『エスリンとアメリカの覚醒』を読む(2)
えーっと、昨日に引き続きまして、『エスリンとアメリカの覚醒』という本の要点を箇条書き風にまとめていきます。 あ、その前にこの本の原題を記すのをわすれてました。『The Upstart Spring: Esalen and the American Awakening』(1983) でございます。〇エスリンは、「エンカウンター」「ゲシュタルト療法」「ボディワーク」の3つで有名になっていくのだが、このどれも皆、20世紀初頭のヨーロッパに起源を持っていた。〇例えば「エンカウンター」は、ヨーロッパの社会学者や実存主義者たち、例えばマルチン・ブーバーなどに起源をもつ。ブーバーは『我と汝』の中で、「現代文明の発展は、人間が互いに顔を突き合わせ、意味深い関係を持つ機会を抹消してしまった」と述べ、疎外状況の中で精神を病むのは、要するに社会病理なのだと説き、これは人間の親密さの再発見の中でのみ回復される、とした。工業化・都市化の進行の中で、人間性の回復をもたらす手段の模索がそのころから始まっていた。(75頁)〇で、それを主題にして研究したのがオーストリアの精神医ヤコブ・レヴィ・モレノ。彼は疎外・分裂状況は社会問題であるばかりでなく、精神の危機だと考え、集団セラピーによってこの病理の治療にあたり、それを「出会いの宗教」(religion of encounter)と呼んだ。つまり彼は従来からある患者とセラピストの一対一の治療関係を変えた。そして、その過程で20年代から30年代にかけて彼が築いたのが、「心理劇」という治療形式。セラピストが監督となり、患者グループが自己演出の形で様々な役割を園児合うというもの。彼はこの社会的・宗教的儀式を、非人間化に対する人間的な解毒剤であるした。(76頁)〇モレノの心理劇は、その後感受性訓練(sensitivity training)と呼ばれる体験的方法へと発展することになる。感受性訓練が最初に試みられたのは、1946年。(77頁)〇「ゲシュタルト療法」と「ボディワーク」は、1963年にフレデリック・パールズによって(エンカウンターが持ち込まれた二、三週間後に)エスリンに持ち込まれた、(80-3頁)〇ゲシュタルト療法は、患者の過去ではなく、「今、ここ」に注目し、今なぜ患者がこういう行動をとっているのか、ということに患者自身の意識を向けさせることで、ある種の気づきを得させるというもの。(81頁)〇「ボディワーク」については、そもそも「ジア・フ」の太極拳を教え始めた時点で始まっていたようなものだが、当時、太極拳の知識はアメリカにはほとんどなく、エスリン周辺でも「ジア・フという奴がタイチーを教えている、あるいはタイチーというヤツがジア・フを教えている」というような曖昧な言われ方をしていたという。(82頁)〇いずれにせよ、「ボディーワーク」とは、リラクセーションや体の運動を通じ、精神と身体のバランスをとる、というのが基本的な考え方。特にユージーン・サガンのプログラムによって有名になっていくが、シャーロット・セルヴァー(と夫で弟子のチャールズ・ブルックス)の「センサリー・アウェアネス」のコースが有名。〇ちなみにそのシャーロット・セルヴァーの先生がベルリンの体操教師エルザ・ギンドラー。ギンドラーは1910年に結核にかかり、自分の呼吸を自分でコントロールする方法を編み出した。そして実際に自分の結核を治したことを機に、人にも教えるようになった。ギンドラーから学んだセルヴァーは、バウハウスでデザインの学生にそれを教えたほか、エーリッヒ・フロムやフレデリック・パールズなどの精神医にも伝わり、アラン・ワッツも1950年代に彼女のワークに参加している。そして、1963年以降、ビッグ・サーはセンサリー・アウェアネスの西海岸の拠点となっていく。(84頁)〇パールズは元患者で弟子のバーナード・ガンサー(後に彼もエスリンでボディワークを担当することになる)の示唆でエスリンのことを聞き、放浪癖があり、かつ高齢で先が知れているパールズとして、ここをねぐらにするのは悪くないと思って、自らマイケルたちに電話をかけて交渉、マイケルたちはパールズに必ずしもいい印象を持っていなかったが、かれの実力は認めていたので、結果、1964年の春にエスリンにやってきて、居ついてしまった。(85頁)〇パールズの有名な「ゲシュタルトの祈り」というのは次のようなもの: 私は私のことをし、あなたはあなたのことをする。 私はあなたの期待を満たすためにこの世に生きているのではない。 あなたも、私の期待を満たすためにこの世に生きているのではない。 