ボイルドエッグ社長の村上達朗氏が亡くなった。享年71。
村上達朗氏はお若い頃、早川書房の編集者だった。私の記録によれば1979年(昭和54年)にお会いして、村上氏が担当してくださり最初の仕事が始まった。『イギリスミステリ傑作選』全15巻である。これはイギリスでミステリ・ファンへのクリスマスの贈り物として毎年刊行されていた書き下ろし短編集の翻訳本だった。その74年版が第1巻であったが、早川書房版はオリジナル版の刊行順序を変えて、75年版を最初に刊行した。総合書名『ポートワインを一杯』である。私は村上氏との第一回目の打ち合わせで、それまでの各社のミステリ本の装丁がやらなかったであろう「静物画」で装丁してみたいと提案した。もちろん小説の内容からまったく遊離したものではなく、付かず離れずの静物画である。村上氏は即座に賛成してくれた。私は最初に刊行する巻に、ミステリ小説の祖と目されているエドガー・アラン・ポーへのオマージュとして、彼の肖像画を小さく描き、グラスに入った一杯のポートワイン を捧げた。
・・・こうして『イギリスミステリ傑作選』全15巻の刊行が始まった。
1年ばかり後、この仕事と並行して早川書房版ディクスン・カー小説集を手がけることになった。担当編集者はやはり村上達朗氏である。
じつはこのディクスン・カーを始めるにあたって、村上氏が少し冗談ぽく、しかし内心に動揺を隠しているような口調で、私に文句を言ったのである。
村上氏がディクスン・カーの話を私に持ち込む少し以前から、私は東京創元社版のディクスン・カー小説集を手がけ始めていた。同社の戸川氏が拙宅を訪れてのオファーだった。戸川氏は、「早川さんでやられているイギリス・ミステリ傑作選のような、小説内容を直接に示すような絵ではなく、静物画のような暗示的な装丁画になりませんか」と言った。東京創元社版の私が担当した装丁画にはそんな経緯があった。
村上氏は私と会うやいなや開口一番、「ひどいじゃないですか、ウチでもディクスン・カーを山田さんにやっていただこうと準備していたんです。当然やっていただけるものと思っていましたので、発刊が決定する直前まで山田さんには黙っていましたが、・・・東京創元社さんのを見てびっくりしました。私は今でも山田さんにやっていただきたいので、これから会社で会議を開き、結果は後日ご連絡します」
この話には私もびっくりした。結局、早川書房版ディクスン・カーも私がてがけることになった。ただし東京創元社版とは画風を変える。私が提案したのは、全巻共通のモチーフとしてタロット・カードを使うこと。さらに、当時流行していた「白い」表紙にする。当時、白は、たとえば銀座の新築ビルディングや、車の人気カラーだった。版権取得契約は別であったにしろ同一作家の競合する出版社が、私というイラストレイターの装丁画で両社から同じ時期に刊行するというのは、大変珍しいことだったと思う。早川書房と東京創元社が話し合ったのだと後に聞いた。ディクスン・カーのファンの中にも驚いた人たちがいたようだ。
こうして早川書房版「ディクスン・カー」新装版全21巻の刊行がはじまった。この刊行最中に担当編集者が村上達朗氏から二人の編集者に変わった。たぶん村上氏は早川書房を退社して独立を準備されていたのだろう。しばらく後に、村上氏から「ボイルドエッグ」社を設立した旨のご連絡をちょうだいした。
村上達朗氏と私は8歳違い。私のほうが年上なのだが、氏の30歳前後から私の30代の仕事の面倒をみていただいた。イラストレイターとして画家としていろいろ思い出多い仕事をさせてもらった。あらためて村上達郎氏のご冥福を祈ります。
上の右 釣り小屋の中の道具類は村上達朗氏からお借りした。壁に掛かっているジャケットは村上氏が着用されていたもの。