カテゴリ:1960年代のウィーン少年合唱団
(初公開2013年4月28日--再編集2022年7月) ウィーン少年合唱団・ナイダー隊の少年 私が高校生の頃、生まれて初めて書いた、手紙らしい手紙は何とドイツ語でした。 それも憧れのアウガルテン宮殿宛ての見知らぬ年下の少年にです。 書いて出した相手がウィーン少年合唱団員というだけで、お返事は来るような気がしていました。←いいですねぇ、この頃はまだ初心な希望に包まれていて。 そしてついにある日、一通の空港便が、暗い玄関の郵便受けに入ってきた何通かの白い封筒の中に混じっていました。 まさかとは思いながらも、願いを込めて手に取ると、それは私宛に来たエアメールでした。 えっ、来た、来たんだ ❕ すぐにウィ―ン少年合唱団員からのお返事だとわかりました。←他に何がある。 初めは胸がドキドキして、何度も何度も深呼吸を繰り返しては封筒を見返すばかり。 でも、胸の鼓動は治まらず、とうとう興奮のあまり、ウッソォー!と叫びながら二階の自分の部屋に駆けあがる途中で、昔風の狭くて急な階段から足を踏み外して、思い切りくるぶしを捻挫しましたっけ 。 しかし今までにあれ程心地よい痛みがあった事でしょうか。←マゾの気があるのかいな 人は心持ち次第で、どんな痛みにも耐えられるものだって、その時知りました。 確かそれまで頭痛だか腹痛だったかもあったような気憶がありましたけど。 勉強机の隅に置いてある、64年来日組ペーター君とスメタナ君の切り抜き写真の横に、私宛の名前が書かれてあるその手紙を並べて置くと、すぐに封を切るのがもったいなくて、まずは初めて見る本物のドイツ語の、くねくねと並んだ文字を眺めて長い間楽しんでいました。←ゲッ、オタクかァようやく心を決めて封を切ると、中からそっと取り出した一枚の白黒のポートレートには、あの紺の制服を身に付けた見知らぬウィ―ン少年合唱団員の姿がありました。 へぇ~、この子だったんだぁ~、私が手紙を書いたのは----。 (この写真を載せることは本人に承諾を得ています。) 写真の裏には「あなたのペンフレンドを記念して」と記してあり、サインがしてありました。 その文字を読んだ時、生まれて初めてのペンフレンドが、憧れのウィーン少年合唱団員であることを把握して、自分がこんな幸運に恵まれて良いのかと、天国にいるような心地だったのを覚えています。 -----かわいいボクちゃん 、これからもよろしくね。 どうぞ君の髪と瞳の色が私の好きな鳶色でありますように。 そして、待望のお手紙の中には、一目で恐れを成すほどに何か、ぎっちりといっぱい書いてあるではありませんか。 えっ。 ウッソォ~ 最悪じゃぁ フエ~、な、なにィ~、この文字、やだぁ、読めそうもないよぉ。 それまで見てきた横文字は、はっきりした活字と、学校で習ったきれいな文字だけです。 まだ小学生の年代の外国の少年の、こんな癖のある横文字なんか、生まれて初めて見るのです 。 何とかなれ~ィと覚悟を決めて、あとは必死になって訳との闘いが始まりました。 テレビを見ながらようやく始めたばかりの独学のドイツ語で、親しい友人や子供に使う親称のDuと、大人同士の礼儀正しい敬称のSieの区別さえちゃんと把握していません。 どうやら私はその小さな少年に、大人に使う敬称を用いて手紙を出したらしく、手紙のお礼や自己紹介の他に、返事の内容にはそれらしき事が書いてあります。 「僕はまだ14才になっていないので」 と、ミミズのような字をそこまでは訳せました。 ・・・・・それはちゃんとわかってるんだよ、ちびちゃん。 君がその14になったら、私は日本に来て舞台で歌ってくれる君の素敵な歌声を何度も聴きに行くのだから‥‥と、すっかりその子が3年後に来日するつもりになっています 「僕はお願いします、心静かにまたは音のしない、親称を使用せよ。」 な、なんだ 、これは‼ 何て変な文を書く子だ。 これは絶体にスペルを間違ってる。 まずい、国語が苦手な坊やと文通を始めてしまったぞ。 自分の浅い知識なんか棚に上げて、こんなわけのわからない文の手紙をもらって、これからどうしてよいのか、嬉しい気持ちよりも先行きの方が不安になってしまいました。 