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カテゴリ:教授の雑感
明日はうちの大学の卒論発表会(兼審査会)ということで、私のゼミ以外の、他の先生の指導学生の卒論を何冊か読んでいるのですが、そういうのを読んでいると、色々と考えさせられることがあります。
つまりね、ぜーんぜん違うのよ。他の先生の指導学生の卒論って。その違いたるや、笑ってしまうほど。 ゼミ生は指導教授のやり方に沿って卒論を書くわけで、そうなると指導教授が普段、どういう論文をどういう風に書いているか、ということの影響が非常に大きくなる。 で、うちみたいに、経済学の先生あり、法学の先生あり、情報学の先生あり、教育学の先生あり、文化研究の先生あり、といったごたまぜの科の場合、それぞれ論文の書き方が違うので、結果として学生の卒論もそれぞれになってくるんですわ。 で、私らみたいな文化研究組の先生がたの指導生たちの卒論は、面白いのね。テーマも含め。だけど、こと学問的厳密さという意味では、相当にアマアマなところがある。そこはテキトーなのね。 一方、社会科学系の先生がたの指導生たちの卒論は、堅苦しくてデータは豊富なんだけど、テーマ自体がつまらないし、研究の結果、導き出された結論も、間違ってはいないのだろうけれどもつまらない。 で、そういうつまらない卒論を読んでいると、ああ、こういう卒論を指導する先生の研究も、これと同じようにつまらないんだろうなと思うわけ。読んだことないけどね。 こういう研究じゃ、世間的に売れる本は書けないわな。 で、どうしてこんなつまらないテーマで論文書く気になるんだろうと、私なんかはビックリするんだけど、逆の立場からしたら、向こうは向こうで、こっちサイドの論文を、「こんなの、研究の名に値しない!」とか思っているんだろうな。 とにかく、同じ「研究」と言っても、研究者によって全然違うことを指しているんだということを、こういう機会がある度に、確認させられてしまうのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 16, 2024 05:59:16 PM
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