カテゴリ:青春時代の欧州旅行
(初公開2013年7月13日ー再編集2023年1月10日) 東ドイツ・ロストックからベルリンへ その声と、中からドアを開ける音を耳にするとホッと胸をなでおろしました。 わっ、やっぱり居たんじゃないか。しっかし、あんなにベルを押したのに、よくもこんなにしっかり眠れるもんだと、これはドアが開く直前までに思ったことです。 そして黒ずんだ木製のドアが半分開くと、そこには・・・んぎゃ! 髪の毛がぐしゃぐしゃに乱れて、古ぼけたこげ茶色のよれよれの長いガウンの前をはだけた、パンツ姿の寝ぼけ顔の青年の姿がありました ウッソォ~ ‼ 向こうだって目をむきましたよ。←だよね、突然来るんだもの びっくりした彼は私を見るなり、あわててガウンの前を合わせると、ピッと姿勢を正して、丁寧にお辞儀をしながら私の右の手を取って、その甲にキスをしました。こっちは電撃訪問の失礼などそっちのけで、すぐさま身を翻してそこからすっ飛んで逃げたかったくらい。けれど手紙でも常に冷静賢明な彼は、固まった私に目下の居場所を聞いて納得すると、軽く髪をかき上げながら 「10分後にもう一度ベルを押してください」と頼むと、みすぼらしいガウンのすそをひらめかせてサッとドアの向こうに消えました。 え~、今のって。ウッソォ~、本当にパンツ姿見ちゃったのかしら。←海水浴場ではみんな海水パンツ姿なのにね。階段を登る途中で、今の場面が浮かんでしまい、爆笑の衝動に駆られましたが、両手でギュッと口を押さえたり、ほっぺたを軽く叩いたりしながら、気持ちがすっかり治まるまで座り込んで、苦し涙を懸命にぬぐっていたのです。勿論、彼の名誉の為に、友人にも、素敵なコーヒー青年にもそんなことは一言も言いませんでした。(でも、このブログでみんなにバラしちゃうんですよね~。私は完璧に地獄に落ちる人‥‥ということで私もブロ友さんたちに陰で扱き下ろされている羽目に‥‥。) 10分後、上階の親切な青年に別れを告げて、いよいよ彼に正式の?訪問をする時間です。ベルを押すとすぐにドアが開いて、服を着た彼が両手を広げて待っていました。満面の笑みを湛えて、ちゃんと髪の毛も整えてありました。私も友人Yも頬にキスの挨拶をされ、自分たちが日本にはいない事を痛感しました。この当時では普通の日本人でしたら握手や頬の接吻の挨拶なんて・・・ねっ。だって、美青年のヴォイテクからバラを受け取った時も、まず初めに頭を下げてしまったのですから。 これも後日知るのですが、東ドイツでは初対面でもキスの挨拶が頻繁だったのです。 ソ連のブレジネフと東ドイツのホ―ネッカーの親愛の図・・・・ゲェ。 これは以前はただの灰色の東ベルリンの壁で、東独の住民はこの壁に近づくことさえも禁じられていました。1989年の秋に壁が崩壊してから後に、これらの壁には世界の画家の手によって多様の絵が描かれました。イーストサイドギャラリーと呼ばれています。 私達は予定通りに来れなかった事を千回も謝りましたが、彼は案外ケロリとしています。彼の狭い一部屋のアパートでは、野次馬で最初に小さな台所を覗きました。 「あ、これ、クノールのインスタントスープ!」 「これは大事なものだから君たちにあげられないよ。」 「そんなもの日本に沢山あって食べ飽きてるわよ。あ、これ、ネッスルのインスタントカフェー!」 「それも大事に使ってるから、君達にはこのコーヒーだよ。」 「ネッスルなんて日本で飲み飽きてるわよ。」 なんでも、スイスの演奏旅行で知り合った方が送ってくれたとかで、東ドイツではものすごく貴重な品だったらしいのですが、物資の豊富な日本から来た私達には判りませんでした。ケチ、と思ったものですが、私達には東ドイツのロンドコーヒーの方が結構口に合っていました。 そこの狭い古めかしい部屋で、なけなしの朝食を取った後、立派なロストック大学で彼の受け持ちの教授達に紹介され、事情を話して、彼は5日間の授業休みをもらいました。 