考えに考えた末、勇気を出して以前ドイツに住んでいた事があると聞いた校長にその大切な手紙を渡し、ず~~いぶん長い時間を掛けて翻訳してもらいました。 もう、一刻も早く返してもらいたくて気が気ではありませんでしたけど。 しかしドイツに住んだ事があっても、たいしてドイツ語の出来ない人は沢山いますからね------多分----校長もその分野だったのかも。 ようやく返してもらった手紙の訳は、大体私の訳した文と合っていて、あのわけのわからない言葉は「僕はまだ14歳になっていないので、どうぞ構わずに親称を使って下さい。」ということだったのですが、その彼自身は私に対して敬称を用いていました。 ちゃ~、なんたる礼儀正しい少年なんでしょうねぇ。 15歳の私に敬称なんて・・・・・と、すっかりお姉さん気分でした。 ここで初めて知ったのは、 ① 辞書通りに訳していると、とんでもない事になる。 ② そして、もっと後で知ったのは、私の安物の辞書が大して役に立たない事。 けれど、この小さな少年のお陰でドイツ語の文を書いたり、読んだりすることが益々おもしろくなってきました。←実は~未だに”趣味の程度”止まりですが。 私は彼になんとまぁ、沢山の愛称を付けたことでしょう 天使ちゃんとか、ねずみちゃんとか、ちびチャンとか・・・。 けれど私の日本の友人達の間では最終的に ”ウサギちゃん” がニックネームに留まりました。 間もなく 私を親称で呼んでくれるようになったウサギちゃんからは、ウィ―ンからだけでなく、驚いたことに海外の演奏旅行先からも、いろいろな絵葉書が送られて来ました。 まさか、海外からまで絵葉書が来るとは。 更に驚いた事は、合唱団の事を書く時の人称はいつも ”僕” ではなく “僕達” になっていましたから、なんだか合唱団と文通しているような気になっていました。 私は長い間、この少年がナイダー隊であることさえ知りませんでした。 「僕たちは昨日Wiener StaatsoperでCarmen von Bizetに出演して歌いました。」という文を読んでも、何のことかわからなくて、あぁ、歌ったんだ、で終わっていましたからね。 ウィーン国立歌劇場もカルメンもビゼーも、ドイツ語では解らなかったのです。 私は少年たちの歌声は大好きでしたが、文通を始めてからはもっぱらウサギちゃん自身ばかりに興味を持ちました。 ウサギちゃんの初めてのクリスマスプレゼントは、モーツァルト玉と呼ばれる オーストリア名物の、もうかなり甘いマジパン菓子と、黄金のシュファン教会のガラスの雪玉でした。 当時、私のかなり少ないお小遣いの中から確か紺色の子供用のはっぴを最初に買いましたが、その後のプレゼントに何をウィ―ンに送ったのかもうすっかり覚えていません。 ウサギちゃんと文通を始めてから、私の心の中は何時も 何時も 何時も この”ウサギちゃん” でいっぱいなのでした。←へばりつき病の発端 ところが、私と一緒にアウガルテン宮殿に手紙を出したピンクのワンピースのクラスメートには、ちっともお返事が返ってきませんでした。 そこで、有頂天になっているのは私だけではいけないと思い、64年組ヨハンの大ファンの彼女の為に、ウサギちゃんに文通相手を頼み、彼女は今度こそ、と喜び勇んでその少年にお手紙を出したのですが、再びいくら待ってもお返事が来ませんでした。 そうこうするうちに、私にはウサギちゃんの他にドレスデンや日本各地にもペンフレンドが出来て、毎日手紙を書く喜びに浸っていました。 そんなある日、関西のファンの文通相手から、私がウィ―ン少年合唱団員と文通していることなど信じられないといちゃもんの手紙が来ました。 本当にびっくりしたのですが、嘘つきと思われたくなかったら、証拠を裏付ける為に彼の手紙を見せて欲しいと書いてありました。 そもそも彼女のお手紙からは、いつも財閥の御令嬢を思わせる高慢ちきな印象を受けていて、読む度に劣等感を植え付けられていたのです。 