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カテゴリ:思考 的なこと
(続き) 3 ウィキペディアの実態例の問題 C.解釈の間違い例 以下のように書く。 ・「理屈の根拠」→「間違い解釈」 ↑「どこが違うかの説明」 C1・評判のいい→肩書きで判断する。 ↑評判と肩書きは違う。また、項目と内容によって、「評判のいい」の選択肢が変化することが方針に書かれている。編集者の公正な判断に委ねられる。 C2・真実でなく、発表されたもの→考証批判を無視したスピーカー(拡声器)編集をする。 ↑論証に等しい合理的論理は禁止でない。‘個人的’ 真実に興味がないというだけであり、根拠が共有できれば良し。スピーカーは禁止。 C3・議論で決める→編集者の数と妥協で決定する、 ↑根拠を共有した議論の上で、各人が中立の立場からの採決をすることが最後の手段。 C4・議論で決める→ 根拠を出し合わず、同好の編集者同士で決定したことが記述の根拠だとして、否定の根拠を示さなければ記述を続けるのが正しいとする ↑ 民主主義で根拠がつくれるかのような無根拠。ウィキペディアは民主主義の実験ではない。 C5・中立がルール → 中間的印象を決めたら、それに合わせて提出されている内容を知ることを無視するのが正しい ↑ 中間に合わせて内容を操作するならば、透明な中立ではない。 中立的観点は、「絶対的で交渉の余地のないもの」とされるが、それは 「客観的に確実な事実を消し去っていい」 ものではなく、客観的事実への必要な路だから、「絶対的交渉の余地のないもの」 とされるのだ。 C6・ウィキペディアは真実に興味が無い、ルールに沿って書く→編集方針を個々に捉えて、条件の重なったものを書く。よって、具体的で表面的な態度を取るのが正しい。 ↑ ウィキペディアが興味がないのは、「個人的真実」であり、中立的観点は「客観的真実」に至るためと説明されている。 各条件は、バラバラに解釈した後で重ね合わせるものでなく、始めから一体のものとして理解してから編集するように求められている。 表面的な具体性が基準だというのは完全な誤解である。 D.平均的中間的中立の立場について。 B3で書いたことをもう一度。 D1.中間的中立は嘘だ。 中間=似而非、比喩であり、そんな知識を使おうとすると誰の役にも立たない。 ウィキ内規でいうなら、かってに平均として取り出した中間的な記述は、独自研究でいう、出典に無い記述の合成に当たる。 記述でなくても、中間的印象を作ろうとして、必要で確実な知識を消して編集するのは、これと同じで、中立違反。事典ではない。 D2. 嘘も方便。ウィキペディアに絶対はない。 しかし、争いがひどく誰も使えない状況にあっては、中間も害がない。むしろ、人が未知を知っていくためには、争いを形の上でまとめたほうがいいので、中間的な前提解釈は、知る活動を進める上で有効に働く。非常時の基準外の方便として必要なことも多い。 基本的には、ウィキペディアの(私流に言う)透明な中立は、中立の方法でなく定義であり、つまり最原則の5本の柱の一つの中立の定義であり、また絶対ではある。 が、「すべては未完成」というのもウィキペディアの柱の一つで、非常時には中間的中立というごまかしもありうる。 ただ、ほとんどの事情は文を推敲することで解消する。中間中立とは非常の一時的な現象に過ぎない。(そのままになっていることの方が多いが) 要するに、初歩的には平均的見方は妥当な安定をもたらすが、事実の確認をその視野に合わせるのは、ただの嘘だ。 D3. 認識は深さで違う。 統計などでの正規分布は、実は二山に別れていることがある。分布が二山に別れるときに平均値で代表されるかのように語るのは間違いだ。全く同様に、様々の立場の中で、誰の立場でもない平均中間の立場を発明してまとめるのは、似而非認識である。 しかし、合成されて一山にしか見えずかつ二山という指摘がないときには、分布を一山として平均値で語るのも当然である。 このように平均的中間の中立法においても読みの深さが第一であり、まして透明な中立においてはデータの読みの深さは中心である。 (物理的限界はある) D4. 手順を入れ替えると、思考と基準が歪められる。 公式基準は最後の判断に利用するものであり、基準の一部の形式に整えるために内容を読まずに切り捨てる手順は、思考と基準を歪める。 中立のために形式を重視し、データ(資料)の読みを割り切って排除する、という中立の方法を求める人もいる。 この場合、形式が体系的に正しく応用されている場合は少なく、またデータの内容が形式の方が間違っていると示唆する可能性もある。 その示唆があるにも関わらず、その考慮を拒否して編集するのは、読者に偽の認識を押しつけることであり、事典ではない。 E.別の基準からの間違い (E1~E3の書き方の方式は、Cと同じ。 ) E1.議論自体を語る → 項目を「ある側が提起した問題を語る項目」と定義し、その側から見た形を中心に全体をまとめ、それへの批判や疑問を枝葉としてしか紹介しない。 ↑印象操作しつつ、中立でないという非難をごまかすための手法 E2.百科事典はわかりやすく簡潔に。 → 簡潔さのために、一つにまとめた結論的表現にする、異論を小さく見せて否定されたかのように見せる、 ↑ 非中立なやり方。紙の百科事典ではないから、字数制限は根拠にならない。