サントドミンゴ、ミンド、パニシージョの丘、赤道記念碑、キト旧市街
9月24日(水曜日)この日はキトからクルマで南下3時間のところにきれいな温泉保養地があると聞いたのでそこに行こう、と決めていた。だが、おっとの友人に1ヶ月前にあった火山の噴火の灰のためにそこは未だきれいになっていない、と聞かされ、慌ててどこに行くか、という話になった。(結局、きれいだったらしいが) 我が父が「山はみたし、後は海と密林のバナナがみたい。」と言ったので、予定を変更、同じくクルマで3時間だが海沿いの村、サントドミンゴに決定。 サントドミンゴとは赤いおかっぱ髪のインディオの部族のいる村らしい。 キトからクルマで山を降りること1時間、常に薄ら寒かったキトやオタバロが嘘のようにだんだん蒸し暑くなっていく。 高度が変わったせいで耳の奥がキーンとおかしい。 あくびをしたりガムを噛んで解消しているうちにどんどん父の希望通りの密林、バナナの楽園へと景色は変わっていった。我が父「日本の山みたいだなあ。」そ、そう?お父さん?こんなところ、日本にもある??ブタをつるして売ってるし、岩壁にこんな彫刻まであるよ?そんな?景色を満喫しているうちにサントドミンゴに着いた。でも、そこは予想していたインディオの部族村ではなく、小さいのにキトの10倍は騒々しい汚い臭い、治安の悪そうな街だったのである。がっかりして給油だけしてすぐに退散する。あてもなく、車を走らせているうちにおっとが「「昔の暮らしを見せる村」って看板があるけど行ってみる?」というのでこのまま空振りで帰るのもなんだし行くことにした。大通りを曲がるともうそこはバナナ林が広がるのどかな村。 村の入り口でたむろっていたおっちゃんたちに「どこでも好きな家に行きな、見物させてもらえるから。」と聞いたのでさっそく1件「占い有り」と書かれた家におじゃますることにした。まるで日本の昔の田舎の家のよう。おっちゃんたち、ああは言ったけど、ほんとに家を見せてもらえるの?こわごわ、庭に入っていくと、わらぶきやねの粗末なつくりの小屋の前で2人のおっさんがたばこをスパスパ吸いながらビールを飲んでいた。見学を申し込む。「ちょっと待って。」とそのうちのひとりがフラフラと焦点の定まらない目で小屋の中に消えた。だ、大丈夫かよ~?待つこと数分、やがておっさんは民族衣装に着替え、頭に紙で作ったとしか思えないチャチな赤いかつらをかぶって小さな息子と一緒に出てきたのである。彼はまず「私はサンフランシスコの医学大学を卒業し、博士号を持っています。」と自慢話からはじめた。(なんで博士号持ってる人が、今頃飲んだくれてるんだ?!) 「どんどん写真を撮ってくださいね、いろいろ家をみせますから。」と絶対家の中はみせないが鶏や犬が遊ぶ庭をみせ、放置してあった木琴のような楽器をぽんぽんとかなでる。すっかり観光客慣れしているようだ。そして庭の隅にはほったて小屋があった。おじさん「ここは古代からの占いのための部屋です。私はこの占いの研究のために一生を捧げるつもりでやっております。どうですか、占ってみますか?」と聞く。どうみても、このおっさん、お酒臭いし、うさん臭いんだよね。。。?わたしが「NO!(日本人だけど言えるぞ)」という前に、「YES!!」と言ってしまった義母。「占い」に目がないらしい。あ~あ。小屋に入ると更に布で1段上がった台が囲むように仕切られ、そこに神棚?みたいなものがあって占いに使う道具や変な偶像が所狭しと並べられていた。おじさんは機関車トーマスのようにスパスパとたばこをふかすのをやめない。相変わらずたばこを口にくわえながら、義母を座らせ、背中をバナナの葉でなではじめ、あやしい呪文を唱えながら何かを祈りだした。それから「すみません、やっぱり気が散るのであなたがたは出て行ってください。」と言われてしかたなくわたしたちは義母を残し、外に出て小さな息子と写真を撮ったりしているうちに占いが終わって2人が出てきた。 義母に聞くと「うーん、当たってるような、当たってないような占いよ。」 やっぱりね。 おじさんは「本日はまことにありがとうございました。これでツアーは終わりです。おひとり家の見学料40ドル、それから写真1シャッターにつき20ドルいただきます。」 えええ!?なんだ、この法外な値段は?!それに 1シャッター、どうやって払うんだよ(爆笑)!?見学料40ドルって、あんたユニバーサルスタジオの1日パスと同じ値段じゃん!?決しておっさん、ユニバーサルスタジオよりおもしろくなかったぞ!