大切なウサギちゃんのお手紙をそんな人に見せるなど・・・ 一度は断りましたが、「ウソをついているから見せられないのだろう。みんなに言いふらす。」 と言う脅迫状の様なお手紙をもらい、自尊心を傷付けられたポンチキチは、なにくそとアホ丸出しでその人にウサギちゃんのお手紙を封筒ごと送るはめに陥ったのです。 (ガハハハハ~、ほんとバカみたい) 送ったお手紙は戻って来ましたが、それから何週間か経ってから来た彼女のお手紙には「あなたのペンフレンドにお手紙を出して、団員を紹介してもらいました。ウサギちゃんのように年少ではなくて、もう立派な14歳のチロルの少年でスキーがとっても上手だそうです。」と書いてあり、私好みのいやにハンサムなその団員の写真のコピーが添えられてありました。 ウギャギャ~、私がどんなに怒り狂ったか分かります?←でも今は滑稽 そりゃ~、もう、清し愛しきウサギちゃんをばっちく汚されたような気分でした。 それに、それを知った私のファン級友はすっかり失望して、ピンクのワンピースを脱ぎ棄ててビートルズとべンチャーズに乗り換えてしまったのです。 でも、ウサギちゃんにそんな事は一言も告げませんでした・・・・・と言うより、そんな怒りや悔しさをうまく表現できるようなドイツ語の能力はありませんでした。 音楽のことなど大した話題に上ることなどもなく、ウサギちゃんとの文通の回が重なり、新しい写真が送られて来る度に、どんどん少年らしさが増して来る彼の早い成長ぶりが判ります。 けれど私の精神年齢と下手くそなドイツ語は元の場所に留まったまま。 そしていつか気が付くと、自分はひどい筆不精だと書いて来たウサギちゃんからの手紙は、お話上手なお父様の代筆に代わっていました。 ウィーン少年合唱団の来日する1967年になると、ウサギちゃんからの新年最初の手紙には、自分の隊が日本には行かない事が知らせてありました 。 そして、どの合唱団の、どの団員も日本に行く事が大きな希望であり、来日する僕らの仲間達が日本のファンの方たちに喜びに輝く演奏会をもたらすように祈っていますと書いてありました。 67年組が来日すると、私は自分のドイツ語を試したくて、ウィーン少年合唱団のコンサートのほかに、彼らの宿泊先の高輪プリンスホテルにも出向きましたが、会話の程度を知って、ウサギちゃんがいなくて本当に良かったと思いました。 そして来日組の人気については、もらった切り抜きなどを少し入れて知らせましたが、さすが、その手紙には後に出す記事の、マンフレット君とのいざこざなどとても書けませんでした。 多分大見栄を張って、完璧なお姉ちゃまのままでいたかったんでしょう。 私の「ウサギちゃん」は、その冬に変声期を迎え、合唱団を退団しましたと知らせて来たのは、ウサギちゃん自身ではなく、彼のお父様でした。 意外だったのは、時を置かずして、ウサギちゃんからの紹介だと言う未知の合唱団員から手紙が届き、押し花の入った、とても上手なペン書きの丁寧な文通の申し込みがありました。 ウサギちゃんでいっぱいになっている心に、誰も入り込む余裕はなく、いくらウィーン少年合唱団の団員だとしても、嬉しい気持ちにはなれませんでした。 そして、後に続いて来たウサギちゃん本人からの懐かしい懐かしいお手紙には、自分の近況ばかりでなく 「残念ですが、これからは勉強で今までよりもずっと時間がなくなるので、僕より熱心に手紙を書く団員を代わりに君に紹介させていただけたら嬉しく思います。」 という添え書きと、自分が集めた大切なはずのウィーンの綺麗な記念切手が沢山同封してありました。 お父様からのウサギちゃんの変声の知らせを受け取った時も涙を流しましたが、ウサギちゃんの住む遠いウィ―ンの風景のこの切手を見ながらその少年を想い、この悲しい、半分お別れのような手紙を胸に抱いて、今度は大泣きに泣いてしまいました。 両方の本にはナイダー隊の写真が沢山載っていて、今は退団しているウサギちゃんを見つけるたびに胸が痛く、悲しくなりました。 文通の初め頃、彼からウィーン西駅でカウボーイハットを被った写真が届いたときは、青きドナウの映画を思い出しましたが、それはこの時のアメリカ演奏旅行っだったのかと、後で知ることになりました。 