カテゴリ:どうあっても歴史に残る事
2024年6月1日 土曜日・・・ありゃ、編集が長引いて公開日が6月5日の夜中になったわい。 目下、南ドイツ方面が100年に一度の大雨に見舞われるという情報がある中、今日は産経新聞にプーチンの別荘が全焼した、などというニュースが出ました。 大雨は我が州には殆ど影響はないという事なので、プーチンの別荘放火がドイツではどう発表されているかを心躍らせながら調べたら、何とこの写真の素晴らしい海辺の宮殿別荘ではなくて、カザフスタンとモンゴルに隣接しているアルタイ共和国にあるプーチンの甥の住宅だと判って一気にガクンと気落ちした。 プーチンはムスリムの多い貧しい地方のアルタイ共和国やブリヤート共和国からウクライナ侵攻の為に男子をどんどん兵士に駆りだして戦場に肉弾として送り込んでいます。死んだら行方不明として扱い、家族に手当ても入ってこない事態がいくつもあるらしい。従ってこの放火はプーチン政権への抵抗活動が始まったのではないかと多いに期待しています。ロシアの国民共和国軍(反プーチン派)もロシア義勇軍団も張り切って悪魔のプーチン政権を崩壊しにかかってくれや~。 2024年5月26日にYouTubeにアップされたこの動画(←クリック)を見てください。 2分10秒から「もし、ロシアが核兵器を使ったら」と話されています。 そうしたら第三次世界大戦の始まりですね。どうしましょう~!! そもそも欧州がウクライナに武器を供与してロシア軍の攻撃に手を貸しだした時点で我々は第三次世界大戦への道に進みだしているのかもしれません。 今、ウィーン少年合唱団のシューベルト組が日本で演奏旅行をしています。もしもヨーロッパで突然戦争が始まったら、彼らは安全な日本に留まるでしょうか。 実は1939年に始まった第二次世界大戦の時、海外で演奏旅行をしていたウィーンの少年合唱団が帰国できなくなってしまったことがあったのです。オールドファンはもう知っているお話でしょうね。 それは13年前にアップされた古いウィーン少年合唱団の歌声の動画(←クリック)で使われたこの写真に寄せた、ある女性のコメントを読んだことから始まりました。 「この中に私の父がいます。彼らは全員オーストラリアに残り、結婚して子供をもうけました。少年たちの一人は戦後、両親の面倒を見るためにウィーンに戻りました。他の少年たちは全員ここに残りました。なんと言うお話でしょう!」 もちろんこれにはびっくりしました。団員への性的虐待の情報はあっても、ウィーン少年合唱団の歴史の中でそんなお話なんて聞いたことが無かったのです。コメントは続けてもう一つありました。 「この20人の少年達が残りの人生をオーストラリアで過ごしたことは本当によかったです(おそらく一人を除いて)。1939年9月1日、彼らは西オーストラリアの埠頭に立って、ウィーンに帰る船に乗る準備をしていました。出航前に宣戦布告があったのは幸運でした。オーストラリアの公共放送局が彼らのオーストラリア生活50周年を記念して伝えた素晴らしい話があります。とても興味深く、彼らはとても幸運でした!美しい声!美しい少年達!美しい男性達!」 本当にウィーン少年合唱団なのかという不信感がありましたが、私は最後の「美しい男性達」と言う言葉の中に滲み出ている父親への深い愛しみにひどく感銘してしまって、どうしてもそのお話をこのブログに残したいと思いました。 まだ思春期の少年達が懐かしい家族のいる故郷のウィーンを捨て、オーストラリアに留まったからこそ、コメントを寄せたこの彼女の今の幸せがあるのですからね。 けれどこの少年合唱団が本当にウィーン少年合唱団だったのかどうかはその後の調べでわかることになります。 今のウィーン少年合唱団は、実は1920年に終幕を迎えてしまったホーフブルク宮廷礼拝堂聖歌隊の後継でした。その伝統ある聖歌隊を1924年に再びウィーン少年合唱団として立ち上げたのが団長になったシュ二ット神父でしたが、その時の協力者にゲオルク・グルーバーがいました。その時の隊はまだ一つでしたが、演奏会が多くなるにつれて隊を増やし、今では4つになっています。 