「星も見えない空 淋しく眺め・・・」と歌うのはフランク永井の「羽田発七時五十分」(作詞:宮川哲夫)。
きょうは七夕である。ところどころに青空が覗くが、全体としては薄曇り。どうも星空は望めそうにない。フランク永井さんはつづけて「待っていたのに 会えない人よ」と歌った。七夕は恋の祭りでもある。
戀さまざま願の絲も白きより 蕪村
じつに鋭い。いろいろな恋がある。相思相愛もあれば、遠くからただ想いを寄せる恋もある。恋のかたちがさまざまなら、その主人公の境遇もさまざまである。しかしいずれにしろ恋のはじめは、何色にも染まっていない・・・あるいは何色にも染まりうる・・・白さだ。恋の行方など誰も知らない。しかし今宵は星に願いの糸をかけるのだ。
蕪村の句はそういうことを詠んでいる。
七夕祭は、古代中国(6世紀)の書『荊楚歳時記』を出典とする乞巧奠(こきでん)が元来の名称である。すなわち、
「以綵縷穿七孔針 或以金銀チュウ石為針* 陳瓜果於庭中以乞巧有螻子網於瓜上則以為得巧」
*(チュウは金へんにユ喩の右のつくり)
(綵縷(さいる;五色の糸)を以て七孔の針を穿ち、あるいは金・銀・チュウ石(黄銅鉱)を以て針を為(まね)り、庭中に於いて瓜果(かか;ウリ)を陳(つら)ね、瓜上に於いて網にある螻子(ろうし;おけら、虫)を以て巧を乞う(上達を願う)、すなわち以て巧みを得るをおさめる。・・・山田訓み)とある。
『荊楚歳時記』が日本に伝来したのは奈良時代の750年より前と考えられている。
乞巧奠はその意味するとおり技芸の上達を願う祭りである。平安朝にはずいぶん手の込んだしきたりの行事だったようだ。江戸時代ころになると簡素化して、上下の身分にかかわらず、とくに女性の楽しい夏の風物誌になった。明治時代にはいったんさびれ、再び一層簡素化して現代に残っているような七夕になったようだ。
蕪村の句にある「願いの絲」というのは、織姫に由来して五色の糸を供えたり笹竹に掛けた習俗をさしている。日本で「たなばた」と言うのも、棚機津姫を日本語訓みにしたもので、日本の神話時代の天棚機姫神
(あまのたなはたひめのかみ)に似ていることから同一視された。ただし、七夕祭は織物の神を祀るだけではなく、詩歌や筆蹟の上達、算盤(そろばん)、帳記などの上達を願ってそれぞれに見合う品々を飾った。
【註】『荊楚歳時記』;平凡社刊東洋文庫324の190p. に原文はないが、和訓は、「綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或いは金・銀・チュウ石を以て針を為り、几筵(きえん)・酒脯・瓜果を庭中に陳んね、以て巧を乞う。喜子(くも)、瓜上に網することあらば、則ち以て符応ずと為す」とある。
老いぬれば星影うすき二つ星 青穹(山田維史)
恋や恋なきひと思う星まつり
愛憎の彼岸此岸や星合わせ
平凡社刊 東洋文庫324 1978年初版
七夕祭 『女有職学文庫』より