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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
▲第42回「真の子女の日」の敬礼式後、ろうそくに点火される真の父母様 第四十二回「真の子女の日」記念礼拝の御言 ― 天一国(天宙平和統一国)宣布のみ言 ー 成約九(二〇〇一)年十一月十五日(陰暦十月一日)、韓国・中央修練院大講堂 きょうは、何の日ですか?(「『真の子女の日」です。」) 子女とは、どのようなものが子女ですか? 子女というものは、父母を持った息子、娘を「子女」と言うのです。それでは、皆さんは、父母を持っていますか? (「はい。」)父母というものは、世の中で自分を生んでくれた父母がいて・・・・・・。 父母は一組であって、 二組いるのですか? 今日、 統一教会で言う「父母」とは、何ですか?(「真のご 父母様です!」)何ですか? 真の父母ですか?「真の父母」という言葉は、だれがつくったのですか? 皆さんが、つくったのですか、先生が、つくったのですか?(「神様です。」) 神様が、おつくりになったということを知っているのですか? そのようなことを考えれば、なぞの言葉 です。これは、信じられないような言葉ではないでしょうか? しかし、“信じられない言葉を信じる”という事実が、りっぱなのです。 神様を見ましたか? 見たことがないでしょう? 神様が、お父様なのか何なのか、どうして分かるのですか? しかし、それは、理論的に正しいというのです。 現実の自分自身のすべてを見てみるときに、絶対的な真の神様の御前に息子、娘となった、そのような父母の実体を受け継いだ自分自身になっていなければなりません。ところが、それを受け継ぐことができなかったので、自分自身が左右に偏った夫婦になり、父母になり、息子、娘になっているのです。 絶対的な一つの世界の伝統の下にいるのではなく、 二つの世界、主人が二人いる結果的世界にいるということを見るとき、“私”とは、自分だけではないのです。 このことを見るとき、“私”には、”心の私”と”体の 私がいるということを知らなければなりません。 それでは、”心の私”とは何であり、”体の私”とは、何でしょうか? そして、それは、どこに属している のでしょうか? また、日本人は、日本の国に属しているのでしょうか? 日本の国は、過ぎ去っていくの です。 米国人は、「米国が、世界の最強国である。」と言い、「米国は先進国だ。」と言って誇り、「自分たちが一番だ。」と主張するのですが、真なる不変の一つの父母というものは、米国も超えていきます。そのようにして超えては超え、さらに超えていって、第一の人類始祖まで行くのです。 根本までたどってみたとして、アダムとエバは、どうだったでしょうか? アダムとエバも、同じです。 そうして、根本となるアダムとエバの立場も超えていくと、その場においてこそ、必ず絶対的な真なる神様と真なる父母がいたはずです。 しかし、堕落したことによって、そのような立場になることができず、今、わたしたちが、神様も分からず、真なる父母も分からずに暮らしているのを見るとき、父母が本物なのか、偽者なのかも分からない立場にいるというのです。 父母が本物であるならば、その本物の父母を通して生まれれば、本物の息子、娘ということになります。 しかし、本物の息子、娘であるならば、行ったり来たりすることはできないはずなのに、行ったり来たりする立場にいるのです。 子供だけでなく、父母も行ったり来たりし、自分も 行ったり来たりしているので、「絶対」という言葉を立てることができない自分自身である、ということを自覚しなければなりません。 ですから、皆さんが「父母」という言葉を言うとき、 必ずご父母様によって・・・・・・。 「父母」という言葉は何かというと、父がいて、母がいて、彼らが愛というものを中心として因縁を持ち、 関係を結んで夫婦関係となり、子供を生むことができる立場となって、父子関係を持ったということです。 それゆえに、その父母自体が不完全な立場にいれば、 その不完全な父母が、愛を中心として、その生命の実体が一つになって残した血統は、行ったり来たりして絶対的なものではないのです。 ですから、このようにしてつくられた家庭も、国も、このような父子関係をつくったすべての歴史も、神様は喜ばれることはできないし、そこに“真”を立てることはできないという結論が出てくるのです。それゆえに、"父母が二組いなければならない”という事実を立てることによってこそ、善なるものと悪なるものを分けることができるのです。
