カテゴリ:青春時代の欧州旅行
これは記事68からの続きです。
(初公開2013年7月ー再編集2023年8月) 1971年 東ドイツ ベルリンからドレスデンへ 私達がその日のうちに向かったのはザクセン州にある彼の実家です。 よかったぁ、気温も少し下がって来てますよ~。 列車の中では過ぎ去る景色をボウっと眺めながら、益々遠くなるポズナンの事をしつこく考えていました。 「ポン子、実は君にとても悲しい知らせがあるんだ」 突然のペンフレンドの言葉でぬぼ~っと現実に戻りました。 彼は膝の上に置いた手をこすりながら、実に言いにくそうにこちらを見ていましたが、思い切ったように口を開きました。 「僕達を紹介してくれたマウワァースベルガー氏がこの2月にみんなから去って行ったんです」 ・・・・・え、あの指揮者が去って行ったって・・・どこに? ・・・・え、ウッソォ~・・・・! 私はドレスデンを訪問し、そこでドレスデン十字架合唱団のレコードを買って、マウワースベルガー氏のサインをもらうつもりだったのです。 だから、たった3か月前に亡くなってしまったなんてうそだとしか思えません。 (偉大な音楽家への追悼の記念切手) 私達はしばらく何も話さないで・・・そう、駅に着くまで何も話せなかったのです。 「彼は長い間病気だったし、残念だけれど神に召されたんだ」 彼の言葉で、氏はきっと合唱団の歌声の中で安らかに 昇天されたのだと思うことにしました。 私達がドレスデンの駅に着いてからラーデボイルと言う街の丘の中腹にある彼の実家に向かう頃は、もう夕方になっていました。 そこは多分上流家庭の住宅街ではないのかと思える様な(なにしろ初めての外国なので何でも珍しく、何でも素敵に見えました)手入れの行き届いた家々が木々の間にこじんまりと建ち並んでいます。 彼の家も白壁の素敵な洋館でした。 御両親から温かく迎えられ、美味しい鳥肉料理(鳥のクリーム煮)の後は、お母様から庭に誘われたので何事かと思ったら、大きな赤いフキの様なものが生えている場所を見せてくれました。それを何本か切ると砂糖で煮て生クリームの乗った甘酸っぱいデザートを作ってくれました(私達の口には甘すぎましたけど)。 このルバ―ブ、 今は我が家の小さな庭の隅にも小さな株で生えています。 私たちの部屋は二階にあって、それは彼と彼のお兄さんがまだここにいた時の少年達の部屋でした。階段の踊り場の窓の横には可愛らしい木のお人形が並んでいました。 (写真はイメージですが、記憶にはこのように残っています。) 友人は気分が優れないと言って食事の後はベッドに横になりましたが、私はペンフレンドと二人で遅くまで合唱団のレコードを聞きながら、何冊ものアルバムを見たり、団員達の面白いエピソードを聞いたり、話題が多く話し上手の彼との時間は本当に楽しく過ぎて行きました。 「君は綺麗なドイツ語の発音をしてるね。僕も君の為に標準ドイツ語を話す努力をしているつもりだけど生まれつきのザクセン訛りはどうしても出てしまうんだ」 でも、私にはそのザクセン訛りと標準ドイツ語の違いがまだ全然わかりません。 「私のドイツ語はテレビで覚えたドイツ語なのよ」 そもそも、ウィ―ン訛りの事は知っていましたが、ドレスデンにも訛りがあることなど全く知りませんでした。 ポーランドで都会のポズナンでは気が付きませんでしたが、木々に囲まれたラーデボイルでは朝の5時前からすでに小鳥達の春の合唱が部屋の中にまで響いていました。 その頃の日本の都会と言ったらスモッグで、鳥の歌声など殆ど聞こえませんでしたから、あのさえずりは幼年時代の懐かしい横浜を思い出してとても嬉しく感じました。 私のペンフレンドのお父様はクロイツ教会の牧師という任務に付いていました。 その日は、お父様の黒いベンツに乗ってドライブです。 そのころは日本でも黒のベンツなど大会社の社長が運転手付きで乗るもので、まさかこんなところでこんな高級車に乗れるとは思ってもみませんでしたが、ベンツはドイツで生産されるので教会の牧師でもこんな車が持てるのだろうと普通に考えていたのです。←超能天気+バカ+アホ+ボケ+無知+薄学 これも後で知ったのですが、東ドイツではベンツどころか、トラバントという超やぼったいマッチ箱車でさえ、注文してから20年も待たないと手に入らないのだと聞かされました。