歴史と連累のこと
日曜は教会に行ってきた。 私はクリスチャンじゃないけど、教会の説教は結構面白い。今週は韓国人が日本に留学したために母国でスパイ視され、死刑判決を受けたときの話を牧師さんがしてくれた。イザヤ書の第53章「主の僕」を参照しながら。私は聖書を(以前から読まなきゃなぁとか思いつつ)ちゃんと読んだことはないけど、この部分はすごく気に入ってしまった。キリストが十字架を背負ったことの意味がずっと理解できなかったけど、今になって「我々の罪を背負った」という意味が、ほんの少しだけ、わかったような気がした。 そんな話を聞いてから、「罪」について少し考えた。 そんな折、宗教とは関係ないけど、テッサ・モーリス=スズキの「批判的想像力のために」を読んだ。文体は難しいけど、彼女の立場のわきまえ方とか、考え方とか論調が好き。その彼女の考え方のひとつに「連累」がある。自分がなんとなく気づいていたことをきれいにまとめてくれた言葉だと思って、感激した。学者って本当に言葉や物事をうまく説明する術を知っていて、とてもうらやましい。 彼女は「連累」についてこう説明している。 「わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。私は「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。」 「罪」の意識からではなく、この「連累」から私たちは歴史に責任を持つ、と述べている。 キリスト教的に言えばきっと罪の意識が先に立つんだろうな・・・。でも、学問的見地からすると「責任」ということになるんだろうか。個人的には、両方含まれるような気がする。私はたぶん両方とも感じる。 新しい歴史教科書を作る人たちが主張するように、 「歴史は物語なんだ」 といわれれば、多くの人が「そうか」と納得してしまうのかもしれない。 でも、歴史を学ぶことの意味が過去の過ちを繰り返さないことにあるとするなら、「連累」から今ある不正義を是正するための手段としての歴史が必要になる。 彼女はそこからさらに発展して、「歴史への真摯さ」ということを唱えるのだけど。難しい。 忙しさにかまけて何もできないことが結局加害者になっちゃうんだよなあ、と思いつつ、連累をかみしめようと思った。 あああ(>_