カペルマイスター時代のクルーバーの指揮の元で歌うウィーン少年合唱団の歌声。 この動画の写真には59年に来日したマイヤー隊なども入っていますけれどね。映画の「野ばら」や「ほがらかに鐘は鳴る」で歌われた「歌声響けば」の曲などを作曲したグルーバーは何度もウィーン少年合唱団との海外遠征の経験がありました。 その頃のアメリカ公演のポスターですが、ランク隊のゲオルクさんの時代にも主催者はヒューロック・アトラクションズになっています。今もそうなのかな? それにこのヒューロック氏は何と今、ロシアの侵攻の犠牲になっているウクライナからの以前の移民者でしたよ。 グルーバーは後に団長との意見の対立で退任し、1937年にウィーン・モーツァルト少年合唱団を新設しています。その時、ウィーン少年合唱団員だった少年達の何人かが彼を慕ってその合唱団に移動しています。 ちなみに1924年のウィーン少年合唱団の再設立には、1955年の冬に初めて日本に来日したトラック隊のドリー君のお父様(当時24歳)もチームに加わっていたそうです。そのドリー君は1971年に私にアウガルテン宮殿の案内をしてくれたグレーガー先生の歌っていたキューバッハ隊でしたが、来日の前に突然トラック隊に編入されて日本にやって来たそうでした。だから既に印刷され終わった日本のプログラムには彼の名前は載っていません。 ついては、ウィーン少年合唱団が再編成された1924年の前の年に、ベルリンでは最初の飛行場、テンペルホーフに二つの木材の小屋がまずステーションとして建てられました。この写真を見たら、ランク隊がカナダの飛行場に緊急着陸した事が書いてある[小さな歌」の23章を思い出してしまいました。ま、此処までひどくはありませんでしたがね。 私は1974年に羽田からそのベルリンの飛行場に降り立ったのです。その時はもちろんナチスによって建てられた大規模な建築物になっていました。今はその飛行場は使われていません。 あらら、話が枝分かれしましたが、これがこのブログの私の特権です。 でもここからが面白いところです。 さて、職場を退任したグルーバー指揮者を追って、ウィーン少年合唱団から彼の新しい合唱団に移った少年達がいたことは、ゲオルクさんの「小さな歌」の本を読んだ後では何故だか理解出来るような気がしています。好んで歌う少年達は自分の最善の歌声を引き出してくれる指揮者をそれほどまでに慕い従うのだと勝手に理解しました。 グルーバーはウィーン・モーツァルト少年合唱団の指揮者になってからも幅広く海外演奏旅行をしていました。 このポスターには「クイーンズ・ホール、ロンドン・タウンホール、ニューヨークetc.,etc.などでの凱旋公演から直行」とあるのでこの子達が当時の20人の現役の団員達でしょう。みんな何とハンサムな…… けれど1939年の9月、オーストラリアの演奏旅行も終わる頃、第二次世界大戦が突然布告され、この少年達全員が懐かしい自分の故郷から遥かに離れたこの大陸に足止めされる事になったのです。 ところでプーチンがこれ以上狂わないで、シューベルト組が無事に故郷の親元に帰れることを祈りましょう。 動画のコメントの女性も書いていましたが、オーストラリアに新しい人生を見つけたウィーンの少年合唱団の運命は50周年を迎えてラジオでも放送され、新聞にも出ました。 元団員の一人は自分達が当時は経済的に貧しくて、オーストラリアを豊かな生活の国に感じたそうです。そして大人になった今、故郷に里帰りしてみると、自分の生れた国がとても裕福になっている事に驚いたと記事に語っていました。 そして以前はウィーン少年合唱団員だった団員の一人は、自分の娘に自分の遺灰は東チロルの懐かしい場所に巻いてくれと言い残したそうです。その男性が指摘した場所はヒンタービッヒルで過ごしたことのある団員でしか知らない山荘の少年の家の裏にある大きな石の上でした。 2004年に部分的にこの少年達の事が書かれた英語の本が出ています。