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カテゴリ:ホラー映画
Vシネマ版「呪怨(1999)」は、恐かった。そして、清水崇監督の「輪廻(2006)」も、恐さを堪能できた。「呪怨 パンデミック」、期待しています。恐がらせてくれい。
「呪怨 パンデミック(2007)」 監督:清水崇 出演:アンバー・タンブリン エディソン・チャン 恐怖は快感だ。いつも、本当に恐い映画や小説を探してます。 でも、実話は嫌い。お化け屋敷も、嫌い。 15年くらい前に、雑誌の日本ホラー小説の特集を見て、その中のいくつかを読んだ。鈴木光司の「リング」は、心底恐いと思いましたよ。そしたら評判が高まって、続々映像作品が出てきました。それらは、ボクにとっては、期待はずれだったけど。 7,8年前にVシネマ版「呪怨」の評判を聞いて、見てみた。夕暮れ時の薄暗いリビングに一人だったから、雰囲気も盛り上がった。これは恐かったです。合格! Vシネマ版「呪怨」は、オムニバス形式で、いくつかの家族のエピソードが語られる。それぞれ、時間的な流れの前後が入れ替わったりしているので、何が起こっているのかがよくわからない。不気味なムードが盛り上がる。 天井裏から音がするので覗いてみると、血まみれの女と対面し、屋根裏に引きずり込まれてしまう。あるいは、何者かに足首をつかれる。机の下を確かめていると携帯が鳴る。携帯を手に取り見ると、着信番号は444444444444。同じ家が出てくるから、どうも“その家”に住んだ者に、霊が取り憑くようだ。 さらに、“伽椰子”がついに全貌を現し、階段をずり降りて、迫ってくる場面が圧巻。見たくないけど、見たい。恐いから目を背けたいんだけど、そのものが何なのか、何が起こるかを確かめずにはいられない。映画版「リング(1998)」の貞子がテレビ画面から抜け出てくるところより、はるかに恐い。 さて、「呪怨 パンデミック」です。 今回はハリウッド版ということで、アメリカ人が中心なんだけど、“その家”は日本にあり、日本が舞台になっている。もちろん“伽椰子”にまつわるお話です。 「呪怨」は、 “その家”に住んだ者だけでなく、足を踏み入れた者にも“伽椰子”の呪いがかかる。けれど、今回は間口を拡げすぎではないかい。登場人物に“その家”に住んだ者はだれもいなくて、みんなただ家の中に入ってみただけなのだ。家の外で待っていた人をも、“伽椰子”が強引に引き入れてしまう。 「あの家に入ったということは・・・私も死ぬことになるの?」「もしかしたら、僕たちが生き延びるために力を貸してくれるかもしれない」なんていう展開を見ていると、これは「リング」かぁ!?と言いたくなってしまう。 呪いのビデオを見た者は全員死んでしまうので、死なない方法を探し求めて四苦八苦するのが「リング」だ。「着信アリ(2004)」も同系統の話です。死の予告電話があると、逃れることは難しい。受けた者は、限られた時間の中で元凶を探す。 「呪怨 パンデミック」では、呪われた人間だけでなく、その人物が住んでいるアパートの人々にまで、呪いは感染していく。これってやりすぎとちがいますか? 恐怖とは、隠されたところにあると思う。足を踏み入れただけで呪われたり、呪われた人と同じ建物に住んでいたために呪いを受けるのは、確かにそのパワーに対しては驚愕する。でも、“伽椰子”はゴジラじゃないんだから。あんまりパワーを誇示してもね。ひっそりと、局所的に、なんかあの場所は変だ、と感じさせる方が恐怖は根深くなる。 呪いの裏側にあるのは、因縁だと思う。「四谷怪談」のお岩さんが恐いのは、夫の伊右衛門に裏切られ、毒を飲まされて、醜い顔になって死ぬ。そこの関係性=因縁があるから、怨霊となって伊右衛門に祟るところが恐い。 “伽椰子”はパワーがあって、誰にでも祟っちゃうから、因縁、関係性、ドラマといった要素が希薄になるのだ。 もうひとつ、後ろの座席にいたじいさんが、映画を見ながらつぶやいた。「あっちにもこっちにも行かなくちゃいけないから、お化けも大変だなあ」 “伽椰子”そして“俊雄”は、“その家”に留まらず、足を踏み入れた者を追って、病院、他人の家、学校など、至る所に姿を現す。ついに、帰国する人間に取り憑いてアメリカにまで行ってしまう。 これも、恐いようでいて、恐さを半減させる。 霊である “伽椰子”そして“俊雄”は、どこにでも姿を現すことができる。理屈を超えた存在だから。それはいい。しかし、見ている者の理屈を超えては、恐怖を感じなくなる。じいさんが言ったように。 例えば、呪われた人間が一人で、その後を追って霊がどこにでも現れるというのは恐い。安心できないし、執念深さを感じるからだ。 けれど、霊が、人間の全存在を呪い、殺したいとパワーを誇示しても、それはゾーっとする恐さとは異なりまっせ。 例えば、「輪廻」では、過去の殺人事件がある。その犠牲者が生まれ変わっても、なお殺人者に恨みをもっているのが恐い。そして、殺人者の方も、別人として生まれ変わってきているのに、恨みをもたれ、復讐の対象にされるのが恐い。今現在は、犠牲者も殺人者も、全然別人格なのに、過去の怨念が面々と生き続ける理不尽さが根底に流れている。 このとき、ターゲットが一人だから、見ている者は感情移入ができる。それなのに、対象があまりにも多いと、意識が散漫になる。 一人を追ってどこにでも現れることは、執念深さとして理解できる。それは、一般の人間にも、その気持ちはわかることだからだ。だが、同時進行的に日本にもアメリカにも現れると、現実離れの度合いが大きくてついていけない気持ちが出てくる。そこまでの執念深さは心情的に共感できるものではない。これが、殺人犯人のグループなどというつながりでもあれば、恨みと同時多発“伽椰子”を結びつけられる。この映画では、人々につながりはありません、“その家”に足を踏み入れたという以外は。 「リング」や「着信アリ」は、主な登場人物を限定し、ひとつのストーリーを追っていく。または、呪いが広く感染していく場合に、だれかそのことをわかっている人物が登場すれば、いいかもしれない。そこに、因縁、関係性、ドラマが集約されてくる。 「呪怨」は、オムニバス形式をとっている。Vシネマ版「呪怨」は、それがうまく恐怖に作用していた。しかし、だんだんと散漫な方向に行っているように思える。 この誰にでも祟るパワフル「呪怨」は、やっぱりアメリカ映画としてつくられたからでしょうか。日本の場合は、本来なら、じめじめした湿っぽくて陰気な話として恐さを盛り上げるのですが。 快感的恐怖が味わえなくて、残念。不合格。 もう一つのブログ「ブレーンバスター日記」 人気blogランキングに参加中。クリックしてね。 ご協力、よろしくお願いします。 みんなブルース・リーになりたかった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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