石原東京都知事の妄言は日本の恥
{ハンギョレ21 2000年 04月 27日 第305号}"三国人,外国人が凶悪犯罪を起こす"妄言のネオ ナショナリズム “東京では不法入国した多くの三国人, 外国人が凶悪犯罪を反復している. 大きな災害が起きた時には、騒擾事件が予想される。”去る4月9日、石原慎太郎 東京都知事が、陸上自衛隊 第1師団 記念行事に参加して吐いた妄言だ。 しかも、彼はこの発言が外国人差別を意味するという批判が起こると記者会見でも高圧的で反省しない態度を見せ,より一層荒々しい反発を呼び起こした。 だが、東京都庁に伝達された市民の反応は正反対であった。 彼の4月9日発言以後、4月12日までに受け付けた市民の電話応答1028件中で, 石原の主張に反対するという見解は368件で36%に終わった反面、同意するという意見は626件で61%にもなった. 専門家は、市民のこういう反応は、ネオ・ナショナリズムが定着していっている日本社会の背筋が寒い現実を反映していることだと分析した。障害者に対する排他性も強い ネオ・ナショナリズムは、国民の歴史という右翼書籍で主張しているように、第2次大戦前後史を、占領の歴史, 汚辱の歴史と規定する. 戦争を起こした責任を皆当時の官僚と軍部に押しつけ, 天皇と国民には免罪符を与える。 国民には戦争の責任がないので、原爆投下は不当であり, 第2次大戦後の米軍占領も不当だと主張する. 米軍占領下でなされた、あらゆる行為を否定する。 新しい国民国家, 新しい主体を作っていくための努力は、こういう歴史認識から出てくる。 バブル経済の消滅, オウム真理教事件, 阪神大地震等などでかもし出された日本社会の危機感から出発したネオ・ナショナリズムは、憲法改正運動, 日の丸・君が代法制化, 自衛隊の軍隊化へと表出している。 石原知事の今回の発言と、それに対する市民の支持も、このような脈絡でなされたのである。 彼の性格的な欠陥から始まった。一時的な‘妄言’であるとみるより、持続的な運動の一形態だといえる。石原の内部で燃え上がっている、そういう衝動は、はやくから50年代に発表したで遺憾なく表現された。 この小説は、不条理な社会を耐えることができない若者達の血気が、放蕩と堕落につながる内容を含んでいる。 ここで描かれた自我の分裂と社会の不条理は”NOと言える日本”で明確に分かるように、日本の戦争責任からではなく、米軍占領で始まる. 過大に強くなった罪責感で自我を維持出来ずに苦しんだ彼の血気は、外国人排除, 前後状況に対する批判, 戦争責任論批判へとつながる. 彼が政治に入門した後の動向は、ずっとこの三分岐方向に伸びていっている。今回の‘三国人’発言でも表れているように、石原知事の外国人排他心はとても強い. ‘三国人’という差別的用語は、偶然に飛出してきた話ではない. 彼は、さる2月の都議会でも、この用語を使用した. 昨年には、中・日戦争で中国を切り取る意味で使われる‘支那’という用語を用いて物議をかもすこともした. こういう差別は、用語使用にだけ表れたものではない. 外国人が暴動を起こすという考え自体が、彼の排他心を十分に見せている. しかも、彼の排他心は外国人だけを対象とするものではない. 昨年10月には、障害者施設を視察した後、所感を明らかにする席で、“彼ら(障害者)は自分自身が誰なのかわかっているのか. そのような人にも人格があるのか”と、話して、社会的弱者, 疎外された者に対する排他心も強くあらわした。‘都知事 石原’の業績は恐ろしいが… 戦争責任抹消, 戦後状況克服, 外国人排除を通じて、彼が成し遂げようとしていることは、強力な国民国家としての日本建設だ. ‘東京発 日本改革計画’という言論の賛辞にも表れるように、石原が都知事になった以後に行った業績は恐ろしい程だ. 彼が持つ大衆的人気の相当部分は、ここに起因する. だが、彼は老弱者がただでバスを利用できる‘シルバーパス制度’を廃止する等、社会的に疎外された者を徹底的に排除している. また、さる2月、突然発表された銀行に対する外形標準課税制導入等で見ることができるように、彼の政策決定過程は独断的だという評価を受けている. しかも、彼は東京都内にある、あらゆる学校に徳性と道徳教育を強要している. それでも、石原知事の人気が下がらないのは、日本人が持つ危機感のためだ. この危機感を巧妙に利用して、強力な政策を推進することは、過去の戦前のナショナリズムと似ている. 日本の批判的知識人がこういう形態をネオ・ナショナリズムと名づけて、批判の声を低くしないのもこのためだ. 中央日報社説(オピニオン)より転載【社説】石原東京都知事の妄言は日本の恥 石原慎太郎・東京都知事が先月28日に続き31日にも、日本の植民支配を正当化し、被害を受けた隣国の感情を刺激する妄言を続けた。同知事は、悪名高い極右派で、歴史忘却・妄動主義者であり、日本の一部指導層人物らの「歴史を否定する」発言も、一度や二度ではない。度外れの退嬰的国粋主義者の妄言にしてしまうこともできる。 しかし、われわれは、日本国と日本社会に厳しく尋ねたい。そうした妄言が、あなた方の「本音」なのか。何故、日本国民と社会は、日本軍国主義の被害者である近隣諸国の国民感情を刺激する「妄言シリーズ」に付和雷同しようとするのか。日本のマスコミさえ、ほぼ沈黙している理由は何か。 最近になって、韓国と中国など被害を受けた当事国は、むしろ日本の以前の罪業を赦し、新たな善隣関係を結ぼうと、絶えず努力している。こんな隣国をそばにして、やっと治りかけている隣国の傷をいじる卑劣な妄言を続ける日本の指導層人物、そして、それを容認しているような日本社会を見ていると、日本の良心はどこにあるのか聞きたくなる。 そうした諸妄言は、善隣友好関係を傷付ける「破壊的公害」であるだけだ。小泉首相など日本指導層の傍観的かつ協調的姿勢が、こうした発言の継続に一役買っているように思える現実も、日本の良識を疑わせている。 小泉首相は今年6月「創氏改名は朝鮮人が選んだ」と妄言した亀井静香元自民党政調会長を、もう1人の妄言者だった江藤隆美(当時総務庁長官)の後任に任命したからだ。今月9日の総選挙で勝利するため、石原知事のようなポピュリストらの扇動的発言を活用しているのではないだろうか。 現在、アジアは、躍動的気運に満ちている。民主主義的制度と精神も広がりつつある。こうした状況の中で、日本が、過去についての反省と懺悔(ざんげ)なしに、再び極右の妄想に捕われるとすれば、それは、日本だけの退嬰を意味するだけだ。 日本の良心が日本を救わなければならない。日本が誤った過去の歴史を反省し、アジアの周辺諸国を尊重、世界と共存できる正常な国家になるよう期待したい。