英語上達の糸口って・・・
英語上達のキーの1つに「英語を話す環境に如何に馴染んで"なりきる"か」があると思う。天賦の頭脳やセンス、耳の良さに加え、語学習得において性格的なところでも向き不向きがあり、思うに、周りの目を気にすること無く見栄を張らず、恥ずかしがらず、ネイティブ相手に臆することなく接することの出来る人は、間違いなく上達が早いと感じる。我ながら損をしているなぁと思うのは、その「語学習得において不向きな性格」だと思うところ。何と言うか…私って、完全では無いことを完全に達しない内に他人の目の前に晒すのは抵抗があり(要は、見栄っ張り)、そして、余り親しくない人の輪に直ぐには溶け込んでいけず、更には恥ずかしがりと来ている。「恥ずかしがり」の部分は、そこに自分の他に日本人がいなければ、結構楽に解消出来たりする。自分でも何でそんなに拘るのかと思うのだが、私の自意識が自分の本来の希望や意図に反してそういう作用を起こさせるのだ。例えば・・・アメリカ在住中に友達になった日本人の女友達と言えば、大概はアメリカ人と結婚して日常的にご主人と英語で接し、子供達を英語で育て、英語を使うことに全く抵抗が無く、否、寧ろ、英語表現の方が先に出てきてしまうようなバイリンガルばかり。そういう子達が主催するパーティやら何やらにたまたま皆と同席して皆で顔を合わせたとする。日本人を妻に持つことでアメリカン・ハズバンド達もある程度は弁えていて、たとえ我々が彼らが理解出来ない範疇の日本語会話しようとも、特に嫌な顔はされない。が、会話の内容がご主人方を巻き込むべきものであれば、当然会話は英語で進行する。私vs夫婦一組とか言うなら、まだ良いのである。これが複数となって活発な話が英語で繰り広げられると、私はコメントしたくてもどうしても黙ってしまう。「もし私がここで変な表現やたどたどしい英語を使ったりして会話がもたつき、空気がおかしくなるのはゼッタイ嫌!それに、そんなのは何より恥ずかしい!」そう思ってしまうのだ。万が一そのたどたどしさを露呈してしまった時の日本人の友人達の居た堪れない様子がこれまた堪らない。微妙に沈黙があったりすると、もぅダメ。「どうしよう、助け舟を出してあげた方が良いのかな?」そんな風に思っているんじゃないかなーーなんて感じた日にゃ~、もうアウト。とは言え、自分自身がガチガチに張ってしまったそのバリアも、徐々に薄くなって来つつあるとは思う。でも、やはりどうしても"なりきれない"性格なのは間違い無い。その証拠に、私は「間投詞」や「感嘆詞」がろくすっぽ使えない。「咄嗟に出る言葉」っていうのは、やっぱり普段使い慣れている言語だ。よく、数字をどの言語で数えるかで、その人とってどの言語が一番使い易いのかが分かるというが、感嘆詞や間投詞も同様であるように感じる。ちょっとした言葉・・・例えば、"Wow"とか"Ouch"とか"Oops!"とか…単品で出て来易いその辺りのものから句、節レベルに至るまで、思いつくだけでも色々ある。私がどうにかこうにか自然にでるのは、"Wow"くらいじゃないかなぁ・・・。しかも、それが周りが英語であることを意識しない時なんかは当たり前のように出てこない。でも、ちゃんと"なりきれている"人達は、咄嗟の表現もちゃんと自然に英語が出てきている。少々話題はズレるが、日本人が個人によって使う表現や言葉の癖があるように、アメリカ人にも当然ながら固有の癖があり、驚きの表現なんかも人によって随分違っていて面白い。渡米2年目の時のホームステイ先の、敬虔なキリスト教徒であるホストマザーが頻繁に使った驚きの表現は、"Goodness gracious!"とか、"Lord, have mercy!"が多かった。かと思えば、派遣先でのアメリカ人上司(男性)は良く"Son of a gun!"とか言ってたっけ。まぁ、こういった表現をを私が倣ってそのまま使おうとするのは無理があるのは分かっている。でも、普通レベルの感嘆詞くらい口をついて出てくる位、英語での会話の雰囲気に入り込めるようになりたいものである。持って生まれた性格はなかなか変えようが無いけれど、自分のそれを良く知って如何にコントロールするかで、随分と語学習得にプラスαの要素をもたらすような気がする。