での「絶対愛」なのです。 そのために、祭物的なイスラエルの二千年歴史を経て、イエス様が来られるときまで待ったのです。イエス様はどのようなかたであられるのかというと、イスラエルの祝福圏の上に来られたかたなのです。ローマの国に対抗することのできる主権はありませんが、民族的な所有物はどのような万物よりも、どのような人よりも一つになって愛する基準があるのです。 それは、天使長よりも高くなることのできる孝子の位置であり、忠臣の位置です。そのときは、聖人ではありません。忠臣の位置です。聖人は世界を代身するのです。ですから、忠臣の位置まで出ていかなければなりません。 そして、サタン世界における今までの四千年歴史の中で、どのような国の忠臣、国の孝子以上に、その国の主権を愛し、その国の人を愛し、その国の万物を愛するのです。 「国」というときには、主権がなければなりません。主権の中心は何かというと、真の愛です。真の愛を中心とした国家形態、真の愛を中心とした国です。 真の愛には、神様が介在して入っていかれなければなりません。今日の堕落した世界では、「真の家庭を成して暮らしている」と言っています。しかし、「それでは、あなたの家庭に神様は介在していますか? そして真の父母が介在し、神様の血統と真の父母の血統が介在している夫婦なのですか? あるいは今、デートしている相手なのですか?」というとき、そうでなければ、すべて地獄に行くのです。分かりますか? 「真の愛」というときには、何が介在しなければならないのでしょうか? 真の愛を通して、真の生命が連結されなければなりません。真の生命とは何でしょうか? 父親と母親の生命を結合させることのできる力は、母親の力でもなく、男性の力でもありません。父親と母親を一つにすることのできる根本的なものは、愛の力であるというのです。 男性と女性は、なぜ一つになるようになっているのでしょうか? 根本的な愛の力で一つになることのできる創造的原則があるので、男性と女性が死に物狂いになるのです。初愛の喜びが発展して、無限な神様に侍って暮らすとき、神様が私のことを逃がすことがないように、千年、万年ついてまわることのできる愛の相対的価値を備えるべきです。それが、男性と女性が愛する相対圏なのです。 そうであるにもかかわらず、この相対圏が堕落したその日から、上がるのではなく落ちていき、動物的な愛以下の醜態を演じ、めちゃくちゃに堕落したのです。最近では何と言うのですか? 「フリーセックス」ですか? エデンの園に「フリーセックス」という概念があったでしょうか? 狂った者たち、それらをすべてごみ箱に入れて、火で燃やしてしまわなければなりません。 また、ホモです。ホモとは何ですか? 男性同士で愛の行為をするのですか? それは何をもってするのですか? レズビアンが、女性同士で愛の情欲の行動を成し得るのですか? 何をもってするのですか? 深刻な問題です。エデンの園にフリーセックスがあり、ホモやレズビアンがいたのかというのです。アダム一人、エバ一人の二人しかいないのに、そのようにしようとすれば、動物と関係を結ぶしかないというのです。 動物よりも卑賤な人間になってしまいました。このごみのような者たちを、一度に火で焼いてしまわなければなりません。地獄の落とし穴に、一度にすべて入れて、大切なものだけ残して、がらくたや不合理なものは、すべて地獄の穴に投げ入れるべき、そのような人間像になったというのです。 神様が、ここに手を触れられることができるでしょうか? エデンの園では、アダム、エバが純潔な神様だけを信じてついてきたのです。その中で、偽りの主人と因縁を結んで追放され、逆さまに差し込まれたそのような人間像に、また、そのような堕落した世界で結実した人間世界に神様が介在されることはできないのです。それは、原理原則であらざるを得ません。そのような事実を知らなければなりません。 しかし、これを救ってあげるために、神様は再創造の役事をしてこられたのです。そのために数多くの宗教があるのです。儒教のようなものは、「元亨利貞は天道の常であり、仁義礼智は人性の綱である」といい、「三綱五倫」を説きましたが、「天」という人格的な神のことが分かりません。今の中共がそうです。「神」というものを「宇宙を運行させ、原則的な作用をする、その本体である」と漠然と考えていますが、神が人格的な存在であるということが分からないのです。儒教はそうなのです。 「三綱五倫」の中において、「父子一身」、「夫婦一身」と唱えていますが、「兄弟一身」とは唱えていません。平面的な思想しか分からず、人格的な神を知ることのできる内容がありません。 また、仏教は「法」を説きます。自然現象が動く、そのすべてのことを結果を中心として論じているのです。ここには「闘争概念」があります。仏教は、そうなのです。自然のすべてのものについて、「弱者は強者の前に犠牲になっていく」ととらえるのです。 実際に、すべての現象的な立場は、そのようになっているのです。そのように説きつつ、霊界は雑霊界に通じているのです。多くのシャーマニズムが、そのような基盤から生じてくるのです。イスラム教は、イエス様が亡くなられた後のバラバを中心としたものであり、イスラエル十二支派の選民圏を奪い取りました。 そのような宗教の中に四大宗教があるのですが、この四大宗教の中で、どの宗教が神様のみ旨に残るのでしょうか? それは、神様がおられる限りは、愛を中心として、人格的「神人愛」を中心として主人の位置に行こうという宗教が、人類歴史において世界を収拾することのできる一つの中心宗教にならざるを得ないというのです。 メシヤには、二人がなることはできません。メシヤは一人です。メシヤとは何かというと、「真の父母」のことをいうのです。アダム家庭において、アダム、エバが成し遂げることができずに追い出された、その起源的な根本を充当して、神様をお迎えすることができなければなりません。 追い出された神様は、追い出されていない息子、娘よりも、死んだ息子、娘が生き返ってきて、「死ぬ前の息子、娘よりも千倍、万倍良い」と言うことのできる息子を喜びをもって迎えることなくしては、手を挙げて喜ばれて、万歳を叫ばれることはできないのです。人類は、そのような、とてつもない過ちによる死亡の波を神様に被らせているのです。そのことを、今まで知らずに生きてきたのです。 ですから、どこに行っても嘆息しかありません。生まれながらにして嘆息であり、生きていながらも嘆息であり、行きながらも嘆息であり、死んだならば、さらにもっと嘆息なのです。死んでみると、二またの道があり、天国と地獄が間違いなくあるのです。これをどのようにして収拾するのでしょうか? そのようなものを見詰めているサタンは、「神様がいくら優れておられるといっても、このようにめちゃくちゃになった世界に、あなたの愛の理想を成し遂げることができ、長子権の愛の理想、創造本然の基準に一致することのできる家庭と国家と世界を、このように滅んだ世界の上に成すことはできません。ですから、神様は苦労なさらずに、今からでもアダムの代わりに私を立ててくだされば、アダム以上に私が孝誠することのできる道を知っています」と言うのです。 アダムがいません。アダムといっても、「おい、こいつめ! と言われて、追い出されてしまうアダムであるというのです。そのような、さんたんたる讒訴を受ける歴史時代を経てきたというのが事実なのです。 王が怨讐に捕まえられていって死ぬときには、敵側の王に直接、殺されるのではありません。一番の悪党に殺されるのです。そうではないでしょうか? 神様もそのような冷遇を受けてこられたというのです。そのような天に侍るべき忠臣の姿勢と孝子の姿勢、聖人、聖子の姿勢というものが、どれほど厳粛なものでなければならないかということを、皆さんは考えてみましたか? めちゃくちゃです。 皆さん、今日の堕落した世界の人間たちが……。大韓民国が天国なのではありません。いくら祈祷しても、神様が「よし! 私が願っていた祈祷だ」と受け入れることはできません。また、私たちが願ってきた「所願成就」を知ることのできる存在、それを神様の位置にまで届けて、人々を結束させることのできるような存在が、だれもいないというのです。ここはサタンがふさいでいます。サタンが破壊してしまったのです。 サタンは、血統を通しては人類の父の立場に立ちましたが、それは怨讐の国の王を泥棒してできた息子、娘と同様です。しかし人間は、愛するときには祖先を尋ね求めていくのです。本性の愛の起源は天に通じているために、本当の父母の心を持って愛するようになれば、自分でも知らずに神様を尋ね求めていくのです。 血統を見れば、サタンの息子であるのにもかかわらず、そのような怨讐の中の怨讐の子女を育て、これを売ってしまうために……。売ってしまおうとしても、売ってしまう所もありません。こうして、神様が願われる地上天国理想を滅ぼすために、根本的に絶滅させるための悪業をサタンがするのです。 ですから、終わりの日とはどのような日なのでしょうか? エデンで起きた惨状が、そのまま世界化された世界になるのです。昔のエデンにおける、神様の悲惨な立場とは、どのようなものであったのでしょうか? それは、息子、娘を追放してしまわれなければならなかったことです。 今、神様が大韓民国に来られるとしたならば、大韓民国にいる四千万、北韓まで合わせて七千万の民を中心として、神様が「自分の息子である」と言われることのできる人はいません。これは、アダムよりももっと悪いので、地獄の中の地獄に投げ入れなければなりません。 このような恨に満ちた歴史をすべて整理し、本然の神様が主人になられることのできる、愛の主人となられることのできる世界を取り戻し、創造当時の「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」を取り戻さなければなりません。 ところで、なぜ、「服従」なのでしょうか? 愛の相対は、自分よりもりっぱであることを願うのが天理です。それは「原理」ではありません。「天理」なのです。「天理」は、神様の法のことをいうのです。 皆さん。若い男女が結婚するときは、自分の相対が自分よりも劣っていることを願いますか? それは千倍、万倍、億千万倍、無限な億千万倍の存在になることを願うのです。そうでしょう? それは何かというと、妻と息子、娘のことです。 人間の願いの中で、最終的な願いとは何でしょうか? 人間が、自分よりも億千万倍優れていることを願うものが何であるのかというと、それは自分の相対と息子、娘なのです。それは正しいですか? 