義母はすかさず「あんた、さっき私から法外な占い料をとったばかりじゃない!」と叫んだ。2人きりになったのはそのためか。おっとも「ばかばかしい、払えるもんか!」と母子2人して詰め寄った。 おじさんはすぐ弱気になって「うちもこれだけで食べてるし、息子を学校に入れるのに金がいるんだよ。」と泣き落とし。大のおとなに泣かれるとねえ。。。しかたなく全員で40ドル払ってこの家を後にしたのだった。(今考えるとこれでも高すぎ!!)サントドミンゴの帰り道は別のルートをたどって帰った。キトに近いスカイラインはきちんと整備されていて色とりどりの花が咲き乱れている。 前日のおっとの友人から「ミンドのバタフライファームはいいぞ。」と聞かされていたので、まだ日も高いし、そこへ行くことにした。インディジョーンズにでも出てきそうな荒野の村を抜け、4駆でもなければ行けそうもない密林に入り込んでいく。とうとう泥でクルマが動かなくなったときに外に出て歩いた。 どこに、そんな「魅惑のバタフライファーム」があるんだよ。。。どこまで行ってもジャングルである。背丈より高いやぶの中をザクザク歩く。母はヒールが泥でグチョグチョになるわ、蒸し暑いわ、見たこともない虫はいっぱいいるわで、カンカンである。(っていうか未開の地に行くのにヒールもないと思うのだが。)そんな母をなだめながら、不安になって10分ほど突き進むと大きな木の看板に「バタフライファーム」と英語で書かれてある浮いたようにすばらしい庭をみつけた。日本の庭園造りに似て、自然の地形を生かした小川やあずまやがあり、いい感じである。ワクワクして入るとドイツ人のような品のいい女性が出てきた。「何か御用ですか?」蝶は見当たらない。どこかに囲ってるのかな?彼女が言うには蝶は放し飼いなのだが、活動時間は朝で、今は全部眠っているという。確かによくあたりを見渡すと2,3匹ひらひらと舞っている。あんなサントドミンゴに行ったなら朝からこちらにくればよかったなあ。。(今となってはこれも強烈な思い出となったが。)悔やみつつキトの郊外のパニシージョの丘へと向かったのだった。パニシージョとはパンの形に似ているところからつけられたらしい。しかし、運が悪いことに着いたとたんにひどい夕立。これだからエクアドルの気候って落ち着かなくてイヤになっちゃう。1日のうちに晴れ、曇り、雨、雷、そして冬のような朝の冷え込み、夏のような昼間の暑さ、全てがあって落ち着かない。(おっとの落ち着きがないのはそのためか?)ここは頂上のでかいマリア像だけみて、雨が収まるのを待って 「ミタデルモンド」という有名な赤道記念碑へ移動した。「エクアドル」とはスペイン語で「赤道」である。だから、当然赤道があって、赤道記念碑前には白い線が引かれていてそこが赤道だということを指していた。その上をふざけながら、なぞり歩いて記念館に入る。中にはエクアドルのインディオの歴史と人種が展示されていていた。めんどくさいんで説明はしないけど、やっとエクアドルにこれだけさまざまな人種がいる理由がわかったような気がする。晴れてきたのでキトの旧市街に行く。おっとはイタリアに来る前より治安があまりにもよくなってきれいになったのをみて驚いていた。それもそのはず、その後、入った蝋人形歴史博物館で聞くと2004年にミスユニバースがキトで開催されることが決まり、そのために急遽、整備されたとか(空港も拡大工事中だったし)。この時点でいいかげん、いろんなところを廻りすぎてヘトヘト。それもあるが、街しか出歩かない母が密林で「もう耐えられないわ!!」という文句を100回以上は叫ぶのを聞くのにもヘロヘロになった。更にこのあとは。。。。(まだ続くかよ、って?) この夜は待ちに待った私のミラノの学生時代のエクアドル人の旧友との食事会だったのである!(おっとと付き合うまで彼女がエク人だってことも忘れていたぐらいエク人離れした娘なんだけど。。。)彼女と、彼女が連れてきた友達はいちどヨーロッパにも旅行に来てうちにも泊まったのでおっととも顔見知り。(ライフスタイルもエク人じゃないでしょ?)私たち2人とこの友人たち、そしてその彼氏彼女たちとアメリカ系のファミレスで夕食に行った。フライドポテトやハンバーグの大きさはアメリカサイズ、並みじゃない。そして油でギトギト。う~、食べるのが苦しい。。。。 そのあと、どうなったかと言うと: わたしはおっとの実家に帰るなりトイレに駆け込み、夜中じゅう、腹痛に苦しんだのだった。正露丸よ、ありがとう。