それで統一教会は、神様を見ることもできず、真のご父母様の内容もよく知ることができないにもかかわらず、「真の父母」という言葉を掲げてきたのであり、「偽りの父母」という言葉も解明しているのです。 それが、ここを見ても、あちらを見ても、過去のすべての歴史時代に行っても、未来に行っても、神様の創造理想世界に行っても、どこに行っても間違いのない内容であるというときには、それを中心として、一 度、さーっと整理してみれば分かります。 神様の属性は、絶対、唯一、 不变、永遠なのですが、 神様から始まる愛と生命と血統も、そうであると考えられます。その神様に連結された二つの性稟(せいひん)が、一つ になって愛の関係を結び、父母となって血統を残すのですが、それも絶対、唯一、不変、永遠の血統になるのです。 ですから、その血統を受け継いで、正しい立場で相続すれば、その息子、娘も、絶対、唯一、不変、永遠となるのです。このように、父母も絶対的であり、子女も絶対的であり、夫婦も絶対的であり、その家庭も絶対的であり、その血統を通じた氏族も絶対的であり、 唯一的であり、不変的であり、永遠的なのです。 そうして、氏族だけではなく、国もそうであり、世界もそうであり、天宙もそうであるというとき、そのような国になり、そのような世界になった、その世界のことを、いわゆる地上天国、天上天国というのです。 アーメン!(「アーメン!」) (拍手) それでは、皆さんの心と体が闘いますか、闘いませんか?(「闘います。」)その闘いは、だれが始めたのですか? 皆さん自身が始めたのですか、皆さんの親が始めたのですか?(「親です。」) それは、だれが始めたのか分かりませんが、それが生じるようになったすべての根源を捜してみれば、"わたしたちの第一の先祖である人類始祖から始まった”という論理を否定することはできません。 それでは、その原因が人類始祖であるならば、彼らは、神様と直接の関係を持っていたはずですが、神様の元にいる息子、娘が、どうして堕落したのか、ということになります。どうして、そのようになったのでしょうか? それが、なぞです。知られざる事実です。 それは、人間には知ることができません。なぞです。 それを知ることができるかたは、だれでしょうか? アダムとエバが知らなかったので、知ることができるかたがいるとすれば、神様しかいらっしゃらないのです。 神様が最も好まない夫婦となり、夫となり、妻となって愛し合い、男性と女性の生命を通して、神様が最も好まない血統を残したということは、間違いありません。その事故が、どこで起きたのかというと、神様とアダムとエバの関係が乱れたことに由来するのであり、そこから事故が起きたのです。その論理は、絶対的であり、唯一的であり、不変、永遠です。 そして、その事故が、どのような事故であるのかということを、今までだれも知りませんでした。神様だけがご存じだったのです。その事故が、アダムとエバ自体が動機となったのではなく、サタンが動機となって起こったのであるとすれば、サタンと神様以外には分からないのです。 それでは、これを解決するためには、どうしたらよいのでしょうか? そのためには、神様を捕まえて説 得し、その責任を追及しなければならず、また、サタンを捕まえて責任を追及しなければなりません。 そうして、神様のみ旨の前に、サタンとは何であるのかということも究明して、「サタンとは、神様と一つになることができない存在ではないか?」と、このようなことも明らかにしなければ、この問題は解決されないのです。 そのような問題を解決した起源から、「(真の)子女の日」や、「(真の)父母の日」や、「(真の)神の日」が再度、必要になるのであって、それを解決できなければ、また、根源を明らかにしなければ、いくら「(真の)子女の日」と言ったとしても、神様とわたしたち人類始祖の根本を解決することはできません。 また、神様を中心として関係を結ぶことができる家庭や夫婦の関係においても、その本然の絶対、唯一、 不変、永遠な家庭の起源を捜し出すことはできないという論理が成立するのです。 それでは、このすべての動機は、神様と人類始祖の失敗によって・・・・・・。失敗とは、何でしょうか? 最近で言えば、人は、「お金が一番よい。」と言うのですが、人類始祖の堕落とは、お金で闘って失敗したのでしょうか? そうであるとすれば、問題にもなりません。