中立は、簡潔よりも決定的に上位の基準。 E3.コミュニティによる議論の成立のための追放 → 元々根拠を細かく出し合わずに記述し、同好の編集者同士で決定したことを記述の根拠として、それへの批判者が否定を証明する根拠を示さなければ、元の記述を削除してはならないとしたり、・・・などの歪んだ編集をルールに則っていると主張し、そのやり方への反対者があせって強引な行動を一度でもしたら、追放する。 ↑ ただのペテン師である。ペテンの悪意が少ないとしても、そういう病理がはびこっている。 これには、ウィキペディアの管理者が絡んだりローカルルールをつくったりなどの印象的行動があったりと、混乱の流れがあるようだ。 E4.基準は機械的に扱うと劣化コピーとなり、基準に反する。 ある場合。 【ある資料Lが掲載されている。これはそのままなら立場Mに有利である。逆の立場からの批判的考察Nがある。 しかし、この批判Nは資料Lによりつつも、ことごとく内容と矛盾しているという指摘が編集者Oによってなされる。 別の編集者Pは、資料Lとそれへの批判Nのみを掲載し、Oの記載を削除し(又は矮小化して実質有効な指摘がないかのような印象に仕上げ) て仕上げた。】 ――編集Pの理由―― e1 この場合、編集者Oが「資料内容に矛盾する」という指摘をするが、編集者Pは「編集者は自分の意見を書かず、批判があることを書き、全体を中立のバランスでまとめるべき」 で、内容の疑いは考慮しない、と主張する。 e2 また編集者Pは資料Lと考察Nとのバランスだとも考えている。(これがe1と矛盾することは、問わない) e3 編集者Pは、内容を知る必要を拒否するせいで、編集者Oの指摘の文が、Nの著者が掲載資格に欠ける正体不明的人物という指摘にもなっていることに気付こうとしない。 e4 編集者Pは、中立さのためにある知識の掲載を制限することはありうる、と考える。 ――それが間違いな理由―― e1'-1 Nの考察のみ掲載するのは、資料Lの内容の捏造に荷担したに等しい。意見の微妙な偏りどころではない。事典でも全くない。 e1'-2 編集者Pは、「編集者は自分の意見を書くな」という基準を理由にしていたが、明白な論証は全く基準に反しない。 e1'-3 原因の一つは、「議論そのものを書く」 という思考のせいだと思われるが、資料Lの解釈を、一方の側の考察Nにのみ依存させることは公正ではない。それでは、でたらめのいちゃもんを付けた方が有利になる。それを防ぐための考慮もしようとしない。(→e3) e2'-1 編集者Pはまた、資料Lと考察Nとのバランスを取ったとも考えているが、それは内容を自分の感覚で測っている行動であり、編集ルールから機械的に判断できるという主張とは矛盾する。 e2'-2 この編集者Pのいう中立とは、結果的な中間中立印象であり、根拠それ自体の語る姿を浮き上がらせるという透明な中立ではない。 中立印象操作に過ぎない。 政治的妥協が、知識の客観的説明を阻害する、というのは、事典として不正である。 e3' Nの著者は正体不明的人物である。編集者Oが内容のひどさと一体にそれを指摘しているが、編集者Pは無視して切り捨てておいて、あとで指摘しなかったのが悪いと言い出す。 これは、基準(の個人的解釈)を機械的に使って、知るべき意見を知ろうとせずに切り捨てにだけ頭が行っていたせいだと考えられる。 こういう「思考の姿勢」という点でも、「基準の形式だけで、内容の脈絡を切り捨てていい」 という考えは危険である。そのような基準は、本来の基準の劣化コピーになる。(芭蕉の曰く 『古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ』 。そのようにしてまともに継承される。) e4' 「制限することがありうる」 ということと、「制限すべき場合かどうかを、内容無視で決められる」 とは別のことである。 ――防止のコツ―― これらがルールに反するという以前に、根拠内容の確認ができればすむことである。つまり、「ルールを用いて機械的に判断できる」という思いは、わりと広まっている思い上がりであり、「編集方針」のページの文には「ルール」という表現はない。 E5.書いたことを既得権のように思いこむ。(E3、E4にも共通する) ある人の基準解釈で書いた記述が、別の人の基準解釈では間違いになる場合、編集者の数の違いがないなら、とりあえず、記述を残すべきだと思いこむ。 記述を含む文脈の変更や削除という選択を認めない。 4 最後に ウィキペディアの議論ページに書かずにブログに書く最大の理由は、ウィキ内規とは別に、社会的良識の立場があることを忘れるべきでないからだ。 ウィキペディアの内規と私のいう良識とが一致しているからといって、ウィキペディアの内部の議論で済ませていいかのような印象を与えたくない。 (そのことが、ウィキ内規を正確に運用するにも必要。なぜなら、ゲーデルの不完全証明で示されているように、基準は現実的に絶対ではない。明確化した基準だけで考えていくと、徐々に態度は教条的になり視野が狭くなり、解釈は本義から徐々に劣化コピー化して、ねじ曲がった偽物を見分けるのが、ひどく労力がかかるようになる。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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