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カテゴリ:子育てサロン
先週の子育てサロンは第1回目「グループの中のわたし」
で、2回目の今日が「何が伝わっているか」 う~ん、なんでこんなタイトルつけたんだろう~~~? 誰が、つけたんだぁ~~~って、 始まる直前に悩む・・・悩む・・いやいや、わたしに決まってるのだが。。 行政のお仕事に限らず、企画モノは、 実際に当日参加者と顔を合わすときと、企画段階では、ズレ、時差がある。 で、わたし自身も、半年も前のわたしとは、やっぱり違っている。 タイトルをじぃ~~っと、ながめながら、 でも、当日の朝の参加者の顔を見て、そのときにしか、起こることは起こらない。 学校や園の行事と重なって、今日はとてもコンパクトなグループになった。 それも、何か、凝縮された味わいを引き出す要素だったのかもしれない。 前回「グループの中のわたし」では、全員が欠席することなく顔をそろえる事ができた。 参加者の中には、名前と顔を確認してから、園の行事に走っていくなど、 それぞれがこの場に居る事を、選択した貴重な時間だった。 今回はコンパクトなグループながら、 やむを得ず、不参加の連絡をいただいている人以外に、 30分だけ参加して、走っていく参加者や、 他の予定を早く切り上げて、30分遅れて駆けつけた参加者もいた。 それぞれが、かなりの強い意志を持って、この場に居ようとしているのが伝わってくる。 簡単なシンプルなワークで、 「感情移入しすぎて、涙がとまらない」人や、 「これはわたしにとって、危険なワークだ」とエッジを感じ取った人など、 この参加者たちの、人間の奥深さを感じる。 たった一言を相手に、伝えるだけなのに、言語以外の多くのものが動く。 感謝の言葉、謝罪の言葉、 「ありがとう」「ごめんなさい」 後半は、言葉を使わず、音で楽器で表現するワークになった。 ある参加者が言った。 「わたしの周りには音楽の専門家が多いせいか、楽器を手に取るのを躊躇していたが、 こんな風に、自由に触れる場所があるって、いいな」と。 そう、「専門家」といわれるひとたちが、はびこっている現代社会。 音楽も演劇も、プロだけの限られた人たちのものになってしまった。 おかしい。 もともとは、太古の昔、そんな専門家など居なかった。 嬉しいとき、嘆くとき、音楽や演劇は癒しとなって、喜びを増幅させて、 誰にとっても、もっと身近なものであったはずだ。 専門が細分化されて、医者は、違う科のことなど、さっぱりわからない。 同じ人間の身体を扱っていながら・・・ そうして、専門家が増えるたびに、わたしたちは、切り離され、バラバラにされる。 つながりは、切断されて、 子どもたちが、安心して、世の中へと飛び出すのを阻まれてしまう。 つながりを再び取り戻し、自由に自発的になる環境を復活させる試みが、 「プレイバックシアター」のこのような場であれば、嬉しい。 他の参加者が口を開いた。 「プロの演奏家が奏でるよりも、こうして直接目の前で聴くほうが、断然伝わってくる。」と。 そう、目の前の人のために、その人の言葉を感じ取りながら、 楽器を選び手に取り、誠意を持って奏でる音には、 プロが真似できない、その人の存在そのものが音の振動とともに、伝わってくる。 プロのシェフもかなわない、家庭の料理。 大切な家族のための手料理は、同じ素材であっても、伝わるエネルギーは違ってくる。 子どもたちの細胞の一つひとつに、身体が喜ぶ毎日の食事。 大事な子どものため、大切な夫一人のための、専属のシェフ。 そんなお母さんの存在は、家族にとって、とてつもなく重要だ。 ママたちの笑顔のために、 この子育てサロンが、一役を担ってくれていたらと願う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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