お金というものは、わたしたちの人生生活における付帯条件なのであって、絶対的条件ではないからです。 わたしたち人間の属性は、神様と同じなのですが、 人格神の標準は、絶対、唯一、不変、永遠です。神様の性稟がそうであるので、その神様に似たわたしたちにとって、お金というものは、絶対的なものではありません。お金がなくても生きていけるのです。そうではないでしょうか? また、知識ということについても同様です。知識がなくても生きていけます。昔のアダムとエバの時に、だれか、何かの博士がいましたか? アダムとエバは、小学校に行きましたか? 幼稚園にも行かなかったのです。それでも生きていけるようになっています。 それから何でしょうか? 政治や力です。神様に力がなくて、人間を堕落させてしまったのでしょうか? また、人間も、力がなくて堕落したのでしょうか? そうではありません。力があったにもかかわらず、自 分自体の位置と自己の責任を知らなかったので、堕落したのです。 ですから、第一の問題は、何でしょうか? お金や知識や権力が問題なのではなく、責任というものが間 題になるのです。それで統一教会では、「責任分担」という言葉が、ここから出てくるのです。このような話をしようとすれば、切りがありません。 真の父母は、どこにいなければならなかったのでしょうか? 絶対、唯一、不変、永遠の父母は、どこから生まれなければならないのでしょうか? それは、神様と同じ位置から始まっていなければなりませんでした。そうでなければ、絶対、唯一、不変、永遠であることはできません。それ以下の、心と体が闘う世界において成し遂げられたものは、絶対、唯一、不变、永遠であることはできないのです。 ですから、今日、わたしたちが自分自身を解決するためには、まず根本に入っていって、神様をはっきり と知らなければなりません。そして、神様の創造理想 をはっきりと知らなければなりません。 統一原理で言えば、創造前の理想は、何によって始まったのでしょうか? そのような境地に至ったとき、 創造するときのその根源は、何でしょうか? その根源は、簡単です。神様の二性性相です。二性性相の完成です。 神様のみ旨の完成とは何かというと、二性性相の完成なのです。それでは、二性性相の完成とは何でしょうか? 四位基台の完成です。そして、四位基台の完成とは何かというと、アダム家庭において、三代を中心として三対象目的を成し、四代まで連結させる家庭にならなければならない、ということです。 神様は人格神であられ、人格者である人間の父でいらっしゃるので、神様にも父母が必要であり、夫婦が必要であり、子女も必要であり、家庭も必要なのです。人格神でいらっしゃるからです。 神様と人間が、そのような関係にあるにもかかわらず、人間が堕落したという事実は、人間には、神様との関係を結ぶことができるものは一つもない、ということです。息子の位置でも関係を結ぶことができず、娘の位置でも関係を結ぶことができず、神様の前で約婚もすることができず、神様の前で結婚式もすることができず、神様の前で子供を生むこともできなかったということです。 ですから、このようなすべての人間が、神様が創造理想として願われた所願成就を果たすためには、どうしたらよいのでしょうか? それらの内容を、だれによって成すことができるのでしょうか? 堕落した後に、人類歴史は、間違った先祖を始祖と して始まったので、現在に生きる人類も、この間違っ た先祖の血統的因縁を受け継いで、今日の六十億の人 類になったのです。ですから、これらはすべて、神様 と何の関係もありません。わたしたちの体の中には、 堕落したそのときから、二人の主人が存在するように なったのです。 この二人の主人が、人類歴史の途中で始まったのならば、その前の時代は、すべて天の国につながっているはずですが、人類歴史の根本から始まったので、天の国は空いているのです。このような結論が出てきます。 それでは、「(真の)子女の日」ならば、子女として何をするのですか? また、神様も、何をされるので しょうか?なぜ、神様も、子女が必要なのでしょうか? 何ですか?(「楽しいからです。」)楽しいからですか?話をよく聞いてください。「楽しいから」と 言うのならば、働いても楽しいはずですし、カジノな どのギャンブルの世界は、もっと楽しいのではないですか? 今、統一教会では釣りを盛んに行いますが、巷では、 釣りにのめり込むと、自分の妻まで売って釣り道具を買うという話です。(笑い)しかし、それは、例えの話であって、そのようにしてはいけません。 