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カテゴリ:思考 的なこと
ウィキペディアの編集に介入したところ、編集方針が広く誤解されていると思うし、良識が十分でない。 ここで、整理しておこう。 目次 (文中のうす字は読み返しの見やすさのため) 0 前提 ネット百科の存在条件。 1 ネット百科というもののあり方 基本内容、A、B 2 ウィキペディアの場合 5本の柱、基本方針、三つの編集方針 3 ウィキペディアの実態の問題 C―間違い、D―中間的中立詳論、E―間違い2 4 最後に 0 前提=社会的良識。 あらゆる基準の最原則として、自らが表明したその社会的(読者への)責任が、存在の基本。 「読者に百科事典をうたっていること」 、「知り始めようとする読者に対する良心」 。 さらに具体的事情として、 ネット上の百科事典として事実上独占状態に成長した場合は、知への普遍的良心よりも内規のつごうを優先することは認められない。 細かい事情を考えても、フリー編集で通常のコストと内容責任を逃れている以上、貢献よりも害をなさないことが必要だ。 1 ネット百科というもののあり方 基本内容。 百科事典とうたうことで、読者に何を約束したことになるか? 読者は素人であり、迷信を払って知(→真実)に向かおうとすることに応えることが、「百科全書(百科事典の元祖)」の目的である。 従って、事典の内容は、共有できる基礎的な知=客観的な「事実それ自体」 となる。 つまり、そこにあるものを、余分な埃や夾雑物を払った上で、あるがまま に事典に記述する。表現に絡んだ、人の思惑事情があれば、その事情も含めたあるがままを事典の記述内容とする。 以下、A、Bの系列に分けて考える。「A、真実と、現実上の知識や状況」、「B、人の認識方法」、について。 A 事実・真実と現実状況 0状態。 真実とデータが客観的に明快。 1状態。 確定なデータが多い。編集者間のデータ共有がいい。 2状態。 データが中途半端。データ解釈が編集者間で互いにずれている。編集者は固定しない。 3状態。 データがろくにない。主観的な編集者の争い。 B アプローチ・認識方法 1 1状態。 →理想。真実への確定的な結論が出せる状態。ただ、推理は可能でも本当の真実は不可知、どこまで近いかも不可知。→どこで記述を止めるかが問題。 1-1 仕上げ――表現の精度。――ゲーデルの不完全性定理 「どのような無矛盾の公理体系の中でも、真偽を判定できない命題が必ず発生しうる」 完全な基準があっても、実際には判断できない部分が発生しうる。 そんな場合は、基準の規定の枠を越えているので、基準以前の存在の前提・原理的出発点に戻って判断せねばならない。つまり、社会的良識・読者の知への貢献、という点に。 判断できない部分が発生するということは、その気がないと気付きにくい。つまり厳密には、編集作業(現場)は明確な基準で支配できる領域を超えた境界にあり、既成の基準に機械的に合わせたつもりで満足すると、原則に反して基準の本来の意味を変えてしまう危険があるということだ。 2 2状態。 →次善、現実。編集者は終わりなく入れ替わり、記述は永遠に未完成である。 そのため、編集方法は、確実性をつないだ脈絡を真実への路として、記事にする。一つの記述は次が書かれるための一里塚であり布石。だからまとめは二の次。結論や理解は読者が路を歩いてかってに決める。 言い方を変えると、 裁かない・中立の足場という裁きさえしない、透明な公平、公正。 3 3状態。 →アプローチ不能。せめて知っていく活動を保つために、混乱を防ぐために、平均的中間などを利用した、中間的仮設中立を設定することも多い。 編集者自身にとっても、「透明な公平というものを、個々の項目ごとにつかむ」には、平均的中立を‘自分個人の始めの足場’とするのが有用だ。 ただ、それで書かれた記述は、知識としては似而非である。誰も利用できない程度にあいまいな見解であれば、害にならないだろう、程度の記述にする注意が必要。 4 優先度では、1状態>2状態>3状態。 3状態は本来避けるべきで、2状態は1状態に近づくプロセス。 2 ウィキペディア 原則と基本方針 ウィキペディアの場合、最原則として5本の柱というのがある。 【 1 百科事典、2 中立、3 フリー編集、4 紳士的で寛大な編集行動、5 すべてのルールは確定しきらず記事は完璧でなくていい。】 その次に、基本方針とより具体的なガイドラインがあり、 基本方針として、 【 1 中立的観点、2 独自研究の禁止を含む検証可能性の条件、3 著作権、4 百科事典、5 紳士的行動 】 となる。 この中で、基本方針の1と2は一体のものとされている。よって、記事編集の考察基準としては、 「原則として、百科事典、公平中立、フリー編集 > 中立のための基本概念として、「中立+検証可能性+独自研究の禁止」の一体的観念」 となる。「中立は、絶対的である」とされる。 つまり、‘ 百科事典という目的’で、‘フリー編集という現実環境’において、‘「中立+検証可能性+独自研究の禁止」という概念’を形成して方針としている。 この「」は別々の概念による掛け合わせでなく、始めから一体のものとして理解を求められる。 その上で、5本の柱の5=‘ルールは確定しきらない’ので、事典の記事を書きつつ、今の基準を応用しながら熟成させていくことが求められる。 誤解と悪用の元となるのが、この中立のための基本概念「~」であり、これを簡潔にまとめてみよう。 中立のための基本概念 中立 中立的内容でなく、中立的観点である。対立者同士の合意を目指す。対立する意見には、根拠に合わせた比重をあてて、多論並記、無評価記述すること。 全体認識として、異なる立場のどれも人類の共有知識であり、かつ変化していくものだという立場を取っている。 ( ウィキペディアの文では、「客観的」 という言葉を「部外者が見て平均的位置の見方」 という意味で使ったりして、用語の混乱がある。ウィキペディアではそういう客観を中立的観点としていない。) ( 各国語版は、その国語圏のための版ではなく、単なるその語による編集がなされているに過ぎず、国語圏ごとの偏りが正当化されるわけではない。) 検証可能性 読者と他の編集者が検証を共有できるように、テーマについて評判的に信頼度のある、情報源を元に、出典を共有できるようにすること。 ( 詳しくは、‘事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源’、‘内容に応じて適切な情報源’である。 「定評」と信用は内容によって変化しうるので、機械的に特定の情報源が常に選択されるわけではない。) ( 読者の読める言語の情報源を可能な限り示すべきだが、代用のない外国語資料を排除するという規則はない(英語版でも)。) 独自研究の排除 以下を独自研究として排除――――。 他の素人編集者が容易に検証できない根拠。 評判のいい資料によらない論証。 既知の主張であっても、出典に直接は無い記述の合成。 定評によらない造語の使用。 人類にとって新しい知識や用語や定義を、編集者が加える。 つまり、共有根拠に新しい意味を発明発見して加えない、ということ。 ( 単に確認であるような論証は禁止されていない。 一次資料に主張的な意味を加えていないとわかる記事は問題ない。(「一次資料と二次資料」)) 以上の三つが、【中立のための基本概念として、「中立+検証可能性+独自研究の禁止」の一体的観念」 】 である。 要するに、私が書いてきた、「究極の客観的真実に至る過程である「透明な公正中立」」と同じだと言える。 元の原則が、それと並んで 百科事典、フリー編集、永遠に未完成路線、というのも、同じ前提だ。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年09月06日 22時50分38秒
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