オーストラリアでは、第二次世界大戦の勃発に伴い、ナチスから逃れてきたユダヤ人難民やその他の人々は、ドイツの身分証明書を持ってオーストラリアに到着すると「敵国人」と分類されました。 中断された旅 若い難民 アラン・ギル著 姿を消した少年合唱団 65年前の今月、ウィーン・モーツァルト少年合唱団合唱団がシドニー市庁舎で満員の聴衆に向かって歌った。テレビの無い時代には、そのような訪問は大きな出来事だった。都会や田舎町から集まった人々は、20人のかっこいい少年達に熱を上げた。その中には当時14歳の亜麻色の髪のすらりとしたヴィリー・シーシュがいた。 指揮者のゲオルク・グルーバーは、当初は気楽そうに見える戦争を楽しんでいたようで、演奏会のスポンサーであるヘンリエッタ・マーシュの家に移り住み、メルボルンとシドニーの音楽舞台に於いて著名なメンバーになった。事態が急変したのは1941年3月3日、憲兵隊がブライトン宅を訪れ、ナチスとの関係を告発されたグルーバーを逮捕した時だった。彼はオーストラリア演奏旅行の際に、ヒットラーの第三帝国での一種の音楽の首謀者として奨励されていた事が主張された。偶然の出来事は人々の人生に大きな影響を与えることがある。サンフランシスコでの2週間の港湾ストライキによって、合唱団の20人の少年と彼らの付き添いの成人達の将来は変わってしまった。 1939年、合唱団は米国とニュージーランドを訪れた演奏旅行の締めくくりに5月中旬からオーストラリアで3か月間の滞在の予定であった。しかしストライキにより主催者はプログラム全体を2週間遅らせることになった。パースでの最後のコンサートの翌日の1939年9月3日、戦争が宣言され、14人の合唱団員はもはや人気スターではなく、事実上オーストラリアで最年少の戦争捕虜となった。 合唱団はメルボルンのダニエル・マニックス大司教の 「養子 」となり、同大司教は彼らを大聖堂の聖歌隊とし、教育や食事・宿泊の手配を地元の家庭で行った。 現在研究者に公開されているグルーバーの機密書類には、「民衆の政治的意志は儀式で表現される」為に軍歌、合唱、民族舞踊をナチスの儀式で教える新しいアカデミー(グルーバーの指揮下で)の設立を提案したと記されている。グルーバーによると彼の役割に対する主張は誇張されていたと言う。 「私は若者の音楽教育プログラムの改訂に従事しました。私は子供たちが歌う曲を選びました」 この書類にはヘンリエッタ・マーシュの手紙が収められており、検察側の文書とほぼ同じ表現で書かれている。まだ生きているマーシュの娘によれば、グルーバー(オーストリアに妻と2人の子供がいた)は母親の恋人であり、手紙は彼が17歳の少女に目をつけた事に対する「彼を処分する為」の単純な復讐行為だった。 合唱団の少年達は父親代わりであり指導者であったグルーバーがもういないことを次第に受け入れていった。しかし、他の団員達によれば、ヴィリーはグルーバーを 「崇拝 」しており、彼の逮捕と投獄に大きなショックを受けたという。その少年は当局にとって迷惑な存在となった。報道によると、それは些細な問題だったという。彼は当局に対して失礼な態度をとり、毎週出頭しなければならない警察署の前で親ドイツ的な酒飲みの歌を歌ったこともあったという。 有罪判決を受けたグルーバーは、ビクトリア州のタトゥラ収容所に連れて行かれた。聖歌隊のメンバー達は打ちひしがれ、何人かがマニックスのもとを訪れ、グルーバーの釈放を執り成してくれるよう頼んだ。彼らは(当然ながら)、大司教はこの問題に「関心を失った」と結論づけた。 元合唱団員のエーリッヒ・トロイナは、ウィリーは認められるべきだと考えている。「彼は全くのヒロイズムでした。彼の態度は、『グルーバー博士を抑留するなら、僕も抑留すべきだ』というものでした。馬鹿げた事にもちろん、彼らはそうしました」 わずか15歳のシーシュは里親から引き離され、南オーストラリア州のラブデイ拘置所に連れて行かれ、年配の敵国人とともに収容された。彼に関する報告書によれば、「ブロンドのウェーブのかかった髪と際立った美貌」を持っていた少年(キャー、見たい!