皆さん全員、そうでしょう? いくら醜女としてこの世に生まれたとしても、自分の相対には王の中の王を願い、最高の美男子の中の美男子を願っているのです。 それは何かというと、神様がそのような立場にいらっしゃるので、そうなのです。相対的理想は絶対者であり、一人しかいらっしゃらない神様であられるのです。また、神様が相対されることのできる相対も、絶対的に一人なのです。その絶対的に一人であるものが、神様よりも劣っていることを願ったりはしません。神様よりも億千万倍りっぱであることを願っていらっしゃるというのです。 それでは、私たち人間のそのような属性は、どこから出発したのでしょうか? それは、神様に似たのです。堕落したとしても、十六歳まで育ったアダムの心の本性の基準には、神様に似た性質がすべてあるのです。それは電気に関連づけてみれば、絶縁体をかぶせられて作用できないということと、全く同じであるというのです。このような驚くべき事実。 このような問題を、今日、先生は幼い時から研究し、霊界とぶつかりながら、このようなすべてのことを尋ねていったのです。その「全勝的な記録」が原理のみ言であるということを知らなければなりません。それは、漠然とした言葉ではありません。 李相軒氏も、この地上で生きながら、先生を百パーセント信じることはできませんでした。「右手は霊界をつかみ、左手は地上をつかんで、逆さまに戻さなければならない責任が真の父母にある」という言葉を、「それが何のことを言っているのか?」と思いながら、信じることができませんでした。 真の主人に侍ることのできる最初の人は、だれでしょうか? 神様が心の位置にいらっしゃるとするならば、神様の心を中心として、神様の体がまず侍らなければなりません。そうでしょう? そうではないですか? 私たちの心と体は、二重的な人格になっています。心は何ですか? 縦的な主人です。神様の血統を受け継いだからです。体は何ですか? それは完成したアダム、横的な血統を受けた「私」です。 仏教でいえば、「良心とは何か?」と座禅をしますが、仏教では、それが何なのか分かりません。「私」には、二人の主人がいるのです。一人は、垂直に受け継いだ神様の血統ですが、神様の血統だけがあってもいけません。 神様の血統を中心として、垂直線の前を横切って東西南北に分かれ、すべて中央の垂直線に通じることができ、垂直線に連結されている水平線があるのです。それは皆、垂直線と九十度になっています。 東も、西も、南も、北もすべて九十度を中心として、一つの垂直線を中心として、距離が同じ円形になるときには、すべてがイコールなのです。それは、電気を流しても負荷がかかりません。どこに行っても、百ボルトなら百ボルトの電気がそのまま流れていくのです。 それゆえに平等であり、標準であり、同和するというのです。南は「北が分からない」とは言いません。そして上弦、下弦、右弦、左弦、前弦、後弦が、すべて自分の相対的関係を中心として和解し、授け受けすることができるように自然的な循環環境が成されるので、負荷がかからないのです。 このような言葉は電気の用語なので、よく分からないでしょう? しかし、高等学校さえ出ていれば、皆、分かるのです。このように見るとき、神様はどのようなおかたなのでしょうか? 私たち人類の先祖です。皆さん、そのことを知らなければなりません。 神様は、どのようなかたであられるのかというと、「本性的父親」なのです。分かりますか? 堕落前のアダムとエバが、そのまま堕落せずに、神様の天理的なすべての愛を一人で受けることのできる独り子、独り娘の立場に立って、その立場で呼ぶ父親が神様なのです。 海に行けば、鮫なども、その種が生じてから二億五千万年、鯨は二億年以上です。大きい動物は、そのような長い歴史時代を過ごしてきたのです。二億五千万年です。地球の年齢は、四十五億年から四十七億年までとされています。 そこで、神様が万物の主人である人間をつくられるうえで、その必要条件として巨大な万物をつくられたのが二億五千万年前であるとしてみましょう。そうであるとするならば、万物の主人を迎える準備のために費やしたその二億五千万年を度外視して、アダム、エバを今から六千年前につくられたというのでしょうか? それは、見当外れも甚だしいことです。 それでは、二億五千万年前に万物をつくられたとするならば、神様は万物をつくられた後、その主人たり得るアダム、エバを今から、何年前につくられたのでしょうか? 動物の主人を立てるのですが、準備したその動物を管理することのできる主人をつくろうとすれば、管理者を直接、すぐに立てられたでしょうか、何億年も過ぎた後に立てられたでしょうか? 考えてみてください。そのように考えれば、人間の創造は、今から何千万年前のことなのです。 このような根本的な問題を知らないのです。無知で堕落したので、無知の歴史を経て、数多くの蕩減的歴史を経てきました。そうして選民圏を立てるために、今から四千年前にイスラエル民族を立てたということを考えたならば、人類の誕生から四千万年以上の歴史が過ぎていったということを考えなければなりません。 ですから、イスラエル選民を中心として、イスラエル民族が持っていたすべての万物、息子、娘、自分の家族は、自分のものではありません。祭物としてささげなければならないものなのです。分かりますか? 神様の所有権というものは、血を流さなければ、血を流して、それに対して十分の一に該当する精神、「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」に一致することのできる立場に入っていかなければ、今後において神様が選ばれたイスラエル民族の所有権にはならないのです。それゆえに、祭司長には所有がありません。分かりますか? (「はい」)。祭司長に所有観念があれば、祭物をささげることはできません。 今日、なぜ祭物が生じたのでしょうか? それはどれほど悲惨なことでしょうか? 天地を創造された神様が、この条件によって恨に満ちた蕩減を受けられなければならないのです。そうしてサタンの讒訴を受けてこられたのです。 このようにして万物祭物時代を経て、万物を祭物としてささげることを架け橋としてきたのです。どこからでしょうか? 天使長復帰です。僕の位置から復帰するのです。天使長を復帰しようとすれば、僕の僕の位置に行かなければなりません。しかしそれは、気の遠くなるようなことです。 天地を創造された主人であり、大王陛下であられる神様が僕の僕となられ、僕に対して王様に侍るようにしなければならないのです。僕に対して王様に侍るように対するとき、僕の僕はそこで口を開くことはできません。愛でこれを引っ繰り返すのです。その僕は「忠臣」であるので、主人のために死んでいけば、あとには息子、娘がいません。天使長には息子、娘はいないのです。所有権がなく、家庭もありません。 ですから、そのような自分を愛してくれるものがあるとするならば、それをすべてだれに回してあげるのかというと、自分のことをよりもっと愛する人に回してあげなければならないという原則があるのです。それ以外には、行く道がありません。愛の形式を、枠を抜け出すことはできません。より愛する人が主人にならなければならないのです。 ですから、僕の僕に侍られた神様が、僕の世界のだれでも……。そうして三年を過ごし、七年にもなれば、その世界で僕の一族がいたとすれば、その僕の一族の中で半分以上が神様の側に帰ってくるのです。 僕の僕なので、ありとあらゆることをすべてするのです。怨讐のように扱うのです。しかし、怨讐のように扱われるのを耐えて克服することによって、その僕の息子、娘と僕の僕たちがだれの側になるのかというと、こちら側になるのです。分かりますか? 世の中に、そのようなことがあり得るでしょうか? 何が間違ったことによって、このようになってしまったのでしょうか? すべてのことを主人以上に精誠を尽くし、主人の息子、娘を愛するのにおいても、主人よりももっと愛しているのに、それに対してサタンは、それほどまでに怨讐のように思うのです。しかし、そのことによって、サタン側にいた人がすべて神様の後ろに帰っていき、それが半分以上になるのです。 長子は反対します。それは、アダム家庭で次子を殺したからです。その次子が神側になるのです。長女は反対します。そして次女は、神様に対して父親以上に侍り、「神様のような夫や妻になればよい」と思うというのです。 それが伝統となり、神様のみに反対していた家庭全体が、神様の側に帰ってくるのです。忠誠にあふれ、サタン世界のだれよりも愛を尽くす人に反対するのですから、時間がたてばたつほど、サタン側の人は完全に、神様の側に帰ってくるのです。 より愛する人が主人になるのです。分かりますか? (「はい」)。より愛する人が主人になることが天理なので、神様の救援歴史は、サタンの息子、娘となったものを、その親であるサタンよりももっと愛して、サタンの僕までも愛する役事をしてこられたのです。そのように愛することができる道をたどり、主人である僕以上の位置を超えなければ復帰してくることができないという、そのようなみ業をなしていらっしゃるのが神様であられるというのです。このようなことをだれが考えるでしょうか? このようにするので、闘わずに、サタン側の僕の僕の立場から、サタン側の孫とサタン側の子女、すべてが従うようになるのです。ですから、息子、娘が抗議するのです。「お父さん、なぜ、反対するのですか?」と。必ず、自然にそのようになるのです。 主権も誤れば、必ず反対党が出てきます。反対党が出てきて、逆さまに打ち込まれるようになっているのです。与党が誤れば、野党が激しく打って、逆さまに打ち込むようにするというのです。 それでは、何をもってそのようにするのでしょうか? お金の力や、政治背景の力をもってするのではありません。神様の戦略戦術は、愛をもってより愛し、より投入して忘れ、打たれて忘れる中で、「より愛した」という立場を立てることによって、打たれた相対的比率で損害賠償まで添付して復帰してくるというものなのです。それが復帰摂理の路程なので、神様は血を流されれば流されるほど、滅びるのではなく、世界を復帰してこられたというのです。分かりますか? しかし、祭物歴史を蕩減することができませんでした。万物祭物時代、旧約時代を全うすることができなかったのです。それでイスラエル民族は、ローマに対抗することのできる位置に立って、それを復帰しようとしたのです。イスラエルの国はカインの位置であり、ユダヤ教はアベルの位置です。