大学ではいつもの癖で階段をダダダと下り出してしまい、←今は出来ません 靴のかかとをツルッと踏み外し、両足を伸ばしたままの滑稽な形でずるずるっと下まで滑り落ちて、ストンと床に尻もちをついてしまいました。←おキャンですよね 友人Yは大声でケッケと笑いましたが、彼はけがが無くて良かったと、私を起こしながらケロリとした表情を崩さないので、これが可笑しくないなら何が面白いのか不思議に思いました。 ひょっとしたらさっきの私のように、笑いたいのを我慢していたのかも、ですね。 うん、そう言えば手を洗いたいから、と言ってしばらく消えていましたっけ。 当時のロストック大学と現在(2013年) 当時のロストックと現在 ロストックには、私も写真で知っていた彼の兄がオーケストラの指揮者として働いていました。やはり、元ドレスデン十字架合唱団団員で、母親似のとてもハンサムな青年でしたが、ここでの初対面の時にはユーゴスラビア人の美人な奥様との間に、これまた可愛らしい小学生の娘さんのいる家庭を持っていました。私達は此処で、お手製の美味しいクッキーとコーヒーをいただいた後、ロストックの旧市街と港を車で案内してもらいました。ロストックの港ではバルト海の風に吹かれながらポズナンの方角ばかりが気になって、ことあるごとに昨日別れたばかりの素敵なヴォイテクの事が思い出され、この街の事は殆ど覚えていないのです。。。。。。若かったなぁ 心はポズナンに轢かれ、この石の一つに立って東の方ばかりみていましたが、私達の旅は続かねばなりません。 東ドイツの事情など全く知らない私達は、彼の配慮で警察に行き、新しく滞在申請をしてドレスデンへの移動許可ももらい、その日は彼の口利きで、大学の友達の部屋に泊まらせてもらいました。私達を泊めてくれた魅力的な女性は、私達の目の前であることなどとんとお構い無く、恥も外聞もなく、盛んに彼にセックスアピールをするように、太腿も露わに悩ましく座るのでこっちがどぎまぎしてしまいました。これもず~っとあとで知った事だったのですが、当時の東ドイツはかなり性に開放的だったようで、貞淑な私達は彼女らからまるで ”ガキ” のように見られました。そこでもまた私は敬虔で礼儀正しい人々に囲まれた、ポズナンでの心地よかった日々や雰囲気を懐かしく思ってしまうのです。 その翌日に私達は列車で東ドイツの首都、ベルリンに向かう事になりました。 当時の東ドイツのシンボルの入ったロストック駅と現在のロストック駅 彼は家から駅に向かうまで、私達の重いトランクを一人で運んでくれました。私達が自分で持つと言ったのを、僕が運ぶからと進んで持ってくれました。けれど、ものすごく重いのは自分で持って知っています。それを二つですから、2分もしないうちにへばりました。その上、午前中からものすごく気温が上がり、太陽が焼けつくようでした。2分でへばって、30秒休んで。そんなことで駅に着いた時はもう、彼の服も髪も汗でびっしょりでした。いいとこ見せようとしてふんばるからでしょ。それを見ると、またあの爽やかなヴォイテクを想い、彼がスマートに私の重いトランクを持ち運んでくれた姿が思い返されます。←あぁ、なんという感謝の無さ。若さとは愚かな許されるエゴなのか。そして、ため息・・・。 ベルリン行きの列車はソ連と同じようなコンパ―トメントになっていて、窓は硬く閉まって開けられないうえに、中は蒸れるように暑くて更に汗をかきました。私達と一緒に太った大柄な中年の女性が座っていましたが、彼女は大きな布袋を自分の足の間に挟んで置き、その中から茶色の300ml入りのビール瓶を次から次へと出しては飲み続けていました。ビールを飲みながら珍しそうに私達をじっと見ています。日本では見た事も無いような場面でしたからこっちもあっけにとられました。 東ドイツの首都ベルリンに着くと、そこの駅に荷物を預けます。 