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テーマ:DVD映画鑑賞(14213)
カテゴリ:パニック映画
デザスター(災害)映画に対する当方の受けとり方は、「非日常」「非現実」であった。 デザスター映画は、SF映画とかぶるところがあるし、また特撮を抜きにしては存在しない。 例えば、古い日本の映画であれば『妖星ゴラス(1962)』がある。 地球の6000倍の質量をもつ黒色矮星ゴラスが発見された。ゴラスの軌道は、やがて地球に激突するという。ゴラスが地球に接近してくると、火山の噴火や大津波などが起こる。 もうちょっと新しい映画では『日本沈没(1973)』、地殻変動により日本列島が海の中に沈んでしまうというもの。休火山の噴火や巨大地震が描かれる。 これらは科学的な説得力に留意し、特撮によってリアルな映像がつくられた。 そして、見ている当方は、「非日常」的、「非現実」的な災害の脅威を味わった。 日本以外でも、説明不用の『大地震(1974)』、小惑星、隕石が地球とぶつかる系の『アルマゲドン(1998)』『ディープインパクト(1998)』、さらに竜巻、火山の噴火、氷河期などのデザスター映画がある。 しかしながら、日本では、現実の世界で度重なる「未曾有」の大災害が起こった。 阪神淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震。 映画という虚構の世界では、現実では味わえないできごとを可視化していた。 だから、デザスター映画では、現実では起こりえないようなー日本列島が沈んでしまうとかーとんでもない災害を描いてきた。 ところが、連続して日本を襲った大震災は、虚構をはるかに凌駕する超災害だった。 当方は、以前デザスター映画を、SF的設定や特撮の妙など、エンターテインメントの視点で見てきたわけだ。 けれども、だんだんと距離を置いて虚構の世界のデザスターを眺めるのがむずかしくなってきているのだ。 『カリフォルニア・ダウン』では、巨大地震の大被害を、これでもかこれでもかとスクリーンに映すのだが、どこか絵空事に感じてしまう。 さらに、主人公のレスキュー隊員が、巨大地震が襲ってきているにもかかわらず、「おれは娘を助けにいく」と消防署に電話連絡し、署の方も「こっちは大丈夫だから行ってこい」ってのはどうなんだ。 『デイ・アフター・トゥモロー(2004)』で、気象学者が息子を救出に凍結したニューヨークまで行くのとはわけがちがうでしょ。 職務に対して無責任であるとともに、切迫した事態の中で個人的な事情のために職場を離れるなんて設定があますぎる。巨大災害が発生しているはずなのに、「行ってくるよ」「こっちは大丈夫だから」というやりとりはいかにも軽すぎるでしょ。日本では、ボランティアを含めた救援の人数が不足している現実があるというのに。 このあとも、緊迫した大災害の中で、ご都合主義の展開が続いた。クライマックスでは、主人公のレスキュー隊員が、津波のために水没したビルに閉じ込められた娘を救いにいく。レスキュー隊員は、驚異の心肺機能で水中を泳ぎ回り、娘を助ける。これは超人級であった。 その前にも、ゴムボートで巨大津波を乗り越えるシーンがあった。それよりも、水中でいつまでも息を止めていられるほうが、ずっと超人だと思う。運や技術ではできないことだから。 その超人ぶりから、この映画は虚構だと納得した。 金のかけかたはちがうが、ご都合主義的な内容はThe Asylumの映画かと思うぞ。 いやいやThe Asylumは『カリフォルニア・ディストラクション(2015)』をつくっていたぞ。見比べてみるか。 映画(全般) ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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