あなたはあなた、私は私、 たまたまお互いに出会えることがあれば、それはすばらしい。 出会えることができなければ、それはどうしようもないことだ。(86頁)〇パールズは一時、ウィルヘルム・ライヒの患者だった。ライヒは精神分析運動の中で一時、若き天才と言われたが、その後、独自の心理療法の理論を打ち立てていった。 フロイトがリビドーの抑圧と言ったところを、ライヒは性器的性欲の抑圧といい、真のオルガズムに達する能力が精神的健康をもたらすとした。フロイトも、無意識の中にあるものがチックなどの身体行動に反映されることに注意していたが、ライヒは患者のやることすべてが隠された神経症的意味の手がかりだった。ライヒは患者が何を話すかではなく、どう話すかにもっと注意を向けた。ライヒによれば性格とは武装であって、現実に対して自分の身を守る方法であり、オルガズムはその性格によって鋳造された鎖から心的エネルギーを解放すると考えたのである。 ライヒはフロイトに対する反逆者であると同時に、マルクシズムの改革者でもあった。フロイトの考え方とマルクスの考え方を結び付けようとしたのだが、結果、国際精神分析学会からもドイツ共産党からも追放されることとなった。(88頁)〇ライヒは、患者の過去を考古学的に調査するより、現在の行動や態度に注目する方が生産的だと考えた。で、この新奇な考え方が、めぐりめぐってゲシュタルト療法の中心原理となっていく。またライヒは神経症は心のなかに住むばかりではなく身体の中にも住むものだと主張し、患者に呼吸訓練をやった。また体の緊張した、曲がった部分を手でじかにマッサージすることもやった。ゆえに、パールズがアイダ・ロルフの「ロルフィング」を体験したとき、パールズはアイダがライヒの精神的後継者であると認めた。(88ー9頁)〇パールズの考案したゲシュタルト療法は、もともと患者とセラピストだけで行うもので、その点では古典的な精神分析に似ていたが、1950年代に入ってグループ・アプローチが登場するのを目にすると、一対一の治療を止め、またニューヨークのモレノの心理劇を見て、ドラマ形式のグループ療法を開発。患者とセラピストがグループの中で一緒に話す、という形にした(モレノはパールズが自分の方法論を盗んだと考えた)。(92-3頁)〇パールズによれば、ゲシュタルト療法とは、何かを突き破るのではなく、人のプライバシーの中に突如「侵入」し、それによって失われた(あるいは死滅した)感情との接触を患者が取り戻すよう仕向けることだという。(93頁)〇ゲシュタルト療法では、パールズの脇に背もたれのまっすぐな椅子が二脚置かれ、このホットシートに患者を座らせ、セッションに引き入れる形になるという。そしてまず自分が見た夢について語らせ、それをきっかけに、夢の中に出てくるものを自分自身(あるいは自分の創造物)と見なし、またそうする過程で自分の身体に出てくる動きを観察するよう要請されたりする。ゲシュタルト理論では、こういう作業によって、疎外された自己の諸部分が統合され、十分に目覚めた人間として再統合されるという。(94頁)〇結局、人間は「今・ここ」という現実の存在から自分を切り離すために様々なトリックを弄するものであって、それによって生命が死んでしまう。自分自身の行動から距離を摂ろうとして、曖昧に他のことを話したりするが、それがいわゆる知性化(intellectualize)だと。そこでパールズは、そうやって分裂した自己を操作して、自分自身との接触を取り戻させるということをする。もう一つのホットシートに親とか配偶者が座っているものと想像させ、その人に話しかけさせたり、二つの椅子を行き来して役割を変えたり、そういうことを誇張的に繰り返させたりするという。(96頁)〇ティモシーリアリーは、「頭を使うためには頭の外に出なさい」とよく言ったが、パールズのやっていることはそれに近い。つまり、患者が逃避のために合理的思考をすることを止めさせた。(97頁)〇「スレート温泉」は「ビッグ・サー温泉」と改名されていたが、それが「エスリン研究所」という名称に変わったのは1964年。〇エスリンではケン・キージーが物語を読む週末グループをやったし、ティモシー・リアリーやリチャード・アルパート、J・B・ラインも講義した。またパウル・ティリッヒはその生涯最後の年となる1965年にエスリンで週末を過ごしている。ティリッヒはフランクフルト大学でクルト・ゴールドシュタイン(マルチン・ブーバーやパールズの師)の友人であり、1933年にニューヨークに来てからは、ユニオン神学校でロロ・メイの師となり、またフレデリック・スピーゲルバーグの同僚となった。