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カテゴリ:自然
人は何を食べて生きるか? この問いに、善人ぶったヒューマ
ニストは生命の尊厳を説きながらディナーでは血の滴るステー キを食べ、動物博愛主義者達は屁理屈をつけながらハンバー ガーを口にする。或いは動物の血を流してはならないという菜 食主義者はサラダを頬張りつつ花を摘んで食卓を飾ってしまう のです。まさに、自らがその化けの皮を剥がされる時は、この 論拠にあるのです。 人は古の時代から木の実や野菜を採り、また人口増ともに、成 っているものだけではなく自分たちで育成し、収穫する農耕技 術をも身につけてきた。また、狩猟時代は何日もかけては動物 を追うことで捕獲し食してきた。今では家畜することで合理的に 食し、産業化と共に食するために動物を飼育し、肉として機械 的・機能的にその技術を高め、より美味しい食材をより安価に 販売するまでになった。 こうして雑食化した人間が類としての生命を持続するためにマ ス生産し、自給自足の食生活を解放し、一方では生産する人、 あるいは美味しく作る人、貨幣を支払って食べる人と分業化が 進んできている。私たちは生命を維持するためには、地球上の 他の生命を犠牲にすることでしか食し、自らの腹を満たして命を 繋ぐしかないといったように出来ている。 たとえ植物でも、実は生命の営みをしているくらいのことは誰で も分かっています。その命を奪うことは、動物と同等であって、 等価なのです。ただ、食する以外に、ただ殺傷の目的で命ある 生命を奪うこととの臨界点は、あえて言えば境界として線を引く くらいしかないのです。 食する以上の殺傷さえしなければ許されるという範囲でのモラ ルしか私たちは持ち合わせることは出来ないのです。 狩猟のための殺傷と、生きるための狩猟の違いにこそ大きな 違いがあるのだと、有意な隔たりを作ること以外に道はないの です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年05月08日 23時43分42秒
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