●『新作映画・そして僕自身のためのノート』連載第11回目
1998年ごろ、僕と妻とクリスは長年の念願だった
スモーキー跡地近くのトンド地区に
NGO「忘れられた子どもたちの家基金」事務所を作り、
ゴミ捨て場の子どもたちの教育援助などをはじめた。
しかし、僕と妻のどちらかが日本でどちらかがフィリピンという
生活を余儀なくされ、だんだん夫婦仲が悪くなり、閉鎖せざるを
えなかった。
この頃、初めて僕は命を狙われ、人を本気で殺そうとも思ったが、
やめた。
僕の心のどこかで「今、人を殺して、次に生まれ変わるとしたら、
ひどい境遇に生まれるぞ」と別な僕がささやいた。
その頃、僕はあるカメラマンに
ゴミ捨て場の子どもたちを撮影したいと言われ、
ケソン市パヤタスゴミ捨場を案内することにして、驚いた。
その地では50mに1人の割合で
障害を持った子どもたちが生まれていた。
水頭症、小児麻痺、ダウン症、脳性まひなどの子どもたちだった。
その日、僕は初めて子どもに触れない経験をした。
生後数週間のその赤ん坊はまるで
映画のETに出てくる子と一緒の外見だった。
しかし、その子の母親も4、5歳の姉もその子を抱きあげ、
頬摺りをし、その子を愛していた。
僕は自分の差別した気持ちを恥じた。
数ヵ月後、また訪れてみるとその子は神の子となっていた。
だから僕はその地で
障害を持って生まれた子どもたちの映画を創ろうと決めた。
ある日、街をうろついていると、
1人の母親が僕のそばに駆け寄ってきた。
「赤ちゃんが吐いて下痢なので病院に連れて行って」
僕はすぐその家に向かうと、
元気そうな赤ん坊が寝ていたように見えた。
僕はすこし安心し、タクシーの拾えるところまで
その親と赤ん坊を連れて行かせた。
次の日、一晩中、病院をたらいまわしにされ
死んだ赤ん坊の遺体と対面した。
日本人の僕が病院まで連れて行き病院で「お金の面倒を見ます」
といえばその子の命は助かったはずだ。
僕は自分の判断ミスから、1人の赤ちゃんの命を救えず、
悔やんだ。
2000年7月、撮影開始後1週間で、予想しなかったゴミ捨て場
の崩落事故がおき、1000名の住民が生き埋めになった。
僕たちは毎日毎日、死臭漂う中で、ゴミの来なくなった、
生活手段を失った住民の生活を撮り続け、2001年5月に
映画「神の子たち」を完成させ、公開の準備に入った。
~以上、四ノ宮浩監督手記、
『新作映画・そして僕自身のためのノート』より転載~
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★『(仮題)天国の子どもたち』公式HP
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