彼のお父様は年に一度スイスで開かれる国際宗教会議とやらに参加していて、多分その時にベンツを手に入れる機会に恵まれたのかもしれません。 私達はお母様も御一緒にピルニッツと言うエルベ河畔に建てられたザクセン王の夏の離宮を見学させていただきました。 ちょうど黒いスレートの屋根が工事中で、観光客など一人もいなく、前庭に花は咲いていたもののそれは閑散とした離宮でした。 この城の庭には200年前に日本から渡って来たという椿の大木がありました。 ウィキペディアより:ピルニッツのツバキは、カール・ピーター・トゥーンベリが1775年から1776年の日本旅行の際にロンドンのキュー・ガーデンに持ち帰った4つの標本のうちの1つであると言われています。 4 つの植物のうち 1 つはロンドンに残りましたが、残りは他の王室庭園に譲渡されました。 1 つはシェーンブルンに送られ、もう 1 つはハノーバー ヘレンハウゼンのベルクガルテンに贈られ、4 つ目は 1780 年代にドレスデンの宮廷に届いたと言われています 。 この説が正しければ、日本から持ち込まれた4つのツバキのうち、ピルニッツツバキが唯一現存していることになります。 「この椿の為だけに温室が冬に建てられるんだよ、いつだったかものすごく寒い年に暖房が壊れた事があって庭師達はこの椿が枯れないように休みなくバケツで熱湯を此処に運んだ事があったんだ。」 温室といってもガラスの桟にはあちこちに錆が出ているし、大きいだけが取り柄?ドイツの冬の寒さを知らない私は、なぜ椿の為に温室を建てるのか不思議でしたが、この日本の古木を寒さから必死に守ったと言う話には随分感動しました。 ドイツが統一されてから3年後に日本の観光案内役としてこの宮殿を訪れましたが、ちょうど夏だったので何とあのやぼったい温室は取り外されていました。ネットで調べたところ、今はすべて改新され、この赤い花を咲かせる椿は自動室温装置の設備された移動式の温室によってドイツの厳冬からしっかりと守られているそうです。 毎年10月の終わりに近づくとこの右のガラスの温室がツバキを覆いに動きます。 初めてドレスデンを見た時、街はすべてセピア色。 これはもう、ポーランドからの続きの色なのでびっくりもしませんでしたが、街の真ん中にこんな瓦礫がほっぽらかしになっているのを見て驚きました。 「第二次世界大戦の時、ドレスデンはイギリス空軍の爆撃で瓦礫の街になって しまったんだ。これはその時の教会の残骸だよ。ドレスデン十字架少年合唱団でも当時12人の少年達が犠牲になってる」 1945年2月の爆撃後のドレスデンの様子 この真ん中にあるのが瓦礫になる前のフラウエン教会ですが、ある時、形を保っていた丸屋根がレンガに籠っていた熱であっという間に崩壊してしまい、あの形になってしまったと説明してくれました。 1990年10月3日にドイツが統一してから、目ざわりだった あの瓦礫は世界中からやって来た旅行者の寄付のお陰で、現在は昔の美しいフラウエン教会の姿を取り戻しました。 この日、私達はドブネズミ+黒ネズミ色のクロイツ教会に行ってみました。 彼が送ってくれた写真で知ってはいましたが、実際に見るとやはり大した飾りも無い、ただやたら大きい石造りで全くがっかりでした。こんな素晴らしい少年合唱団の教会だから、エルベ川の近くのカトリック宮廷教会の方が似合ってると思ったのですが、ドレスデンクロイツ少年合唱団はプロテスタントだったのでした。よくもまぁ、こんな知識でヨーロッパに旅行に行ったものです。 私のペンフレンドは鍵の束をじゃらじゃらさせながら薄暗い教会の階段を上がって、上から下を眺められる席に案内してくれると、自分はその鍵でパイプオルガンの蓋を開けました。そして重々しいそぶりで椅子に腰かけると背を正して最初の鍵盤をドビャーンと押しました。 それまで静かだった教会にオルガンのすごい響きが鳴り渡り、私達は一気に緊張。 その後、彼は私達がそこに居ることなど忘れたように次々に厳かな宗教曲を弾き続けていましたが、その横に座って上から誰もいない教会の祭壇を見ているうちに必然的に思い出した手紙の文章がありました。 