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テーマ:最近観た映画。(39926)
カテゴリ:映画の話
久々のblogです。
夏休みのキャンプのことを書こうと思ったのですが、昨日「男たちの大和」をDVDで観たので、そちらの話を先に書こうと思います。 マチズモなタイトル、「愛する人を守るために戦う」というキャッチコピー、長渕剛の歌。 正直いって、この映画には「戦争や特攻を美化した映画なのでは?」という先入観がありました。 でも映画そのものは全く違いました。 大和は武蔵とともに、開戦のずっと前から、国力を尽くして建造された巨大戦艦です。 その建造は極秘に進められ、例のない大きさによる多くの困難を乗り越え、不沈艦と称されました。 (同型艦の武蔵の建造について、以前の日記でもとりあげた吉村昭の『戦艦武蔵』で克明に知ることができます。) 皮肉にも完成した時はすでに航空機の時代となっていましたが、膨大な労力を尽くして建造されたこの2隻の巨艦を、全く勝算のない特攻作戦で多くの兵士とともに無残に失ってしまった軍指導部は狂っているとしか言いようがありません。 交戦シーンの描写はかなりむごたらしく、思わず目を背けてしまう程です。 しかし、実際の大和はそれ以上に地獄のような有様だったことでしょう。 たくさんの人が虫けらのように、無残に死んでいく。 大和は何の役にも立たなかった。 「結局何も守れんかった・・・」というセリフが印象に残ります。 運命の大きな動きは一兵士には手の届かないところで決められていく。 その中で、懸命に戦うしかない悲しさ、切なさ、むごさ。 「愛する人を、国を守りたい」 いくら彼らがそう思っても、その戦いには実際には愛する人を、国を、守る力は全くなかった。 大和だけではありません。 制空権を失い、本土を度重なる空襲にさらし、 物資はなく、補給もなく、まともな作戦もなく、多くの兵士が戦いではなく飢え死に追い込み、投降する道も絶ち、 沖縄が焦土となっても、なお戦争を終結させることができなかった。 この狂気の戦いを主導した国家の罪はなんと重いのか。 私は映画を観ながら、そういう感想を強く覚えました。 この映画で描かれていたのは、「国を守るために戦う美しさ」ではなく、戦争の狂気と無残さ、愛する人と別れて二度と戻れぬ戦地へ赴く深い深い悲しみ、「死んではいけない。生きろ。」というメッセージだったように思います。 しかし、なぜか映画のプロモーションは「二度と会えない君を守るために」といったヒロイックなキャッチコピーで展開され、公式サイトはミリタリー調。 アマゾンのレビューをのぞくと、「自己犠牲の尊さを子供に教えるのにいい映画」とか「日本人であることに誇りを感じるでしょう」といったものも散見されます。 観終わった後にこれらをみると、この映画ってそういう映画だったかなあ・・・と思ってしまいます。 大和はその名前と菊の紋を大きくつけたその姿から、特別ナショナリズムをかきたてるようですが、その死に様は潔くも美しくもなかった。 血まみれで、無残で、無意味だった、それをよく伝えていると思うのですが・・・。 思っていたよりずっと良い映画でしたが、二つほど気になる点がありました。 一つは最後の敬礼シーン。どうとは言えないのですが、非常に違和感を感じました。 個人的にはこのワンシーンで映画の評価がぐぐっと下がりました・・・。 もう一つは大和と沖縄特攻に同行していた他の艦について全く描かれていなかったことです。 以前、ドキュメンタリーで他の艦に乗っていたという男性が「あの戦いで戦ったのは大和だけじゃなかったのに」と呟いていたのを思い出しました。 今、安倍晋三が集団的自衛権を行使できるように改憲すべきだ、と発言しています。 けれども、実際の戦闘になったときに安倍晋三が戦地で戦う訳ではない。 狂人のような国家を生み出したのは、もとをただせば日清日露の勝利に酔い、好戦的な態度を熱狂的に支持した国民だった。 そのことを忘れてはいけないと感じています。 ◆日記カテゴリー:映画の話 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 24, 2007 01:41:16 PM
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