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カテゴリ:心の世界
感じる世界と言っても、それをあれこれ話していれば、一冊の本にしてもまだ足りないほどの情報量になるものです。 五感とその他の感覚それぞれの話があるわけで、本来はそれらの総合世界が感じる世界であるからです。 今回は、特に見ることに話を固定して、しかもその中のごく一部についての話しになります。 写真を見るというシーンを採用してみましょう、一枚の写真がるとします、それを見る人一人に焦点を絞りましょう。 写真を見てどうかんじるか、何を感じ取るか、どんな想いを抱くかというようなことが一応対象になりますね。 自由な思いで眺めたとしても、実はその自由度には足かせがかかっているのです。 どういうことか?見る人の持てる世界以上には見ることができないということです。 より深く、よりよくその写真を理解しようと思うなら、見る人がその目線に変化を与えねばなりません。ここでいう目線とは単に見る方向ではありません。対象を捉える能力ということです。 見る人の総合力がその写真を見るわけです。 例えば視力に問題があれば、つぶさには写真を見ることができません。それなら補助器具を使えばある程度改善できます。 でも、心の問題は補助具で補佐することはできません。心そのものの底を上げなければ、その見る力つまり読解力・感受力・発想力にはその人の現在という枠がかぶせられていて、その枠の中でしか対応できないのです。 つまり写真一枚を見るにも、写真やカメラについていろいろ学んだり研究したりという過程で、見る人自体の写真力をアップしないと、その写真を本当に理解することはできないものなのです。 写真に限定して話していますが、それはあらゆるジャンルにわたって、互換のそれぞれの世界の対象にわたって言えることです。 できれば、その写真を撮影した人のレベル以上に見る人の能力をアップして初めて、対象の写真の全貌が見えてきます。 「ああ綺麗!」・「ああ繊細!」といっても、見る人の目の奥にあるデータベースによって、その感じる程度が規定されるものなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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