息子、娘を持って、何をするのですか? 神様の愛を完成し、神様の家庭を築くのです。そのことを知ら なければなりません。神様の愛を完成させて、神様の家庭が出発するのです。 また、家庭で何をするのでしょうか? 家庭で何をするというのですか? アダム一人をつくればよいではないですか? 女性という存在は、何ですか? 男性独りで、愛が成り立ちますか? 女性独りで、愛が成り立ちますか? いくら絶対的な神様でも、神様お独りでは、愛を成すことはできません。相対理想が必要なのです。 愛を成すためには、神様の中にいくら愛があり、生命があり、血統があり、良心があるとしても、その神様の前に相対が現れないときには、すべての愛は、そのまま一代で終わるのです。何のことか、分かりますか? ここには、男性と女性がいますが、女性が愛の主人になるためには、女性が独りで、いくら「愛、愛。」と言っても、それを得ることはできません。愛を得るためには、必ず・・・・・・。女性にも、生命があるでしょう? 愛があるでしょう? ありますか、ありませんか?(「あります。」) 生命がありますか? ありますか、ありませんか? (「あります。」)血統がありますか? きょうは、男性 よりも女性がたくさんいるのですが、なぜ、そのように答えるのですか? きょうは、「真の子女の日」なのですが、三分の二が女性ですね。なぜ、このように女性がたくさん集まったのですか? 女性には、愛もあり、生命もあるでしょう? 血統はどうですか? 血統がありますか、ありませんか? (「あります。」)それもあり、良心はどうですか?(「あります。」)それならば、女性独りでもよいはずな のに、何のために・・・・・・。 愛は、独りで成すことはできないので、女性ばかりがいくら数千万人いたとしても、たった一人の男性がいないというときには、女性が愛の主人になることが できる道は、永遠にありません。このことを知らなければなりません。 女性たち。女性を女性らしく、愛の主人にしてくれるのは男性なのです。たとえ容姿に問題がある男性でも、あるいは、体のあちらこちらに病気を持っている人でも、男性の生殖器一つさえあれば・・・・・・、何でしょうか? 息子、娘を生めるというのです。 なぜ、笑うのですか? それは、男性にどれほど価値があるのか、ということです。女性が千万人いたと しても、それだけではだめです。 足らない男性であっても、愚かな男性であっても、あらゆる病気にかかった病人の中の病人、病人の王であっても、その部分一つが健康であれば、女性に赤ん坊の種を与えてあげることができるのです。それは、 いくら女性がいても、女性独りでは愛を捜し出すことはできないということです。 ですから、女性の器官は、男性とは違うでしょう? 男性を受け入れるようになっていますか、拒絶するようになっていますか? どうですか? 受け入れるようになっていますか?(「はい。」) 男性がいなければ、生殖器のようなものは・・・・・・。こん棒のようなもので、「私が男性だ。私と愛し合えば、 子供を生める。家庭ができる。」と言えば、女性たちがしがみついてきて占領するでしょうか、しないでしょうか? 千万を超える女性たちを、すべて犠牲にしたとして も、一人の女性が、一人しかいない男性にしがみついて、「おお、私の愛よ。」と言えば、そこに父母が生じ、 夫婦が生じ、息子、娘が生じるのです!「アーメン」 ですか、「ノーメン」ですか?(「アーメン。」)知っていることは知っているのですね。 ですから、いくら女性が美人であっても、美人一人では、千年、万年たっても、不幸せになることしかできません。女性たち。女性を愛の主人にしてくれるのは、父母でもなく、兄弟でもありません。ひとえに夫しかいないという事実です。今日、皆、このことを知らずに暮らしています。 また、これは、男性についても同様です。先生も、そうではないですか? 真の母を捜し出すために、生 涯、苦労したでしょう? わたしは、苦労しなくても、すべて知っているのです。だれが合うのかということも知っており、口もうまく、すべての世事をはっきりと知り、自分が苦労しない人間であるということも、はっきりと知っているのです。そのようなことをはっきりと知りながら、なぜ、苦労して、その道を訪ねて行かなければならないのかというのです。 人は、二種類しかいません。二種類ですが、”心に従っていく人”と、“体に従っていく人”の二種類の人がいます。そうして、“心的"な人は神様であり、“体的”な人はサタンであるということを知ったのです。 