アルフレド・ヒッチコック監督のめずらしい初期作品を観た。『ウィーンからのワルツ』(1933年・英ゴーモン・ブリティッシュ制作の米国映画である。
ヒッチコック/トリュフォーの『映画術』(晶文社刊、山田宏一、蓮實重彦・訳)によると、この作品を撮った当時ヒッチコックは不調で、評判もかんばしくなく、1933年はこの『ウィーンからのワルツ』一本を撮っただけである。そしてヒッチコックは『ウィーンからのワルツ』はひどいできの映画だったと言い、つづけてこう言う。
「しかし、その衰退のなかにも才能は生きていたんだとわたしは信じたいんだよ。『暗殺者の家』はわたしの映画監督としての威信を回復してくれた作品だが、そのシナリオは、じつのところ、『ウィーンからのワルツ』のまえにできていた。」
私がヒッチコック監督のめずらしい作品を観たと言ったのは、じつは『暗殺者の家』(1934) 以後の作品はすべて観ているからで、『ウィーンからのワルツ』以前の作品は "MURDER! (殺人!)" (1930) ただ一作を観ているだけだった。
監督自身が「ひどいでき」と言っている作品をあえてここに書き留めておくのは、この『ウィーンからのワルツ』が、あの世界的名曲ヨハン・シュトラウス・Jr.(息子)の「美しき青きドナウ」の作曲をめぐるストーリーだからである。たとえばウィキペディアにはこの名曲の成立について詳しく記述されている。しかしながらその記述は映画で語られている事情とはまったくことなる。映画の物語が真実であるかどうか、あるいは限りなく真実に近いのかどうか、いずれにしろ私はいま検証するいかなる資料もない。
「美しき青きドナウ」はオーストリアの第二の国歌といわれるほど親しまれている。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団による恒例のニュー・イヤー・コンサートでは必ず演奏され、観客はその演奏を心待ちにしている。
ヒッチコック自身が言うように、私はこの作品のできが良いとは思わないし、どのような経緯で撮ることになったか『映画術』でも語られていない。たしかに私がみるところヒッチコックの気質・・・この映画作家の全作品をとおしてみてとれるヒッチコック自身の「心理的な創作動機」には合わないと思う。スラプスティック (ドタバタ喜劇) 的な創り方も見受ける。それがイギリス的なユーモアかどうかは私には判断がつかない。
YouTube にアップロードされているので、あとでそのURLを掲載するが、映画がはじまるとその冒頭に断り書きが出る。「British Board of Film Cencors: This is to Certify that "Waltzes from Vienna" has been Passed for Universal Exhibition (英国映画検閲局:これは ”ウィーンからのワルツ” が一般公開に合格したことを証明するものである)」
ちなみに『ウィーンからのワルツ』が制作された1933年は、1月にヒットラー政府(一国一党主義によるナチ党独裁政権)が成立し、日本は前年の1932年に陸軍関東軍の謀略により満州国を打ち立て、3月には国際連盟を脱退した。さらに10月にドイツも国際連盟を脱退した。各国は国内の経済恐慌対策におわれてい、アメリカは武力による現状変更を認めないと言い置いて軍事にまで手がまわらず、イギリスもまたインドやアラブの植民地における民族運動で手がいっぱいだった。この各国のスキにヒトラーは再軍備策を着々と実行に移して行った。オーストリアにおいてはドルフース独裁政権が成立し、ファシズムが浸透しつつあった。
ヒッチコック監督『ウィーンからのワルツ』