私はこのブログの5月14日の日記に、若桑みどり氏の大著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』をその朝に読み終えたと書いた。1582年、キリシタン大名3氏、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信の名代として派遣された「天正遣欧使節」の4人の少年はローマへの長途の旅に着く。伊東マンショ(正使)、千々石ミゲル(副使)、中浦ジュリアン(副使)、原マルティノ(副使)の4人である。彼らはローマ教皇やスペイン国王フェリペ2世に謁見し、各地で盛大な歓迎を受けた。少年たちの見事な態度と知性は、ヨーロッパの貴顕の賛嘆やまなかったという。彼らは8年後の1590年に帰国した。・・・しかしながら日本の状況は一変していた。バテレン追放令が発布され、宣教師やキリシタン信徒の虐殺がはじまっていた。4人の少年たちはそれぞれ過酷な人生を歩むことになる・・・
伊東マンショは信仰を守りつづけ、後年、司祭に叙階された。中浦ジュリアンも司祭に叙階されたが、長崎で逆さ穴吊りによって殉教した。もっとも語学に秀でていたといわれる原マルティノはマカオに追放された。そして千々石ミゲルは・・・どのような理由か不明ながら棄教した。
千々石ミゲルの生涯は、裏切り者の汚名を着せられ他の3人とはまったくことなる苦難の人生だったと思われる。棄教後の彼の人生については詳細は不明で、謎とされてきた。
さて、長い前置きになった。
じつは今日の朝日新聞夕刊に、その千々石ミゲルの遺骨発掘とそれにともなって少しばかり明らかになったことがらについて報じれれている。長崎県諫早市は千々石ミゲル終焉の地といわれ、墓石が確認されていた。新聞によると、現存される千々石ミゲルの子孫と有志が墓所調査プロジェクトを立ち上げ、あしかけ10年の歳月をかけて、暮石の下に墓穴があることを発見した。そして夫婦と思われる男女の遺骨を発見した。長持を転用したとみられる棺のなかの女性の遺骨の胸のあたりには、ガラス玉や板ガラス片の信仰具と推測される物が置かれてあった。男性の遺骨は横向きに足を曲げて横たわり、副葬品はなかった。
この男性遺骨が千々石ミゲルであり、二体が夫婦であり、妻がキリスト教信仰者であるなら夫もまた信仰者であったろう・・・
いまだ研究途上にあり、推測の域はでないと(私は)思うが、しかしながら千々石ミゲルの棄教の真意を問う、あるいは問わざるを得ない今回の遺骨発掘であることは間違いない。そして、私は日本におけるキリスト教布教史にまったく不案内であるが、あえて棄教の汚名をかぶって信仰を守り抜くという信仰のありかたの明らかな証拠となるなら、これまた新たな研究問題が出てきたと言うべきかもしれない。
朝日新聞「千々石ミゲルは棄教したのか」
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【後記】
上の記事を書いた後、ベッドに就いてから思い出した。天正少年遣欧使節の動向の一端に触れている当時の記述を、意外にも南方熊楠が明治43年7月刊行の『東京人類学会雑誌』に発表した論文のなかに見出すのである。論文の主題は少年使節についてではない。いま、その論文から抜き書きしてみよう。
南方熊楠『本邦における動物崇拝』より「蜜蜂」の項。
〔前文略〕「予が大英博物館にて閲せし ‘Breve Ragguaglio del’ Isola del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族がローマに派遣せる使節より聞くところを板行せるなり)に、日本に蜜蜂なければ蜜も蜜蝋もなし、その代りに一種の木あり、好季節をもってこれを傷つけ、出る汁を蒸留して蝋代りの品を採れども、蜜蝋ほど稠厚ならずとあるは、漆のことを言えるにや。」〔以下略〕
平凡社 東洋文庫352 『南方熊楠文集 1』165~166p.
文中の ‘Breve Ragguaglio del’ Isola del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585 は、『1585年にフィレンツェで再版された日本島に関する短報』とでも訳せよう。ただしdel’ Isola とあるのは、原本の誤植か、あるいは熊楠の誤記か東洋文庫の校正ミスかは判断できないが、dell’ Isola が正しいかもしれない。
さて、私が注目するのは南方熊楠が大英博物館で閲覧した上記の本のイタリア語原本が、1585年にフィレンツェで刊行されているてんである。
若桑みどり氏の著書によれば、少年使節の一行は1584年11月14日にスペイン国王フェリペ2世に謁見している。そして翌年1585年3月1日にフィレンツェに到着した。ローマに入ったのは3月22日の夕方だった。つまり南方熊楠が閲覧した再刊本は、まさに少年たちがフィレンツェに到着した年に刊行されたことになる。さまざまな行事に少年たちは出席し、その様子は若桑氏が教皇庁の記録などから書いている。しかし私が興味深く思うのは、蜜蜂と蜜蝋の話題が、かの地の貴顕とのあいだにあったというエピソードである。この些細ともいえるエピソードに活き活きとした情景が浮かんで来はしまいか。さらに私が感心するのは、少年たちが話したこんな事柄が、遠国の「情報」として短報誌に記載した、そのフィレンツェの情報収集力である。実のところ産物情報は貿易等で重要なのだ。さすがにルネッサンスのまっただなかにあったフィレンツェである。
南方熊楠によるこの記述は、典拠原本も明記されているが、天正少年使節に関する歴史書には書かれていないような気がするのでここに書いておく。