大人は判ってくれない―野火ノビタ批評集成
日本評論社 2003刊 1,新世紀エヴァンゲリオン論 対談・庵野秀明2,冨樫義博論3,やおい論(「やおい」とは何か―やおいへの意志 対談・斎藤環 野火ノビタさん 1967年生まれ。同人誌作家からメジャー漫画家へ、最近では 榎本ナリコ の名前でも作品を出しているそうだ。最初に彼女の名前を知ったのは、いろんな人が書いているエヴァンゲリオン論文集「エヴァンゲリオン快楽原則」のなかの「大人は判ってくれない」。並み居る有名評論家をぶっちぎり、無名の彼女のモノローグに震えた、泣けた。内側からの優れたエヴァ論。エヴァのキャラとの内的な共振とレインの分裂病論を援用した、詩情あふれる感動の論証だった。これも再録されている。すっかり遠くなったエヴァの感動が 読み直すとエヴァをもう一度みるよりも そだったなーと 思い出されるくらい的確。誰なんだこの人は。と思いつつもほったらかしになっていたが、当時、やおい同人誌作家だったのですな。本書に収められている これまた内側からのやおい論も 名作。彼女は 小学3、4年のころに やっぱり竹宮恵子の「風と木の歌」に衝撃をうける。気がついたら 自分でアニメパロディーのマンガを描いていた。世の中に おんなじよーなことをしているやおい同人誌というものがあると知ったのは ずっとあととのことだそうだ。やおい的欲望とは、3つの側面からなる。 「受け」キャラとして愛されたい欲望)、「攻め」キャラとして愛したい欲望)、両者の対等な関係そのものへの欲望。いずれも両方、片方のキャラが女性であっては充分には享受 感情移入できない。とりわけ 両者の対等な関係というのが とても重要。 男女関係が対等であるような精神的な愛を求めているのに どうしても 肉体が介在すると どうしても この社会では女性劣位になってしまう。この不当さへの憎悪が男に向けられるのではなく なんということか自分自身に向けられるのが女性による女性嫌悪ウーマンヘイトである。その点が男性糾弾的なフェミニズムの主流とたもとをわかつところなのだろう。その結果 やおいファンタジーにおいては 女性はその肉体とともに排除され、その欲望と魂の絆の希求は美青年・美少年キャラが代行することとなる。「性差別がいわれのない不当なものであると感じていながら、彼女は自罰的である。彼女は差別的な男性がそうであるように差別的である。自分が差別的に扱われる理由を、自分が女性であるためだと思っているのだ。その理由にならない理由をを単純に鵜呑みにしてしまっている。」と自己分析しつつも 野火さんが やおいをやめたわけでもない。わかったぐらいでは どうにもならないもののようである。男性社会が日々おしつける女性像の刷り込みの強烈さがあるということなのだろう。それへの抵抗の手段としての まるで 焦土戦術のごとき 女性放棄である。女性のきらいな女性タレントなんていうランキングを思い出すと ああなるほどねと思うのだ。男向けに女をやって媚びているタレントがきらいなのであろう。攻め受けという側面だけみると 表層的には主従があるようにみえても 同性キャラの場合 受け側に屈辱感は発生していない というところもポイント。このようなウーマンヘイトをおもいおこさせるような劣位屈辱感が発生していなければ 純粋な対等関係が実現できるなら 実のところやおいファンタジーは 美青年・美少年カップルでなくてもよいそうである。同人誌世界では セーラームーンの女性キャラ同士カップルが人気があったそうだし、個人的には ドラマ「魔女の条件」における攻め・松嶋、受け・滝沢の女男カップルなんかもいいそうである。フェミニズムからみると ずいぶん後ろ向きな 空想的女性放棄をやっている一方でえらく精神的に対等な絆を性愛空間に成立させようという フェミニズムからは感じられなかった前向きなこともやっているような この 矛盾が やおいの魅力なのかも。