見たい!! )は、数々の屈辱に耐えていたことが記されている。 例えばこんな? あ、この子の髪はストレートだからダメか~… 彼はグルーバーに手紙を書き、タトゥーラへの移送を要請したが、グルーバーも同様の要請をした。「この少年達は私にとって自分の家族と同じくらい大切な人達です…もし彼らの誰かが抑留されているなら、彼の正当な居場所は私と一緒の所です 」 戦争の終わりにヴィリーは釈放された。しばらくの間、彼は昔の陽気な自分に戻り、グルーバーを解放するために様々な計画を立て、少年達をナイトクラブや売春宿にまで連れて行った。 ある日、彼はもう一人の合唱団員、オラフ・シャッパッハーとともにキャンベラへ行き、グルーバーの釈放を個人的に嘆願することにした。シャッパッハー氏は次のように回想している。「ヴィリーは私に『僕達はキャンベラに行く必要がある』と言いました。私達は列車に乗らなくてはなりませんでしたが、お金がありませんでした。するとヴィリーは『見ろよ、あそこにクレイジーなギャンブラーがいるぜ。カードで勝負して僕達の幸運をつかもう』と言いました。それで私たちは合図を決め、ポーカーをして、キャンベラに行くのに十分なお金を集めました」 彼らは労働・国家奉仕大臣のエドワード・ホロウェイ氏に面会を求めた。ホロウェイ氏は彼らの大胆さに感銘を受け、短時間の面会をしたが容赦はなかった。ホロウェイ氏は彼らにきっぱりと言った。「君達の聖歌隊の指揮者はナチスなのだ」 グルーバーの釈放の努力が失敗に終わってしまうとシーシュの気分は変化し、最終的には精神的に落ち込んだ状態になった。 グルーバーは1947年11月にオーストリアに強制送還されたが、20人の合唱団員はオーストラリアに留まった(内 9人はまだ生きている)。 元団員のヘルベルト・シュトロマー氏によると、「私達の何人かは彼を見送るためにポートメルボルンに行きました。私達は彼に近づくことはできませんでしたが、彼が舷窓の外を見ているのを見付けました。縛られていました。私達はボートが繋がれている間、短距離の水面を隔てて話しました。それが私達がお別れを告げる方法でした」 (オーストリアではグルーバーは妻と子供たちと再会し、非ナチ化法廷手続きによって無罪となった。) グルーバーが故郷に強制送還された直後、ヴィリーは宿舎を空け、友人との接触を避け、姿を消した。 1956年、彼の5人の兄弟の1人、元ドイツ空軍パイロットのぺーター・シーシュは彼を探すためにオーストラリアに飛んだ。 新聞とラジオの呼びかけで彼が見つかった。 兄が移民として二度目に戻って来たとき、ヴィリーは兄とその妻のマリアの所に短期間一緒にいたが、間もなく再び姿を消してしまった。ヴィリーを目撃したのはそれが最後ではなかった。 約25年前、メルボルンの店で働いていた元団員のオットー・ネヒヴァタールは、通りの向こうからためらいがちに彼を眺めるみすぼらしい人物を見た。 彼は再度見返してそれがヴィリーであることを確認した。ネヒヴァタールは彼に食事をおごったがヴィリーはその夜に姿を消した。 それ以来、彼の友人も親戚も彼の消息を知るものはいない。 彼を呼び戻そうとする努力(合唱団の同窓会で空席を設けたりオープンドアにするなど)はすべて無駄に終わった。 グルーバー氏は帰国してからザルツブルグに住んでいましたが、その後1951年に南アフリカに渡り、合唱の指導に勤しんで1979年にお亡くなりになっています。 詳しく調べたら結構波乱万丈な一生を送られていましたよね。 2024年の今、98歳のはずのヴィリー君は生きているのでしょうか。
オーストラリアでは2018年にこの事実に基づいた映画が作られたそうですが、ウィーン・モーツァルト少年合唱団ではなくて、ウィーン少年合唱団として撮影してしまったそうな。 Writer of The Sapphires to next tackle Vienna Boys Choir in Australia Film |
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