そうして、カインがアベルを殺したその反対の基準を、イスラエルの王が、来るべきメシヤを王として侍ることのできる伝統を立てることによって、その基準を立てようとしたのです。しかし、そのみ旨を、イスラエルの王とイスラエル民族、そしてユダヤ教は分かりませんでした。 見てください。メシヤが来られて、どこで暮らすのでしょうか? 王の中の王が来られるというのに、王が来られるならば、それは人として来られるのに、この者たちは、王が暮らすことのできる王宮として土の家一つでもつくっておきましたか? そのことを考えなければなりません。 四千年歴史をアダムを中心として綴り、やっとメシヤとして送られたかたが地上の王の中の王になろうとすれば、宮殿をつくるのにおいても、ローマ帝国の王宮以上のものを精誠を尽くしてつくらなければなりません。 その日が来ることを、骨髄が溶け出してしまうほどに待望し、生きて血を流す代わりに、血と汗を流して代身することのできる生きた祭物にならなければなりません。しかし、メシヤが来られて滞在することのできる、そのような王宮建設を忘れてしまったというのです。 それでは、主が来られて何をしなければならないのでしょうか? 結婚式をしなければならないでしょう? 来られる主は、家庭を連れて来ますか、王女を連れて来ますか? 一人で来られますか、二人で来られますか? (「一人で来られます」)。一人で何をしに来られるのですか? 来られたならば、だれが準備をしなければなりませんか? その家庭をつくることのできる全般的な準備をしなければならないのが、イスラエル選民なのです。この者たちが責任を果たすことができなかったので、今日、世界に追われる哀れなユダヤ人たちの行く道は今後、問題が大きいというのです。 今、私がしていることは、ブリッジポート大学を中心として、ユダヤ人とキリスト教徒を一つにして、イエス様が何者であられたのかということを再検討し、「イスラエルの王として来られたのだ」ということを原理を通して教えてあげることです。 そのことによって、今からでも、亡くなられたイエス様を自分の国の国王にできなかったことを嘆息して悔い改め、王として侍ってこそ、イスラエル民族はその位置に落ち着くことができるというのです。 キリスト教も同様です。再臨主が雲に乗って来られるのですか? 雲に乗って、どのようにして来られるというのでしょうか? 二千年前に「雲に乗って来られる」と言ったということは、どういうことでしょうか? 「雲に乗って来る」ということは、「飛行機に乗って来る」ということの例えとしか考えられません。分かりますか? 汽車のことを何と例えましたか? 「鉄の馬」です。電話のことはどのように言いますか? 「鎖のひもを通して、地の果てまで話をする」というのです。ですから、そのように象徴的に表現したのです。二千年前、そのようにキリスト教に教えたのです。「飛行機に乗って来る」ことが、「雲に乗って来る」ということなのです。 それを解釈すれば、飛行機に乗って国境を思いどおりに往来することのできる時は、「主が来られる時」であるということになるのです。そのような解釈をしなければならないはずなのに、それでもまだ「雲に乗って来る」というのでしょうか? 『格菴遺録』では、飛行機のことを何と言いましたか? 「船のようなものが火をつけて、空中を飛んでいく」と言ったのです。象徴的に、それ以上は表現することができないようになっているのです。これは深刻な問題です。 二千年前に預言した「雲に乗って来られるしかない」という言葉は、その時の預言の言葉の中では、最高に適切な言葉であったのです。それなのに、雲に乗って、実際にどのようにして来られるというのでしょうか? 見当違いも甚だしいのです。文総裁くらいに霊界のことを知っていますか? 何年前だったでしょうか? 韓国で「雲に乗って主が来られる」と言った、怪しげな団体があって、そのようなことをしたでしょう? 文総裁を訪ねて来ていれば、すべて解決されたのです。 ですから、既成教会で一番の怨讐が私です。しかし怨讐ではありません。既成教会はカインの立場なのですが、彼らが殺したくて、また殺したくて、世界的に殺したかったのが文総裁なのです。 カインがアベルを殺したのと同様に、神様の家庭を亡ぼす殺戮戦を中心とした場合、世界を代表したアベルであり、王圏を受け継ぐことのできる後継者、長孫が出てきたのであり、サタン世界全体が転覆しかねない危険千万な代表者が出てきたので、消してしまおうとしたのです。 キリスト教が共産党と一つになるなどという論理が、どこにありますか? あきれてしまいます。最近でもそうです。ローマ教皇庁と新教(プロテスタント)老会長(=長老教会の老会の会長)が、文総裁に反対するために一つになりました。 南米では、新教と旧教が一つになって「文総裁を追放しよう」と言っているのです。しかし、そのような時代は過ぎ去りました。いくらそのようにしても、先生を妨げることはできません。 そうしてアルゼンチンでは、カトリックが旗を立てて叫んでいます。そこには、宗教大臣がいるのです。それで、このようなすべての者に激しく対峙するのです。「この者たち、民衆を欺瞞して詐欺を働いていた者たちは溶かしてしまうのだ」というのです。 この韓国もそうです。先生は、そのようにできる力を持っていますが、しかし、そのような力ではやりません。自然屈伏です。分かりますか? 文総裁がどのような人なのか、その根を抜いてみると、韓国人であると思っていたのに、白人の頂に木を植え、体に根を張って育っているというのです。米国に住んで五年もすれば、米国はその溶鉱炉でもってその人を溶かして、米国化してしまうというのですが、米国の中にいながら米国化しないのがレバレンド・ムーンなのです。 二十年以上過ぎても、いくらやっても統一教会の人を米国化することはできません。米国人を統一教会化させようとすれば、いくらでもすることができます。共産党員を統一教会化させることはできますが、本物の統一教会員は共産化させることはできません。そのとおりですか、そのとおりではないですか? (「そのとおりです」)。愛の力は、怨讐も座って溶かしてしまうのです。 世の中で最も恐ろしいものは何かというと、それは小さな女性です。女性たちは、たとえ相手が将軍であっても、世の中で一番の恐ろしい男性であっても、それを普通に思っているのです。そのような人の横にいながら、「恐ろしい」と思っている女性というものを私は見たことがありません。女性たち、そうですか? か細く見えるのですが、将軍であれ何であれ、すべてそよそよとやり過ごしてしまうのです。 世の中で最も恐ろしい人はだれなのかというと、最も恐ろしいかたは神様でもありません。神様はサタンを除去なさることができません。サタンがいくら巧みであるといっても、神様を除去することはできません。分かりますか? サタンと神様の闘いをだれが止められると思いますか? 神様は知っています。それがメシヤなのです。 神様とサタンの闘いをだれが止めるというのですか? (「メシヤです」)。神様も止めることができず、サタンまでも止めることができません。メシヤが現れて、分けてあげなければ、この闘いを終えることができないのです。 人間は、その価値として飛翔天(=最高)の価値を持ったということを知りませんでした。飛翔天とは、天地の頂上のことです。ですから、神様とサタンの戦争を止められる人はだれなのでしょうか? (「メシヤです」)。メシヤとは何ですか? (「真の父母です」)。真の父母なのです。 今日、統一教会の食口において、「家庭的メシヤ」という言葉があるでしょう? 家庭的メシヤを知っていますか? 答えてください。知っていますか、知りませんか? (「知っています」)。それから氏族的メシヤです、それから何ですか? (「国家的メシヤです」)。それから何ですか? (「世界的メシヤです」) 再臨主は何かというと、世界的メシヤです。サタン世界を復帰するために来られたので、サタン世界の一番の弱点をすべて知っているのです。また、神様がサタン世界と闘って勝とうとされる、そのような神様の長所も知っており、神様の弱点も知っており、サタンの長所も知っており、サタンの弱点も知っているのです。 それは、なぜでしょうか? 歴史上において失敗した、国家理念であるとか世界理念の強弱のすべてを知っているのです。それゆえに、サタンの処理方法、神様の解放の方法を知っているのです。 神様を解放してさしあげなければならず、サタンも処理しなければなりません。そうして人類は、二つの世界の間での闘いを止め、アダムが偽りの父母になって地獄に送られたものを天上に引き上げて神様に侍り、そこに入っていくべき使命があるのです。 それが求道の使命であり、宗教を立てられた神様のみ旨であったということを知らなければなりません。それが神様のみ旨であったのです。(「アーメン」)。アーメン。 そこが、初めて「真の主人」に侍る位置なのです。世の中に勝ってこそ、「真の主人」に侍るようになるのです。堕落の因縁は、愛を中心とした血統を通して成されたので、純潔な愛を中心として純潔な男性、女性となり、純潔な神様の血統と完成したアダムが一つにならなければなりません。 そうして神様の愛の焦点と人間の愛の焦点が一か所に集まり、一つがプラスならば一つはマイナスとなり、プラスは男性であり、マイナスは女性ですが、プラスの生命体と女性のマイナスの生命体が愛によって一つになって、血統が交わるのです。 「るつぼ」という言葉があるでしょう? 溶鉱炉とは何でしょうか? 男性と女性の血が、るつぼで溶けて混ざる位置はどこでしょうか? それはどこですか? (「生殖器です」)。何ですか? 生殖器です。「生命を植える器」のことを「生殖器」という(「殖シク」と「植シク」の発音が同じことから)のです。それが愛の本宮です。そこが、神様の愛が芽生えることのできる出発の園であるということを知らなければなりません。神様の愛を中心として、神様の性相、形状の生命体が愛によって溶け、そこで実体となったアダムと無形の神様が一つの体となるのですが、それがその位置なのです。 そうして縦的な最高の愛と横的な愛のすべての根が連結され、内的な「縦」は心の基準であり、横的なものは外的体の基準で結託し、神様の血統の相対的実体として生まれたのが、アダム、エバが完成した家庭であったのです。 先生が最も悩んだことは、「どのようにして神様の愛と人間の愛が一つになるのか」ということでした。「一つになる交差点はどこか?」それをどれほど悩んだか分かりません。その答えは簡単です。「真の愛は、直短距離を通る」ということです。