北野 たけしが主演した映画「血と骨」の舞台となったアパッチ部落こそ大阪城公園駅の横にある地域です。
{写真:大阪城と陸軍中部方面指令部(現大阪歴史博物館)}【フィールドワークに関心がある方は連絡ください。】2,3人以上なら週末、ご案内します。(勿論ボランティアです)【大阪城の大阪砲兵工廠跡と枚方の禁野火薬庫(現関西外大)そして大阪陸軍造兵廠枚方製造所私市地下工場】大阪城に行けば築城からの歴史を案内する観光ボランティアの人を良く見かけます。しかし近現代史に潜む大阪城の陰の戦前、戦後史は誰も話さないし、知らないのが現実でしょう。3年前に北野 武が主演した映画「血と骨」や「夜を駆ける」の作者 梁 石日作品の舞台となったアパッチ部落こそ大阪城公園駅の横にある地域です。大阪砲兵工廠跡(現ビジネスパーク,ツイン21)の中枢部であった大阪城の戦争戦跡を通して日本と朝鮮の近現代史を考えてみたいと思います。コース案内は友人で「ピース大阪15年戦争研究会」の事務局長を務めておられる塚崎昌之先生が調査、研究された資料を元にしています。■フィールドワーク内容■まず1583年に豊臣秀吉が朝鮮侵略を行うために建てた城。この大阪城は1592年と1597年の2度にわたる朝鮮侵略(壬辰・丁酉倭亂)の拠点であり、明治以降は、日本の近代国家建設過程でのアジア最大の軍事基地(大阪砲兵工廠)として再び侵略の拠点とされました。砲兵工廠は日本の終戦直前の大阪空襲によって壊滅的な被害を受け、日本人・在日コリアンともに多数の被害者を出しました。空襲で壊滅した鉄の残骸は、解放後の日本で仕事から放り出された朝鮮人たちが回収して(夜を駆けるの舞台)朝鮮戦争にも使われました。現在も旧大阪砲兵工廠化学分析場や地下壕入口跡など多数の戦跡が残されています。旧JR片町線、現在の学研都市線は、この片町が終点で枚方の禁野火薬庫(現関西外大)と宇治の火薬庫)を結ぶ軍事鉄道でした。1894年の日清戦争の勃発で、日本陸軍は軍備拡張の一環として禁野火薬庫の設置を決定し、1895年に起工されて1896年に禁野火薬庫が完成しました。1939年にはその禁野火薬庫で爆発事故が起こり、朝鮮人を含む死者94人、負傷者602人の被害が出ました。又、1937年の日中戦争の勃発以後、弾丸・信管を増産するために禁野火薬庫の東隣にある枚方町中宮、片鉾、甲斐田地区に枚方製造所が設置され、1938年に生産が開始されました。当時の建設には、朝鮮人土工が大量に投入され、夜を徹した突貫作業で土木工事が進められました。 現在は禁野火薬庫と枚方製造所の跡地が残り、爆発事故の犠牲者の慰霊塔や[平和ロード]などの戦跡を見ることができます。【大阪陸軍造兵廠枚方製造所私市地下工場】「本土決戦」用の爆弾を炸裂させるための装置を作る工場を作る予定で1945年春から建設が開始されましたが、建設工事は20%程度できあがったところで敗戦を迎えました。この建設工事に約100人の朝鮮人が従事し、トンネルの近くにそれらの人たちの死亡事故現場があります。ここを走る京阪交野線は、1923~29年に建設されましたが、工事のほとんどは朝鮮人労働者が行いました。写真の旧中部方面第四指令部、現在は大阪歴史博物館の入り口を横から撮ったものです→秀吉から中国大陸侵攻と日本が500年の間に2度にわたり朝鮮半島に侵略戦争をした二つの司令部が同じ場所にあったというのも皮肉なもんです。