私は先日、南方熊楠の明治44年の論文に天正少年遣欧使節に関する記述があると、その部分を引き写して書いた。その本を書棚から取り出したついでに、昔読んだのを再び拾い読みしていると、「アッ!」と思い出させた論文があった。その論文に添ったひとつの例として、私自身がもう30年以上昔に採録した怪異譚である。怪異譚ではあるが、亡母から聞いた話で、登場人物の実名がはっきりしている。じつは、それゆえに、私はどんなかたちにせよ公表することをためらっていたのだ。
母方の家は寺院で代々の僧侶だったが、それだからというわけではないが、伝わる怪異譚は多い。しかもそれらは出所があいまいな伝聞ではなく、みな実名が明らかな実体験としての怪異譚である。私は、南方熊楠に倣ったわけではないが、30年ほど前にあらためて亡母から聞き取りした数々の怪異譚を原稿に書き起こした。いま、その原稿をさがしたのだが、引っ越しさわぎで紛失したのか、出てこない。
南方熊楠が、唐の860年ころに成立した段成式著『酉陽雑爼(ゆうようざっそ)』が怪異譚を載せているために多くの批判をあびていることに反論している。段成式は狭い地域の伝聞を採録しているのではなく、古今東西に同じような譚がないか類話の系統を調査している。その怪異譚は決して誇張して記述しているのではない。この方法こそ学問をするものの態度である、と言っている。
この方法論はまさに南方熊楠の態度でもある。熊楠の博学はたんなる知識の寄せ集めではなく、まさにひとつの珍しい事象を見聞きしたなら、その類例をもとめて膨大な資料を披瀝しているのである。
たとえば誰でも知っているグリム童話『シンデレラ』について、熊楠は古今東西の古文書を渉猟し、海外の学者にも類話の渉猟を依頼してきたが、16世紀より古い資料はみつかっていない。しかしながら13世紀に日本の無住著『沙石集』には欧州の諸話より一層詳細に同じような話が書かれていることを発見した。そこからその根を同じくする話の人類学的な真意が問われることになるのである。
さて、南方熊楠の論文『睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信』に、『伊勢物語』『古今著聞集』『拾芥抄』その他外国の例を示し、「霊魂夢中、また心労はなはだしき時、また死亡前に身を離れて他行するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる俗習ありしを知り得。」とあり、私はながらく公表をためらってきた怪異譚を思い出したのである。それはまさに死を前にした人が睡眠中に自身を離れ、遠く飛び、海を渡り、会いたい人の眼前に火の玉となって現れたのだった。
私は、実名を仮名に変えて、この短い物語を書いてみる。
昭和初頭、A夫妻は樺太に住んでいた。ある日、妻は裁縫中に歯が痛んだので、さしたる考えもなく持っていた針で歯を突いた。すると針が折れた。あっと驚いた瞬間にその折れた針先を飲み込んでしまったのである。針は消化器官に入り、しかし便にまじって出ることなく、血管にもぐりこんでしまった。(現在の医学は血管をめぐる針を取り出すことが可能かもしれないが)手術は不可能とされ、血流とともに体内をめぐり、そのまま死をむかえることとなった。
臨終が近いことを告げられた夫は、病床につききりで妻をみていた。妻は眠っていた。しばらくすると目をあけ、「Mさんに会いに行ってきました」と言った。夫は「よく眠っていたけど、夢を見ていたんだね」と言った。すると妻は「いいえ、夢ではありません。私、背中でスーッと滑って行きましたの。でも、Mさんは薄情だった。私がいくら呼んでも逃げて行くの・・・ほんとうに薄情なひと・・・」
・・・そのMさんだが、北海道の江差近傍の土橋に住んでいた(私の亡母の姉である)。夕方遅くなって厚沢部町から帰って来た。道が二股に分かれていて、いずれ再び合流するのだが、ちょうど D の字になっていた。D の下の方が厚沢部町とするとMさんの家(すなわち亡母の実家である寺)は、Dのふくらみの上の方、合流点のやや手前だった。Mさんは二股の岐路を膨らみの方へ足早に歩いた。すると行く手に大きな火の玉が出現した。Mさんは「魂いいいー」と叫びながら、走り、一番近くの家に飛び込んだ。村の住人はみな顔見知りである。「寺のMさん、どうしたのです」「火の玉に追いかけられて・・・」
その家の主人がMさんを寺まで送り届けようと言い、一同が玄関の戸をあけると、庭のスモモの木の枝に火の玉がまるで座るように止まっていた。
Aさんの死が知らされた。のちに、妻の臨終に立ちあった夫Aさんの話とMさんの話とが、日時があまりにも一致するので、ひとつの出来事として、また不思議な話として、亡母も記憶したのだという。
30年ほど前、私はこの怪異譚が、「背中でスーッと滑って行った」というA妻の表現や、「庭のスモモの木の枝」という具体的な細部があるので記録しておこうと思ったのだった。スモモの木があった家の実名もわかっていた。
この話の肝心なところは、死を前にした人の睡眠中の夢として処理してしまえる事柄と、遠く離れて数人の人が同時に目撃した火の玉現象とが、Mさんをキー・ワードとして結びつけられたことである。両者の日時が同じということ以外は証明不可能である。臨終の人が語ったことと数人の人が同時に目撃したこととを結びつけたところに俗信がはたらいた余地があったと言えるけれども、はたして熊楠の言うごとく「俗習」や「迷信」とばかり言えるかどうか。そのような問いかけをせざるを得ない話が、ここに例示できると思う。
念のために言うが、私は無信心者であり迷信を寄せ付けない。他人の信心は何事も受け止めて聞くが、それは自他を厳しく分けて認識しているからであり、私自身の心は動かない。幻想に立脚する物亊・人事を遥拝しない。教団とか党派とか集団とか、軍隊はもとより、とにかく人間が群れで行動するのを見ると嫌悪感をもよおす。ロボット化した集団行動を美しいと思わない。迷信を受け付けない点では亡父も亡母もまた然り。亡父亡母については、迷信を信じない者の心理に迷信らしきことが不図兆すことがあるかもしれない例となる別な話がある。ここでは述べない。僧侶だった亡き伯父は、高徳の僧といわれていたが、この人の仏心は形式を説かなかった。・・・したがって上に述べた話は、あくまでもひとつの人類学的な記録である。