カテゴリ:青春時代の欧州旅行
(初公開2013年9月21-再編集2024年2月10日) 自分の人生を変えてしまった1961年撮影の映画「青きドナウ」にはトニーとペーターがグリーンスリーヴスを二重唱するこんな場面(←クリック)がありました。 わたしゃ~この映画のせいで独学でドイツ語を学び出し、3年間も必死に働いてウィーンに行く決心をしたのですからね。 ところで「小さな歌」の11章「演奏旅行組へ」を読んでから映画の中のこのマックス先生の音楽室が気になって、此処が一体アウガルテンパレスのどの辺なのだろうと調べ出していました。 ところがいくら建物をひっくり返してもこの場所の検討がつきません。もうお手上げになってとうとうこの映画に出演した知り合いの方に尋ねてしまいました。 「ここはアウガルテン宮殿ではありませんよ。表の景色はアウガルテンですが、これはスタジオ内で撮影しました」 ひゃ~、この部屋はただの演出だったのです。映画ってすごい! 確かに11章にはレッスン室はただ白い壁の部屋だと書いてありました。そんなお部屋で歌の練習の撮影をしたら興が覚めてしまうかもしれないのでわざわざこの場面の為の素敵な舞台を作ったのですね。 そんな事とは知らずに、ひたすらアウガルテンの生活に憧れていた少女時代でした。 ゲオルクさんのランク隊も1959年の「朗らかに鐘は鳴る」の映画でザルツブルクのマリアプレイン教会(←クリック18:13)で歌っていましたが、演出の為にスタジオで撮った大写しの場面についてや撮影の事などが41章でとても興味深く書いてありました。 実はこの場面だけ演出の為のウィーンのスタジオでの偽マリア・プレイン教会なのでした。 おやおや、1959年まで行ってしまいましたが、さて、ここでまた1971年に戻って【104】の続きを書きましょう。 友人も私も、何とか共産圏色に染められないで無事にウィ―ンに着いた途端、それぞれがペンフレンド達の家に招待されていた為に、お互いにまったく別々の行動を取る事になります。 日本を離れてからこの2週間半、外国語は英語よりもドイツ語を優先する国にいたので、友人はようやく自分の思う様にペンフレンドと英語で話せるウィ―ンに着いて大満足でした。 実際、こっちだってようやく手間が省けるようになったんですからね~。 あの2週間はひっきりなしの通訳でさすがにストレスが溜まっていましたよ。 東ドイツでは頭の使いっ放しで、ヴォイテクとの約束の葉書も出せないくらいくたくたに疲れていました。 1975年に、ドイツに居る私を訪ねて友人が東京から二人やって来ましたが、そのうちの一人がドイツ語の初心者で(私と同じ)やはり殆ど英語の通じないポーランドでは、友達の通訳をやっているうちに神経衰弱の様な症状が出て来たと話しています。 英語が出来てもドイツ語の訳をしてもらっていたもう一人の友人の方は、これまた凄い美人でしたからあちこちで声を掛けられていたみたいです。←私達は勿論そんな事はなかったからにぃ~ それに加えて、彼女達はあのナチのこわ~~~~~い収容所のあるアウシュビッツにも行って来たという事でしたから・・・・ウヒ~、それだけでもオカシクなるのは当たり前じゃんかぁ。 なにしろ、職業にしている訳でもない外国語の初心者が不本意に他人の通訳なんかするのはすごく神経を擦り減らすってことなんじゃよ。 話を1971年に戻しましょう。 私がマリアの家にお世話になっている間、なんと、優しいコックの見習い君は彼の日本のペンフレンドの為に何日か休みを取っていてくれていました。 あのね、日本でみんなからキャーキャー騒がれていた合唱団の素敵な少年達だって、自国で制服を脱げば頭の良い、特にもてはやされるわけでもない普通の男の子になってしまうんです。 だからココは自分の事が大好きなペンフレンドがわざわざ日本から会いに来てくれたのがきっと特別に嬉しかったんでしょうね。まして二度も来日して良い印象的を深めていた日本で彼女には何度も会っていたのだもの。 私と言えばペンフレンドのマリアはまだ高校生でしたから、ウィ―ンに着いた翌日の午前中はウサギちゃんやヴォイテクやハラルドや東ドイツや、ありとあらゆるペンフレンド達に葉書を書く時間が十分にありました。 その日の午後は打ち合わせの通り、マリアがプラタ―公園に連れて行ってくれましたが、そこで私達はジェフ少年やココを連れた友人と待ち合わせをしていました。 プラタ―公園が何か知らなかった私は、そこが遊園地でもある事に気づきました。 でも、昔、弟と行ったことのある多摩川園のように入場料など取りません。 木々の多い本当に大きな、広々とした公園で、人もまばらでしたが、私達5人はワイワイとそこにある雨ざらしで色の剥げた木製の長テーブルに場所を取りました。(写真はイメージです) ココは友人に、ジェフ少年はマリアと私にそれぞれ大きなグラスに注いだコカコーラを自腹で買って来てくれました。 そこでは元タイマー隊だった二人は、コカコーラはOBになるまで殆ど飲んだ事が無かったな~とか、意味合いのないおしゃべりが続きましたが残念ながら大いに笑ったその他の内容はちゃんと聞き取れなかったので覚えていません。 ただ未だに念頭に残っているのは、ジェフ少年からあっと言う間に私のグラスのコーラを横取りされてしまった事。さっさと自分のを飲み終わったジェフに、残っていた私のグラスから2度も飲まれたのだ! 一回目はさっと取り戻したけれど、さすが二回目にやられた時は「私のコーラだぞ」、と立ち上がって頭をげんこつでゴツンとやったら、背をのけ反らせてガラガラと笑ったので、反省の余地の無い奴なのだとわかった。 それとも遊園地に居たので無料の「頭叩き人形ゲーム」をさせてくれたのか・・・。 彼は日本で初めに会った時から、何となくずっこけた少年だと思っていました。 1976年にドイツに移住してからも、一度電話で話した事がありましたが、すでに幸せな結婚をしていて、ベルリンの「緑の週」と言う博覧会に来たいと言ってそのままになりました。どこか変わった芸術的な才能があるのでしょうか、今は名の知れたアートフォトの写真家としてウィ―ンで活躍しています。1987年に出たフランツ・エンドラーさんの「ウィーン少年合唱団」のドイツ語版ではジェフ事、フリッツ・シーマークが写真の担当をしていました。
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