こだわりを手放す
IHキネシオロジーと出会ってから、しばらくの間おさむに毎日のようにセッションを行った効果が出て最近のおさむの変化は、ほんとうに驚くものがあります。以前は、コミュニケーションをしていくのが苦手でいつも人といると疎外感を感じる、なんていっていたのに今は人とコミュニケーションをするのが好きだ、楽しい、に変わっていますし、一番変わった点は、以前は修行体質で、いつも何か目指して修行をしていたのに最近は、例えば、ギターを練習するのにも、ヨガするのもけして修行としてではなく、喜びとしてできている様子。この変化は、これまでの彼の生活を見ている私には、驚きです。なにしろ、彼は前世だけで15回ぐらいセッションをやっていますがそのほとんどが修行の前世でしたから、今生では、その修行を手放し、喜びの人生を送ることが必要だったのでしょう。もしこのIHと出会わなかったら、また今生でもずっと修行のパターンだったのでしょうねさて、先日会った友人とも話していたのは「こだわりは手放せば手放すほどいい」ということ。これはこうあるべきだ、とか、こういう人はだめだ、とかこういう言葉を使うなんてだめだ、とか。人は実にいろんなこだわりを持っています。その多くは、周りの人の影響や外からの情報によってそういう風に信じ込んでしまったものや自分のそれまでの経験から来るもの。食べ物や服、嗜好品や家など物質へのこだわりから行事へのこだわり、つきあう人へのこだわり、マナーや習慣のこだわり、お金に関するこだわり美へのこだわり、言葉へのこだわり、仕事のやり方のこだわり、生き方のこだわり、などなど。もちろん、例えば、仕事についてプロになればなるほどこれはこうした方がいい、というものは当然出てくるでしょうがそれが、時にして、そのやり方しか正しくないということになると、他のやり方を批判したり別の可能性を失うことにもつながるかもしれません。何かにこだわっていればいるほど、必ず、人をジャッジするようになりいつも判断、批判をしていて、満たされていることはできなくなってしまいます。言いかえれば、こだわりが多ければ多いほど癒すべきものが多いと言えるのかもしれないなあと。こだわりの多い人の前では、自分がその相手のこだわりに反した言動をしないようにというのが、意識にどこかに生まれるので窮屈に感じてしまったりします。先日会った私の友人は、あらゆることに、おそろしくこだわりがない人なので、彼女の前では、ほんとありのまま、自然でいられます。どんな自分であっても、ジャッジされないで受け入れてもらえるというのは、ほんとうに楽だなあと。かくいう私は、こだわらない人かと思っていたのですが例えば、以前は、私にとっての健康的な食べ物にこだわっていたりしました。今も、もちろん、できる限りは健康的なものを頂きますがオーガニックかどうか、とか、栄養学的にどうか、ということよりも精神的なものの影響の方が、心身に及ぼす影響は遥かに大きいことを実感してからは、特に健康的なものでなくても、感謝しておいしく頂きますし、そうすれば、その食べ物は身体に悪いものとして働くことはないのです。例えばインドの聖者みたいな意識レベルにあれば例え,何を食べたとしても病気にならないだろうなあと。(かといって、そんな人を目指しての修行はまたこだわりになりますが)さて、ここで一つお願いなのですが私がここに書いていることは、あくまでも私にとって感じたことや感動したこと。これが必ずしも、他の人にとっても同じように感じることだとは限りません。私はできるかぎり、自分の内なる感覚に正直になって、お伝えしようと思っていますがいつもブログをアップしながら「これと全く逆の真理もありえるなあ」なんて思っています。もちろん、今の時点では、私はそう感じていることは間違いないのですがそれは刻一刻と変化してゆきますし、また万人にとっての真理とは違います。また、私はこれがお勧めです~なんて勧めといてしばらくたったら、もうやっていない、なんてこともよくあることなので(ここで告白すると、以前お勧めした水シャワーはギブアップ中なのよ)私がよかったと書いていたから、とか勧めていたから、ということではなく、自分自身で調べたり、それが自分にとって必要かどうか、よく自分の内なる感覚を確かめてから、取り組んで頂けたらなあと思います。100人いたら、100人、違った感じ方や捉え方をするのは自然なことですから。自分の言ったことにもこだわらない私は時にいいかげんな人にもなる得るわけですが(というか、いいかげんな人?)それでも自由に感じるままに表現していくことを選択したいなあと思います~もう修行はやめようって言ったのに~~~