そのことが、どれほどありがたいか分かりません。愛は、直短距離を通るというのです。 それでは、縦的な愛と横的な愛による宇宙の構成、このすべての構造的な形態を定着させることのできるものが縦横になっていなければ、定着する道は永遠にないというのです。分かりますか? (「はい」) 私たち人間にも二つの目があります。この二つの目は、縦的にすべて合うようになっています。この鼻筋を見て、これが真っすぐになっているかどうかで、長寿できるか、裕福に暮らすことができるのか、すべて分かるのです。この目と連結されて、その基準に合わなければなりません。 この鼻は、アダムとエバのことを表すのです。鼻は、中に入れば一つになっているのです。この鼻を通して、すべてに通じるのです。一度、鼻の穴をふさいで鼻をかんでみてください。すると、目にも耳にも空気が通るのです。ですから、アダムとエバを通して、天上世界、地上世界、どこにも通じない所がないということなのです。 それを一日に一度、やってみてください。鼻をしっかりとつまんで、息んでみてください。目からすーすーと空気が出てきて、耳からも出てくるでしょう? 鼻はもちろんのこと、口からも出てくるのです。通らない所がありません。 口は横的なので、腹中時代は水を飲まなければなりません。四分の三が水です。鼻は空気世界に当たります。それで人間世界の空気を吸うのです。ですから、水の中では目、耳、鼻、五官は必要ないでしょう? 水の中では、五官は必要ありません。ですから、目をつぶって身動きしないのです。 腹中で十か月育つ間、水を飲んでみましたか? 鼻で息をしてみましたか? 息をしたら、死んでしまうのです。即死です。では、それは何のために必要なのでしょうか? それは、次の人生のためです。 今回のお母様のみ言の中に、そのようなことがすべて出てくるでしょう? それから地上世界は、「水のふろしき」ではなく「空気のふろしき」に囲まれているのです。「空気のふろしき」の中では、何をしなければなりませんか? 「水のふろしき」の中(胎中)では、空気の世界で暮らすための五官を備えました。 ところで、霊的五官というものがあるのです。天の国の愛の理想を吸収することのできるものが、耳と目、すべてが死の峠を越えるようになるときに連結されるのです。そこは無限な世界です。 この宇宙の星の世界は、皆さんが将来、そこに行って暮らすことのできる旅行地です。朝食を食べ、昼食を食べて散歩する庭なのです。分かりますか? そこでは自分が主人なのです。 霊人体は、太陽の中にさえ旅行に行くことができます。火の中でも燃えません。それを知っていますか? 知っていますか、知りませんか? (「……」)。知らないようですね。知っていますか、知りませんか? (「知っています」) それでは今、神様が現れたら、皆さんはまず出会って、何と言うのですか? 出会って何と言うのですか? 男性たち。(「……」)。何と言うだろうかというのです。「お父様」と言うのでしょうか、「お兄様」と言うのでしょうか? (「『お父様』です」)。神様に出会えば、「神様、お父様」と言うのですか? (「はい」) 「お父様」と呼ぼうとするならば、そのお父様の息子たちも、父親になることのできる位置に立っていなければなりません。アダムに息子、娘がいますか? 父親になれない者が、どのようにして父親になるのでしょうか? 分かりますか? (「はい」)。そのことは分かるでしょう? それでは、神様を何と呼ばなければならないでしょうか? 「神様、神様! 天地を創造された無所無在、無所不能な神様、お父様! と、そのように言うのですか、何と言うのでしょうか? 神様は、「内的なお兄様」なのです。それは、驚くべきことです。何ですか? 先生は今、何と言いましたか? それでは、「内的なお兄様」になられる前には、何になられるのでしょうか? それは、双子として胎中に一緒にいた赤ん坊です。双子です。ですから、双子の赤ん坊として生まれなければならないのです。 それゆえに、神様は何であられるのかというと、「見えない私の双子のお兄様」であられ、赤ん坊時代、乳児時代における「見えないお兄様」なのです。変わったことを聞いたでしょう? このことをすべて知らなければなりません。 神様は、どのようなかたですか? (「内的なお兄様です」)。神様も、そのように育ってこられたというのです。見えないように乳児時代、兄弟時代、成長した結婚時代、父母時代を過ごされ、父母時代になってアダムとエバを創造されたのです。 そうであるならば、アダムも同じです。息子、娘を中心として、腹中に赤ん坊を宿した時代がなければならないとき、神様はアダムの先祖と同じ位置に上がるのです。神様がアダムの体の中で、兄の位置を経て父の位置に上がっていかれるのです。 父の位置に上がっていかれるのには、乳児時代、兄弟時代、それから夫婦時代、父母時代を経て父になるのです。その前までは、「兄」と「弟」の位置なのです。変わったことばかりを話すでしょう? 調べてみてください。そのとおりであるというのです。 霊界に行けば、皆さん、そうでしょう? アダム、エバも神様に対して「お父様」と言い、その数千万代の後孫である皆さんも、神様に対して「お父様」と言うでしょう? 「神様、お兄様」と祈祷しますか、「神様、お父様」と祈祷しますか? それでは、お父様には何がなるのでしょうか? 霊界に行けば、何がお父様になるのでしょうか? それは、お兄様です。そのお兄様とは何でしょうか? 私よりも先に生まれたお兄様のことです。私よりも先に生まれた「内的なお兄様」が神様であられ、「外的なお兄様」が父であるというのです。それ以上の理論を立てることはできないということを知らなければなりません。 神様が勝利し、サタンが屈伏しました。サタンが神様に屈伏し、神様は、歴史始まって以来初めて、ついにこのように宣言されたのです。「おい、サタンよ! ヤハウェの名によって、わたしが勝利したすべての祝福家庭が数億の基台となって、人類の半分以上を超えたので、わたしが現れることのできる基盤ができた。 今からはもう、白昼に立っているすべての罪人は、日の光を避けることのできない時代に入ってきたので、ついにサタンよ、おまえ自体の影がない世の中にし、おまえの罪状と神様の悲しみがすべて明らかになり、人類の前に隠すことはできなくなった。 今から国家を復帰していかなければならない道が残っているので、その期間におまえが少しの条件でも完成し、国家を建てることのできるアダムの道を協助できなかったことに対する条件だけでも立て、協助した条件を立てることによって、おまえも解放してあげるのである」 そのような神様の天意により、神様の前についにサタンが、歴史始まって以来初めて、「屈伏する」という宣言をしたのです。そこで、真の父母の前に降伏する文書を書き、そして人類の前に罪の告白をしたサタンに、こう告げるのです。 「神様の名で真の父母の前に、真の父母の名で人類の前に罪状をすべて告白し、地獄に行くべきことを中心としておまえが犯したすべての過ちを、能力に満ちておられる神様が瞬間のうちに是正されるだろう。おまえの力ではできないがゆえに、神様に全権を任せなさい」 そうしてサタンが、委任して「請います、請います、赦しを請います」と、謝罪を神様と真の父母と人類全体、祝福家庭、皆さんの家庭まで通告して初めて、地上世界や天上世界の地獄が完全に門を閉じてしまうというのです。 それでは、それはだれがするのですか? 神様もできません。サタンもできません。先生一人で神様を解放し、人類を解放し、地獄を撤廃させるのです。原理によって理論に合うようにするのです。大ざっぱにするのではありません。 「これこれこうだから、こうなる」という事実を、サタンはあまりにもよく知っているのです。それをすべて撤廃し、真の父母の勝利圏を立てたのです。お母様が巡回講演をする最後の日を、中国で行いました。中国が最後で、それがいちばんの怨讐でした。これを屈伏させて、ついに先日、五月三十日を中心として、「真のご父母様東西洋(地球星)勝利祝賀宣布」の日を立てたのです。地上でそれを成したので、最後にここで成すのです。 きょうは何日目ですか? 三十日から何日目ですか? 十六日目です。そのように、十六数を中心として地上整備、天上整備をしたのです。考えてみてください。二月四日を中心として何をしたのかというと、「米国に行って、米国を救いなさい」と言ったUTS(統一神学校)卒業生たち千余人を中心として、三日間教育をしました。米国は長子の責任を果たさなければなりません。 青少年の祝福は、キリスト教からです。神父、修道女がいるでしょう? また、仏教の僧侶、尼僧がいるでしょう? 彼らは今まで、東西洋の未婚男女でした。今日のわたしたちの成すべき祝福は何ですか? 未婚男女の四億双祝福でしょう? それをしようとすれば、ここには何が入るのかというと、神父と修道女が入り、僧侶と尼僧が入るのです。ですから今、百歳になっても臨終を迎えていないお坊さん、あるいは八十歳になったお坊さんであるからといって、それを放棄しなければならないでしょうか? おじいさんはどうしますか? たとえ「嫌だ」と言っても、彼らを後孫たちが捕まえていって祝福してあげるのです。そのように、すべてを祝福する時が来ました。それでは、父親と母親はしないのですか? それは強制ではありません。お兄さんです。おじいさんの代身の立場です。ですから、強制してでも、すべてしてあげてよいというのです。 ですから、地上の祝福です。来られた再臨主のすべき祝福は、今までなしてきたような既成祝福をすることではありません。祝福すべき対象は、法的結婚をした、この者たちではありません。純潔な未婚男女を祝福することが、来られる再臨主の祝福の伝統であったということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」) 本来、キリスト教を中心として、一九四五年以降の七年間で、このことをすべて終えなければなりませんでした。万民すべての祝福です。最近では、霊界でも青少年の祝福をしているのです。すべて解放です。そのとき、解放と同時にすべてを解放したのです。地獄を撤廃し、地上、天上の門をすべて解放し、万民が四方に大きく運勢を開くことのできる高速道路をつくっておくのです。 そうしてそこに君臨して、神様がエデンの園で失ってしまわれた偽りの父母の心情的基台を完全に蹂躙してしまい、天の心情を中心として、善男善女の前に血統を連結して接ぎ木することが祝福なのです。しかし、それができませんでした。