本村洋, 他「罪と罰」 ・ 本田靖春「誘拐」
「罪と罰」(本村洋,宮崎哲哉,藤井誠二)は犯罪と死刑について考えさてくれる対談本。被害者遺族である本村さんの考える あるべき死刑とは単純に厳罰化と復讐をもとめるものとは違う。加害者が死刑を受け入れて、罪を悔いて、社会に謝罪する。社会の側も命をもって償った彼の姿をきちんと見届ける。そして、その事件のことを社会が考える。というもの。こういう死刑のイメージは このあいだTVでやっていた「刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史」での吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人、小原保のことを思い合わせるとなんだか くっきりとイメージが浮かんだ。吉展ちゃん事件を描いたノンフィクションの古典的名作という本田靖春の『誘拐』 も読んでみた。最後に死刑執行にのぞんでの、小原保の「真人間になって死んでいきます」の一言がいい。死刑囚となった小原は獄中から短歌同人に参加し、「昭和万葉集」にも福島誠一の名で一首収録されている。吉展ちゃん被害者遺族の方もいままで犯人を憎いとしか思わなかったが 本書を読んでかわいそうなところもあったのだなと思えた、とのこと。本書は 文藝春秋読者賞、講談社出版文化賞受賞 をとっているし当時の多くの読者も 同じ感想かもしれない。少なくとも「真人間」になろうとした小原の最後だけは承認したのだろう。同時にそのような人間をもう殺さなくてもよかったかもという疑問もかくも真人間になりえる者が なぜあのような犯罪をという疑問も社会は背負うことになる。そういう事もふくめて、小原保の死刑は 単なる国家による暴力的な復讐代行ではなく社会の修復として なんとか機能しえた例といえるかもしれない。 最近は そういう風には納得できない死刑が多い。反省もなく、すさんだ反社会的態度のまま死刑執行された後味の悪い犯罪者たち。死刑が 処罰としても償いとしても機能せず、ただ怪物的存在として犯罪者を排除しただけでは社会にも傷口がひらいたままのような気がする。かっては「真人間」の一言で 了解されていた人間像も 社会の側にも 失われているのか。ところで 本村さんは、 死刑で終わりでもない、それは なぜその人が死なねばならなかったのかを考える出発点。というようなこともおっしゃっている。これからも ずっと考えつづけ 背負い続けるのだろう。 さまざまなに葛藤し 勉強もしてきた本村さんであるが「安易な理論武装に流れていっているのではないか、答えが用意されている楽な世界に入ってしまっているのではないか、そんな恐怖もありました。」といっているのには教えられた。 論客の皆さんも はたして「恐怖」をかんじるほど自問しているのだろうか。社会的に自分の発言を売り込もうとするほど議論に勝とうとするほど、そんな自問することは無くなってしまうのかもしれない。そうではない素人でありつづける本村さんだからこそ考えのちがう宮崎哲哉,藤井誠二とも交友と議論のできる関係を続けられているのだろう。そういう まともな論議の社会のモデルとしても『罪と罰』は いい本だなと思える。