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カテゴリ:「神の子たち」四ノ宮監督
●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第10回目
1991年5月、エモンが家族の近くに戻り家族の世話をしていた。 クリスもJRの家に戻って親子3人暮らしていた。 クリスが話してくれた。 「私たちにとっていい生活は必要ありません。 子どものミルク代と1日3回食べれればいいです。 私たちは今家族が一緒なので幸せです」 僕の妻となった彼女は妊娠5ヶ月目に入っていた。 10月5日、マニラの小さな診療所で 自分の子どもの生まれる瞬間に立ち会った。 僕は「この世で自分よりも大切な存在ができ、 僕は2番目になった」と感じた。 1992年7月22日、 日本語で「こんにちは」も言えない妻と赤ん坊たちで 日本の生活を始めることにした。 1993年秋、一家で800円しかなくなり、初めて貧困の現実を体験した。 僕は妻から言われた。 「今のヒロがいい。フィリピンにいる時、 あなたはいつもお金があり、いつもどこかにいっていたので、 私は今のほうがずっと幸せよ」と微笑んでくれた。 僕は映画の内容を、 「かわいそうなゴミ捨て場の子どもたち」から 「家族の絆を大切さにするゴミ捨て場の子どもたち」 を中心とした話に変えた。 そして、ついに僕は、強烈な悪臭と不衛生な環境にさらされ、 金銭的な苦労をしながらも、スモーキーマウンテンと呼ばれた ゴミ捨て場に生きる子どもたちの生活記録映画 「忘れられた子供たち スカベンジャー」を完成させた。 そして、1995年5月に東京の若者の街、渋谷で公開させ、 日本各地やアメリカを除く世界各国でも上映されるようになった。 しかし、その後、スモーキーマウンテンでは 住民の強制立ち退き話が持ち上がり、 街は賛成派と反対派に分かれていた。 時のラモス大統領は、「フィリピンはゴミ捨て場の貧しい国」 というイメージを嫌い、11月にゴミ捨て場を閉鎖、 すべての住民の強制退去が行われた。 すべての住民は近くの仮設住宅に移転させられたが、 住民の生活手段はごみを拾って生きる以外の方法が何もなかった。 ~以上、四ノ宮浩監督手記、 『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~ 【1】へ 前へ 次へ ★『(仮題)天国の子どもたち』公式HP http://sensotoheiwa.office4-pro.com/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年02月24日 01時09分17秒
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