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カテゴリ:時評
評論家というものはご存知の通り、評論と称して言いたい放題、その見立てが外れても何の責任も取りません。 評論家と言う肩書きで職業が成り立っているのは、どうも日本の独特な風土と思われる節があります。 それはさておいて、評論家は一段高みから物事を俯瞰して、さも最もらしいことをいいます、あんなのは素人の私にもできますよ、評論家なんてものは、そういうものです。 さらにコメンテーターと称して、色んなタレントまでもが出演します。専門家と称する評論家よりもっと問題ありです。 評論家は、高みから眺めて、鵜の目鷹の目という存在です。ターゲットを狙うには高みから見るに限ります。 でも、渦中之人には決して成れません、ただ評論を行うだけの存在です。 本来、評論をしたとて何の意味もないのです。聞くほうだって、そうなの!へえそうなってんの!と右の耳から左の耳そして情報は通過していきます。 そう言う評論者としての立場で何時もいると、それな習性になり、評論したらそれで終わったと思うようになります。 評論の対象となっている事象が起きている世界で、身を処していくには、表お論ではなくその中に入って体験しなければならないのです。 評論家は、体験することなく自分の目からの情報へ反応するだけです。 まあ、いささか回りくどいでしょうけれど、わかる人にはわかるでしょう。 時として評論家に成り下がっている自分があるものです。よく振り返り、同じ鉄を踏まぬが良いようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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