在日1号 金 敬得弁護士、他界!
昨夜、韓国人弁護士 第1号の金敬得氏がご他界されました。30年前、金氏は、韓国人は弁護士になれないことを承知で無謀にもその厚い壁に挑戦し、多くの人の支援に助けられ、ついには最高裁を動かして韓国籍のまま司法修習生ひいては弁護士の資格を獲得した弁護士でした。 その偉業を偲んで、金氏が弁護士になる原点をあらためて紹介したいと思います。1949年、メッキ職人の父のもと、6人兄弟の次男として和歌山市に生まれた。金氏の一家を含め周辺に住む朝鮮人は皆一様に貧しく、真っ昼間から酒に酔ったアジョシ(おじさん)が道ばたで夫婦喧嘩を繰り広げるような環境で、金氏は「朝鮮人社会から逃げ出すことと、自己の内にある朝鮮的なものを排除することが、いつしか習性のようになっていた」という。「僕は鈍(ドン)で、弱い人間でね、同じ環境で育った兄弟のなかでいちばん卑屈だったな」しかし、病が深い分、気付いたときの反動は大きい。金氏は大学4年間の孤独な葛藤、朝鮮人であることをひたすら隠そうとする習性と、その習性に絶えきれなくなっているもう一方の自分との葛藤を通して、自ら答を見つけ出す。「びくびくしながら隠しているというのは非常な苦痛だから、ある日、はっと気が付くんだよ。差別する者とされる者といて、なぜこっちだけが一身に悪を背負って生きていかなきゃいけないんだろう。なんでこんなばかな生き方してきたんだろうって。やっぱりそれが目覚めるってことなんだ。病が深ければ深いほど、目覚めたときのバネは大きいよ」4年間の煩悶の末、朝鮮人であることを明らかにして就職しようとしたときに、大学の就職課で言われたことが、金氏をさらに断固たる行動へと駆り立てる。「一部上場会社は99.9%無理。二部以下の会社で人のいい社長さんがいたら就職できるかもしれないから登録だけしておいてください」何が自分をこうさせたのか。差別に負けたからだ。逃げるのではなく、向っていくしかない。日本に奪われた自己を取り戻すのだ。金青年は、その存在を模索する。「皆が民族的に生きようとしているときに、僕はそういう隊列から外れてきたわけだから、今日から朝鮮人として生きるからよろしくと、そんな厚かましいことよう言えん。自分で自分を許せない。一人でできること、差別と闘えることは何か、と考えて司法試験を受けよう、と。これなら勉強さえすれば、合格しさえすれば、ケンカできるから」アルバイトをしながらの図書館通い。しかし、金氏は司法試験の勉強そっちのけで、朝鮮関係の本を読みあさる。「目覚めたばかりだから、そういう関係の本はどんどん吸収できるわけよ」本腰を入れて勉強するために、半年間 和歌山の実家に帰り、土方をして荒稼ぎ。その金を持って再び上京し、一年後の76年、司法試験に合格した。待ち望んでいた最高裁との闘いの始まりである(良知会「100人の在日コリアン』三五館,1997)。金氏の前に道はなかったが、金氏の後には道ができた。最高裁を相手に、そんな表現がふさわしい活躍ぶりでした。いや、それは活躍というよりは格闘といったほうが適切かも知れません。絶望と一縷の望みの間を何度も行き来して、ついには勝利をもぎ取ったのでした。その後、金氏は弁護士を開業し、民族問題を中心に司法界で活躍されたことは周知のとおりです。金氏の遺志を、数十人の在日コリアンの弁護士をはじめとして多くの人が継いで活躍されることでしょう。金氏のご冥福をお祈りします。