此処に載せるのは、64年に来日したフロシャウワー氏の指揮で、ウサギちゃんのクラスが歌っている最高の水準を保っていた頃の合唱団の動画です。 みんな腕を後ろに組んで、健気に指揮者を顔で追っているんですよね。 1971年にウサギちゃんと会ってから、友人の死をきっかけにウィーンとは縁を切っていたのですが、今はまたネットを通じての交流があります。 2015年2月3日にウェブリの方に載せたこの記事のドイツ語訳を読んでから、彼はこんな写真を送って来てくれました。 そして、僕が紹介した少年が手豆に君にお手紙を書いてくれていた事を願います、と添え書きがしてありました。私はもう覚えていないのですが、これは私から送られたお人形だそうです。 これを見る度に君を思い出します、と書かれてありました。 確かにハラルドは手豆に楽しいお手紙を書いて送ってくれていましたよ。 でも、初めてのペンフレンドのウサギちゃんは矢張り私の特別な存在でした。 そして・・・、彼は確かに今でもまだひどい筆無精なんです。
気持玉数 : 19 この記事へのコメント Melba 2013年04月28日 22:10 私に初めて手紙が届いた日と気持ちを併せて読んでいました。 手紙の封筒を見てドキドキ。 この時点で、うそぉ~ですが、何故だかお返事を頂けるような気がしていました。 封を開封するのももどかしく、ぎざぎざに手で途中まで開き、途中からはさみを使いました。 今もその封筒を見るたび昔の記憶が蘇ります。 文面を何度も音読しました。 初めての手紙は、貴重な想い出ですよね。 語ってくださりありがとうございます。 元団員さんの最後の手紙を拝読した時に、私も思わずもらい泣きしました。 ponko310 2013年04月29日 04:36 Melbaさん 貴女と懐かしい気持ちを分かち合えてすごく嬉しいです。 私はウィーン少年合唱団の切り抜きだけでなく、手紙すら処分してしまったのでもう読む事はできませんが、思い出は鮮明に残っています。 でも貴女の場合は来日した希望の団員からのお返事でしたから、喜びはもっと大きかったのでしょうね。 心の健康の為にもこれからもずっとその方との交流が続いて行きますように。 YUKARI 2013年12月10日 00:34 ウサギちゃんの事がここでわかりました。 あ~、どうしても気になっている事がひとつ。 最初のイラストはP0NK0さんが描かれたものなのでしょうか。 何もかもがすごくかわいくて、大好きです。 ponko310 2013年12月10日 01:27 YUKARIさん ウサギちゃんを見つけてくれて有難う。 まるで我が子の様に私の最愛のおちびチャンでした。 残念ながら今はもう立派なおじさんですがね。 はい、あのイラストは1965年に描いたものです。 よく取ってあったと自分でも呆れています。 Yuichann 2021年04月15日 20:42 Ponko さん うさぎちゃん、今もお元気でウィーンにお住まいですか?ウィーンもコロナ禍で大変でしょうね。当時の写真、なんて可愛い天使君でしょう。此方のブログも楽しく拝読させて頂きました。次のペンフレンド君は手豆だったのですね。(ハラルド君でしたっけ) ponko310 2021年04月15日 22:10 Yuichannさん うさぎちゃんは合唱団を卒業してから、音楽の道には進みませんでしたが、良い職業に就いて社会に貢献していました。 今も元気でウィーンに住んでいます。 お父様の時代から合唱団員なので、お孫さんもウィーン少年合唱団に入れてくれたら嬉しいのですがね。 彼の代わりのペンフレンドは、本当に手まめにお手紙をくれていましたよ。 お詫び:コメントを入れる時、何度も数字の打ち直しを要求されるのですが、スパム予防の為だと思います。 貴方の失敗ではないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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