ひさびさ8月6日に寄す
10年前に記事にものしたことと内容は重複するが,敢えて今書き記すことに意味があると思うに至り,73年後の今日,再び書き起こすこととする。私の母方の祖父は,1945年8月6日,偶然入院していた広島市の病院で被爆した(母はすでに生まれていたため私は幸いに直接の影響は受けていない)。本当に幸いに一命は取り留め,また生命力が強い人だったのか,その日のうちに三次まで逃げのびたようである。しかし,それにしても被爆による傷害は大きかったことは,言うまでもない。命からがら逃げ帰ってきた祖父に,周囲の人も八方治療に手を尽くしていただいたようだ。しかし,なにせ満足な薬もそもそも治療方法すら分からない状況である。井伏鱒二の「黒い雨」にも民間療法的に何がいいとか言う話が出てくるが,祖父の時は酒で体内から消毒するのがいいと言うことになったようで(本当の話だ。だから酒で体内消毒などと軽々にいう輩は私は許せない。)。とにかく酒,いや当時だから酒らしきものも含めて随分飲まされたと聞く。しかし,何せ時代が時代だ。まともな酒があろう訳がない。ただの悪酒ならよいが,その中に不幸にもメタノールが混じっており,目が見えなくなってしまった。いわば二重の身体的ハンディキャップを背負ってしまったのだ。そしてこのことは,一家に悲劇を与えることになる。祖父の仕事は印鑑職人,すなわち印鑑を彫る仕事をしていた。だから視力を失った時点でもとの仕事はできない。すなわち失業である。しかし,それだけではなかった。祖父はもともと酒はほとんど飲まなかったらしいのであるが,治療のためということで酒を大量に飲まされたことがきっかけとなり,加えて自らの境遇を嘆いたのか,1945年8月6日に広島で見た光景がトラウマになったのか(これは私の想像である。),一転毎日大酒を飲むようになってしまったらしい。そして酔っては祖母や家族に辛く当たったりもしたようだ。そして,祖父が職を失ったことで当然家計は苦しくなる。私の母は当初某銀行への就職が決まっていたらしいのであるが,家が貧乏だと言うことで就職を断られたということもあったらしい。ただ,祖父は直系の跡継ぎこそ恵まれなかったが,私も含めて彼の遺伝子をもつ者は残された。さらに祖父の場合,もともと弁が立つ人だったようで,この時期になると原水禁の大会に弁士として広島に出て行ったりしたようである。自分の思いを内向きにぶつけるだけではなく外向きに発することができる人だったからこそ,人間としての矜恃までは失わなかったのだろうと思う。ところで,普仏戦争,いや日清日露戦争の時代までは戦争は戦地だけで起こるものだったが,20世紀以降の戦争は国土がすなわち戦場なのである。これは過去何度も書いたことであるが,あえて強調すると,戦争は結局人間の存在そのものを崩壊させ,否定するのである。だからこそ第一次世界大戦の結果を見た欧米諸国は戦争そのものを違法化しようとし,それはケロッグ・ブリアン条約(いわゆる不戦条約)として結実しているのである(念のために言うと,日本も批准している。ちなみに過去の文書ではなく,現在も条約として国際法上効力を持っている。知らない方も多いようだが。)。近年,国会議員や,したり顔をするアホバカ文化人の中に,第二次世界大戦の日本の行った戦争を肯定しようとする者,いやそもそも実際の戦争とSFやガンダムの世界と区別が付かない馬鹿者が跳梁跋扈し,残念ながらそういう連中の声が高くなっているようではあるが,私に言わせればそういう者はその存在を含めて全部否定されなければならない。ところで広島市というところは,とにかく二言目には反核平和を掲げることはいうまでもないが,広島市民になって二十有余年,安っぽい反核平和スローガンはよく聞くが,本当に腹の据わった反戦への意思表示,さらに言えば何故に反戦平和を語るかというところが全く見えないのだ。既に何度も私は指摘して書いたところであるが,結局単なる「8・6利権」に過ぎないのではないかと思う。もしくは特定の爺さんの国際表彰のためではないかと。ここから話を展開すると,まあいくらでも書けるし,書きたいことはまだたくさんあるのだが,今日はこのくらいでとどめておきたい。書き足りないことは,来週にでもまとめられたらと思う。そう言えば亡くなった母は祖父譲りに弁が立った人で,学生時代から「女弁士」と言われていたらしい。私にそのDNAが受け継がれているかは甚だ疑問であるが。明日からは通常営業です。BlogPeopleSIGMA People(後記)引っ越し,新規開店しました。ろー・ふぁーむ・かるぴおANNEXもよろしくお願いします。