キリスト教が誤り、逆さまにしてしまいました。それでしかたなく肥桶をくまなく探したのです。何のことか、分かりますか? ですから既成家庭は、わたしから祝福を受ける必要はありません。イスラエル民族が、すべて荒野で掃かれてしまうことと同様に、それは過ぎていく群れたちなのです。二世とともに、天国建国理念を持って追い出されたので、アダム以前の位置に入っていき、再び取り出してアダムの解放から先祖解放までしなければならないので、今日の統一教会の祝福伝統史が展開されたというのです。 キリスト教は歴史がありません。浮かんだ雲と同じです。それで、既成家庭結婚をするのです。考えてみてください。三十六家庭で自分勝手に結婚した人は、ノア家庭の形態であるというでしょう? これは、半分の価値にしかならないというのです。最近、法的契約結婚をして、「妻が嫌で、夫が嫌で、子供が嫌で、扶養の責任を持たない。自分の思いどおりに生きよう」と言っているのです。サタンには、それしか方法がありません。サタンは相対的理念がありません。子女を持つことができないのです。 ですからホモが出てくるのです。そのような者は、一代で終わりです。レズビアンも同じです。そのようなものは、動物のほうがもっと良いでしょう。動物は、蛇だとしてもやたらにはしないのです。毒蛇は、毒蛇同士でするのです。毒蛇ではないものとは愛し合いません。そのようなことを見ましたか? わたしは、そのようなことをすべて研究したのです。毒蛇も、自分と同じもの同士でするのであって、他のものとはしないのです。ところが、それなのにどうして進化論なのですか? 別種が現れようとすれば、愛の門を経ていかなければ、他のものが出てくる道理はありません。種の道理は、厳格なのです。 草もそうです。同じ種類同士で結婚するのであって、他の種類のものと結婚しますか? (笑い)しますか、しませんか? (「しません」)。ありも、大きいありと小さいありとでは結婚しないのです。自分と同じもの同士でするのです。 種の区別は、そのように厳格になっているのに、人間がいっぺんに生まれることはできません。ありのような人と虎のような人で、男性と女性がくっついて喜んでいるフリーセックスのようなものは、さんざんに恥をさらして滅亡しなければなりません。 皆さんは、そこに所属していますか、していませんか? (「していません」)。時には、したいときがあり、酒も飲みたいときがあるかもしれません。しかし、「酒を飲まない」と言って飲んだならば、そのときには口を裂いて舌を抜いてしまおうというのです。(笑い)その約束をするのです。化粧もしたいでしょう? しかし、ありとあらゆる五色種類の化粧をすれば、最後です。化粧をするそのお金で、飢えて死んでいく兄弟と同胞を生かしてあげようというのです。それが、どれほど素晴らしいことでしょうか? 女性でいえば、服を春夏秋冬の四着以上は持つな、というのです。「買いたいと思うとおりに買いなさい」と言うと、本当にたくさん買うのです。女性たちは欲が深いですね。(笑い) きょうの題目は何ですか? (「『真の愛の主人に侍ろう』です」)。愛の主人はどこにいるのですか? 主人の居場所を調べてみようというのです。皆さんの心と体の愛の主人は、心であるということを知らなければなりません。そのことを知りませんでした。心と体が闘うでしょう? 体が主人になると言いながら、ついてきて大騒ぎです。これがお互いにバチバチと闘うのです。主人はだれですか? 心ですか、体ですか? (「心です」)。ここに青少年たちがいれば、心が主人ですか、体が主人ですか? 主人の中のどのような主人ですか? (「「真の愛の主人」です」)。「真の愛の主人」だというのです。 真の愛とは何ですか? 真の愛は、どこから成されるのですか? どこからですか? 生殖器です。生殖器という言葉は、生まれるの「生」という字に、ご飯の「食」という字、または植える「植」という字でもよいのです。 ですから、生殖器は「生植器」です。分かりますか? そのように解釈するのです。ですから、生殖器は「生命を植える器」なのです。それを知らなければなりません。心と体の「真の愛の主人」はだれですか? 心なのですが、心が愛の家を守ることができていないのです。 浮気しなければなりませんか、してはなりませんか? (「してはなりません」)。この青少年の淪落が、目を覆うほどです。愛の主人を失ってしまいました。それゆえに、体が心を動かすのではなく、心が体を主管しなければなりません。 先生が青年時代に願った「宇宙主管を願う前に自己主管の完成」ということが、それです。自分の体の発動を制裁して、いつでも霊的にブレーキをかけることができなければなりません。先生は、そのような訓練をたくさんしたのです。 ですから、心が願わない愛の道に行くことができますか? (「できません」)。行くことができる! (「できない! )。この者たち。行くことができる! (「できない! )。そうです。できないのです。 それは、男性の権威です。み旨を知り、正々堂々と心の世界の中心である主人の位置を守ることができなければなりません。体がいくら怪しげな行動をしたとしても、そこに支配されるのではなく、それを支配することができ、主人の資格、愛の主人の資格を持たなければならないということを知らなければなりません。 そのような男性、そのような女性が完全に結婚しなければならず、エデンの園の罪のない解脱圏内において、神様が再び出会って結婚させてあげるためのものが、神様の再創造摂理の理想であったということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」) さあ、今から心が「真の愛の主人」にならなければならないというのです。それから何ですか? 心と体が主体にならなければなりません。心と体が一つになり、男性と女性を中心として、男性なら男性が、女性がしようというとおりにすることよりも、天理の大道を中心として、完全に一つにならなければなりません。男性が、完全に女性の主人、女性のすべて、愛の器官までの主人に完全になることができなければなりません。それが真の主人なのです。分かりますか? (「はい」) 夫として、「真の愛の主人」にならなければなりません。女性として、夫に対する「真の愛の主人」にならなければなりません。同様の道理なのです。分かりますか? (「はい」)。それから何ですか? 父母として真の主人となり、息子、娘の前に見本を見せてあげなければなりません。 息子、娘は、父親と母親から学んでいくのです。百パーセント学んでいくのです。言葉であれ、行動であれ、です。すでに赤ん坊は知っているのです。母親が、自分が気分が悪くてお乳をあげるのを見るとき、赤ん坊はのぞき込むのです。のぞき込んで、「お母さんはどうして……?」と、すでにお乳の味を鑑定するのです。そのように、母親の抱く表情で分かるというのです。 それゆえに息子に対して、真の父母の真の愛を中心として父母になっているのか、ということが問題なのです。分かりますか? (「はい」)。それから、おじいさんとおばあさんが祖父母として、真の孫に対する愛の主人の立場を守ったのかというのです。 それから何ですか? 国の王を中心として、王としての真の愛の主人になったのでしょうか? 国の王は、国民の父母なのです。王と王妃の二人が一つになった愛をもって、二人が一つになった父母の愛を加えて、民族を子女のように愛さなければなりません。 親が子女を愛さなければならない立場であることと同様に、国の王は夫婦が一つになり、国を父母の情よりももっと強い情で愛さなければなりません。そうすれば、その国が永遠無窮に発展することのできる天国を相続する国になるだろうというのです。分かりますか? (「はい」) それから何ですか? 世界においては、世界的メシヤがいれば、それは世界の父と母です。それで、心と体を中心とした家庭から一つになり、父母が一つになって子女を愛する伝統を立て、これがプラスとなって全体に投入し、投入し、投入して、忘れなければなりません。 相対が自分よりもりっぱであることを願うという、主人の行くべき行路を知ったので、その偉人たちは国を持ったとしても、国内の家庭に自分のすべてを投入し、その国の家庭全体を愛すること以上の愛をもって施して、施して、そして忘れてしまわなければなりません。 もし、それが不足ならば、自分の妻や自分の子女までも祭物としてささげて、その国を救おうという、そのような家庭があってこそ、千代万代にわたって太平の御代を迎えることができる先君になるのだということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」) 今まで神様は、そのような思いで地上の人間を見詰めていらっしゃったということが事実であるならば、それはどれほど悲惨でしょうか? 神様の家庭が、この地上に一軒でもあるわけでもなく、天の氏族がいるのでもなく、天の国があるのでもありません。 神様は、天地の主人である地位におられながら、愛の主人になることのできる立場を一つもつかむことができませんでした。神様だけが、思いがかなった主人の位置に独りで留まっていらっしゃるということは、どれほど無念であるかということを知らなければなりません。分かりますか? 愛は一人で成すものではありません。 ですから、ここにいる皆さんは知らなければなりません。愛の道を教えてあげることは簡単です。赤ん坊時代の愛は、父母の前に、赤ん坊の時代においては生まれてから三年間、母親の懐でお乳を飲んで育たなければなりません。三年間です。それで母親と一つになるのです。 赤ん坊は、母親の血肉をもらって生まれたのです。分かりますか? (「はい」)。母親の血肉です。赤ん坊には、自分のものが一つもありません。パイプを連結して、母親の血肉のありったけを供給されて生まれたのです。そこに父親の愛を教えてあげなければなりません。 母親が一つになって父親の愛を教えるのです。母親が父親を愛する以上、赤ん坊が父親を愛さなければなりません。そうしてこそ、母親も愛し、父親も愛することができるのではないでしょうか? 父親を愛することが、母親を愛することを超えることができなければ、父親を愛することのできる道が水平にならないのです。そのことを知らなければなりません。 母親は、自分の体を代身として、連結された父親の種を保護するためにいるのです。赤ん坊の種、つまり父親の精子の中に、すべてのプロジェクトが入っているのです。母親は、これを植えておいたものを腹中で育て、赤ん坊にまで育ててあげるのです。