(101-2頁)〇カルロス・カスタネダも1960年代初期の大学院時代、エスリンに来て、インディアンのシャーマンについてのセミナーを開いている。(105頁)〇 1960年代は、自己実現、人間の可能性、変容といったテーマと調和する宗教的展望があった。来るべき文化の変革は、目覚めるということであり、それは人間進化の新しい局面と考えられた。 またこれらに加え、宇宙空間の探求という面もあり、心理的・精神的・科学的なものを包含する方向性を持っていた。(109頁)〇エスリンを対外的に紹介するのに資した人の一人がジョージ・レンナード。彼は1962年、『ルック』誌から派遣されてカリフォルニアのビートニク運動や若者文化についての記事を書いたことを機に西海岸文化に開眼し、この地で何か新しいことが起こっていることを直感、1964年には『人間の可能性』(The Human Potential)という題の長編記事を『ルック』に書いている。またマイケルと出会って意気投合したことから、エスリンのスポークスマン的存在に。(112-3頁)〇1965年秋のエスリン研究所のパンフレットには、ジョージ・レンナードの次のような文が概念として掲載された: 「一人の人の生涯のなかでも、物理的環境は目に見えないくらいに変化しているが、私たちが人間として世界にかかわり現実を経験するその仕方においては、それに相当するような変化は起こっていない。しかしこうした変化は避けることができない。というよりも今起こりかけているのだ。まだ誰にもしられていないが、人間の可能性を開く新しい方法・技術は、すでに私たちの手のとどくところにある。しかもまだまだ多くの方法が開発されつつある。私たちは今、心の踊るような、しかしまた危険でもある前線に立っているのであり、昔からの疑問、「人間の可能性の限界はどこにあるのか? 人間の体験の限界はどこにあるのか? 人間であるということはどういうことなのか?」という問いに、新しい答えを出さなければならないのだ」 これが言わば、エスリンの目的であった。(115-6頁)そしてこの目的のキャッチフレーズとして、「ヒューマン・ポテンシャル運動」(Human Potential Movement)という言葉が、レンナードとマイケルの脳裏に浮かんできた。(119頁)〇パールズは、エスリンに来た時は既に高齢で、しかも心臓病を患っていたが、たまたまアイダ・ロルフの独自の身体的治療法を受け、劇的な改善をする。筋膜の下の筋肉をもみほぐすロルフの方法論は、ハタ・ヨーガや整骨療法、さらにアレクサンダー・テクニーク(ハクスリーが身体の再教育法として評価した)を突き交ぜたようなものであったが、パールズがそれによって劇的に治ったことで、その後、世界的に有名になるきっかけをつかんだ。(126-7頁)〇『ルック』第二回カリフォルニア特集号(エスリンが取材された)は1966年の夏に出た。(140頁)そこにはこう書かれた:「多くのカリフォルニア人たちは、とくに大学の優等生やリーダー的な専門家たちは、慎重な統制のもとに薬物をきわめて「真面目な」かたちで使っていた。こうした人々は快感を得るためとか、セラピーのためにLSDを用いたのではなく、未知の豊かな意識の世界を垣間見るために用いたのだ。いわば彼らは、正式な学校教育を終わる前に大陸と東部を旅行した、数世代前の典型的な英国人にもたとえられよう。ビクトリア王朝の青年たちが、頑固な社会のなかに帰って来ても他の文化を見たというだけで、他のやり方が可能なことを見ただけで、もはや昔とは同じではありえない、もはや昔のように独断的でありえない、もはや慣れないやり方だからといって拒否することはできない、そんなふうに変わってしまったのである(Look 1966,July 28,108-116)」。〇1967年のカリフォルニアはヒッピー・ムーヴメントが最高潮に盛り上がっていた。それはビート運動時代のジャズと詩の朗読をロックに変え、より華やかに仕立て直したようなものだった。若者たちのいらだちは「サマー・オブ・ラブ」に結集し、ティモシー・リアリーの「Tune in, turn on, drop out」の掛け声となった。(143頁)〇このころ、エスリン以外にもエスリンをモデルにした「グロウス・センター」が各地に生まれていた。例えばボブ・ドライバーが作った「カイロス(Kairos)」。サンディエゴの近くにあった。またシカゴの「オアシス(Oasis)」やニューヨークの「オーレオン(Aureon)」などもそうだった。(146頁) ・・・とまあ、この辺まで書いたところで、大分長くなりましたので、この続きはまた明日、ということにしましょう。〇