ですから、“体的”世界、実った世界が否定したとしても、その否定することを蹴飛ばし、”否定する世界!”を逆に否定してしまい、孤独に、孤独に、真なる女性を再創造するために苦労したというのです。 アダムが、エバを主管することができずに主管性を転倒したので、これを再び、すべて育てていかなけれ ばなりません。そのようにして育てて、そうして父母となるのです。 ですから、真なる心と体が一つになり、み旨を中心として神様を愛する心が、体が心を愛することに対して負けてはいけません。同じでなければなりません。 心は男性を代表し、体は女性を代表しています。ですから、男性と女性が完全に一つになる場において、神様をお迎えすることができるということと同様に、 自分の心と体が完全に絶対的であり、唯一、不变、永遠な統一的基盤となれば、神様の息子のような立場に立つ愛の主人にしてあげるというのです。何のことか、 分かりますか? 神様は、男性的、性相的愛の主人になることができませんでした。それが、一人の男性が神様の息子として完成し、神様の相対となって、神様が愛を感じることができ、神様が喜ぶことができ、「おまえは、わたしの息子だ。」とおっしゃることのできるような立場になったならば、その息子こそが、神様の御前において、ついに愛を受けることができる直系の子女になるのです。 そこには、神様の愛が連結され、生命が連結され、 血統が連結されるのであり、それこそが、神様が「わたしの息子だ。」と言うことのできる立場です。分かりますか? 息子、娘だと言ったでしょう? それは、 娘についても同じです。 天地創造以前の神様の性相と形状が、完全に一つに なっていらっしゃったのと同じように、心と体が完全 に一つになり、神様が愛するうえでの男性的・・・・・・。 アダムの心が愛することと、エバの心が愛することが同じでなければならず、また、そのエバの心とエバの体が一致したところに神様をお迎えしなければなりません。そうして、その娘が、アダムと心と体が完全に一つになり、それがアダム的ブラス的性相と、エバのマイナス的形状が、ぴたっと同じ・・・・・・。 そのとき、どのようにならなければなりませんか? 二つにならなければなりませんか、一つにならなければなりませんか? 絶対に一つにならなければなりません。絶対的に一つにならなければ、心と体に闘争の 概念が生じるのです。 エデンの園において堕落することによって、アダムの心と体も二つになり、エバの心と体も二つになりました。そのことにより、愛するのも相克的な愛となってしまったのです。 エバは、天使長と愛し合い、アダムと愛し合ったので、二つに分かれた愛をもって、身もだえするようになってしまいました。そのエバを中心として血統が受け継がれたので、人類は、その先祖に似て生まれるというのです。 そのことによって、不安の心と否定的な環境を被るようになったので、夫を否定し、夫の近くに行こうとすればするほど、良心の呵責を受けるのです。体を中心として生きようとすれば、心が泣くのです。心に呵責を受けて悲しみが生じます。 このように故障するようになった事故が、初代の先祖の女性から始まって男性まで、そして、天使世界まで、すべて連結するようになりました。そうして不安の世界が始まり、結果として否定の世界、嘆息と悲しみの世界が現れたのです。そして、今までそれを革命することができずに継続してきたのが、血統です。 こうして人類は、偽りの愛から偽りの生命、 血統を受け継いできた歴史的な実体となったので、自らも不可避的にアダムとエバの堕落した結実であると言わざるをえません。そうして、アダムとエバが闘っ たその姿そのものに、神様を否定する立場と悪を好む立場になってしまいました。 ですから、終末になれば、体が願う世界一辺倒になるということを、わたしたちは、推論的に結論を下すことができるのです。 (19 Family 2002.1まで) <第四十二回「真の子女の日」記念礼拝の御言(その2/4)に続く> 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 すなわち神様の知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 ↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.05.29 23:48:44
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