その赤ん坊のときの腹中での期間は、体と同じ外的な愛の基準を吸収して受け継ぐことのできる成長期間です。 ところが、立体であられる神様を愛することのできる伝統を学ぶためには、夫婦が赤ん坊を抱いて一つになるその愛を中心として、父親が母親を、母親が父親を愛する以上の愛を中心として、その赤ん坊に伝授してあげなければ、赤ん坊の愛の道がふさがれてしまうというのです。 そうでなければ赤ん坊は、母親のことは愛することができますが、父親を愛することができないというのです。これが家庭においての問題です。分かりますか? (「はい」) 父親は、真の父親の立場としては、母親が腹中の赤ん坊に百パーセント補給して育ててあげることと同様に、この地上で三年間なら三年間を育てながら、母親の愛の根源となって供給してあげるのです。そうして母親が、夜であれ昼であれ、父親のために生き、父親と一つになるための愛の時間を、何よりも感動的に過ごせるようにしなければなりません。 ですからその赤ん坊を、両親が夫婦げんかをして、驚かすようなことがあってはなりません。夫婦でけんかをして、子供が「お父さん、お母さん、けんかするな! と言い、右側は父親、左側は母親に分かれてしまうような、そのような家になってはなりません。わたしたちの理想が、どれほど素晴らしいものであるかというのです。お母さんたち、分かりますか? (「はい」) ですから、赤ん坊を生めない母親は、天の父母に侍ることのできる資格を持つことはできません。父母は先祖です。それゆえに、先祖に侍ることのできる伝統を持つことができないのです。 ですから、夜も昼も一日じゅう、母親は父親のことを考え、夫が帰ってきたならば、持てる精誠をすべてはたいて尽くし、それを赤ん坊に見せてあげるのです。そうして、夫婦二人が一つになり、母子自体が一つの主体になるのではなく、父親に対して相対になり、縦的な未来の世界、横的な未来の世界の伝統の標本になることができ、基礎になることができる家庭を形成しなければならないということが、母親の責任なのです。 それゆえに、父親は帰ってきて、母親を懐に抱かなければならず、母親を抱いたことをもって赤ん坊をその懐に抱き、母親のように愛することのできる位置を備えることができなければなりません。 母親なら母親、娘なら娘、息子なら息子、それぞれ別なのではありません。「そのような家庭が、幸福な家庭である」と思う先生は、しかし、そのことを考えることだけしかできず、果たすことができませんでした。分かりますか? けれども、先生はできませんでしたが、「皆さんは、しなければならない」と命令します。 それでは、「自分はできずにいながら、『そのようにしなさい』と言う命令を守るべきか、守るべきでないか?」と言うとき、どうですか? (「守るべきです」)。それでも、それを守るべきでしょうか? (「はい」)。先生は、そのようなことをして余りあるとしたらどうですか? 絶対的にしなければならない、というのです。 愛の主人を、わたしたちの家庭に植えなければなりません。愛の主人をわたしたちの国、わたしたちの世界に植えなければなりません。その主人に侍ることができなかったことが恨であり、堕落です。 そのようにして神様に打ち込まれた怨恨の釘を抜くことができるのは、自分の心と体から、自分の相対から、息子、娘から、一族からです。一国家を超えて世界の統一圏を持ち、神様のみ前に「あなたの解怨成就をすべて完遂いたしました。物質であれ、息子であれ、夫婦、家庭、すべてがあなたの所有でした」と、完全に分別して、差し上げることができなければなりません。 祭物の血を見て、所有権を分別するということは、神様の無念な事実です。そうではなく、創造されたすべての生畜自体を、神様の所有としてありったけのものをささげることのできる基準を準備しておかなければ、神様の国の皇族になることができず、皇族圏内に入籍することはできないのです。その皇族が民族になるのです。そのような民族になることのできる道がないということを知らなければなりません。 きょうの題目は何ですか? (「『真の愛の主人に侍ろう』です」)。これは、何かの観念なのではありません。事実です。自分で自分のことをよく知っているでしょう? 自分がどのような存在なのか、よく知っているのです。 それでは、愛の起源を求めて、わたしが簡単に話をします。真の愛は、どのように連結されるのですか? だれからですか? 真の愛は、だれからなのですか? 自分からですか、神様からですか? (「神様からです」)。神様からです。このことを、皆さんは知らなければなりません。 今まで、愛に関する概念を知りませんでした。これが誤って行き違い、世の中が怪しげなものになったので、愛の伝統的、本性的内容がどのようになっているのかという、秩序の基準を中心として、段階的な基台を中心として前後関係を確定しなければなりません。言葉は難しい言葉ですが、解いてみれば間違いない言葉です。 (板書されながら)神様、アダム、エバ。愛は絶対に一人で捜し出すことはできません。皆さん、愛を持っているでしょう? 愛を持っていますか、いませんか? 生命を持っているでしょう? 血統を持っているでしょう? それを一人ではつくりあげることはできません。 愛があるのか、生命があるのか、血統があるのか、真の良心があるのか、なかなか分かりません。しかしこれは、相対が現れれば、一度に発動するのです。先生も愛を持っていますし、生命を持っているでしょう? 血統を持っていますが、お母様が、女性がいなければ、それは顕現する道がありません。 わたしたち男性と女性や、個人個人がそうであるのと同様に、神様もやはり同じなのです。二性性相の主体であられ、男性格として存在していらっしゃるので、「神様には女性的相対が必要である」という論理が出てくることによって、「神様は愛の主人にならなければならない」というのです。 神様の最初の「愛の主人」はだれですか? 神様以外になることはできないというのです。分かりますか? 絶対的な主人が絶対的な愛を中心として、絶対的な主人になろうとするので、そこに二人が存在することはできません。絶対に、一人ずついなければなりません。一人の夫の前に二人の女性がいれば、けんかが起きますか、起きませんか? 起きるのです。 「神様、あなたは何になりたいですか?」と言うとき、何になられたいでしょうか? 「アイゴー、知識の主人になりたい」と言われるでしょうか? 神様は全知全能であられるのに、知識をもって何をされるのですか? 神様はもともと知識の大王陛下でいらっしゃるのです。 それでは、神様は何を一番好まれるのでしょうか? お金を好まれるでしょうか? 知識を好まれるでしょうか? 権力はすべて持っていらっしゃるのです。全宇宙で太陽系のようなものは、どれくらいあるのかというと、一千億個にもなるのです。太陽系が千個でも大宇宙なのに、一千億個にもなる大宇宙をつくられた神様です。 そのような神様が、愛の問題に引っかかって、思いも寄らなかったような生活を送ってこられたという事実は、驚くべきことです。真の愛は、行ったり来たりすることはできません。それを知らなければなりません。 何の主人になるためなのですか? 最も貴いものです。生命の根本であり、愛の根本であり、血統の根本であり、良心の根本であり、宝であり、根源の中の一番の骨髄的根源のエッセンスが、愛なのです。 ですから、神様が一番好まれるものは何なのですか? (「愛です」)。野良犬の愛も愛です。豚の愛も愛です。犬も愛するというでしょう? 春の季節になれば、猫が「アー、ヤーオウ」と鳴くのです。愛そうとして、そのように鳴くのです。 猫も愛そうとしてそのようにするし、鶏の愛もあるのです。そのように、どれほど愛が多いでしょうか? そのような愛の語彙と同じ範疇に人間の愛も立脚しているということを知って、恥ずかしく思わなければなりません。本来の人間の愛は、偽りの愛ではなく、真の愛なのです。 真の愛は、神様が口を開いて肉的五官、霊的五官、十官を開いてあーと言われながら捜し求め、愛しながらも年老いることなく、青春に次ぐ青春を送り、永遠に青春で暮らしたい、そう願われて、その愛の相対をつくられたというのです。 そうであってこそ、神様によってつくられた愛の相対としてふさわしいと言えるのであって、そうでなくて、どうして相対としての資格がありますか? それゆえに神様までも、ご自分よりも何千万倍、何億万倍りっぱな愛の相対を捜し求めたがられるという道理なのです。分かりますか? (「はい」) ですから、神様も考えられると、先生を好まれるというのです。分かりますか? あなたたちは、わたしが好きですか、好きではないですか? (「好きです」)。なぜ、好きなのですか? それは、真の愛の道を教えてあげるからです。 それでは、先生を思慕しましたか、しませんでしたか? (「思慕しました」)。男性も思慕しましたか? (「はい」)。男性も、先生に会いたくて泣かなければなりません。神様は、男性ですか、女性ですか? (「男性です」)。神様は女性でしょう? (「いいえ、違います」)。神様に会いたくて、先生が泣いたでしょうか、泣かなかったでしょうか? 先生は、痛哭し続けて、泣きはらして太陽を見ることができなくなってしまうくらいに神様を慕いました。それゆえに、その事情の世界を知っているのです。 秘密の倉庫を開いて味を見ることができ、その系列がどうなっているかということを整備し、図書館の百科事典に掲示することができる博物館の主人になることができるので、心情的博物館の主人になることができるほどです。そのような天下のすべての心情を思慕する万民を抱いても余りあるというのです。(「アーメン」) 神様は、何を好まれるのでしょうか? 見えない神様は、見えるものを好まれるでしょうか、見えないものを好まれるでしょうか? (「……」)。尋ねているではないですか? 見えない神様は、見えないがゆえに、何を好まれるのでしょうか? それは、「見える神様になりたい」と考えられるというのです。分かりますか? なぜでしょうか? 見える万物をつくられ、見える愛の世界をつくられたので、神様は二つとも真の愛で占領なさろうとしたのです。 このような話をしていたら、終わりがありませんね。今、何時間たちましたか? (「二時間半たちました」)。きょうのわたしの計画は全く違うのですが、死ぬとしても、本部に来て言うべきことは言ってから死ななければならないでしょう? 故郷の地に来て、文総裁が帰ってきて明日、あるいは明後日に死んだとしても、恨になり得ることをすべて解いておいてから霊界に行かなければならないというのです。