「僕は愛が無くても生きていけるけれど音楽が無かったらこの人生は終わりなんだ」 あれは私達がまだ16歳だった頃の、この青年が書いて送って来た手紙の文句でしたっけ・・・。 今、彼はダライラマとも親しい交友のある著名な宗教学者になって教授と博士の二つの号を持っています。 ペンフレンドは毎日のように新しいものを見せてくれましたが、彼の家から木々に囲まれた閑散とした石ころ坂道が続く何と言う事も無い近くの丘に登った時です。 「この石はいつごろからあるのか知らないけれど、どんな事をしても壊せないんだ。多分、宇宙からの隕石じゃないかって言う事だよ」 そう言って教えてくれた鉱石の様な色をした大きな岩にはそれこそ数えきれないくらいの小さな傷が付いていて、何人もの人がこんなつまらない所に来ているのだと知りました。そして、そのそばには大きな祠の様なものがあります。 ( ビスマルク塔 ) ひんやりとした薄暗い石の穴倉のその中にはこんないたずら書きが。 「私はいま此処にいる。そして、いまこれを読んでいるあなたも此処にいる」 それをボケッと読んだ時はすぐに理解出来ませんでしたが、もう一度じっくりと読み直してからハッと気が付いて、しばらく感動で総毛立っていました。 「私は本当に、此処にいるんだ。 日本じゃなくてヨーロッパにいるんだ」 ↑人から言われないと気が付かないドン そのラーデボイルからモーリッツブルグ城という小宮殿に行くことになりました。 さびれたような小さな駅で列車を待っていると、ポーッと気笛が聞こえて、やって来たのは何と、ウッソォ~! 小さな蒸気機関車ではありませんか! でも蒸気機関車! 昔、まだ小学校の低学年の時に上野の駅から仙台にある祖父母の家を訪ねた時はガタゴトと長い時間を掛けて蒸気機関車に乗って行ったものでした。当時、上野駅には上京してきた地方の中卒の少年少女でまだ溢れていました。その子達の不安そうな、そして寂しそうな顔つきがまだ目に浮かんできます。その団体を後にして列車に乗ると、かかしの立つ田んぼや木に囲まれた農家や、湿った林のある景色が次々と追って現れるのが嬉しくて、おせんべいを食べながらずっと窓に張り付いていました。トンネルがあって、急いで窓を締めないとすっぱい臭いの黒い煙がもわ~っと入って来て、みんなでむせてゲホゲホやらなければなりませんでした。 その蒸気機関車に再び乗れる事がとっても嬉しくて、 モリッツブルグなどと言う目的地にずっと着かないように望んでしまいました。 そして、着いたモリッツブルグ城は湖の島の中に建っていました! そう言えば昔、彼が送って来た小さな写真の中にそのお城が写っていましたっけ。手紙から出てきたそのロマンティックな風情に一度は行ってみたいと望んでいた場所なのです。 ここにも観光客は誰もいず、心はその遠くに見えるメルヘンのお城に急ぎます。 期待に燃えてその湖に掛かる橋をルンルンと渡り、・・・・・ウッソォ~。 そこには色のあせた城と例の殆ど黒に近いセピア色の、崩れかけたような石細工が醜い姿でぐるりと残酷にお城を巡っているではありませんか。 何百年も経っているから、それとも戦争の炎が此処にも延びて来たから? でも、かえってすべてがセピア色だから春の明るい新緑や、華やかに咲く花々の色がそれに映えて、古い芸術の絵の中にいるような不思議な雰囲気にさせてくれていたのでした。 私は確かこの狩りの宮殿で90人以上ものザクセン王の側室の絵画を見た様な覚えがあるのですが、・・・それともピルニッツ城でだったかツヴィンガー宮殿でだったのか? ともかく覚えているのは、宮殿の一室に上から下まで四方の壁にびっちりと掛けられた美しい女性たちの絵画です。 「なにしろ、ザクセンのアウグスト2世は不可能な程の多くの女性にこれまた信じられないくらい 多くの子孫を産ませたんだよ」 彼がその艶やかな女性たちの絵を見ながらそう語ったのを覚えています。そしてその時はその不可能に近い多くの子孫の一人が将来の夫(前夫)になるとは夢の中の夢にも考えていませんでした。←ぎゃー! 私達はモリッツブルグを充分に満喫すると、今度は待望のドレスデン聖十字架少年合唱団の寄宿舎に向かいました。 (1931年代のドレスデンクロイツ少年合唱団の寄宿学校とマウワースベルガー指揮者) ポーランドのポズナンの少年達は寄宿制度ではありませんでしたが、ドレスデンはウィ―ン少年合唱団の様に親元から離れて生活しています。 寄宿生活は映画「青きドナウ」を見てからずっと私の憧れでした。(プップクンも寄宿学校でしたが、お陰様である意味、憧れから覚めました。) その憧れの寄宿舎に向かっているのですから、少し緊張しています。 戦後に修復されたクロイツ学校の前に来ると、ちょうどお腹も空いていて12時のお昼の時間も過ぎています。どこか近くに食堂でも無いのかときょろきょろしましたが、なぁ~んにもない。 ドレスデンの中央駅からここまで、食べ物が買える店も一度も目に入らなんだ。 「さぁ、早く中に入ろう。 ちょうどお昼の時間だから合唱団と一緒に食事をしようよ」 え~! どうなってるんだろう、そんな勝手に入って、勝手に喰らっていいものか。 それにもう、1時も過ぎているからお食事は終わっているでしょうに--------と、思いながらも自分は他人の家に入った盗人気分になっています。 しかし、彼はあたかも勝手を知っているかのようにどんどんと中に入って行くのです。 あ、そ~だった!! この人、最近まで此処で生活していた団員だったんだっけ。 私はいつも此処に居た彼に手紙を送っていたのでした。←もう住所を忘れてます。 私達は恐る恐る彼の後に着いて行くしかありませんでした。 すると大きなダイニングルームに誘い入れられました。 そこにはタイミング良く少年達も年長組も集まっているところでした。 少年達は私達を見ると自分達の席にと誘ってくれましたが、ペンフレンドはムンムンの年長組の座る席に私達を導きました。(チェッ!) きっと日本からの訪問客など初めて見る団員も沢山いるのだと思いました。 私達が席に着くと白いお皿に盛った詰め物の入った大きな赤いパプリカの料理が運ばれて来ました。良く覚えていませんが、年長の団員が運んで来たような記憶があります。 食事の前には短い感謝の合唱がありました。 お腹が空いていましたが、それでも詰め物入りのパプリカは不味くて、漸く我慢しながら食べ終わりました。少年達はこんな不味いもの食ってる(;>_<;)んかぁ、と可愛そうになったくらいです。すると金髪の小柄な少年がやって来て、もう一つ勧めてくれたので慌てて辞退しました。このぼうやは人慣つこくて何かとまとわりついていましたっけ。 お食事の後は午後の合唱の練習まで、自分の部屋に戻る少年達が多かったのですが、今日はみんなが此処に留まっています。 なんでよぉ~。 私のペンフレンドは早口で皆に何か話していますが、ちっとも理解できません。 何故か彼は後輩の団員達から一目置かれているような印象を受けました。それでもこんな話し方をする彼は今まで知りませんでしたし、これがかのザクセン訛りなんだ。 うわぁ、チンプンカンプン。 私の友人が、みんなで何を話しているのか知りたがってせっつきますが、私にもわからないのですよ。ここってホントにドイツなのかさ、って感じで。 そのうちに周りのムンムンの男の子達が私達に向かって聞き出しました。 「ねぇ、日本にも沢山の歌があるのでしょう?」 「そりゃぁ、ありますよ、綺麗な日本の歌は数えきれないほどあります」 「ではお願いだからその一つを僕達に歌ってくれますか?」 えっ~~!! 驚いてあたりを見回すと、何十人もの団員達がそろってガタガタとこちらの方に椅子を動かしたり、しなやかに体をねじったりして、期待にきらきらと輝く瞳を一斉に私達に向けているのでした。 このあとの続きは止めておいた方が良いのではないか・・・と。 💕 お詫び:コメントを入れる時、何度も数字の打ち直しを要求されるのですが、スパム予防の為だと思います。貴方の失敗ではないのでどうぞお気を悪くなさいませんように。それでもコメントをくださる方には心から感謝したします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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