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カテゴリ:心の世界
前の記事で私なりに「行法」と話しました事柄について、詳細に書いても別にどうということでもなかろうと、「行法」とだけ書きました。
あれは本当は「行法」ではないので、私が勝手に私の行法のひとつとして行っているだけのことです。 元はといえば、4トントラックに詰め込んだら多分なんだいもの車両が必要なほど、それほどの量の書籍から抽出してきたものを私の脳髄に収納して、時間という薬をかけて醸成発酵を重ねて、そこから絞り出して煮詰めたエキスの一部です。 一番影響を与えているもの、それもたくさんありますが、あえて申せば、Neale Donald Walsch、アルボッレ スマナサーラというお二人です。 一番時間的に近い出会いのふたりです。ここに至るまでには、他の科学ほどではないけれど少しは歴史のある心理学の学徒たち(フロイド他数多)、さらに遡ればギリシャ哲学の先哲たち、それらの足跡をたどった私独自の歩みがあります。 ここでいう「行法」は、「目につくものすべてを自分だと思う」のです。本心で思うのです。すると偏見が消えます。 人間は知らないだけで偏見の塊です。私はもちろんその通りです。油断するとすぐに偏見の塊になっています。 「私は偏見を嫌う、だから偏見は持たない!」と思うのも人間という存在です。 「私はわかっているのに誰もわかってはいない!」と思うのは偏見です。「あなたは男だから!」と言ったり思ったりも偏見です。例えばわかっていないなあこの人は!と思った瞬間「わかっていない状態の私がいる」と思うのです。 「あなたは男だから!」って言いたくなることがあったら「男である私がいる」と思うのです。 道路で割り込みに出会いました、「割り込みをしようとしている私がいる」と思いました。妨げないで割り込みを終わらせました。左の道路から私の道路の車列に入りたいようなクルマが止まっていました、「車の流れに入りたい私がいる」と思いました。だから譲りました。 こんなことを再三繰り返して、本日の皮膚科通院を終えました。買い物も終わることができました。ドラッグストアで手袋が落ちているのを見つけ、大声でレジに向かって「通路に黒い手袋が落ちていますどなたかおとしませんでしたか?!」と言いました。 近くの女性が私かしらとか言いながらもじもじしていました、誰かが親切に拾ってきて渡しました。レジを離れて手袋を撮りに行こうかどうしようか?ともじもじしていたところへ誰かが届けました。 落とした女性は私に向かって「このままレジに進んで良いか?」と尋ねました。どうぞどうぞと私は言いました。 その女性は普通なら発見して声をかけた私と、拾って届けた男性に「ありがとう!」っていうのが普通の常識的な行動、でもこの人は何も言いません。 わたしは「突然のできごとにうろたえて、お礼を言おうかどうしようか、このままレジ進んでいいのかどうか?と葛藤していてついついお礼を言うのを忘れている私がいる!」と思いました。 すべてが平穏に進行しました。 戻ると、三女セリアンヌがおじやをこしらえて待っていました。昨晩柿と酒の味噌鍋を作ったのですが、もし使えるならお昼はそれを使ってね!と、セリアンヌに昨晩のうちに話しておいたのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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