先生は、いつ霊界に行くか分かりません。明日、行事を終えて、その次の日に行くかもしれません。天の命令があれば、「行きなさい」と言われるとおりに行かなければなりません。そうではないですか? さあ、神様は、何を一番好まれるのですか? お金ですか? お金が好きな人は、手を挙げてください。神様がお金を、婿や嫁だと思ってくれるのですか? お金は巡り巡る物なのです。それでは知識ですか? 知識というものは一分野であって、全体の表象ではありません。分科して、数百、数千の枝分かれした専門分野があるということを知らなければなりません。神様は、それは願われません。それでは統一ができません。 それでは何ですか? 権力ですか? 棍棒、銃、ナイフで「こいつ、わたしの命令どおりにしろ。しなければ殺す」と言っても、そこには平和の概念が永遠にあり得ないというのです。詐欺をして、人権、金権で王権を誇っていたような今までの時代が、すべて過ぎていく日は遠くありません。最後はどのようになるのでしょうか? 大韓民国は、国まですべて売り飛ばしてしまいました。 韓国の政治風土、韓国の経済風土、韓国の伝統風土、韓国の宗教風土、韓国の教育風土、軍事風土、すべて飛んで行ったというのです。何を立てようとし、何を捜し出そうとするのですか? 分かりますか? この国では、すべて失ってしまったので、今から捜し求めなければならないものは何でしょうか? どのようなものをもってしても、結局は闘うようになるのですが、真の愛をもって闘ったことはありません。闘わないものは、真の愛です。そうですか、そうではないですか? (「そうです」) 今までは、文総裁が真の愛の話をしていると、皆、反対していたのですが、最近では家庭が破綻し、父親も母親も浮気をして怪しげな状況になったので、「アイゴー、十年前に会った文総裁の言うとおりにしていたら、私たちの家はこのようにはなっていなかったのに」と、後悔している人が多いのです。 先生が米国に行って、「この米国が病気になれば、外部から医者を呼ばなければならず、火事になれば、外部から消防隊を呼ばなければならないことと同様に、米国が病気になり、火事になったので、医者と消防隊を呼ばなければなりません。ところが、米国には医者と消防隊がいないので、外国の消防士の隊長であり、医者の隊長である文総裁が来たので、わたしを歓迎しなさい」と言うとき、白人たちは、どのように思ったでしょうか? 太っ腹で、韓国をごみ箱同然に思っている、そのような白人の世界で、文総裁という、一日もたたずに消えてしまいそうな者が来て、そのようなことを言うのですから、どれほど気分が悪いでしょうか? そんな文総裁が、一日、二日なら分かりませんが、六か月ももたずに逃げていくと思われていたのに、すでに二十五年間が過ぎました。そのような歳月を中心として闘ってみると、力比べの相撲はすべて終わって、「文総裁が勝った」という立て札を立てるようになりました。 チャンピオンを競うような場においては、万が一、チャンピオンがばたんと倒れて負けた日には、その場でチャンピオンは地獄に落とされ、勝利した人は天の国に昇っていく、ということを知っていますか? そのような主客が転倒する現実をつくりながら生きる男が先生なのです。 さあ、文総裁は優れていますか、愚かですか? (「優れています」)。あまりにも愚かなので、あまりにも優れておられる神様はかわいそうに思って同情され、あまりにも愚かな位置からあまりにも優れた位置をすべて占領するようにしてくださり、そうしてごみ箱ものみ込んで消化することのできる男になったというのです。 しかし今、ついに日の目を見て、大きくなることのできる男になったのです。共産世界に入っていって栄養素を吸収し、民主世界に行って栄養素を吸収し、地獄の栄養素も吸収し、天国の栄養素も吸収して、二つともすべて消化することのできる能力者となったのです。(「アーメン」)。(拍手) さあ、神様が一番好まれるものは何でしょうか? 霊界に行けば、知らないことはなく、すべてに精通するようになるのです。真の愛に立っていれば、神様がこの世の中に創造された万物は、いつでも創造することができるのです。そうなのです。 その世界がどれほど素晴らしいか、先生はその世界を知っているので、文総裁は艱難を受けても、ありとあらゆることをされてもへこたれることなく、今まで来ることができたのです。今でもそうです。そこに照準を合わせることに忙しいのです。分かりますか? (「はい」)。「年老いた」と考える暇がありません。 わたしは、自分が霊界に行く「時」を知っている人です。しかし、言葉には出しません。天機(天の機密)の秘密をすべて知っている人が、それを知らないということがあるでしょうか? しかし、話はしないのです。分かりますか? さあ、神様は何の主人になられたいのでしょうか? それは、「幼い赤ん坊の愛の主人になってみよう」というのです。腹中においても、その腹中で暮らしているときから主人になるのです。それで、母親の懐に抱かれて子女の愛の主人になってみようというのです。 アダム、エバがいなければ、子女の愛を尋ねていく道がありません。そうですか、そうではないですか? 子女として生まれたアダム、エバがいなければ、神様は子女の愛を持った主人になることはできません。そうですか、そうではないですか? (「そうです」) 生まれて成長し、子女の時代を経て、兄弟の時代に進むのです。兄弟は、男性と女性が他の道に進み、女性は女性の道理、男性には男性の道理があり、その二人を育てる愛があるのです。その二人は、兄弟の愛の主人になりたいのです。分かりますか? アダム、エバを育てることによって、その存在が大きくなり、そのように育つことを見て、神様は兄弟の愛を持つことのできる主人になられるのです。その主人の資格は、神様が付与されましたか、アダム、エバが付与しましたか? 答えてください。 神様おひとりで、いくら兄弟の愛を叫ばれてもだめなのです。アダム、エバが兄弟の道を行くことを、抱いて愛することによって初めて、神様は兄弟の主人の位置を持たれることができるのです。分かりますか? (「はい」) 子女の主人が、アダム、エバによって育っていく道を通して、子女の主人の位置を、歴史以来初めて立て札を立て、「わたしは子女の主人である」と言われるのです。それから、兄弟を愛することを見て初めて、「兄弟の愛の主人になった」と言われるのです。それでは、育っていって何をするのでしょうか? 男性と女性が育ち、原理で言えば、育っていってそのまま広がっていくのではなく、すべて水平、四角を中心として、四十五度で一つにならなければなりません。それで、「夫婦の愛の主人になりたい」と言われるのです。夫婦の愛から、初めて一つになるのです。 ここで本然の位置に帰ってきて、天地が一つになることによって、父子関係の因縁が、霊と肉が一つになることのできる位置に帰っていくことによって、上弦下弦が連結されることによって、子女が生まれるのです。 女性は凹であり、男性は凸ですが、「上」的な代表である男性と「下」的な代表である女性が、愛によってここで連結されるのです。夫婦の愛を通して、ついに赤ん坊を神様のように……。神様の伝統を受け継がなければなりません。腹中の赤ん坊とともに、神様は赤ん坊を宿している母親を愛されるのです。その二人を愛することによって、神様が赤ん坊を宿すことのできる主人の位置から、赤ん坊、兄弟、夫婦、父母の位置に行かれなければならないというのです。 そのようにして、神様が創造された、アダムをつくったことと同じものが地上に展開するのです。アダム、エバは、赤ん坊を育てることによって初めて、赤ん坊の主人になるのです。子女の主人の位置を、そのようにして初めて神様の代身として相続し、伝統を受けることのできる動機になるので、兄弟の主人の位置を受けることができるのです。 それから、夫婦の愛の伝統、父母の愛の伝統を受け継ぐのです。それでは、その伝統の最初の主人はだれなのでしょうか? 神様です。分かりますか? しかし、愛の伝統的赤ん坊時代から兄弟時代、成長して結婚時代、父母時代まで進んでいく、そのすべてのものは、神様自体によって成就されるのではありません。愛の相対によって主人の位置をつかんだという、この論理を知らなければなりません。分かりますか? (「はい」) 子女を持つことができなければ、母親は子女に対して、母親的主人を捜し出す道がありません。千万年たっても持つことができません。それでは、母親に子女を愛する主人の位置をもたらしたのはだれかというと、母親ではありません。それは、愛の相対であったという事実です。分かりますか? 神様が、赤ん坊の主人になられることのできる愛の位置に立つようにしてくれたのは、アダム、エバです。知っていますか? 兄弟が育っていくときの兄弟の愛の主人の位置を植えてくれたのは、神様ではありません。アダム、エバなのです。また、夫婦の愛の位置を受け継いだのは、神様ではありません。アダム、エバです。それから、父母の愛の位置を代身して、神様が創造なさりながら経た受難の歴史を、代身として繰り返し、同じものとして大きくなっていくのです。 種が繁殖し、多くの種を通してその氏族編成、民族編成をすることと同じように、公式は同じです。神様の愛の全権を受け継ぐためには、男性も女性も、結婚しなければならないという原則がここにあるのです。分かりますか? (「はい」) 男性は女性のために、女性は男性のために生きるのです。男性と女性がために生きることにおいて、その内容は何でしょうか? 一つにすることのできる力は、男性によるのでもなく、女性によるのでもありません。神様の愛です。神様の原動力を継承する位置で、相対的実存体が生まれるのであり、継承されていない位置では、神様であれ、人間であれ、永遠に理想的愛の位置を捜し出すことはできません。 愛の相対です。見てください。先生がお母様と向き合えば、愛が寝ていた先生の目を開けるでしょうか、開けないでしょうか? お母様になってみましたか? (笑い)これは、道理がそうなのです。開かなければ、原理原則と違うのです。愛だけ目を開けて、生命が寝ていたらどうするのですか? 生命が目を開けたのに、血が寝ていたらどうするのですか? 血と生命と愛が一度に火がつくのです。それで胸がはずむのです。それゆえに、愛を中心として主人になることができるのは、自分一人では永遠に不可能です。これは、警告しているのです。 それでは、「初愛」とは何かというのです。それは、女性として、男性として、愛の主人の位置を尋ね求めていくことです。