1982年当時のフリードリヒシュトラーセ駅 現在のフリードリヒシュトラーセ駅 まったく何もない退屈な風景でした。 今は観光客でごった返しています 私達は彼に付いてこの様なくすんだ色の、古い大きな建物の間の道路をかなりくねくねと歩かされました。 実はこれは現在も残っている当時のままの建物の一つで、この下の道路の部分は 昔は考えも及ばなかった落書きがこのとおり! 私達は菩提樹の下という名の大きな通りに出ました。 (1970年代。写真はWikiから。) この通りは昔、王族達がベルリン城から馬車で、お狩り場の森へ向かう時に使った道です、とドレスデンの青年は教えてくれました。ずいぶん歴史的な大きな建物が右にも左にも連なって建っています。彼が一番初めに連れて行ってくれたのはベルリンの大学でした。このフンボルト大学でかつては陸軍軍医の森鴎外がロベルト・コッホ教授の下で医学を学び、帰国後に自分をモデルにした小説”舞姫”を書いたのです。 この大学の正面玄関には高校時代の授業で習ったドイツの思想家カール・マルクスの有名な言葉が記されていました。(現在もです) 「哲学者達は世界をさまざまに解釈して来たが、 重要なのはその世界を変える事なのだ。」 もっと大事なのは、その世界をどう変える事かなんですよね。 古い建築物の立ち並ぶ遥かかなたには、ドームのようなものが見えました。 ベルリン大聖堂と教えてもらいましたが、ドレスデン行きの列車に乗るためにはすべてを見学出来ないので、踵を返して隣の国立図書館の入り口を見ました。ところが門をはいると鬱蒼とツタの絡む壁に囲まれた正面玄関があり、そこが余りにも雰囲気が良かったので足が先に進まなくなってしまいました。 出来る事ならそこに1時間でも2時間でも座って瞑想していたかったのです。何をかって?そりゃぁ、過ぎ去ったヴォイテクとの時間をですよ。ったり前でしょうが。 もう、若きウェルテルの悩みになっちゃってたんですよ。あの当時にすでに携帯電話なんてものがあったら、しっきりなしに二人してチャットとかいうものをやっていたんでしょうがね。けれど友人やこのペンフレンドの手前そうも言ってられない。次はブランデンブルク門ですってさ。バッハのブランデンブルグ協奏曲は好きで聞くけれど、なぁに、その門は? 向こうにはコンクリートで固められた延々と続く白く高い壁が見え、その壁の向こうには緑に茂った森があり、彼方に何やら金色に輝く女神らしき像が望めました。 ここは昔、ベルリンに住む王の、お狩り場への入り口に当たる門だったそうで、今は若い国境警察官が、銃を持って物々しく警備に当たり、誰も近づけないようにしています。東ドイツに入ってから、この様な銃を持ったスマートなカッコいい制服の警備隊を見たのはベルリンが初めてだったので、門よりもそちらの方に目が行って、友人と二人でウキウキしていると、それまで向こうの白い壁を黙って見詰めていた彼が、 「あの門の向こうには自由の街があるんだ。」 と、憧れるような眼差しでポツンと言いました。私の知らない外国にまで演奏旅行に行く合唱団にいながら、それでも不満なのかと思いましたが、自由な日本から来た私達には彼の思う、その本当の意味での ”自由への羨望 ” はとうてい理解しがたいものだったのです。 1989 年にベルリンの壁が崩壊して東西が一つになると、この門は自由なベルリンの象徴として観光の名所になりました。 当時私が遥か彼方に見た金色の女神にも、何の障害も無くこの門をくぐって行く事が出来ます。そして東ベルリンで初めてこの門を見た日、何年か後にこれを反対側の壁の向こうに見るだろうなどとは夢にも考えておりませんでした。 付けたしです。 2014年6月10日 ブランデンブルク門のそばの ホテル・アドロンで その過去など思う事なく、吞気に朝食を取るローリング・ストーンズのメンバー。
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