初愛を拒否して横道に行くことは、愛をすべて切ってしまうことです。神様の天道の道理、赤ん坊から兄弟、祝福を受けて夫婦になる愛の道を、すべて切ってしまうことであり、神様を否定することです。愛の主人を完全に否定する者は、愛の理想で完全に満たされた天国に存続することはできないということは、理論的なことです。 ここにいる男性たちは、愛を持っていますか? (「はい、持っています」)。浮気したいですか? 浮気をするということは、原理の根本をすべて否定することです。「神様が主人になることのできる、赤ん坊時代から兄弟時代、夫婦時代、父母時代を中心として、これを中心として、おばあさん時代、女王時代、天の国の王宮まで引き継がれていく資格を持つべきであり、そうすることのできる代表的な、傷のない家庭のモデルになってこそ、家庭から天国に直行できるのである」ということは論理的起源であり、ぴたっと当てはまります。理論に合っています。 「愛は自分から始まる」と言っているような者は、滅びる者たちです。しっかりしていますか? (「はい」)。今までそのようにしてきたのは、ろくでもない者たちです。すべて売り払ってしまわなければなりません。 愛は、自分から出てくるものではありません。それゆえに愛は偉大なのですが、それはどれほど大きいでしょうか? 自分の億千万倍も価値のあるものを願うのです。ですから、天の国の何百倍の価値をも、わたしたちが、神様に侍ることのできる立場、それ以上の神様の位置にいたとしても、「私」はそれを占領することのできる資格があるのです。それは、驚くべき事実です。 神様も、その愛の前には頭を下げなければなりません。自分のすべての愛と生命と血統と、良心世界の霊的なすべてのものが、宇宙の全体を相続することのできる資格者としてのレッテルを張ってくれるということは、神様おひとりではできないのです。 アダム、エバ家庭を抱いて、愛の一致圏を描くことによって、それを相続するのです。そうでなくては、愛の園が永遠に生じることはできないということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」) 女性の美貌をもって、それを誇る女性たちは、売女です。男性たちも、自分が美男子であるということを誇ってはいけないというのです。「高く大きい神様の無限な価値を抱いて、宇宙の大王陛下となり、大王陛下の王妃となるために、願わくは高い愛を捜し出して豊かに暮らそう」という考えをする者がいません。 人間の五官は、愛のために動くのです。心と体も同じであり、神様も同じだというのです。それは真の愛です。そして子女、それから夫婦、それから何ですか? 父母です。それから何ですか? 神様です。神様は何ですか? この主人です。子女の主人にならなければなりません。 兄弟の主人、夫婦の主人、それから何ですか? 父母の主人です。天地の主人です。そこまで行ってこそ、表象的であり、動機的な神様のすべての愛の主人の位置を占領することができるのです。そうしてこそ、主人として顕現なさることができるというのです。 ですから、アダム家庭が完成して定着するということは、個人の完成であり、家庭の完成であり、そこから氏族の王であり、民族の王であり、国家、世界、天宙の王の位置を備えて出発したという事実を知らなければなりません。 それを願いとして望んでいくことが、男性として生まれていく希望の道であり、女性として生まれていく希望の道であるということを、皆さんは知らなければなりません。分かりますか? 野良犬のように、「相手ができた、デートする」といって誇ることは(何も)ありません。そうすれば、地獄に行くのです。人間は、世界を与えても換えることのできない高尚な愛の理想のために生まれたのであり、その愛の理想は、自分よりも億千万倍も優れた相対を願うのです。 それは、神様までもそのように願われるのです。そのように、わたしたち人間が、神様が持たれた愛の何千万倍、何億万倍りっぱであるようにと願われる、そのような神様の願いがあったということを知らなければなりません。 それでは、女性だけで男性がいなければ、どのようになるでしょうか? 五十億の人類ならば、男性と女性がそれぞれ二十五億になりますが、二十五億の女性の中に男性が一人いたら、それが元でけんかするでしょうか、けんかしないでしょうか? (「けんかします」) けんかして、二十五億の女性にどのようにして勝つのですか? 何をもって勝つのですか? けんかしては、勝つことができません。お金をもってしても料理することはできません。買うこともできず、うそをついてもばれてしまうのです。ひとえに、「絶対にために生きる」愛をもって成すのです。 だれも扱うことのできない愛、その人のために生きる愛だけが全体を屈伏させ、神様の前に「絶対にために生きる」ことのできる代表の女性がいたならば、その一人は、残ったとしてもけんかせずに、一等になることのできる道があるということを知らなければなりません。(「アーメン」) 文総裁は闘いませんでした。いちばん最後まで耐えに耐えて、世界を回ってみると、その道が、闘わずに最高の位置まで、神様の相続権を受けられる位置まで行くことのできる道だったのです。 そのようにしていると、滅びずに、かえって「滅びろ」と言っている世の中の前に勝利の覇権を握り、国を超えて世界を超え、歓迎される環境が結実したのです。そして地上世界だけではなく、霊界まで標準化することのできることをすべて終えたのです。アーメンです。(「アーメン」) わたしは、今から八十歳を超えれば、つえをついて少し休まなければなりません。休む所はどうしましょうか? 祝福家庭を訪ねていき、約六か月ずつ暮らすつもりですが、六か月間侍ってくれますか、侍ってくれませんか? (「侍ります」) そうして神様の家で暮らすよりも、もっと楽しくするのです。侍ることのできる自信がありますか、ありませんか? (「あります」)。自信があるという人は手を挙げてください。 さあ、分かりますか? このような主人圏を失ってしまいました。八代です。腹中時代から赤ん坊時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代、祖母時代、女王時代、それから神様の夫人の位置までの八段階の願いをおき、男性のために女性が生まれ、女性のために男性が生まれたのです。 そのような天宙の天理の道理があるので、これを成し遂げなくては、あの世に行ってあずまやに座して、王様としての務めを果たすことができず、女王陛下の務めを果たすことができないということを知らなければなりません。 胎中の赤ん坊が生まれ出るときは、すでに相対のために生まれたというのです。自分のために生きるものは一つもありません。ですから、無限な神様までも必死になられて、「この道を逃さないように成し遂げなければならない」と思われる使命があるので、その神聖な無限なる価値を復帰しなければならないすべての人々は、両手を合掌し、それを受けるために精誠を尽くして頭を下げなければなりません。 神様も、真の愛の前に絶対服従されるということを知らなければなりません。それは、「ために生きなさい」という宣言です。ために生きない人は、無限の世界の愛を占領することのできる道がないので、知恵の王であられる神様はそれをお知りになって、「ために生きなさい」という道理を立てられて、自分の生命を投入しながらももっと与えたいという「ために生きる心」を持っていらっしゃるのです。それゆえに、神様を嫌う人は、億千万代に一人もいないというのです。サタンまでもです。分かりますか? 神様のために生き、人類のために生き、万物のために生きて一生を暮らした人、神様のために億千万代にわたって人類の解放を願った存在は、そして全体の解放を必要とした存在は、歓声を上げて迎えることのできる時代があるのです。アーメン。(「アーメン」)。その世界に行かなければなりません。分かりますか? (「はい」) 「真の愛の主人に侍りましょう」。皆さん個人から始めて、心の世界の愛の主人、家庭世界、夫婦世界、父母世界の愛の主人、それから兄弟世界の愛の主人、それから族長、氏族圏内の愛の主人、民族圏内の愛の主人、国家圏内の愛の主人、世界圏内の愛の主人、天宙圏内の愛の主人を捜し求めていくならば、すべてが、神様までも「私」を絶対的相対とされ、永遠の理想世界で永存することができるという事実は、理論的な結論なのです。アーメン。(「アーメン」) 「真の愛の主人になりましょう」。皆さん。わたしが韓国に帰ってきてこのような話をするのは、韓国の地が、朝野が文総裁の後ろに従えば、間違いなく世界の王圏を受け継ぐことのできる主体国になるからです。 ところが、そのことが分からないので、これがすべて流れていくのです。相当に複雑な状況でしょう? 労働者、農民が乞食のようなありさまです。そのような僕のような者が王になろうというのですか? これはすべて終わりました。王孫が王にならなければなりません。王孫とは何かというと、ために生きる人たちです。 秩序を通して上下、高低、前後関係のバランスを取り、その位置がすべて標準価値として同和することができ、対等な価値として天上天下にいっぱいに満ちることができるような、価値的実用性を標準化させることのできる国が理想天国であり、天上天国なのです。 その国のために直行することが、統一教会に存続した人たちの行くべき「宿命の道」なのです。運命は変えることができますが、宿命は変えることができません。それは「宿命の道」なのです。父子の関係、夫婦の関係、兄弟関係、これは宿命的なのです。 兄弟を、お金でくじ引きして選び立てることはできません。夫婦、父母を選挙で立てることはできないのです。夫婦は父母から始まります。夫婦を分けることはできません。宿命的な因縁を忘却する「亡国の種」が多いのですが、それらはすべて地獄に流れていくのです。これを清算するための統一教会の宿命的な、偉大な使命を完遂し、神様の解放、真の父母の解放、万物の解放圏を成し遂げるのです。アー、アー、アーメン。(「アーメン」)。(拍手) (「真のご父母様が祝祷をなさいます」)。祝祷まで? (笑い)祝祷を受けることのできる資格者は、いないのにですか? 悪口を言いながらも、そのようにしなければなりませんね。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2023.09.10 21:20:09
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